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「うどん 心」・「愛媛グルメ紀行」 519

今日は、久万高原町にある”うどん 心”さんをご紹介しましょう。

久万高原町の役場近くの、国道33号線沿いにあるうどん店の老舗です。

このお店は、久万高原町在住の”兒玉ご夫妻”にご紹介されました。ご主人は木工作家さん、奥様は漆芸家というご夫妻です。

久万高原町直瀬の素敵な洋食店”キッチン スプーン”さんをご紹介頂いたのも同じ”兒玉ご夫妻”です。

山1
兒玉ご夫妻”の作品展を初めて取材して、記事にアップしたのは2010年6月18日のこと。西条市で作品展をされたのを取材にお伺いして、3回に分けてご紹介しました。(「児玉高次・日南子展」<木工・漆>

またその作品展を見て感動して、どうしても製作現場を拝見したくなり、工房兼ご自宅の久万高原町をお訪ねして記事にアップさせていただいたのが2010年7月10日です(「児玉高次・日南子」夫婦の製作現場。)一ヶ月足らずで工房まで追っかけしたことになります。

田2
そして、”兒玉ご夫妻”が2年ぶりに松山三越で”第5回作品展”を開催知れましたので、再度松山三越にお邪魔して作品の数々を取材させていただき、記事にアップしたのが2013年1月5日と6日のことです。兒玉高次・日南子「木と漆」展から 1

元々仕事上のお付き合いでしたが、今ではご夫婦のお人柄と生き方、それに素晴らしい作品の数々に魅了され、すっかり大ファンになってのお付き合いが続いています。

先月4月23日にアップさせていただいた”キッチン スプーン”さんに引き続いてのご紹介で、4月26日に久万高原町をお訪ねしました。画像でもお分かりの様に、その時には久万高原町の田にはすっかり水が引かれ、田植えを待つばかりといった季節でした。

お店3
こちらがご紹介された”うどん 心”さんです。国道33号線に面しておりますが、ご紹介がなければ決してお訪ねすることはなかったでしょう。

この道は何度も通っていますが、まったくお店の存在には気がつきませんでした。

でもお店の女将さんにお聞きしますと「今年で、ソーーヨネーー、もう33年になるかなー」というお話です。

玄関4
このお店、定休日は日曜日だけですが、兒玉ご夫妻の話では時折お店をお休みすることがあるとお聞きしました。

それで久万高原町のお店に行く何日か前に、お店にお電話しました。

「定休日は何時で、何時からお店を開けておられますか?」っと電話でお尋ねしたところ、「お休みは日曜日です。普通なら午前11時30分にお店を開けます。でも、何か用事ができたらお店はお休みします」というお答えでした。

その「何か”用事”」が、どういう用事を意味するのかは分かりませんでした。26日にお伺いした時も、時間の余裕を見て、きっかり午前11時にお店にお伺いしました。

ところが、お店の玄関の内側に張り紙がされており、「今日は12時にお店を開きます」っとありました。結局、お店の前で1時間は待てず、先に素敵な素敵な”キッチン スプーン”さんをご紹介していただいたお礼に”兒玉ご夫妻”のお宅をお訪ねし、午後0時45分にこのお店をお訪ねしました。

薬味他
お店にお伺いするとお店の駐車場には入りきれず、国道33号線の路肩に車を止めて駐車場が空くのを待つことに。駐車場へは10台以上駐車可能なのですが、満車でした。

結局10分ほど待って店内に。店内は20人は入れないでしょう、小ぶりなお店です。ですから、空いた席に相席は当たり前。

店内にメニューらしきものは、厨房前のレジ上に一ヶ所だけ。ただ「大450円、小300円」と表記してあるだけ。

予め兒玉ご夫妻から「メニューは”かけ”と”釜あげ”の二種類だけ。私は”かけ”を何時も頼み”兒玉君”は何時も”釜あげ”」っと、兒玉ご夫妻の奥様の声。

結婚前から、ご主人のことは”兒玉君”と呼んでいるのだと仰る。いやはや、ご馳走様でした!だからお二人が好きなのです、ワタシ。

ワタシは当然に”釜あげ小”を注文。お値段、ナント300円。セルフうどんではありません。

薬味”のネギや生姜のおろし、それに大きな徳利に入った出汁と天カスが予めどのテーブルにも用意されています。少なくなったらドンドン補充されます。

お客さんは、地元の方を中心に松山市などから多数詰め掛けています。客種も実に多様。麺がなくなり次第、閉店です。午後2時過ぎには、普通であれば麺がなくなります。

一日、僅か2時間から3時間の営業です。それで33年!驚異的です。

出汁5
こちらが、出汁を入れた大きな徳利から”出汁猪口”(だしちょく)に出汁を移し変えたもの。

多分、この”出汁”の色を見られた経験があるという方は、このお店に来た経験がある方だけだろうと思います。

数多くうどん店を回りましたが、全く初めて目にする、そして味わうことになる”出汁”でした。

この”強烈な個性”を放つ”出汁”、これに魅せられて毎日通われているお客さんもいらっしゃるでしょう。

このお店でしか味わうことが出来ない”一癖も二癖もある出汁”です。単純な鰹出汁の醤油味ではありません。

実に深い味わいを持つ出汁です。ワタシも生まれて初めて味わう味なので、どう表現し、どう比喩してよいのやら見等がつきません。

主役のヒーローやヒロインを、その渋い演技力で平気で喰ってしまう貴重な”バイプレーヤー”(脇役)とでも言いましょうか。

この出汁に、タップリと刻みネギと摩り下ろされた生姜と天カスを豪勢にブッコミます。

釜揚げ6
さて、出ました!文字通り、大きな湯で釜から上がったばかりの”釜あげ”です。まだグラグラ沸いているのではないかと思わんばかり、”麺が生きている”のです。

湯で置き麺”をお湯に潜らせて再度温め直して出す様な”仮死状態”ではありませんし、ましてや決して死んではいません。

まだピチピチに躍動して生きている””です。

兒玉ご夫妻のご主人から「ここの麺は長くて、しかも箸では切れませんよ!丼からズルズル引きずり出して、多少無作法でも直ぐ手間上に置いた”出汁猪口”に直接入れなければ食べることができませんよ!」っとアドバイスを貰っていました。

周囲を観察しました。なるほど、普通のうどん屋さんで”釜あげ”をいただくように、麺を箸で掴んで、丼から高く持ち上げて”出汁猪口”に入れているお客さんが一人もいません。皆さんよく心得られているのです。

釜揚げ8
釜あげされたばかりの”うどん麺”を、そのまま一本食べてみました。

なるほど、釜揚げ特有の”ヌメリ”があります。しかも、ただ単に”固い”だけの麺を”腰がある”と称して出している”讃岐うどん”を自称する数多(あまた)の物悲しい”うどん屋”の麺とは、明確に一線を画する””です。

ただし、ワタシが個人的に”溺愛”(できあい)している、松山市内萱町の”どん”さんの麺とも明確に違います。

個人的溺愛度から言えば、どん”さんの釜あげの麺の方がずっとずっと好きです。また、麺の総合力では松山一、いや愛媛一だと認識している、高井町の”味十味”(あじとみ)さんの麺の方が、数段バランスが取れていて、完成度は上だと思います。

でも上に挙げた二店の””とは、全く次元が違う””です。このお店に来て、釜からあげたてをいただかないと決して味わうことが出来ない麺です。

決して固すぎはしないのに、箸で切断できない弾力性がある。麺に”撓(たわ)み”があるのです。撓(たわ)みとは、麺をの両端を持って引っ張っても中々切れない弾力性を言います。

アップ9
まあこの”麺の艶”をご覧になって下さい。”乙女のもち肌”という表現がありますが、これほどの艶を持った子がいるでしょうか?乏しい経験なので、そのことが断言は出来ませんが。


惚れ惚れする肌の艶ではありませんか。これが口腔内に充満するのです。ワタシのブログ友”ジンゴズンゴ”さんのセクシーな描写を借りるまでもなく、”超官能的”な麺です。

愛媛の数多(あまた)の、讃岐に媚びるうどん屋さんの”麺の腰信仰”、妄信的過ぎやしませんか?

