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コメントの返信が出来ませんので

石井博様
コメント頂きありがとうございました。現在のところ原因は分かりませんが、システム的にコメントの返信が出来ませんので記事の形でお礼申し上げます。

随分古い記事に目を留めて頂きありがとうございました。

現在の愛媛県松山市に残っている町名の由来を調べ記事にし、全40話のシリーズとしました。

それぞれの由来と、現在のその地の画像を見て頂くことで、愛媛の古い時代に思いを馳せていただきたいとの思いです。
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「愛媛の歴史特別編」・「出雲国の歴史・外史」 4

今日は、1月1日から書き始めました「愛媛の歴史特別編」の、全18回のシリーズの最後として「出雲国の歴史・外史」の最終編です。


この最終編を持ちまして、「愛媛の歴史特別編」と題した全18回のシリーズを書き終えることに致します。


昨年は「出雲大社」において、60年に1回の”式年遷宮”(しきねんせんと)が行われた年です。


その年に”出雲”を旅できましたことも、歴史をテーマの一つとしてブログを書き綴っておりますワタシにとっては、何かの”ご縁”があったのではないかと思います。(この旅は、畏友:”ジンゴズンゴ”さんの協力があってこそ実現できました。ここに、改めました深甚なる謝意を表するものです)


今日ご紹介する「出雲国の歴史・外史」の最終編は、その60年に一度の”式年遷宮”があった”出雲大社”の画像に乗せてご紹介します。


ただし、本文と画像とは直接的な関係はありませんんで、画像の説明は省きます。

出雲大社中鳥居1
さて「古代出雲王朝」が滅びたことから、最終回のお話に入ります。実は、「古代出雲王朝」が、どのように滅びたか、史実として確かなことは分かりません。


「古事記」にも「日本書紀」にも、また「出雲国風土記」にも”国譲り”の話が出てきますが、それぞれ内容が微妙に違っています。


その中で「古事記」においては、”オオクニヌシ”は国譲りを承諾して、この国を“ニニギ”(アマテラス=天照大御神・アマテラスオオミカミの孫)に譲って自らは稲佐(いなさ)の海に隠れたということいなっています。


「出雲大社」の本殿に”オオクニヌシ”は祀られていますが、”オオクニヌシ”は人が手を合わせる方角を向いておらず、社殿の右端にいて、海の方を向っておられるそうです。

出雲大社
上の画像は”出雲大社古代の御本殿の模型”の画像です。(画像出典:ウィキペディアより)


有名な建築史家の説では、出雲大社本殿には巨大で長い階段がついていたといいます。それを元に復元したのが上の模型です。


その階段はおそらく、”オオクニヌシ”のお隠れになった海に向かうもので、”オオクニヌシ”の魂が宮殿と海の間を自由に行き来できるようにするために造られたものではないでしょうか。


その巨大で長い階段のことは、「出雲大社」の宮司家である出雲国造(いずもくにのみやつこ)”千家家”(せんげけ)に「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)が残されております。


なお「出雲大社」の宮司家である”千家家”は、古来”出雲国造”(いずもくにのみやつこ)を兼ねていた時代が長く続き、日本においては、現”天皇家”に並び称される家系を現在に伝えていることで有名です。


「出雲大社」本殿には直径1.35mの杉の大木を3本束ねて1本の柱としたものが9本建てられていたことが書き残されています。


それが現実のものであったことも、平成12年の調査で巨大な柱根が発見されたことで証明されました。


造営当時の「出雲大社」本殿の高さは、現在の「出雲大社」の2倍の高さの”16丈(48m)”もあって、奈良の大仏殿の高さ”15丈”を上回っていたといいます。

出雲大社参道3
さてオオクニヌシから国譲りを受けた「ヤマト王朝」の地上での始祖”神武天皇”は、日向から東征をして、紆余曲折あってヤマトの地にたどり着き土着の氏族連合を滅ぼしてヤマトを占領しました。


ところがその後、前王朝の祟りと信じられていた疫病や災害が次々と「ヤマト王朝」を襲います。


つまり「出雲王朝」の祟りと考えられた厄災は、第10代の天皇”崇神天皇”(すしゅんてんのう)の時代にも及び、悪性の疫病がヤマトを襲いました。


更に”垂仁天皇”(すいにんてんのう)の世も祟りは続き、「古事記」が作られた”斉明天皇”(さいめいてんのう)の時代にまで及びましした。

出雲大社拝殿4
なお「古事記」は、”天武天皇”の命によって”稗田阿礼”(ひだのあれい)が「誦習」(しょうしゅう=声に出して読むこと)していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を”太安万侶”(おおのやすまろ)が書き記し、編纂(へんさん)したものとなっています。


ところが、ワタシは「古事記」を実質的に、”ある意図”をもって裏で編集した者がいる、という見方で本編を書いています。”ある意図”については最後に書きます。


上の見方は「古事記」編集の段階において「出雲大社の鎮魂」ということが、”重要な国家的課題”となっていたということを前提にそう考えたということです。


つまり「出雲大社」は何のために造られたかという謎は、そこに秘められているのでないでしょうか。

出雲大社拝殿しめ縄5
ここで、話を一旦前回の”荒神谷遺跡”から出土した”銅剣”や”銅鐸”に「☓印」が刻まれていた事を思い出して頂きたい。


その時、「ある方への鎮魂」の意味が込められているのではないか?ということを示唆しました。


これは、当時の日本人は「あの世」信仰を持っていて、人は死ぬと祖先たちの住むあの世に行き、お盆やお彼岸にはこの世に帰ってくるという信仰があったということを前提に書いています。


後に仏教の”浄土宗”が日本に入ってきて、素直に日本人に浸透していったのは、仏教(とりわけ浄土宗)が入る前の”縄文時代”から日本人は「あの世」信仰をもっていたからではないかと考えられます。


その「あの世」「この世」はどこがどう違っていると考えられていたか?

