スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「父を偲ぶ」 2

昨日に続いて今日も「父を偲ぶ」と題した、父を追悼する記事とします。


今日を持って、このブログで両親を採り上げる事の一区切りとします。


背景の画像は”廃屋の風景”と名づけたカテゴリーですが、本文には直接関係しませんので画像の説明はいたしません。


なお今日の”廃屋”は、郷里の野村町の実家の直ぐ近くの風景です。

廃屋1
昨日の最後からの続きです。

 
父は、凍てつく大野ヶ原で、怯え苦しみ淋しがり、ひとりで『零下十
  三度』
という詩を詠みました。

  
この後に、夫婦は悶え苦しみ抜いて新しい世界を自ら切り開いていくことになります。


世間を前に、膝を屈した大きな挫折


しかし、その大きな挫折が2人の世界観を大きく変え広げることになりました。


フッと力が抜けたのです。


世間との真っ向勝負では勝てっこないことに気が付いたのです。
  
廃屋2
2人の「川柳」は、絶望の淵から2人で這い上がった2人の強力な武器となったのです。


それからの2人は、競い合うかのように作句にのめり込んでいきました。


2人の作風は全く違っていました。


母は、鋭利なカミソリのような観察眼で、言わば「知」の力で力作を連発しました。 

廃屋3
父は、当初は母に一歩遅れながらも、母とは全く別の作風で独自の世界を築き上げていきます。


父は、「情」と「周りを包み込むような笑顔、ユーモア」で自分の世界観を詠んでいきました。


父は本来持っていた「情」と「ユーモア」という能力で、母を遥かに凌ぐ才能を開花させました。


父の「情」と「ユーモア」は、戦地から奇跡の生還を果たした時、生き残った自分に出来ることを考え、更に極寒の地で孤独と寒さと戦いながら世界観を広げた父らしい方法だったのです。 

廃屋4
次に2人が取り組んできたのが、任地任地での「川柳文化」の啓発と「川柳文化」の底辺の拡大です。


父の行く先々で「〇〇の和」というグループを立ち上げ、地域の輪を広げ強めていきました。


その過程の中で、父と母は実に多くの知己を得ました。

壁5
そして、父が「野村小学校」の校長を勤め60歳で定年を迎えた後に、現役の一時代を遥かに超える友人を得ました。


父は二つの教え子を持ちました。一つは、教師の時代に心血を注いで教育に当たった生徒さんたち。


もう一つは、教員を退職した後で「川柳活動」を続けてきた中で育った「川柳の生徒さんたち」です。


90歳を過ぎた後まで「先生!」と呼ばれ続ける人が、世間には一体どの位いるでしょう。


父は終生教育者でした。

句碑
(上の画像は、野村ダム朝霧湖湖畔に建つ2人の句碑です。句碑の文字は父自身が書いた文字です。朝霧湖に相応しく、この画像を撮った日も2人の句碑は濃い霧に包まれていました)


野村川柳吟社の多くの方々の想像に絶するご尽力をいただいて、野村ダムの朝霧湖畔に「2人の句碑」が建てられました。


無宗教で戒名などを持たない夫婦にとっては、あの野村ダム朝霧湖湖畔に建つ2人の句碑が、2人の墓碑銘になりました。

父と娘
また平成22年2月の叙勲では、学校教育の功績によって「瑞宝双光賞」を授与されました。


父自身は「叙勲なんて・・・」とつぶやき、「それよりハヨ・・・焼肉食べに行こう」と言っていましたが、妹から叙勲に対する祝電を見せられグループホームの職員さんに読み上げてもらったた途端に、声を上げて泣きました。



  「勲章より娘」、そういう父でした。



最後に、父の墓碑銘の川柳(うた)です。



  北風の 

        中で育った

             親思い







スポンサーサイト

「父を偲ぶ」 1

先週の土日は、11月3日に”母の納骨”を済ませたのを期に、”母の納骨と郷里の秋”と題する母を追悼する記事をアップしました。


今週の土日は、それに合わせて今年6月16日に亡くなり6月終わりに母に先立って”納骨”した父を偲んで追悼する記事とします。


今まで、このブログで様々に両親のことを書いてきましたが、今日と明日の記事で一区切りさせたいと思います。


なぜこういうブログで両親のことを採り上げるかと言いますと、文章による表現形式で人生を貫くことを身を持って教えてくれたのが両親に他ならないからです。でも、これで終わりにいたします。