釜揚げ10
これが”うどん 心”さんの正しい”釜あげうどん”のいただきかたです。この方法でしか、満足に食べ切る方法はないでしょう。

下品と言われようが何と言われようが、この食べ方で”ズルズル”と音を発てながら、麺を口腔に啜りこむ。

これは先ず”味覚”で味わうのであり、同時に”出汁”の酸っぱさを鼻腔、”嗅覚”で味わうのであり、口腔内を艶やかな麺が通過するセクシーな”触覚”で味わう”釜あげ”なのです。

更に、この麺の”乙女の様な肌の艶”を”視覚”で楽しむのであり、最後に自分と同類のお隣さんが旨さを隠しきれず、思わす”ズルズル”と下品に啜りこむ音を”聴覚”で楽しむ”釜あげ”なのです。

そうです!まさに”五感”の全てを使って味わう”うどん”なのです。

さて皆さん、どうされますか・・・?

「何時(いつ)ですか?・・・・””でしょうーーー!」



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「再訪 105 鉄板焼・お好み焼 椿や」・「愛媛グルメ紀行」 520

今日は”再訪シリーズ”105番目のお店、通称”はなみずき通り”沿いの古川北4丁目にある”鉄板焼・お好み焼 椿や”さんを再びご紹介します。


このお店は、今年の2月27日に”愛媛グルメ紀行”484番目のお店としてご紹介したばかりです。(「鉄板焼・お好み焼 椿や」・「愛媛グルメ紀行」 484


ところが、その時に既に再訪を決めていました。それは気になったメニューがあったからです。

玄関1
こちらが”はなみずき通り”に面しているお店です。目立つ色ですから、目にされた方も多いでしょう。


この超激戦区で産声を上げて、今年で3年半を迎えます。はなみずき通りにはもう一軒お好み焼き屋さんがありますが、このお店、激戦区にあって健闘中です。

メニュー3
最初に来て気になり、お店を出たときから再訪を決めていたメニューがこちら。初回いただいたのは、”ホルモンうどん”でした。


今回は”焼きラーメン”を注文しました。具材を豚、イカ、エビのどれか一つを選んだものが600円です。


今回は、その3つ全てが入っている”ミックス”を注文しました。お値段は750円です。そもそも、このメニューが気になったのは、”焼きそばと、どこがどう違うのだろう?”という好奇心からです。

店内2
このお店は、広島風でも関西風の”お好み焼”など全てのメニューが、厨房にある大きな鉄板で店主さんによって焼かれます。

それぞれの席にも全てに鉄板がありますが、それはメインの鉄板で焼かれたものが塵取りのような形をした容器に移されて、各自の鉄板に運ばれます。

もちろん、各自の目に前にある鉄板には火が入れられて熱せられていますから、熱々状態でいただけます。

通常なら店主さんに”焼きラーメン”のことなど、直接お話をお聞きしてそれを記事にまとめます。それがワタシの方法です。

ところがこのお店の店主さん、厨房の中の大きな鉄板の前にスクッと立ち尽くして””(りん)とした雰囲気で大きなコテ2本を操っておられます。

様々な客から出された注文を、一枚の鉄板の上で同時並行的に一人で焼いていかれます。とても話しかける雰囲気でもないし、お仕事の邪魔をするのは失礼に当ります。

そこで、”焼きラーメン”が出来上がるまでを徹底観察することにしました。どこが”焼きそばと焼きラーメンは違う”のか?

メイン鉄板4
先ず鉄板の上に、”焼きラーメン”の主要な具材である”野菜”を炒めはじめました。主な野菜はキャベツ、モヤシ、それにタマネギです。2枚の大きなヘラを巧みに操り、胡椒等の調味料を振り掛けながら炒めていきます。

次に、ミックスの具材であるエビとイカを別に炒めはじめました。しかも、イカやエビを小まめにひっくり返しながら満遍なく焼き色が付いていくまで炒めます。続いて短冊に切られた豚肉を裏表均等に熱が通るように炒めます。

それと並行的に、鉄板に乗せたときに、鉄板に焦げ付かないように表面を油でコーティングされた麺を袋から取り出し、お湯を入れた容器に移して適度にコーティングされた油を落とします。この作業が先ず”焼きそば”にはない作業です。

油を適度に落とすと同時に、袋の中で一塊になっていた麺をお湯で戻して麺同士がくっ付いている状態を解(ほぐ)してやります。

そして、適度に油を落とされた麺を鉄板に置いて軽く炒めていきます。胡椒などの香辛料を振り掛けながら。

麺に付けられた油を落としすぎますと、麺を鉄板に置いた時麺が鉄板に瞬時にこびり付きます。この油の落とし加減、残し加減が”焼きラーメン”調理の一つのポイントになってると思いました。

次いで一番先に炒めた野菜に、エビ、イカ、豚を投入し大きく煽るように混ぜ合わせていきます。そして、軽く炒められた麺を素早くその上に乗せます。

ここからは一気の作業です。野菜と麺を空中に、まるで放り上げるように煽りながら炒めます。

そして、タレを掛けます。このタレ、焼きそばのタレとは明らかに違っていて、焼きそばのタレに比べて色が薄く粘度もサラリとしています。

特性タレ”を全体に廻しかけたら、全体に空気を含ませるように最後に大きく煽って炒めて、その上に青海苔と紅生姜を乗せたら出来上がりです。全体が油でべチャッと・・・・という姿では全くありません。10分かかっていません。

見ていましたら、最後の出来上がりから逆算された手順で、火が通りにくい素材から順番に炒められたことが分かります。

運ばれた5
そして、ブリキで出来た大きな塵取りの様なもの乗せられ、予め火が付けられて熱せられている目の前の鉄板に移されます。


移された瞬間が上の画像。ワタシがそれを写真に撮っていたら、フロアー係りの女性「本当はここで鉄板の火を落とすのですが、しばらくこのままにして置きましょう」と、気を使っていただきました。

焼きラーメン1
この画像が”焼きラーメン”の全容です。


ホルモンうどん”の時とは明らかに香りが違います。


またソースが、焼きそばとは違っているのが見ただけで分かります。

アップ7
焼きそばのソースとは色も香りも粘度もまったく違います。調理の過程も、コーティングされた油落とし行程が入りますし、野菜などの具材と麺とをあわせるタイミングも全く違います。