出雲大社楼門6
「あの世」は「この世」とほとんど変わりはないけれど、一つだけ大きく違うことがあって、あの世とこの世は万事があべこべとされています。


この世が夏であればあの世は冬、この世が昼であればあの世は夜。そこから、この世で完全なものはあの世で不完全。この世で不完全なものは逆にあの世では完全だと考えられていました。


ですから、「ある方への鎮魂」とは、あの方が大切にしていた銅剣や銅鐸を不完全なものにして(本来はバラバラに壊して埋葬する)地中に埋めたことを意味します。


つまり「ある方」とは、不本意にもヤマトに”国譲り”して稲佐の海にお隠れになった”オオクニヌシ”を指します。


不完全なもの、つまりバラバラに壊す代わりに「☓印」を刻んだのではないでしょうか。


あの世、つまり”黄泉の国”(よみのくに=死の国)を、銅剣や銅鐸を使って治めて下さいと祈り誓った行為が”荒神谷遺跡”等の遺跡の意味だったと思います。


現代においても、お葬式をする時、斎場にご遺体を送るとき、生前その方が使っていたお茶碗等を地面に叩きつけて割る風習が残っていますが、それも同じ意味合いです。


つまり”荒神谷遺跡”に大量の銅剣や銅鐸、更には銅矛を丁寧に埋めて、”黄泉の国”にいる”オオクニヌシ”の心安らぐ鎮魂の祈りとしたということだと思います。


この「出雲国の歴史・外史」の1回目に、「出雲大社の参道」は普通の神社とは異なり、”下り坂”という構造になっていることを書きました。その理由には諸説ありますが、「あの世」の世界では”万事があべこべ”という考え方が、ここにも示されているのではないでしょうか。

出雲大社楼門7
さて、次に「出雲大社」の建立の意味です。


ヤマト”(今の奈良県)に朝廷を開いた”ヤマト王朝”は、前王朝の祟りと考えていた様々な疫病や災害に悩まされていました。


そこで、国家的事業として「出雲大社」を建立し”オオクニヌシ”を祀り、鎮魂の意を込めた。その「出雲大社」建立の立役者は”藤原不比等”ではないかと想像しています。


そして「古事記」「日本書紀」の編集に、裏で大きく関わり指揮したのも”藤原不比等”ではなかったか?


さてここで”藤原不比等”について、もう一度おさらいしておきましょう。”藤原不比等”は、645年の”乙巳のクーデター”(世に大化の改新とも言う)で”中大兄皇子”の黒子として筋書きを練り実行に導いた立役者”中臣鎌子”(後に中臣鎌足、更に後に藤原鎌足=藤原氏の祖)の次男です。


藤原不比等”についての詳細は、1月7日にアップしました<「「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 6>で詳しく触れています。ご参照頂ければ幸いです。(「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 6

出雲大社神楽殿正面8
藤原不比等”は、”大宝律令”を実質的に自分が主導して作って政治の実権を掌握します。


その後ろには、”天武天皇”の后で跡を継いだ”持統天皇”と”元明天皇”及び”元正天皇”という3人の”女帝”の存在を背景にしていました。


3人の女帝は、”藤原不比等”の緻密で広大な構想力という頭脳と、それを着実に実行仕切る実行力に頼りました。


その3人に後押しされて、先ず”大宝律令”を作り政治の実権は”太政官”(だいじょうかん)が一手に握り、天皇はただ藤原氏政治の看板に仕立てあげたのです。今の象徴天皇制の萌芽はここにあるのではないでしょうか。


藤原不比等”は、次に”藤原京”から”平城京”への遷都も実現させました。


その次に手がけたのが「古事記」「日本書紀」編集への介入でしょう。


藤原不比等”が「古事記」と「日本書紀」の編集に意図的に介入したという証拠は「記紀」の内容です。


「古事記」に出てくる様々な神(例えば、”タカミムスビ”とか””オモイカネ”等の神々)は、当時政治を支配していた”藤原不比等”を思わせる神々が登場しますし、それ以外でも”藤原氏”に関係が深いとされる氏族を思わせる神が沢山登場しています。


それとは逆に、”藤原不比等”にとっては敵対者と思われる神も登場しますが、この世では実権を握れないことを暗示させる役割しか与えていません。

出雲大社神楽殿正面9
不比等”は、藤原家を1000年先まで永続させるために「古事記」などに、その意を密かに滑りこませ、それが見事に成功し実を結びました。


「記紀」は、言わば「大嘘つき」の天才がなしたことです。


真の「大嘘つき」とは、”99%の真実”の中に”1%の嘘”をそっと潜ませることが出来る者です。


99%の真実とは「出雲神話」です。自分の嘘を薄めるために、「古事記」と「日本書紀」の3分の1にまで及ぶ「出雲神話」を挿入したのは、1%の嘘が見破れないようにする仕組みだった。



では1%の嘘とは?