なお、この文章は「父を送る会」で私と妹、弟の3人で30分程のDVDを作成しましたが、その中でワタシが書いた文章を元にしております。


また、今日の”大野ヶ原の風景”は、本文とは直接の関係はありませんので、画像の説明はいたしません。



今日の記事中で”大野ヶ原”は重要なシーンで登場しますので選んだものです。ただし、画像は再掲です。


大野ヶ原牧草縮小

父は、大正11年1月7日に野村町で生を受けました。


そして、自ら「教育の世界」に身を投じようと、松山市の「愛媛師範学校」に


入学しました。


愛媛師範学校時代の父は、小柄ではありましたが優れたスポーツマンでした。


野村町の伝統技であります相撲はもとより、ラグビーでは愛媛県を代表してラグビーのメッカ「花園ラグビー場」に進出するするほどの実力チームでレギュラーを張っていました。


ススキと大野ヶ原縮小

そういう父が、教育に情熱を注ぐべく小学校の教壇に立ったて、僅か一年で大きな運命の転換を迎えることになります。


そうです、戦況ますます厳しくなっていた太平洋戦争です。



嫌も応もなく、戦争にと駆り出されたのです。


父は、私たちに戦争のことは全く話すことはありませんでした。ところが最近になって、当時のことを述懐(じゅっかい)するようになったのです。


父は言いました。「よくもまあ、今日まで生きてこられたことか。戦争に行けと赤紙が来た時に、陸軍か海軍のどちらかを選べた。そこでの、トウチャンは歩くのは嫌じゃったけん海軍を選んだのよ」と、私に語り掛けました。そしてこう続けました。


「海軍に入ることになった時、多くの艦船の中でどれに乗るか選べるチャンスがあっての。そこでトウチャン、重巡洋艦『妙高』を選んだのよ、選んだ理由なんてなかった」と。



実は、『妙高』は終戦当時沈没せず生き残った数少ない軍艦でした。


父は続けます。「でものー、乗員数891名の中には、甲板にいて航空機で射撃を受け命を落とした者も多かった。ところがトウチャンのー、甲板の底で上に砲弾を揚げる役やったんで死なずに済んだ」と。


自分の運命の危うさと、そして運の強さに今更ながら感慨深かげに私に語りました。


それは父が亡くなる二カ月前のことです。この戦争での体験が、生涯に渡って「反戦」を掲げる生き方を選ぶ大きなポイントとなります。

大野ヶ原森と魚縮小

さて、戦史に残る激戦であったシンガポール沖のレイテ海戦で生き残り、昭和22年、シンガポール捕虜収容所から復員し、東宇和郡土居村(現在の西予市城川町)の窪野小学校に赴任を果たしました。



そして、父にとってその後の生き方のもう一つのポイントとなる母との結婚を迎えます。昭和23年5月のことです。


2人は、窪野の四畳半ひと間の新婚生活をスタートさせたのです。


厳しく貧しい生活の中で、私たち3人の兄妹弟が生まれました。父は、その間、教員生活に没頭していきます。


しかも、「教え子を二度と戦場に送らない」という教育的信念をもって。


タンポポ朝霧1縮小

その教育的信念が、父を教員組合の活動に駆り立てたのです。教え子達には教育実践の現場で、野外活動で、そして学芸会などの演劇活動で、子供達に生きることの大切さを身を持って示そうとしました。