食べてみました。確かにソースではなく、何か?の出汁の香りと味がします。

アップ8
フロアー係りの女性にお聞きしてみました。「焼きそばと焼きラーメンの決定的な違いは何ですか?」っと。

すると思ったとおり、「焼きそばは専用のソースを使いますが、焼きラーメンは”豚骨スープ”を煮詰めたもの使います」と、お答えは実に明瞭でした。

小皿9
元々”焼きラーメン”発祥の地は、博多の屋台です。福岡市天神の屋台”小金ちゃん”がその元祖だと伝えられています。


ですから、焼きラーメンに掛ける出汁は、ラーメン用に作った”豚骨スープ”が土台です。それをどの程度の濃度まで煮詰めるかで、各店の焼きラーメンの味が違ってきます。


フハフハ言いながら、豚骨スープの旨味が凝縮した出汁が掛かった焼きラーメンを頬張りました。幾分濃厚な味ですが、一気に胃の中に吸い込まれていきまいた。

カード10
勘定を済ませようとレジの前に立ちますと、フロアー係りの女性がお釣りを出している間に、”孤高の人”という感じでした店主さんがレジまで出てこられて、丁寧にお辞儀をされました。


こちらも慌てて、「美味しかったです!」と言いながらやや恐縮してお辞儀を返しました。


すかさずフロアー係りの女性「これどうぞ!」と言って手渡されたのが上の画像の”スタンプカード”。


「アハー、このカードをいただく度に、このカードにスタンプが全部並ぶ日が・・・・・」っと、弱気になります。



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「再訪 106 季菜(きさい)」・「愛媛グルメ紀行」 521

今日ご紹介する”再訪シリーズ”106番目のお店は、昨年11月29日に”愛媛グルメ紀行”シリーズの427番目のお店として、また今年に入って1月9日に”再訪シリーズ”75番目、通算450番目のお店としてご紹介したばかりの”昼どころ 夜話し 季菜”(きさい)さんです。(「季菜(きさい)」・「愛媛グルメ紀行」 427)・(「再訪 75 季菜(きさい)」・「愛媛グルメ紀行」 450


場所は、東雲大学から石手寺に至る県道と、県道東部環状線交差点の東南角、サークルケイ松山東野店の、県道を挟んだ東側です。

玄関1
こちらがお店の玄関です。


ここの店主(板さん)さんは、漱石亭グループで修行をされた方で、実家でご両親が作っている新鮮なお野菜などをお料理に採り入れられいます。


お客さんの入りは、このお店のおもてなしの心とお料理の質の高さに魅せられた方で徐々に増えてきているようにお見受けしました。

花2
こうやって、各テーブルに添えられている季節の草花も、このお店ならではの細やかな心配りと季節感を感じさせていただけます。


もう梅や桃の季節になったのですね。野山には菜の花だって咲き乱れています。(このお店を取材したのは、まだ3月上旬でした。記事はその日の夜に書きましたが、諸事情があってアップまでに2ヶ月も掛かってしまいました)

メニュー3
3ヶ月毎に変わる”季菜膳”のメニューも、もう次の準備が整っていることでしょう。


選べる主菜御膳”と名づけられたものが8種類。この部分が3ヶ月毎に入れ替わります。


今回は、お店の方で「人気!復活メニュー」と吹きだし表記された”鶏つくね揚甘酢葱ソース”を選びました。それを含んだ”季菜膳”のお値段は1000円(内税)です。

季菜膳4
さて、この画像が今回の”季菜膳”です。彩りといい、盛り付けといい”お見事!”と言うほかない出来栄えです。


この他に、”選べる主菜御膳”と名づけられたもの(ワタシが選んだのは”鶏つくね揚甘酢葱ソース”と茶碗蒸しとデザート、そしてデミタスコーヒーが付きます。


これを見ていますと、日本料理は目で見て楽しめるものだということがよくわかります。

揚げ物5
こちらは”揚げ物”とサラダです。


揚げ物で、周囲が緑色に見えるのは、山芋に一度衣を付けて更に青梗菜で巻いて揚げられたもの、後は牛蒡(ごぼう)と長ネギと椎茸に衣を付けて揚げ、全体に餡がかかっています。


調理法は同じでも、それぞれが持つ素材の持ち味を生かした逸品ばかりです。

豆腐6
こちらは、一番最初に訪問して度肝を抜かれた一品です。


いかにも普通の豆腐の冷奴に見えるのですが、実は牛乳と生クリームとチーズを混ぜてくず粉で固めたものです。


ネットリとした食感で、濃厚な乳製品の味が楽しめます。しかも、山葵と醤油で日本料理風に味わう仕掛けです。

牛蒡と牛肉の時雨煮6
こちらは”牛蒡と牛肉の時雨煮”と”ホウレン草の煮浸し”です。


時雨煮”(しぐれに)とは、生姜を加えた佃煮の一種で、牛蒡(ごぼう)と牛肉が一種の佃煮(つくだに)の様に仕上がっています。


ホウレン草は出汁で煮てある”煮浸し”(にびたし)になっていて、三者三様の味が楽しめます。

刺身9
今回のお造りは”ハマチ”の刺身です。刺身は苦手なのですが、脂が乗っていてネットリとした食感と魚の旨味を堪能できました。


使われている醤油は、今まで同様”大葉”を刻み込んで大葉の香りを移した醤油が使われています。


大き目の大葉も添えられていますので、魚の生臭さを全く感じることなく、アッサリといただけました。

鶏つくね揚げ7
こちらがメインディッシュの””鶏つくね揚甘酢葱ソース”です。大振りの”鶏つくね団子”が3個も付いています。

”鶏つくね団子”はカラッと揚げられていて、鶏の旨味が団子に凝縮されています。

しかもその上に甘酢餡がタップリかけられ、タマネギを水で晒してエグミを取ったものと刻み葱、サラダ菜が添えられていて、更にマヨネーズがかかっています。

揚げたての”鶏つくね”は中味がジューシーで、甘酢餡とマヨネーズと言う違ったソースで味わいを違えて楽しめます。葱の適度の刺激もマッチしています。

なお、お料理にマヨネーズを使うという発想!実は、中華料理の分野で初めて”海老とマヨネーズ”を組み合わせて調理するということを世に問うたのは”周 富徳”さん。

コンビニおにぎりでお馴染みの”エビマヨ”は、実は中華料理の達人が生み出したことをご存知でしたか?

その中華料理の達人が”海老にマヨネーズ”を使った!それが実に衝撃的に世間に伝わりました。マヨネーズはご存知の通り、酢と卵と油から出来ています。旨いはずです。そしてこのお店は、和食にもマヨネーズを合わせてみた。

茶碗蒸し8
こちらは毎回付いてる”茶碗蒸し”です。


中に入れられている椎茸には、キチンと味が付いていて、卵の柔らかさと、濃厚な椎茸の味の両方が楽しめます。

デザート9
今回のデザートは、”紫芋の漉し餡仕立て”(むらさきいものこしあんじたて)です。


甘さでは砂糖並みの力を発揮する紫芋を漉し餡(こしあん)に練りこんであります。そして、その上に生クリームがかかっています。


砂糖の甘さとは違う、上品な甘さが堪能できました。

コーヒー10
最後は、濃く煮出した”デミタスコーヒー”で〆ました。


まあ何ともはや、バランスのとれた品々でした。手練(てだれ= 腕が立つ)の日本食の職人さんにかかったら、それぞれの食材が持っている素材の味が個性的に引き出されていることを実感できると思いました。