それは、藤原不比等の直系に限られる”藤原氏”が、未来永劫に日本の政治の実権を握り続けることができるという”正当性”を「古事記」と「日本書紀」の記述の中で、様々な”神話”に塗り込めたことを意味します。


事実、藤原氏は1000年以上に渡って日本の政治の主導権を握り続けました。


今回の4回のシリーズで書きたかったことは、「古事記」と「日本書紀」と「出雲神話」及び「出雲大社」には濃厚な関係性があり、その証拠として浮かび上がってきたのが昭和59年の”荒神谷遺跡”などの大発見であったということです。

出雲大社神楽殿しめ縄10
なお”天孫降臨”の伝説を持つ天皇家の神は”アマテラス”(天照大神)ですが、ご承知の通り”伊勢神宮”に祀られています。何故、天皇家が長くいた奈良、或いは京都ではないのか?っという素朴な疑問があると思います。


それについては”日本書紀”に書いてありまして、”崇神天皇”(すじんてんのう=3世紀から4世紀に第10代天皇とされ、まだヤマトにいた)の時代に疫病が流行ったときに、崇神天皇は”天照大神”と出雲の神”倭大国魂”を宮の中に祀ったとあります。


ところが同じ宮の中に祀ったため神さま同士が喧嘩して、疫病が治まらなったとあります。そこで宮から出して、自分の娘たちに祀らせたが全く効き目がなかったといいます。


その時、夢で”オオクニヌシ”のお告げが出て、”オオクニヌシ”の子”オオタタネコ”(大田田根子)に祀らせれば収まると言った。早速”オオタタネコ”(大田田根子)を探しだして祀らせると疫病は治まった。


そこで、それまで”ヤマト”(今の奈良県)の”三輪山”に祀っていた”天照大神”を”伊勢神宮”に移したというのが、史実に近いのではないかと思います。


実際に伊勢に移したのは、”垂仁天皇”(すいにんてんのう=皇室の系図から言えば第11代の天皇)の第四皇女である”倭姫命”(やまとひめのみこと)とされ、”天照大御神”の神魂・八咫鏡(やたのかがみ)を鎮座させる地を求め旅をして、最終的には近江から美濃を過ぎて、現在の伊勢に至ったとされています。

出雲大社神楽殿しめ縄11
なお、”ヤマト王朝”ができる以前の「伊予国」は、「出雲国」の影響を大きくうけていました。そのことは、松山地区に多く残っている「出雲系神社」の存在でも裏付けされています。


昨年40回に分けて書きました「松山市の地名・町名由来」でも、「出雲系神社」の存在を幾つか採り上げています。まずは以下の記事です。(「松山市の地名・町名由来」・ 「祇園町・中村」 14)の”「松山市の地名・町名由来」・ 「枝松町・拓川町他」 30で書いた”素鵞神社”等々です。


北条市などと合併する前の「松山市」には”愛媛県神社庁”によりますと、全部で125の神社がありますが、その内で”素鵞神社”が10社、”須賀神社”が1社、合計11社あります。


様々な神を祀る神社な多い中で”素盞鳴尊”(スサノオ”を祀る”出雲系神社”が一割近くを占めていることでも、その濃厚な関係がうかがえます。


さて、1月1日から書き始めました”愛媛の歴史特別編”の全18回のシリーズを、この号を持ちまして書き終えることに致します。


最後は、駆け足での説明になってしまい分かりにくかったかも知れません。ただ遠い過去から現代まで、連綿として続いている人の営みの結果が”歴史”です。


歴史”は決して無味乾燥な言葉や年代の羅列ではなく、その行間にあふれている”人の息吹”をたどることに他なりません。


長いシリーズに目を通していただいた全ての方に深甚なる謝意を表して筆を置きます。ありがとうございました。


これでワタシが書きたいと考えていた”主な歴史的テーマ”は、ほぼ書き終えることが出来ました。従って、当分の間、”歴史”をテーマに語ることはないと思います。


また語りたい”歴史的テーマ”が見つかるまでは、この分野はお休みします。





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「愛媛の歴史特別編」・「出雲国の歴史・外史」 3

今日は「出雲国の歴史・外史」の3回目です。


今日は、昭和59年(1984年)に発見された”荒神谷遺跡”(こうじんだにいせき)の画像を見ながら、「出雲国」は神話に過ぎないとされていたものが、実はそうではなく”弥生時代”において、”日本国内では大勢力を持っていた国”であったことをご説明します。


そして、これら”荒神谷遺跡”から発掘された大量の”銅剣”・”銅鐸”(どうたく)、そして”銅矛”(どうほこ)などを見ながら、この遺跡が物語る意味と、次回に書きます「出雲大社」に秘められた謎の一端をお示ししたいと思います。


更には、そのことが「古事記」及び「日本書紀」とどう結びつき、「記紀」(古事記と日本書紀の総称)には、実はどういう意図と秘密が隠されているのか?ということを次回に書きますが、今日の記事はその下敷きです。