母も、父のそういう生き方を懸命に支えながらも、その一方で母は文芸活動に生きる道を見つけていきました。



父は教育現場と教員組合活動で、母は新聞投稿の世界で、それぞれ表現方法は違っていましたが、戦争で生き残ったものの責務を果たそうと奔走しました。


父が教員として一番輝いていた時代でしょう。


母も社会性に目覚めて、夫婦で遅めの青春真っ盛りという時代を生きてきました。もちろん、私たち3人を育てながら。

タンポポ朝霧縮小

ところが、そういう夫婦に大きな転機がやって参ります。


それは、父の教員組合活動に対する政治的圧力と、母に対する「女が世の中に物申す」ことへの誹謗中傷です。


二人の前には、世間と言う、又は世渡りという巨大な壁がのしかかってきたのです。


出世と言う選択肢を採るのか、あるいは信念を貫いて教育活動を続けるのかと言う、辟易(へきえき=嫌で堪らない)としたくなるような二者択一を強いられ続けました。


母は母で、夫の出世の妨げの最大の要因は母の新聞投稿だと世間から責められ続けました。


その中で、大野ヶ原への単身赴任などの厳しい人事政策に父と母は翻弄され続けました。


父が大野ヶ原小学校の時に詠んだ詩があります。ちょっと長いのですが、父の詩の一部をここでご紹介します。

大野ヶ原7縮小

詩の題名は『零下十三度』です。(抜粋)


  1月19日 日曜日


  積雪 百八十センチ


  きょうで三日 大野ヶ原は全くの陸の孤島


 
  別居は二週間目に入る



  零下十三度


  大地も樹木も 学校も住宅も


  ガチガチに凍る


  上水道も下水道も完全に動脈硬化
  
大野ヶ原牛舎縮小

 ストーブは終日赤々と燃える


  こたつもつけっ放し


  それでも窓ガラスの氷の壁はとけようともしない


  氷紋なんて生やさしいものではない


  テレビの線は切れた


  薄暗い氷壁の中で



  落ち着けぬ心の乱れが角瓶へと動く  

霧の大野ヶ原縮小

  直ぐそこの学校が見えない


  そこまで行けば電話がある



  誰かに話さなければ


  ひとりでじっと耐えることはできない


  背丈の雪を


  泳ぐように漕ぎこぎ


  たっと辿り着く  



  玄関のドアが凍りついて開かない


  障るとジッと音をたて


  指が吸い着く


  零下十三度


  隙間にバールを入れてこじ開ける


  やらねばならなぬ

大野ヶ原3縮小

 
  角瓶が転がる零下十三度


  耳たぶが凍てつく零下十三度



  零下十三度屋台の灯が恋し


  米と味噌まだある零下十三度


  零下十三度に耐えてひとりぼち


  零下十三度モシモシかあちゃんか


凍てつく大野ヶ原で、怯え苦しみ淋しがり、ひとりで詠んだ『零下十三度』です。


明日に続きます。明日で終わりにします。







母の納骨と郷里の秋 2

今日も昨日に続いて11月3日に行った”母の納骨”と、それに伴って兄弟3人で郷里の野村町に帰って最後の遺品整理をしたとき、久しぶりに自然の風景を撮りましたので、母を偲ぶ文章に添える形で、それらをお届けします。