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「愛媛グルメ紀行」を振り返る 60

今週も土曜日に”愛媛グルメ紀行”シリーズを振り返ります。

今日振り返るのは、一昨年11月の終わりから12月にかけてアップした、178号から180号です。



先ず最初は、一昨年11月29日にシリーズ178番目のお店としてご紹介した、湊町6丁目、伊予鉄市駅西駐車場の丁度真ん前にある中華料理の老舗”上海文芸復興(しゃんはい ルネサンス)”さんです。(「上海文芸復興(ルネサンス)」・「愛媛グルメ紀行」 178

玄関1
明るいのは、この玄関まで。店内は昼間でも薄暗いので画像が不鮮明にしか写せませんでした。

玄関の看板を見ても、古い字体で店名を書いてあるので、このお店がどういうお店かを想像できる方は少ないかもしれません。

上海”までは読めますが、”文芸復興”の文字が読み取りにくい。

仮に読み取れたとしても”文芸復興”が”ルネッサンス”(このお店では”ルネサンス”と読ませます)と結びつく人も多くはないでしょう。

ホイコーロー上4
メニューは、もちろん中華料理全般を扱いますが、お昼は”日替わりランチ”と、後は毎日できる”生姜焼き”と”麻婆豆腐”と”ニラモヤシ炒め”の全4種類が注文の殆どで、お値段は全て630円。

そこでワタシは”日替わりランチ”を。その日は”回鍋肉(ホイコーロー)”がメインでした。

回鍋肉”は代表的な”四川料理”の一つですが、日本風にアレンジされたものが一般的です。

キャベツや長ネギやピーマンを湯通ししたものに、炒めた豚肉の薄切りを和えて、豆板醤(とうばんじゃん)や豆豉(とうち)などの甘辛い肉味噌類と炒め合わせた料理ですね。

ちょっと不思議で怪しげな雰囲気のお店も、美人の奥さんの笑顔でバランスが取れた”素敵なお店”でした。

このお店は再訪しません。店内の照明が暗くて、いい画像が撮影できないからです。残念です。



二番目にご紹介するのは、一昨年11月30日にシリーズ179番目のお店としてご紹介した、県内でもその”ジャンボエビフライ”で有名な、大洲市平野にある”レストラン 比来野(ひらの)”さんです。(「レストラン 比来野(ひらの)」・「愛媛グルメ紀行」 179

ある日曜日のお昼に行ってきました。驚いたことに、約12台収容の駐車場が満車で入れません。

玄関1
場所は、大洲市平野、大洲市と八幡浜市を結ぶ国道197号線沿いにあって、大洲市の側から言えば”夜昼トンネル”の手前北側です。

ワタシの前に並んで待っている車のナンバーは、何と”北九州”ナンバーでした。

お店の外の道路わきに車を停めて、待つこと1時間、ようやく駐車スペースが空いてお店に入れました。とにかく繁盛しているお店でした。

エビフライ3
画像は、ワタシが注文した”エビフライ・コロッケ(ライス・みそ汁)つき”のメインプレートです。

お値段は1,400円。これが高いか?割安か???判断の分かれるところでしょう。

巨大なエビフライ”が2匹と、これまた大き目の”コロッケ”が2個、それに付き合せのサラダです。

さて、肝心の”ジャンボエビフライ”の味です。

海老”の部位で一番美味しいのは”頭の中のミソ”でしょう、”蟹ミソ”が美味しいように。

そこで、頭部を外し、頭部の中を覗いてみました。「あれアレ・・・・・・ミソは・・・・・どこ・・・????」

実に不思議な光景でした。一番美味しい頭部のミソが一切ありませんでした。エビ本体の味は、「確かに、コレはエビには違いない」と。”満腹感”は十分得られます。何と評価していいのか分らないお店でした。

このお店は再訪しません。やはり八幡浜は遠いからです。もっとも、お店が近くにあったとしても再訪はしませんが。



最後にご紹介するのは、一昨年12月1日にシリーズ180番目にご紹介した、松山市内では有数の中華料理の老舗”中華料理 白魂”さんです。(「中華料理 白魂」・「愛媛グルメ紀行」 180

場所は二番町二丁目です。大街道にある二浪証券から一本東に入ったところです。

今年で”開業64年目”になります。

玄関1
これが今のお店の玄関です。松山の飲み屋街の西の端に当たります。

夜のコース料理が専門のお店ですが、昼には近隣のサラリーマンを中心といたランチ料理で賑わっています。

お店に置かれている新聞類が”日経新聞”を筆頭に読売、朝日、毎日ということで、主な客層が見えてきます。

八宝菜ランチ4
さて、ワタシが注文したランチは”八宝菜ランチ”です。ランチのお値段は全て840円。

お昼のランチとしては、現在の経済環境ではとても高いですね。ワタシも、このシリーズを続けていなければ決して来ることはないお店です。

でも、確かに値段だけのことはあるランチの内容と””でした。

メインの”八宝菜”、まあ、それは上品に盛り付けられています。

具材は、ヤングコーン、白菜、サヤエンドウ、ニンジン、刻みネギ、剥きえび、豚バラです。

そして、この味の完成度、ちょっと他とは比較にならない出来ばえです。さすが一流の老舗に味は、それだけ値打ちがあると思わしめる出来栄えでした。

でもこのお店も再訪しません。ワタシはもうサラリーマンではなく単なる個人事業主になったからです。

なお明日の日曜日はアップをお休みします。



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「松山市の地名・町名由来」・ 「余戸・保免・市坪」 7

松山市の地名・町名由来」の第7回目は、松山市の西部と南部にある「余戸」(ようご)と「保免」(ほうめん)と「市坪」(いちつぼ)をご紹介しましょう。

この町名も、松山市にお住まいされている方以外には難解な読み方ではないでしょうか。また、この3つの町はそれぞれ関係する部分がありますので、同時に採り上げました。

この3つの町名は、何れも日本の”律令制度の成立”に関わることが由来となっています。

律令制度”の概要は、先週書きました「斉院町」(さやちょう)と「垣生町」(はぶまち)で詳しく書きましたから、今日は詳しくは書きません。

余戸駅1
この画像は、伊予鉄郡中線「余戸駅」の駅名表示です。

645年の”大化の改新”、その主役であった”中大兄皇子”(なかのおおえのおうじ)が”天智天皇”(てんちてんのう)として即位し、その後”壬申の乱”(じんしんのらん)を経て”天武天皇”(てんむてんのう)の時代に”律令制度”が生まれました。

今の日本の骨格が定まっていった時代です。”天武天皇”時代に作られた”大宝律令”(たいほうりつりょう)が”律令制度”の根幹をなしています。

この制度は6年に一度戸籍をつくり、一定の人口に応じて土地を一代限りと言う前提で貸して、貸した田からの収穫を朝廷に納めることにしたのです。田は”口分田”(くぶんでん)と言い、6歳以上の男女に貸して、彼らが死ねば田を没収しました。

余戸田園1
上の画像は「余戸地域」に広がる田園風景です。

律令時代の土地の制度では、土地は正方形の一片の長さを六町(ろくちょう)(約650m)をひとつの単位として規則正しく区切られました。

ルービックキューブの一面を想像してください。それぞれの列を””(じょう)といい、縦六条と横六条で区切られた六町四方の正方形の形をした区間を””(り)といいます。

縦一条と横一条で区切られたスペースを””といいます。つまり””(り)は三六の””から出来ていいるという制度です。

この””の一角(北西角)を起点とし”一の坪”、”二の坪”と呼びました。後で出てくる「市坪」はこの”一の坪”が町名の由来です。

そして律令時代の村落制度は、五0戸が一里(いちり)単位となっていました。更に村を作っていく時、六0戸以上になるとその内の一0戸以上を”余戸の里”としたのです。

これが「余戸」という地名の由来で、全国に同じ地名があります。読み方は”あまりべ”と呼んでいたのが、後世になって”ようご”と言われるようになりました。

つまり「余戸」(ようご)という地名は、古くから開けていて村落があったという証拠です。今の「余戸」は人口が増えて”東・中・西・南”の四町に分かれ、町名の最後に”町”が付かない町です。