荒神谷遺跡”は、島根県簸川郡斐川町神庭字西谷(ひかわぐん・ひかわちょう・かんば・あざさいだに)にあります。


この場所は、”出雲風土記”に書かれている”出雲郡”(いずものこおり)の”神名火山”(かんなびやま)とされている”仏経山”の北東3キロメートルのところです。

荒神谷遺跡案内板1
遺跡発見のきっかけは、偶然でした。昭和58年に、この辺り一体に広域農道を造る計画が持ち上がった時、農道予定地の発掘調査が行われました。


その時、付近から”須恵器”(すえき=弥生時代の土器)が発見されたことがきっかけとなりました。本格的発掘調査が必要ということになり、59年に”荒神谷遺跡”の試掘調査が始まったのです。


町に大騒動を引き起こしたのは、その時の試掘調査で”銅剣”の一部が発見されたからです。急遽、奈良文化財団研究所や島根大学から考古学者が加わって本格的発掘調査が行われました。

荒神谷遺跡2
すると、何と”358本の銅剣”が出土したのです。それまで日本で出土していた”銅剣”は約300本。ここ”荒神谷遺跡”の”銅剣”の出土によって、銅剣の数は一挙に2倍以上になりました。


上の画像は、その”銅剣”が発掘された現場です、小さな丘の中腹に掘られた穴に埋められていたものが発掘されたのです。


予め銅剣を埋めるために平らなテラス状の段が加工さてていて、その下に穴が掘られ、その穴に銅剣が4列に規則正しく並べられて埋められていました。


この発見は、日本の弥生時代の青銅器研究の根底的見直しを迫る大きな出来事となりました。

荒神谷遺跡3
上の画像の左側部分の中腹に、白く見える部分がありますが、あの場所に358本の銅剣が埋められていました。


しかも、”荒神谷遺跡”に埋蔵されていたのは銅剣だけではありませんでした。これ以降も驚愕する埋蔵物が次々と発掘されました。


それは、昭和60年には銅剣358本が埋められていた傍で、”銅鐸”6個と”銅矛”16本が発見されました。一箇所で16本もの”銅矛”が発見されたのは初めてでした。


前回書いた”国譲り伝説”を思い出してください。「古事記」には、”オオクニヌシ”が葦原の中の国(=日本)の支配権を”アマテラス”の孫”ニニギ”に譲り、自らは「黄泉の国の王として、広大な”出雲大社”に隠れ住もう」と言って、”銅矛”をニニギに捧げて引退したということになっています。


銅矛”は、弥生時代の国の元首の宗教的・政治的シンボルでした。それがこの場所に埋められていたという意味と謎。


また”荒神谷遺跡”発掘の12年後(平成8年)に、”加茂岩倉遺跡”で39個の”銅鐸”も発見されました。358本の銅剣、16個の銅矛、39個の銅鐸は、平成10年に全てが”国宝”に指定されました。


さて銅剣と銅矛は元々武器であったことはその形から容易に想像できます。後に、武器の役割から”祭祀”の道具、”祭器”となります。


ところが”銅鐸”(どうたく)は不思議な形をしています。これは元々は””であったとされています。鈴は神を喜ばせるための音を響かせるものだったのでしょう。今でも神社に行けば、拝殿の前には大きな鈴があって、ジャラジャラ鳴らしますね。


銅鐸”には”怨霊鎮魂”という”呪力”を持っているとされていたと思われます。


この”怨霊鎮魂の呪力”が、”出雲大社”建立の決め手と言えますし、「古事記」「日本書紀」をどういう目的でどう編集したかったのか?


編集したのは誰か?を推察する重要なポイントになります。覚えておいて下さい。

荒神谷遺跡4
画像の左手中腹の白く光っている場所が、358本の銅剣が埋められていたところ、右手の梯子の上に見えるのが6個の銅鐸16本の銅矛が埋められていたところです。


これら多くの”宝器”を所有していたのは、間違いなく「出雲国」の大王であった人物でしょう。


それが”オオクニヌシ”だというのです。(もちろん、全く違った説を唱える人もいます)


前回に書きましたように「出雲国」の絶頂期は”オオクニヌシ”の時代であり、同時に日本の主権が「出雲国」から「ヤマト王朝」へと変わった時代でもありました。


その”歴史的事実”が前提にあって、「ヤマト王朝」は「出雲国」から国を譲られたということを「記紀」に書きました。空想の結果を物語に仕立てて”神話”として書いたのではありません。

銅剣発掘現場5
この画像が、”銅剣”が発見されたばかりの様子を伝える画像です。


規則正しく、4列に並べられて埋められていました。その並べ方にも意図が感じさせられます。西側から言えば、第一列と第二列は、剣の峰(刃の部分とは反対側)の方向が1本づつ、ほぼ交互に埋められています。


ところが、第三列と第四列は、剣の峰は東の方角(ヤマトの方角)に向けて埋められています。何かの意図を感じさせられますが、明確な理由は分かっていません。


しかも、そもそもこれだけ大量の”銅剣”や”銅鐸”・”銅矛”が、なぜ地中に埋められていたのか?