  母が、日本解剖学会の協力団体である“愛媛大学医学部白菊会”に“献体”の登録

  をし、会員になったのは昭和の終わりごろです。母、60代前半の時です。

  母が死後の自分の体を献体し、医学生の解剖実験に役立てたいと考え、自ら愛

  媛大学医学部に手続きをしていました。

  母は、それ以降、折に触れて自分の死について語るようになりました。

  また、若いときから愛媛新聞の「てかがみ」や朝日新聞の読者投稿欄に投稿を

  続けていました。

  県内では、主婦が新聞に定期的に投稿することの草分け的な存在ではなかった

  かと思います。

  そこで多くの知己を得た母は、次第に視野を広げることになります。

映り込み1
  そして、行き着いたのが「短詩」の世界です。

  和歌や俳句、そして最後に「川柳」という

  「17文字」に思いを凝縮して表現するという方法で、自分の生きる道を見出し

  ました。

  そういう生き様の中で、自分の死について明確な意思を持ち続けていました。


  それは、死に際して延命措置は採らぬこと。

  死後直ちに、愛媛大学白菊会に連絡をし、献体の手続きを行うこと。

  葬式など必要なく、愛大医学部から遺骨で帰ったとき、子と孫だけで墓石の下

  で眠らせて欲しいこと。

  宗教は無宗教であるので、戒名等は必要ないこと。

  「サヨナラを言いたい」と思ってくださる方がいたとしたら、手ぶらで来て

  いただき旅立ちを見送ってほしいこと。

イチョウ映り込み2
  そう言い続けてきた母が・・・・。

  目の前で人工呼吸器に喘ぎ

  何本もの点滴の管が体中に刺さって

  ベッドに横たわっていました。

映り込み3
  母が緊急入院した翌日です。午前9時50分でした。

  それまで何度声をかけても反応がなかった母が、微かに目を開けようと顔の表

  情を変えたのは。

  思わず母の耳元で呼びかけました。「バアチャン、聞こえる?○○ヨー!」

  「・・・」

  声は出ませんが明確にうなずきました。返事が初めて返ってきました

  それまで、ワタシは涙を出す余裕すらありませんでしたが、その母の反応を見

  て一気に声を上げて泣きました。

  「生きていたー」と思って。

  そして手を握りながら「バアチャン、気がついてよかったね」と耳元で何度も

  呼びかけました。

逆光イチョウ4
  そこからです、母の本当の意思の強さ を思い知らされたのは。

  ワタシが幾ら「ヨカッタネー」と呼びかけても「・・・・」母は頭を横に振

  るのです。

  「バアチャン、頑張ろうね。皆が助けてくれるからね」と呼びかけますと、頭

  を横に振るのです。


  「ええー?バアチャン、頑張らンのー?頑張るの嫌なン?」

  すると、明確に首を縦に振り“頑張りを拒絶する”という意思表示。

  そのとき、初めて母が常々言ってきた“母の死に方”がワタシの頭をよぎっ

  たのです。

  それから、延々と母との対話が始まりました。

イチョウ5
  母が倒れたとき、父は88歳。年が明けて89歳になりました。

  自宅近くの「グループホーム」に入所し、介護を受けながら生活しています。
 
  兄弟妹3人は郷里には住んでいません。

  つまり、86歳であった母は、自宅で”独居老人”の暮らしを続けていました。

  他県に嫁いでいる妹が年に何度か、1ヶ月前後、母と暮らしてくれるという生

  活が続いていました。

  母に「松山に来ないか?」とか、「ジーチャンと同じグループホームに入らな

  いか?」と幾ら提案しても、頑として聞き入れませんでした。

  「自分の面倒を自分が看ることが出来る間は自宅で頑張る」

  そして、「毎日届く郵便物の返事を、私が書かなければ誰が書くの?」という

  のが母の言い分です。

緑の紅葉6
  それと、「川柳」を通じた友人知人が「元気かナー?」と言って訪ねていた

  だいていました。

  また、ご近所の方が毎日様子を見に来ていただいていて、「今日はお寿司をつ

  けたから、食べてヤー」と色々なものを持ってきてくださるという生活でし

  た。

  子供たちの支えなど何一つ及びもしない、周囲の方々の手厚い”お助けとお気持

  ち”で生かせていただいていたというのが実態です。

  住んでいるところが田舎でなければ、とうの昔に命を枯らしていたことは間違

  いありません。

  母との会話を続けました。

  それは「母の死に方」に対する確認というより、「母の生き方」をも

  う一度なぞる会話でした。

紅葉橋7
  「バアチャン、今、どうして欲しいン?」