保免邨1
この画像は、「保免西一丁目」にある”日招八幡大神社”の石碑に刻まれている「保免邨」(ほうめんむら)の文字です。

保免」という地名の由来も律令制度から生まれた”荘園制度”に由来した地名です、

4月22日に、「松山市の地名・町名由来」の第5回目で書きました「別府町」にも共通しています。

つまり、”律令制度”の根幹をなしてきた”班田収受法”(はんでんしゅうじゅのほう)が実質的に破綻し、人々が貸し与えられた”口分田”から逃げ出したのです。

薬師寺山門1
そこで、朝廷は一時的に土地の私有を認めざるを得なくなりました。口分田は荒れ果てて、朝廷に税収が届かなくなったからです。

こうなりますと、有力貴族や寺院、有力農民が”荘園”(しょうえん)の開墾に力を入れ始めます。

また開墾した”荘園”は、有力な貴族や寺院などに寄付し、寄付した貴族などに一定の年貢を納めて、朝廷への納税義務や兵役義務から免れるものが続出しました。

ここ「保免」は、鎌倉時代以前に上の画像の”薬師寺”を中心として寺院が点在していた地域でした。

薬師寺本堂2
つまり、この地域の人々は有力寺院であった”薬師寺”に、自分達が開墾して作った荘園を寄進(きしん=寄付すること)して、寺院に一定の年貢を納める変わりに、租税負担や雑役負担、更には兵役負担を免れたのです。

この画像は、「保免西一丁目」にある”薬師寺”ですが、皆がこぞって寄進した”薬師寺”に相当していたのかどうかは分りません。

いずれにせよ、有力寺院に荘園を寄進(=寄付)して租税を””(ま)ぬがれていて、租税免除の荘園があったことは間違いないでしょう。

それが「保免」の町名由来です。その後「保免」も人口増加に伴って「西・中・上」の三町に分かれ、町名の最後に”町”が付かない町になりました。

市坪町標識1
この画像は「市坪」の標識です。

石手川の南側に広がっている町です。

市坪町並4
こちらが「市坪」の町並みです。今では”坊ちゃんスタジアム”がある町として有名ですね。

市坪」の町名由来は、「余戸」の由来を書いたところで触れています。元々は「一の坪」から始まりました。

今でも、この地域の農家では「市坪」(いちつぼ)と言わず「いちのつぼ」と言っている方も多く残っています。「市坪」も人口増加に伴い、今では「西・南・北」の三町に分かれ、町名の最後に”町”が付かない町になっています。

予土中学校1
なお、上の画像は「予土中学校」(よどちゅうがっこう)の校門のプレートです。

「余戸東四丁目」に建っている中学校の校名、又「余戸東一丁目」に建っている小学校の校名が、なぜ何れも「予土中学校」であり「予土小学校」なのか?

それは今日、町名の由来をご紹介した「余戸」と「保免」と「市坪」を併せた地域は、昔は「予土村」(よどむら)であったことに由来しています。

なお「予土村」は、松山市の市制施行による合併で、昭和29年(1955年)に”温泉郡予土村”の村名が消えました。

この話は、余戸の農家の方にお伺いしました。その方は今でも「市坪」を「いちのつぼ」と言っていました。


来週の第8回目は、松山市近郊の市町村にも同じ町名がある「志津川町」(しつかわまち)と「松前町」(まさきまち)をご紹介しましょう。




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「西條そば 甲(きのえ)」・「愛媛グルメ紀行」 522

今日は西条市朔日市(さいじょうし ついたちいち)にある、愛媛県ではちょっと”抜きん出ている”と思った蕎麦の名店”西條そば 甲(きのえ)”さんをご紹介します。

このお店は、久万高原町在住の”兒玉さんご夫妻”にご紹介されました。ご主人は木工作家さん、奥様は漆芸家というご夫妻です。

”兒玉さんご夫妻”にご紹介頂いたのは、先月4月23日にアップさせていただいた”キッチン スプーン”さん、それに今月5月1日にアップさせていただいた”うどん 心”さん、それに既に再訪記事もアップした松山市内の”茶房 ひょん”さんに続いて4軒目です。

教えていただいて、直ぐに(連休中)に、高速道路を飛ばしてお伺いしました。

玄関1
こちらが、西条市朔日市(さいじょうし ついたちいち)にあるお店です。

ワタシは今、別のシリーズで「松山市の地名・町名由来」というテーマで毎週月曜日にアップしてるところです。

その地名由来から言えば、このお店がある”朔日市”(ついたついち)についてです。

天保13年(1842年)、伊予西条9代目の藩主”松平頼学”(まつだいら よりさと)の命によって、”風伯神社”(ふうはくじんじゃ、西条市朔日市にある)の祭日を四月朔日(ついたち)と七月朔日(ついたち)の2日だけこの町で賑やかな(イチ)がたったという由来からきています。

”ダイキ西条店”の隣にあって、駐車場は5台用意されています。

蕎麦打ち場2
このお店のホームページ(西条そば 甲(きのえ) 店舗案内)と、お店のメニューに拠りますと、平成17年に美味しい水を求めてこの地にお店を開かれたそうです。

店名の””(きのえ)は、店主さんのお名前から。店主さんは、ご出身は大阪。そして、「旨いそばを打つ為には、良いそば粉旨い水が必要という想いから、山梨県北巨摩郡(現 北杜市)でのそば打ち修行後、平成16年「水都・西条」へ移住。平成17年「西條そば甲(きのえ)」開店」とありました。

また、蕎麦屋の名店と称せられるお店の多くが、店内のアチコチに「店内の自分のお店のお蕎麦がいかに本格的蕎麦で美味しいか」という”能書き”を書き連ねているケースが多い中、メニューを裏から表から眺めてみないと分からないという、”控え目な能書き”が書かれています。(ホームページにおいても)

曰(いわ)く、お店の「西條そば甲(きのえ)三つの想い」というお店の”理念”を以下の通りに表明されています。

一、蕎麦道の追求   二、地域食文化への貢献   三、お客様への満足創意工夫   の三点です。

企業理念”(きぎょうりねん=この企業は何を目指しているか)と同じ発想の”想い”を掲げたお店には、初めて出会いました。

店内3
ワタシは連休後半の土曜日、つまり5月4日の午前11時20分にお店に入りました。既にその時点でお店は満席。蕎麦屋では初めてお目にかかった”ウエイティングシート”に名前を記入しお店の玄関を入ったところで立ちました。

何時もより早くお店に入ったのには訳があります。つまりこのお店は店主さんご自身の手打ちなので、その日に打った蕎麦が無くなり次第閉店と言うお店なのです。油断はできません。

待ち席(椅子)が4席設けられていて、既に4人がそこに座っておられました。ワタシはその時点で待順が5番目。直ぐ次に客が2名入ってこられて、店内で待てるのは都合7人まで。