当時の”銅剣”等は、権力の象徴でしたし、大変貴重なものだったはずです。様々な説が今日まで提起されてきましたが、これが真実だ!とは、誰にも言えない謎です。


ただ明確に言えることは、これだけ大量の青銅器を有していた地方が「出雲国」であり、その「出雲国」は日本の大方を勢力圏に治めていたことがあったということです。架空の”神話”などではなく、「出雲王朝」は存在していたということです。

銅鐸画像6
この画像が、”銅鐸”6個と”銅矛”16本が発見された時の現場写真です。


左側が”銅鐸”です。日本で過去に発掘された”銅鐸”の中でも最古の型が埋められていました。丁重な儀式を行った上で、ある意図をもって埋められたに違いありません。


誰のために、誰が指示して埋めたのか?それと「出雲大社」建立の理由や、「記紀」の中で語られた「出雲神話」との関係はあるのか?ないのか?


これら”銅剣”などが埋められた原因と、倭国から日本に国号を変えた頃に建てられたと想像できる「出雲大社」という、とてつもなく大きくて高い建造物が建てられた理由とは、リンクしている


それが、全4回を通じて書きたかった内容です。

☓印のある銅剣画像
そしてそれらの謎を解く鍵が、上の画像です。


荒神谷遺跡”で発見された”銅剣”の殆どに刻まれている「☓印」です。”銅鐸”にも同じ「☓印」が刻まれています。


具体的に言えば、”荒神谷遺跡”から出土した”銅剣”358本の内、344本の”銅剣”の同じ部分に「☓印」が刻まれています。


また”荒神谷遺跡”と”加茂岩倉遺跡”のほとんどの”銅鐸”に「☓印」が刻まれていますが、この「☓印」が刻まれている”銅剣”と””銅鐸”は、全国でも”荒神谷遺跡”と”加茂岩倉遺跡”から発掘されたものだけに限られます。

銅剣等一覧9
この画像は、出土した”銅剣”類を補修して蘇らせたものの一部です。全て「国宝」です。


これは、”ある方への鎮魂”の意思を示すものではないか?


何らかの意図があって、貴重な宝物であり権力の象徴でもあった”銅剣”と”銅鐸”に「☓印」を刻印して、大切に埋めた。その意図が、”ある方への鎮魂”の意思であったというのが、次回、最終回に書く内容の一部です。


同時に「出雲大社」と「記紀」」の秘密に迫ります。






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「愛媛の歴史特別編」・「出雲国の歴史・外史」 2

今日は、「出雲国の歴史・外史」の2回目です。今日は主に「出雲神話」の内容を書きます。


さて「出雲神話」です。「出雲神話」の根幹をなす部分は三つあります。


その一つは、「ヤマタノオロチ伝説」です。

出雲大社中鳥居1
上の画像は”出雲大社二の鳥居”です。


古事記では次のように書かれています。大筋の話ですが、”スサノオ”が高天原から出雲の国の斐伊川(ひいかわ)に降り立ちます。


「高天原」(天上の国)にいる父”イザナギ”の怒りに触れて、地上にある日本の「根の国」(今の島根・出雲)に流罪となった結果です。


その斐伊川(ひいかわ)に”国つ神”(クニツカミ=その地方の神)の子で”アシナヅチ”という老人がいて、その妻の老女とが一人の少女を前にして泣いていました。


少女は二人の娘で”クシナダヒメ”といいます。

出雲大社中鳥居から外鳥居2
上の画像は”二の鳥居から一の鳥居”を臨み見た光景です。


老人が言うには、毎年”高志(こうし)のヤマタノオロチ”がやってきて娘を食べてしまい、今年は目の前の”クシナダヒメ”が食べられるというのです。


ヤマタノオロチ”とは、八つの頭と八つの尾を持つ大蛇です。


そこで”スサノオ”が知恵を出し、大蛇を酒に酔わせて”クシナダヒメ”を助け、斬った大蛇の尾から「草薙剣」(くさなぎけん)を取り出したという伝説です。

出雲大社参道3
上の画像は”出雲大社参道”です。


普通の神社に見られる”上り”の参道ではなく、”出雲大社の参道”は”下って”います。普通の神社とは”あべこべ”です。この””は・・・ハテ?


さて、この「草薙剣」が、後に「ヤマト王朝」に伝わる三種の神器の中の一つである「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)=「草薙剣」となります。


なお、三種の神器の残りの二つは「八咫の鏡」(やたのかがみ)と「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)です。


「ヤマト王朝」、現在の天皇家の三種の神器の内、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)=「草薙剣」と、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)が「出雲王朝」に関係しています。


関係しているというより、「ヤマト王朝」が、「出雲王朝」から”国譲り”に伴って引き継いだのではないでしょうか。”国譲り”については後で書きます。


如何(いか)に、「出雲王朝」「ヤマト王朝」が、濃厚な関係にあったのかを示すものでしょう。


さて、”スサノオ”は助けた”クシナダヒメ”を妻として、”ヤシマジヌミ”を生みますが、このヤシマジヌミの子孫が以降代々に渡って「出雲王朝」の主(ヌシ)となりました。


その子孫の中の6代目に、「因幡の白兎伝説」(いなばのしろうさぎ でんせつ)で有名な”オオクニヌシ”がいます。

出雲大社石碑4
この「ヤマタノオロチ伝説」の中で出てくる”高志(こうし)のヤマタノオロチ”について、「高志」「越」(こし)であり、「越の国」であるという説があります。(越の国=現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に至る地域を指します)


つまり、”スサノオ”は「出雲王朝」をたてるに当たって、当時強国であった「越の国」(越前、越中、越後など)が出雲にやってきて無理難題を吹きかけていた現状をみて、苦しめられている出雲の民を助けようと思い立ちます。