  と問いかけると、拘束されている手と指を懸命に動かし、点滴の管を抜こうと

  します。

  「点滴をやめて欲しいの?」とたずねると、首を縦に明確に振って「そうだ」

  と。

  「点滴を外すと、あちらの世界に行っちゃうよ、そうなったら、もう二度とこ

  ちらには帰レンノヨー、それでいいン?」

  「 イ イ ヨ 」

  「先生に治療してもろうて、元気になって」と呼びかけても、ただ首を横に振

  り続けるばかり。

  「約束が違うじゃないか」・・・と言わんばかりのしぐさが続きます。

  「周りの人が皆、バアチャンを助けようとして精一杯努力してくれよるンよ。

  そのことは感謝しとるンヤロ?」

  「ウン」

  これには母もうなずきました。

  「だったら、もう一回頑張ローヤー!」

  でも、首を明確に横に振ります。

渓谷
  「じゃあ、本当に治療はせんでイインヤネ?」と聞くと 「ウン」と力強くう

  なずく。

  「何時も言っていたように愛大に献体するンヤネ?」

  「ウン」

  「葬式はせず、戒名もいらんノヤネ?」

  「ウン」

  「墓碑銘は自分の名前と、前から聞いていた川柳を墓石に刻むことでエエン

  ヤネ?」

  「ウン、その通りでエエ」・・・明確にうなずくのです。

渓谷と谷間8

  それ以降、医者に特別な延命措置を断りました。

  ただ、本人に苦痛のないよう痛みのコントロールを完璧にしていただくことも

  併せて頼みました。

  それから18日後、年が明けて間もなく、子供たちや孫達、そして89歳の父との

  会話を終え母は眠るように旅立ちました。


  自分の”死に方”、”死んだ後の手配”を自分で決め、そしてその通りに母は逝き

  ました。

  私たち子供にとっては巨木のような存在でしたが、その巨木が徐々に枯れ

  て、最後は音もなく、スローモーションのようなスピードで地上に倒れるよう

  な、そんな逝き方でした。

  母が倒れて逝くまでの18日間


  家族にとって、その18日間という時間は、母の死を正面から受け入れるのに、

  必要で充分な時間だったように思います。

  ただし、母に感謝の言葉を送り続けるには余りにも短い時間でした。

  読経も遺体もないお別れ会も先日終えました。

  様々な形で弔慰を示していただいた全ての方々に深く感謝いたします。

  ありがとうございました。

  
  最後に、母の墓碑銘の川柳(うた)です。

  灯台のよう 

        ふるさとに

             母が居る





にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 写真ブログ 四国風景写真へ
にほんブログ村
愛媛のクチコミ情報サイト「ひめぶろぐ」

母の納骨と郷里の秋 1

今日と明日の二日間は、11月3日に行った”母の納骨”と、それに伴って兄弟3人で郷里の野村町に帰って最後の遺品整理をしたとき、久しぶりに自然の風景を撮りましたので、それをお届けしましょう。


なお、母は昨年1月5日に亡くなりました。


ところが、母は自身で愛媛大学医学部に”献体”を登録していましたので、亡くなったその日に愛媛大学から遺体を引き取りに来て、今年に入って医学生の”解剖”に付されやっと”遺骨”になって返還されました。


今年6月に亡くなった父が眠る石手寺霊園で、父の遺骨の隣に母の遺骨を納骨し、二人はやっとあちらの世界で対面を果たしたことでしょう。

日没1
上の画像は、納骨を済ませて兄弟と甥や姪と共に郷里に帰ったときに、自宅から見た”日没”です。


今日と明日は母を偲んで、母が亡くなった時の様子をブログでアップしたときの記事を再録してみたいと思います。


父が亡くなった今年の6月16日も、何時も変わることなく記事をアップしました。母が亡くなった日も同じです。

日没2
普通の感覚で言えば、親が亡くなった日にブログを何時もと変わらずアップする方などはいないかもしれませんね。


でも、ワタシは敢えて何時もどおりにアップし続けました。


それは、ワタシに文章を通じて表現する事の大切さを、自分達の生き方を通じて教えてくれたのが両親であったからです。


両親は、自分の人生を閉じる瞬間まで文章、特に”川柳”という表現形式で自分達の生き様を表現し続けてきました。県内では有名な”川柳おしどり夫婦”でした。

アザミ実3
ですから、ワタシも両親から受け継いだ”表現者”としての自分を全うしたい、そういう思いで両親が亡くなったその日も何時もどおりに”ブログ”という表現形式でアップし続けました。