店内で待っている間にメニューが示され、そこで注文を告げます。

立ったままで、メニューを繰らないといけません。

メニュー
メニュー表と、店内に掲げてあるメニューを記した短冊が目に入ってきました。

真っ先に目に飛び込んできたのは”土曜日と祝日だけ、15食限定”という”十割ざる”。そして、”秋冬季節限定”という”鴨南そば”。

ワタシ、”限定”(ゲンテー)と書かれていたら飛びつかざるを得ない性分なのです。さてさて・・・・・サテ・・どちらを選べばいいのか?迷いに迷っていました。

すると、フロアー係責任者的な若い女性(この方の所作が、実にキビキビいていて小気味いいんです)「お決まりでしょうか?」っときた。

思わず「ウッ!」っとなって「十割そばとー~・・・・、鴨南そばは、今の季節でもありますか?」っと声が漏れた。

「はい!ございます。蕎麦2枚ですね。どちらを先にお持ちしましょうか?」っと、ドンドン畳み込まれる。

「十割ざるを先にお願いします」っと、一気に注文が通ってしまった。ワタシの今の”胃”のことなど考える暇(いとま)がありませんでした。お値段は880円と1050円。

「お待ちのお客様〇番さまー、注文トーーリましたー!十割ざる一枚、鴨南そば一枚””鴨南”お待ちデーース(お後でーす、と言ったのかも知れません。アレヨアレヨと言うテンポなので、完全には聞き取れませんでした。

このお店・・・・・・中々に大変です。

お茶とお茶受け4
座る間もなく、お茶(蕎麦茶)とおしぼり、それに箸とお茶受けの”蕎麦を揚げた”ものが出されました。

タイミングよくお茶が出されたのにも、ちゃんとした理由があります。

カウンター席で食べていたお客さんがほぼ食べ終わる寸前でした。フロアー係責任者的な若い女性は、他のフロアー係りの女性に「カウンター席にお茶一つ、ご用意して」っと的確な指示を出されていました。

彼女、何時も一歩先を見ているのです。ところが、この”絶えず一歩先を見る”ということが実に微妙で難しいことだと、ワタシが気づいたのは最後の最後でした。

十割ざる5
さて出されました、お店が”十割ざる”と呼んでいる蕎麦が。出された瞬間に”気品”を感じました。

先ず”蕎麦”事態が瑞々しい。国産蕎麦粉を選りに選って、それに打ち抜き井戸で汲み上げた西条の名水を合わせられている。湯がきあがった後も、その名水でキリキリと締められている。

そば汁(そばつゆ)も実に香り高い。カツオと醤油と味醂の香りが綯(な)い交ぜとなって鼻腔をくすぐります。そば汁はやや辛めに仕上げられています。甘さは抑えられ、そこが気品となって香ります。

微妙なそばの風味を活かし切るそば汁です。

お店の表現をお借りすれば「ツユの生命線(かえし)は醤油と味醂と砂糖を加熱したもの。2週間から3週間寝かす事でまろやかな店独自の味になります。この熟成した(かえし)と出汁を会わせる事で蕎麦つゆが出来上がります」と。

薬味6
さり気無く添えられた”薬味”をご覧になって下さい。

エグミを抑えられたサラシネギ、糸のように細く繊細に切ってあります。山葵は静岡産。

そして嬉しいのは、山葵の左側に添えられた大根おろし。ただの大根おろしではありません。長野県産の”辛味大根”です。江戸の時代から”いっとうの薬味は辛味大根”とされてきました。

ところが、今の日本人の味覚、甘さに慣れてしまいました。だから大根だって、辛味を抜くための品種改良を重ねて”甘い青首大根”を開発した。

でもこれが”蕎麦”の世界では、そば汁から風味を消してしまった。嬉しい事と言いますか、流石(さすが)にと言いますか、このお店はピリリときて、そば汁を大人の味として楽しむことができる”辛味大根”をちゃんと用意されています。

静かに唸りながら、旨いそばを堪能させていただきました。そばといい、そば汁(そばつゆ)といい薬味といい、まあ完璧です。

汁7
例によってそばをいただく時、そば汁には”薬味”の中の”辛味大根”だけを入れて”十割そば”を啜りました。

山葵は、そば汁に漬ける前のそば自体に漬けながらいただきます。山葵を予めそば汁に入れてしまうとそば汁が歪むというか、そば汁の繊細な香りが飛ぶように思います。ただし、あくまでもこれは個人差、個人の好みの問題でしょう。

実に品のいい、繊細なそばをいただきました。間違いなく名品・逸品だと思い、感動を頂きながらそばもいただきました。

でも、ここで残念なことが。ワタシがそばを食べ終えるちょっと前に、フロアー係責任者的な若い女性は厨房に”鴨南そば”調理を指示されました。彼女は、厨房と客席を同時に見通すことが出来る絶好のポイントに立っておられます。

客はドンドン詰め掛けています。一秒でも早く客の回転を上げたいという気持ちはよく分かりますし、正しい判断でしょう。立ったままで待っておられる客の気持ちを考えれば当然だと思うからです。

しかし”十割ざる”を食べ終えて、さてこれからそば汁にそば湯を注いで、”出汁”の旨味を楽しもうとしたその瞬間です。「鴨南そば、お持ちしました」っとワタシの後ろにフロアー係りの女性が立っている。

鴨南そば8
これが”鴨南そば”。「出汁はざるつゆ・かけつゆで節をそれぞれ使い分けております。」っと店主さんご自身がホームページにお書きになっておられます。

そして「本当に旨い蕎麦つゆは、そば湯で割って最後まで飲める事」と書いてあります。

ところが、そば猪口に、まだそば湯を注ぐ前に「お下げいてよろしいでしょうか?」っと。もう出来上がった”鴨南そば”が背中で痺れを切らせて待っているのです。

「そば湯を・・・・・・」っと口ごもりますと「そば猪口とそば湯は残しておきましょう」っと。

もうこうなれば、そば猪口にそば湯を注いで味わう時間的余裕などありません。さっさと目の前の”鴨南そば”にかからないとそばが延びてしまいます。

上の画像は、”鴨南そば”を食べ終わった後に、そば猪口に残った汁にはじめてサラシネギを投入し、そば湯を注いだもの。既にそば湯はやや冷めかけていました。それでも、そば汁自体が優れているので、上品なお吸い物をいただく感覚で飲み干しました。

鴨南アップ9
鴨南そば”の魅力は、炙られた太葱から滲み出た”甘さ”と、”鴨の胸肉”(だきみ)から豊かに流れ出した”油の旨味”にあります。

その二つの味が出汁と合わさって、実に濃厚な味を楽しめます。”十割ざる”とは、全く別の食べ物のようでした。

体の隅々まで、細胞単位で満足させられました。

完食11
文句なく”完食”です。一つのお店で二つの違ったメニューを同時に注文したのは初めての経験。

また、それをそれぞれに完璧に完食したのも、もちろん初めてのことです。このお店のこのメニューが故のことです。

”十割ざる”と”鴨南そば”を出されるタイミングだけです「惜しい!」と思ったのは。

でも連休中の午前11時20分から午後0時10分と言う日程と時間帯。勘定を済ませてお店を出たとき、店内には待ち客が5人、お店の外には10人が並んで待っておられました。