そこで”スサノオ”は、「出雲の国」を支配する為にやってきていた「越の国」の連中を、機略を使って皆殺しにしました。これが「ヤマタノオロチ伝説」の元ではないかと考えられます。


更に”スサノオ”から6代後の”オオクニヌシ”の時代になって、その支配地が広がっていきます。隣の伯耆(ほうき=今の鳥取県西部)や因幡(いなば=鳥取県鳥取市辺り)の国を支配下に収めました。


次に”オオクニヌシ”が狙いをつけた国が「越の国」です。「越の国」は日本海側にあって、大陸との交流や、糸魚川で取れる”ヒスイ”を独占していた豊かな国でした。


そこで「越の国」を攻め、支配下におきます。その戦いの成果として「越の国」の女王であった”ヌナカワヒメ”を娶り、縄文時代以降”翡翠”(ヒスイ)の生産で豊かで強い国であった「越の国」まで勢力下においた、という説です。


当時「越の国」の糸魚川で採れていた翡翠(ヒスイ=緑の宝石)は、玉造(まがたま)の材料として重視されており、後に出雲国の遺跡(命主社の社殿)で、糸魚川産の“ヒスイの勾玉”と“青銅器”が発見されています。このことによって出雲国と越の国との関係が深かったことが実証されています。

出雲大社亀甲紋5
さて「出雲神話」の2つ目は「国引き伝説」です。


出雲の神の”ヤツガミヅオミツノ”が、出雲の国は小さいので、朝鮮半島の新羅の岬に余分な土地があると言って、大綱で国を引っ張ってきて出雲にくっつけ出雲の国を広げたという伝説です。内容は省略します。


越の国を征服した”オオクニヌシ”は、次にヤマトを征服しようと「ヤマト」に出かけます。つまり、一時的にはヤマトも「出雲王朝」の勢力下に置かれていた時代(弥生時代)があったということです。

出雲大社社殿周囲6
それが証拠に、奈良をはじめとして近畿圏には「出雲系の神」を祀る神社が数多くあります。


その勢いは、中国・四国にまで及んでいました。(北九州には別の勢力がありましたが、今回はそれには触れません)


オオクニヌシ”の時代に「出雲王朝」は日本のおおよそ3分の1をその勢力下においていて絶頂期を迎えました。

出雲大社社拝殿7
上の画像は”出雲大社社拝殿”です。


しかし、絶頂期の後には衰退期がやってくるというのが歴史の常です。その後、広大な勢力圏を支配し続けることが困難になってきます。


そういう時代背景を織り込んで「出雲神話」の3つ目の「国譲り伝説」があります。



これは、「高天原の神々」が、天孫降臨(てんそんこうりん=”アマテラス”の孫の”ニニギ”が日本に降りた)させた「天孫民族」である”高天原系民族”に日本を支配させようと、高天原から色々な神を出雲へ遣わします。


「出雲国」を説得したり脅したりしたのですが、全部失敗して、出雲は国を譲ろうとしません。

出雲大社神楽殿柱8
上の画像は”出雲大社神楽殿柱”です。


そこで最後に、高天原は”タケミカヅチノカミ”(建御雷神)を出雲に派遣し、「天孫民族に国を譲れ」と迫りました。


その時の出雲の主は、絶頂期を過ぎた”オオクニヌシ”(大国主命)でした。


高天原から遣わされた”タケミカヅチノカミ”(建御雷神)を前にして、”オオクニヌシ”は二人の息子に相談してみたいと言います。


絶頂期の”オオクニヌシ”であれば、息子に国の行く末を相談したりはしなかったことでしょう。オオクニヌシは、既にその時老いていたのでしょう。


長男の”コトシロヌシノカミ”(事代主神)は「分かりました、おっしゃるとおり、国は譲りましょう」と言いました。

出雲大社神楽殿しめ縄9
上の画像は”出雲大社神楽殿しめ縄”です。

ところが次男の”タケミナカタノカミ”(建御名方神)は譲らないと主張したので、”タケミカヅチノカミ”(建御雷神)と力比べをすることになりました。

ところが、この力比べです。”タケミナカタノカミ”(建御名方神)は”タケミカヅチノカミ”(建御雷神)に全く刃が立ちませんで、命からがら”信濃国”に逃げてしまいます。

ところで、”タケミナカタノカミ”(建御名方神)が命からがら逃げた”信濃国”は、今の”長野県”です。

この”長野県”で一番有名な(一宮)神社は”諏訪大社”です。


その”諏訪大社”の主祭神は、出雲国から逃げてきた”建御名方神 ”(たけみなかたのかみ)なんです。そして”諏訪大社”のお祭りは、日本三大奇祭の一つとして有名な”御柱祭”(おんばしらさい)です。

この”御柱祭”、巨大な樅の木の巨木16本を、それぞれ4本に束ね、社殿の四方に建てて神木とする勇壮な大祭です。この巨木に関する祭りのことを覚えておいて下さい。最終回の4回目の記事に、微妙に重なることに驚かれるでしょう。

さて、”オオクニヌシ”(大国主命)は「わかりました。おっしゃるとおり、国は譲りましょう。ただ、私に天に届くように高く地の岩を貫くような柱で大きな社(やしろ)を造ってください。私はそこに隠れましょう」と答えました。