丁度父が亡くなった日の前後は、偶然にも郷里の風景を連続してアップしていました。


ですから、母の納骨を機に、母を偲ぶ記事を書こうと思ったとき、その時に使用する画像は郷里の風景、実家の風景などにしたいと考えました。


今日は、そういう意味で”画像”についての説明はしません。

蝶4
昨年1月5日に母が亡くなった後、母が亡くなるまでの様子を、昨年1月17日から22日までの6日間、6回に分けて文章だけのブログをアップしています。


今日と明日はその中から抜粋して再録し、母を偲びたいと思います。


  松山にいるワタシの携帯に連絡があったのは、昨年の暮れに近いある日の午前

  5時16分でした。

  母はその時、狭心症の持病で地元の病院に入院して1週間目でした。

  「お母さんが心臓発作を起こしています。今、手術ができる他の病院を探して

  います。直ぐに帰ってください」という病棟の婦長さんからの電話でした。

  予期していたこととはいえ、動揺しました。

  大洲市のある病院で心臓の手術を受ける事になり、ワタシはその病院に急行し

  ました。

  寒風が吹きすさぶ中を救急車が着いたのが午前7時5分。

  意識はありませんでした。

  直ぐに手術室に運ばれました。

紫実5
  運ばれる途中の廊下で、手術を担当する主治医から慌(あわただ)しい説明を

  受けました。

  「心筋梗塞の疑いがあります。今から至急、手術ができるかどうかも含めて心
  
  臓にカテーテルを入れて検査をします。それに当たっては、2点確認していた

  だきたいことがあります」

  「お母さんは、先ず肺炎を起こしています。今から直ぐに人工呼吸器をつけな

  ければ検査も出来ませんし、生命が危険です。二つ目は、お母さんは一度心臓

  が止まったので多臓器不全の状態になっています」

  「また腎臓はほとんど機能しておりません。カテーテル検査をすると腎臓に負

  担がかかり、病状が回復しても直ちに人工透析を続けることになります。同意

  いただけますか」

朝霧6
  「はい。先生お願いします」

  動転していましたので思わずそう答えました。

  ワタシの、このとっさの判断が後々ワタシを悩ませることになろうとは、この

  ときは全く理解できていませんでした。

  この瞬間からです、母の看取りが始まったのは。

朝霧7
  様々な緊急処置が終わり、担当していただいた医師から説明を聞きました。
  
  説明を受けた後、集中治療室の母を見ました。

  86歳も半ばを越えた母です。

  口には人工呼吸器が取り付けられ、規則的に呼吸を続けています。

  体中に10本に余る点滴用の管をつけられベッドで意識のない状態で横たわって

  います。

  手足を見ると、ベッドに拘束されていました。

  看護師さんの説明によると、人工呼吸器の装着は本人には強いストレスとな

  り、無意識に呼吸器を外そうとするので拘束せざるを得ないということで

  した。

  時折顔をしかめて苦痛の表情をしますが、人工呼吸器が口に入っているので声

  は全く出せません。

  まんじりとも出来ない夜が過ぎました。




にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 写真ブログ 四国風景写真へ
にほんブログ村
愛媛のクチコミ情報サイト「ひめぶろぐ」

89歳の父 ②

今年89歳になる父のことは、時々このブログで取り上げています。

父は、今年の1月に妻(つまり、ワタシの母)を亡くしました。

今は、一人で郷里の「グループホーム」で生活しています。

父は”アルツハイマー症”を発症していて、今年に入って3回、血圧の急激な低下で気を失い入退院を繰り返しています。


月に1回、必ず父と”焼肉”を食べるのが習慣になってもう2年が経過。

焼肉2人前をペロリと平らげるのが父の健康のバロメーターです。


その父が、今年は立て続けに意識不明の状態で入院しました。

入院する都度、病院に駆けつけます。

2度目の入院で駆けつけたときの父とワタシの会話です。


「ジーチャン、思ったより元気そうじゃない・・・」

「・・・・・・・ウーーーン・・・ソウヨー・・・」

「顔色もいいし、意識不明で担ぎ込まれた人とは思えん・・・」


「あのな・・・・たまには”レンシュー”しとかなイケマイ・・・」

「え???レンシュー・・・って??」


「そりゃあー、いきなり・・・チュウーわけにもいくまい・・・ジャケン・・・”練習”しよるんよ・・・・」


と、つぶやいて。顔をクシャクシャにしながら・・・・


「フフフフ・・・・フフフフ・・・・」と、楽しそうに笑った。


父は、まだ当分大丈夫


プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。