県外ナンバーの車も複数ありました。これだけの繁盛店です。あのタイミングは、お店の立場からすれば逆にギリギリのタイミングだったのでしょう。

ご馳走様でした

そして、ご紹介頂いた”兒玉さんご夫妻”様、ありがとうございました




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「再訪 107 堀江港 みなと食堂」・「愛媛グルメ紀行」 523

今日は”再訪シリーズ”107番目のお店として、”堀江港 みなと食堂”さんをご紹介します。通算3度目のご紹介となります。(「堀江港 みなと食堂」・「愛媛グルメ紀行」 277)・(「再訪39 堀江港 みなと食堂」・「愛媛グルメ紀行」 384


場所は、旧国道196号線を北条に向かって北上する途中にある”堀江港”前にあります。


既にご紹介しましたように、”みなと食堂”は、フェリー航路が開始された翌年の昭和41年にこの堀江港で誕生の産声をあげたのです。今から47年前のこと。もう間もなく”半世紀”を迎えようとしています。

玄関1
こちらが、レトロ感漂うお店の玄関です。


現在は、二代目ご夫婦を中心にお店を切り盛りされていますが、既に三代目さんが育っておりバトンタッチの体制準備は万全です。


その三代目さんが、キラキラ輝く目線で堀江の未来に思いを馳せる。昔からの味の伝統はしっかり引き継ぎながら、更に前を向き始めている三代目さん。

店頭2
店頭風景は、祖父ご夫婦が創業した当時のイメージを演出なさっていますが、決して過去にしがみついてばかりいる営業ではありません。


堀江港の再整備の一環として、平成25年4月1日に堀江港に「まつやま・ほりえ海の駅『うみてらす』」がオープンしました。


それらの事業を主体的に受け止め担うことで、地域の再開発の一翼を担う覚悟が出来ていお店です。

メニュー3
初回訪問時は、このお店の看板メニュー”鍋焼きうどん”をいただきました。

そして再訪した時は、看板メニューのもう一本の柱””中華そば”をいただきました。

その二つのメニューだけでお客さんを引き付け離さない魅力とパワーがある看板メニューです。

そこで今回は、色々迷った末に”地どりのカレーうどん”を注文しました。

殆どのお客さんは、”日替わり定食”を注文されているようでした。

例えばワタシがお訪ねした日は、”牛肉とゴボウの鍋焼きうどん”と、後は店内のテーブルに並べられている”お寿司”か”たきこみごはん”あるいは白ご飯の何れかを選んでセットになっています。

そのお値段設定は680円ですから、殆どお寿司などがサービスで付いている感じでお徳です。

カレーうどん4
でも既にワタシは単品しか完食できませんので、画像の”地どりのカレーうどん”、お値段600円を注文しました。


出された途端に、スパイシーな香りが一斉に鼻腔を攻撃してきます。「オッ!」と驚くほど刺激的な香りなんです。


しかも、水溶き片栗粉でトロミがつていますから、熱々のカレールーが出汁の内部にしっかり閉じ込められています。

アップ5
食べる前から、精一杯胃を刺激し続けてくれます。


ワタシは、今年の3月27日に”再訪シリーズ”99番目(通算502番目)のお店としてご紹介した”うどん味十味”(あじとみ)さんの”カレーうどん”が最高峰だと考えています。


ところが、このお店の”カレーうどん”は、味十味さんのそれとは全く別物であることに気が付きました。


味十味(あじとみ)さんは、うどん専門店。当然””も手打ちです。それに比べると、メニュー数が多い食堂での”カレーうどん”です。麺は製麺所から仕入れたもの。


そうであれば、専門店の”カレーうどん”とどう違えたのか

地とり6
先ずこの”地どり”を使いました。ブロイラーの全く味がしないフワフワした鶏肉ではありません。


しっかり噛み応えがある”地どり”を贅沢に、しかもふんだんに使いました。この”地どり”からもいいお出汁が出ています。


具材は、このたっぷりと入れられた”地どり”以外は、短冊に切ったニンジンと櫛切り(くしぎり)したタマネギと、後は薬味の刻みネギだけです。極めてシンプル。でもそれで十分です。

スープ7
そしてこのお店の”地どりカレーうどん”の味の決め手は、画像の”カレー出汁スープ”とでも言いましょうか、”出汁いりカレールー”とでも言いましょうか。


味十味さんのカレーうどんは、カレーを余り前面に出されていません。寧ろ控え目な役割りを担わせてありました。


ところが、このお店の”カレー出汁”、実にしっかりカレーを前面に据えられました。主役を担わせる為に。実に刺激的にスパイシーなのです。カレー専門店の領域に近い立場です。


しかも水溶き片栗粉が、味十味さんより強めです。つまり”トロミ”の粘度がより強いのです。


では、何故(なぜ)そのようなカレー出汁に仕上げられたのか?

麺8
その答えは画像の””にありました。この””が決定的に柔らかいのです。まるで赤ちゃんのホッペの様に柔らかいんです。


この柔らかく口の中で解けてしまうのではないかと思う麺に、味十味(あじとみ)さんの緩(ゆる)いカレー出汁を合わせたら、それはもう余りにも頼りないものになってしまうと思いました。


これはあくまで素人の想像の域を出ない次元の話ですが、先にこの””があった。そこで、この””に合う”トロミ”加減と、カレールーへの刺激の含ませ方を逆算して作り出されたのではないか。


味十味(あじとみ)さんは、麺は手打ちですから幾らでも自分で調整できます。カレー出汁に合わせた””を手打ちされました。

完食9
などなど自分で想像の世界を広げている内に、あっと言う間に”完食”していました。このサッパリ完食の爽快感は、胃が縮んだ者でないと分からないかも知れません。

でも、濃厚なカレーのスパイスが、縮んだ胃の壁を突いてくれるんです。「もっともっと、もっと大丈夫だよ!」っと。

そして、柔らかい麺を一気に全て掬い上げてくれるやや濃い目の”トロミ加減”が絶妙なんです。

トロトロになって甘味まで出るほどに煮られたタマネギ、ニンジン、そしてシッカリ目の”地鶏”の味が相まって、このお店だけの”カレーうどん”になっていました。

海の駅10
お勘定を払うときは、厨房内で忙しく立ち働いている三代目さんが、必ずレジまで出ていただきます。


延べ500店をトウに越した”愛媛グルメ紀行”で訪れたお店の中で、唯一ワタシに年賀状をいただいた三代目さんです。


冒頭で書きましたように、キラキラ輝く目で「まつやま・ほりえ海の駅『うみてらす』」のことを熱っぽく語りかけていただきました。


そして、最後には「器は出来ましたが、これからどうテナントさんが入っていただけるか、どういう対応を地元として取ればいいのか、いいご意見がありましたらぜひお願いします」と言われました。

堀江海の駅想像図11
このお店を出たときに、建物に寄ってみました。ワタシがお訪ねしたのは、オープンする4月1日の3日前のこと。


オープン前の熱気など皆無・・・という状態でした。でも、受身では何も出来ませんし何も言えません。これから、地元の若い方たちが知恵と汗を出し合って自分達の町”堀江”に活気を取り戻していただけることを信じて止みません。