これが「国譲り伝説」であり「出雲大社」建設の謂(いわ)れです。

2回に渡って、「記紀」には「出雲神話」はどう描かれているのか?またその「出雲神話」とはどういう内容であるのかを書いてきました。

次回は「荒神谷遺跡」発掘の衝撃と、発掘された内容をご紹介しましょう。

この話、第4回の最終回で、全ての謎の答えが”暗示”され、又は”解き明かされ”ます。その意味で、第4回の最終回は、お正月から書いてきました全16話の”ジグソーパズル”の、最後の”ワンピース”を埋めるお話となります。



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「愛媛の歴史特別編」・「出雲国の歴史・外史」 1

今日の10日を皮切りに、以降毎週月曜日の17日・24日・31日の4回は、1月1日から書き始めました「愛媛の歴史特別編」の、全14回のシリーズの続編としまして、「出雲国の歴史・外史」を書きます。(なお”外史”とは、何時も書きますように歴史の素人が書いた歴史モノを言います)


今日はその1回目です。この後3週間後の最終編を持ちまして、「愛媛の歴史特別編」と題した、全18回のシリーズを書き終えることに致します。


この4回のミニ・シリーズ”「出雲国の歴史・外史」”を書くに際しては、今までは単なる”神話”であるという決めつけられ方をしていた”出雲神話”を、先ず先にご説明しておく必要があります。


出雲神話”に限らず、日本古来の様々な”神話”や”説話”などは、ワタシの年代の者にとって子供時代に”絵本”で慣れ親しんできました。ところが、年代が若い方は”神話”に一度も接したことがない方が圧倒的でしょう。


この4回のミニシリーズで、古来より伝えられてきた”神話・説話”を、より身近に接していただけたら本稿の本分とするところです。

出雲大社大鳥居1
なお”出雲大社”には4つの”鳥居”があります。上の画像は、神門通りの手前の宇迦橋に堂々とそびえる大鳥居で”一の鳥居”と呼ばれるものです。コンクリート製で、大正時代に立てられました。日本一大きい鳥居です。


過去の歴史家は、「出雲神話」を全くのフィクション(作り話)としていました。それは、出雲神話ばかりか日本の神話そのものの多くはフィクションとした”津田左右吉”説に大きく影響されたことによります。


津田説の影響のみならず、当時”出雲神話”は単なる神話ではなく、歴史的事実に基いているという科学的根拠もありませんでした。


つまり、その神話を裏付ける考古学的遺跡がなく、40年ほど前までは、出雲にはそのような遺跡は存在しないと考えられていました。


ところが、上に書いた今までの通説の方が実は間違いであったことが分かってきました。遺跡の発見により、通説が間違っていたことが明らかになったのです。以下に、その経緯と事実を書きます。

出雲大社参道2
出雲大社”には、上に書いた”一の鳥居”の他に”ニの鳥居”(勢溜(せいだまり)の木の鳥居、”三の鳥居”(松の参道の鉄鳥居)、”四の鳥居”(境内へと結ぶ銅鳥居)があります。


この画像は、”二の鳥居”をくぐって”三の鳥居”を目指す参道です。この参道は、本殿に向かって下り坂になっています。下り坂の参道は大変に珍しいものです。(なぜ参道が下っているかの考察と書きますと長くなりますので、省略します)


今日は主に、日本最古の歴史書である”古事記”と”日本書紀”が”出雲神話”をどう書いているのか?をご紹介します。


712年(和銅5年)に、”天武天皇”の命を得て、太安万侶(おおのやすまろ)によって朝廷に献上されたとされる日本最初の”歴史書”が”古事記”です。


なお”古事記”の原本は存在していません。”写本”が幾つか残っているだけです。


一方”日本書紀”は、、奈良時代に成立した日本の歴史書で、日本に伝わり残っている”最古の正史”です。。神話の時代と言われる”神武天皇”の時代から”持統天皇”の時代までの記録です。


なお”持統天皇”につきましては、1月1日から7日までの全6回に分けて書きました”日本歴史の夜明け・外史”の中の、第4話で詳しく触れ、全6回の主役としてご紹介しています。(「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 4

出雲大社祓社3
上の画像は、”出雲大社大祓社”です。


さて過去の歴史家は、「出雲神話」を全くのフィクションとしていました。ところがそれまでの通説が、昭和59年(1984年)の「荒神谷遺跡」(こうじんだにいせき)の発見によって吹き飛んでしまったのです。


この「荒神谷遺跡」の詳細は、24日の3回目で詳しく書きます。


しかし、この発見によって、「出雲」には壮大な神話に相応しい考古学的遺跡はないという通説は見事にひっくり返り、「出雲神話」は全く架空の物語とした過去の説は意味を成さないことになったのです。

大国主大神と幸魂奇魂4
上の画像は”大国主大神と幸魂奇魂”(オオクニヌシと、さきたま・くしたま)です。詳細な説明は省きます。


そこで今日は、それまでは架空の物語、単なる「神話」だとされてきた「出雲神話」とはどういう話なのかを振り返ることから「出雲国の歴史・外史」の筆を起こすことにしましょう。


なお、今回書きます「出雲国の歴史・外史」の主要参考文献は、黒岩重吾氏の「古代史への旅」と梅原猛氏の「葬られた王朝」を参考にさせて頂きました。その他にも何冊か読みましたが、取るに足りませんでした。


ワタシは古代史を含めて”歴史”を正式に学んだり研究したりした経験がありませんので、当然に”古事記”の写本であろうが、”日本書紀”であろうが、その原典を読み下す知識と能力はありません。従って、「記紀」を論じた書籍を参考に記述する他ありません。


さて日本最古の歴史書である「古事記」「日本書紀」は、何故その記述の3分の1を占める程に「出雲神話」にこだわったのか?

大国主大神5
上の画像は、「出雲王朝」を開いた”スサノオ”から6代目の”オオクニヌシ”(大国主大神)です。


「ヤマト王朝」の正当性を述べるために書かれた「記紀」なのですから、自分たちの王統(大君家<後の天皇家>)の正当性に絞った記述をするのが自然だと思いますが、でも延々と「出雲神話」を語っています。


そうせざるを得なかった理由があるはずで、そのことは最終回の4回目に書きます。


「出雲神話」を書く前に、「記紀」(きき=古事記と日本書紀を総称するときに使います)が書いている「高天原神話」(たかまがはらしんわ=地上の神話ではなく、架空の天上の神話)の内容に触れます。


何故かと言うと、そこには「ヤマト王朝」(天孫民族<てんそんみんぞく>とされた)と、「出雲王朝」とは関係が深いということが書かれているからです。

大黒様と白兎6
上の画像は、”因幡の白兎伝説”を表したものです。


「古事記」・「日本書紀」、つまり「記紀神話」「高天原神話」(たかまがはらしんわ)、「出雲神話」「日向神話」(ひゅうがしんわ)の三つの神話から成り立っています。


その内の一つ「出雲神話」です。「記紀」の中でも特に「古事記」にその記述が集中しています。


それ以外でも、「出雲国風土記」及び「播磨国風土記」、更には「伊予国風土記」の逸文にもその一部が記されています。「出雲神話」の具体的内容は次回で触れます。

出雲大社銅鳥居7
上の画像は”出雲大社銅鳥居”です。


その「古事記」によれば、”アマテラス”を開祖とする「ヤマト王朝」の前に、”スサノオ”を開祖とする「出雲王朝」が、この日本の国を支配していたとされています。


この”スサノオ”には、「記紀」によれば、出雲の神となる以前に、高天原(たかまがはら=天上の国)を舞台とした前史があるとなっています。


その前史を語ると長くなるので省略しますが、「出雲王朝」の祖先神”スサノオ”と「ヤマト王朝」の祖先神”アマテラス”は姉弟という関係だと書かれています。


「高天原神話」には多くの神々が登場しますが、それら多くの神々の最後に現れた”イザナギ”(男神)という神と”イザナミ”(女神)という神が日本という国と、日本国にいる様々な神を産んだとされています。

出雲大社拝殿8
上の画像は”出雲大社拝殿”です。


アマテラス”も”スサノオ”も「イザナギ・イザナミ」が産んだ神です。”イザナミ”が産んだ”アマテラス”(女神)が一番上の姉、二番目が”ツクヨミ”(男神)、そして三番目が”スサノオ”(男神)です。


しかし、兄の”ツクヨミ”は影が薄い神だったので、事実上は”スサノオ”が、「イザナギ・イザナミ」の嫡男とも言える神でした。


ですから”スサノオ”が日本国を支配する神とされていましたが、”スサノオ”は黄泉の国(よみのくに=死者の国)で暮らす母”イザナミ”を慕って、父”イザナギ”から命じられた日本国の支配に立ち上がりませんでした。

出雲大社拝殿しめ縄9
上の画像は”出雲大社拝殿しめ縄”です。


スサノオ”は父に従わなかった罪で「根の国」(ねのくに=今の島根=出雲地方)に流罪となり、「出雲王朝」を作り上げます。


なお”スサノオ”を漢字に当てると「素盞鳴尊」と書きます。松山にも多い「素鵞神社」「須賀神社」「素盞鳴尊」(スサノオ)を祀っている神社で、この事は4回(最終回)で触れます。


このように、「イザナギ・イザナミ」はその子孫によって二つの系統の神に分かれました。

出雲大社西十九社10
上の画像は”出雲大社西十九社”です。他に”出雲大社東十九社”があります。


これは10月”神無月”(かんなづき)には、全国の神々が縁結びなどの相談をするために”出雲大社”に出張してきますが、この合計三十八社で全国の神々をお迎えする、とされています。


なお全国で”出雲国”(今の島根県)だけは、10月に全国の神々が出雲国に結集しますので、10月を”神在月”(かみありづき)と称します。


上に書きました2つに分かれた系統の、その一つが”イザナギ”⇒”アマテラス”⇒アマテラスの孫の”ニニギ”の「ヤマト王朝」です。


もう一つは”イザナミ”⇒”スサノオ”⇒”オオクニヌシ”の「出雲王朝」の系統です。


上に書きました”ニニギ”が、”アマテラス”の寵愛する孫神として高天原から「葦原中つ国」(あしはらなかつくに)である日本の国に降り(これを天孫降臨<てんそんこうりん>という)、そしてやがて”カムヤマトイワレヒコ”、つまり”神武天皇”を初代とする天皇家の祖先となる。これが、記紀に書かれている話です。


この話、次回に続きます。




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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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