ワタシができることなど何もありません。でも、必ずや、三代目さんに寄り添って、出来ることがあれば少しでもお役に立ちたい、その気持ちに偽りはありません。




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「そば 町谷(まちや)」・「愛媛グルメ紀行」 524

今日は、東温市則之内の”JAえひめ中央三内支所”敷地内にある本格的蕎麦屋の”そば 町谷(まちや)”さんをご紹介しましょう。


国道11号線沿いにあって、高速道路が上を高架で走っているところの少し手前にあります。


この場所は、何度も通る場所なので”お蕎麦屋”さんがあることは知っていました。でも、それはJAさんが運営されていると思い込んでいて、一度もお訪ねしたことがありませんでした。


ところが・・・・ところが、なんです!こんな所に”お蕎麦の名店”があろうだなんて、思いもしませんでした。

玄関1
この画像は、お店を通して国道11号線を臨んだ画像です。


国道端には、お店の登り旗がいっぱいはためいています。とても、お蕎麦の”名店”という雰囲気はありません。ありきたりのロードサイド店の雰囲気です。

十割そば告知2
ところが、玄関を入って目にした光景がこちら。


いきなり「蕎麦粉十割!」という文字が飛び込んできました。ここで先ず仰天させられました。


蕎麦粉十割で蕎麦を打つのを、別名”生粉打ち”(きこうち)といいますが、蕎麦屋の一種の理想形でしょう。


ところが、蕎麦粉は実に厄介な粉です。水に容易には混ざらないんです。蕎麦屋の職人泣かせ!なんです。


幾ら”水廻し”という過程を経ても、何時までたっても”蕎麦粉”は頑として水と馴染もうとせず、パラパラの状態が続きます。根気と性根を入れた心構えと技術をとことん要求されます。

メニュー3
さて、蕎麦粉100%を使った蕎麦メニューが並んでいます。


二番目に驚かされたのが、そのお値段です。常識的に考えれば、蕎麦粉100%のお店では到底考えられないお値段設定です。


実に大雑把な値段比較ですが、小麦粉(小麦粉は全量を国が買い入れて公定価格を設定しています)と蕎麦粉の価格では、蕎麦粉は小麦粉の倍以上に高いのです。しかも産地によれば、小麦粉の3倍しても不思議ではありません。


それが、それがなんです!蕎麦粉100%を使って打った蕎麦が、実にうどんにおける”愛媛価格”(愛媛のうどんは異様に高いです!!!)とほぼ同様の価格帯です。


蕎麦屋業界の常識をいとも簡単に覆す価格設定です。

おでん桶4
このお店は、”蕎麦屋”にも関わらす”うどん屋”や”ラーメン屋”さんと同じく”おでん”を用意されています。


蕎麦屋さんというのは、ワタシの感覚で言えば”プライドの塊”のような業界だと捉えていました。それがいとも簡単に打ち砕かれました。


しつこいようですが、”生粉打ち”(きこうち)のお店で、いとも当たり前の様に”おでん”を用意しているお店など、考えられませんし出合ったことがありません。これが三番目に驚かされたことです。

ただし、たった2日前(5月7日)にアップしたばかりの、西条市にある”西條そば 甲(きのえ)”さんにも”おでん”が用意されたいました。甲(きのえ)さんも蕎麦粉10割の蕎麦を出される名店でした。

その蕎麦の味やそば汁(そばつゆ)とのバランスは、それは見事でした。

もう、蕎麦屋の名店では”おでん”を出さないという、ワタシの”古い固定観念”は捨て去らなければならないとつくづく思いました。

おでん5
更にこのお店、おでんの”厚揚げ”には、東温市産の大豆を使う、また4月限定ではありますが”こんにゃく”は”川内産”という拘(こだわ)りです。


既にこの時点で、”尋常にあらず!”なんです。


ところが、腰を抜かさんばかりに驚かされたのは、実はコレだけではなかったのです。これからが本命だったのです。

もり大6
これが注文した”もり大”720円です。


せいろ(ざる)”と”もり”との違いは、様々に言われています。ワタシの”ざる”、”せいろ”、及び”もり”の違いについての認識は、2012年7月23日に”味彩そば 菊音(きくね)”さん(通算337店目)の記事で詳しく書いております。(「再訪6  味彩そば 菊音」・「愛媛グルメ紀行」 337


このお店は、”ざる”と”もり”の違いを、「要約すれば”つけ汁”の違いです。並が”もり”なら上は”ざる(=せいろ)です」と、書いてありました。


このお店は、蕎麦屋では今まで目にしたことがなかった”蕎麦用語”について、ご自分なり調べられたことを”一口メモ”的に書いて、メニューの傍においてあります。この点も、目新しいところでした。

もり7
さて、上の画像が”ざる”に盛られた”もり大”の全貌です。中々しっかりした量が盛ってありました。


麺の太さ細さがマチマチです。手打ちで打って、ご自分で麺を切られたことが容易に推察できる麺です。


実は四番目に驚かされたのが、このお店は女性二人でやっておられるということ。今年で4年目を迎えました。


つまり、麺を打つ職人さんが店主さんで女性なのです。今まで数多くの”蕎麦屋”さんをお訪ねしましたが、蕎麦打ち職人が女性であったシーンには遭遇したことがありません。


もちろん、全国的にも有名な老舗の”蕎麦屋”さんの蕎麦打ち職人が女性であるお店も、知識としては知っています。店主さんの娘さんが跡を継いでおられます。


でも、現実に遭遇したのは初めてです、しかも、その女性の蕎麦打ち職人兼店主さんは、年のころワタシとほぼ同年代の小柄で華奢な女性でした。蕎麦打ちは、実に過酷な重労働です。

山葵8
そして第五番目に驚いたことは、実に、実にしっかりした”蕎麦”を打っていらっしゃったことです。


お打ちになった蕎麦は”田舎蕎麦”です。蕎麦の殻ごとに挽き込んだ力強い”蕎麦”でした。


お店の説明書きにもあった様に、腰がある蕎麦です。腰があるというよりも愚直な硬さのある蕎麦でした。とても女性が打たれた蕎麦とは想像できない蕎麦でした。

麺9
こちらが、ポキポキ折れてしまうほどの蕎麦です。


このお店の説明書きには、”もり”の”つけ汁”は関東風に辛いと書いてありました。逆に”せいろ=ざる”は関西風に甘いとも。


でもワタシの味覚では、つけ汁はとっても”甘い”と感じました。関東での蕎麦経験があるワタシにとっては、これぞ関西風そのものの”甘さ”だと感じました。


でも、でもこの感覚はあくまで個人の味覚経験の歴史差であり、個人の好みの問題でしょう。千差万別の世界のお話です。


細かい点は別としまして、実に”力強い蕎麦”を堪能させていただきました。

そば湯湯桶10
こちらが”そば湯”をタップリと入れた”湯桶”(ゆとう)です。


そば湯”を”つけ汁”に注いだ瞬間に、そば湯の色で”蕎麦粉100%”の”十割蕎麦”だと言うことが一目で分かります。蕎麦粉十割で売った時に出来る”そば湯”の色とは、正に薄緑色(ウグイス色)に透き通った色なんです。


このそば湯に、わざわざ蕎麦粉を溶き入れるなどという余分なこと(ワタシは超個人的にはそれを”アザトい”行為だと思っています=小利口な、・・・・・、或は”小細工”が過ぎる。これはあくまでもワタシの私見ではありますが)は一切されていません。その潔さに、女性が本腰を入れたときの”凄み”を感じ取りました。男の比ではありません。

そば湯を注いだ11
こちらが、残ったつけ汁にそば湯をタップリと注ぎ、最後まで箸を付けなかったネギをタップリ入れた、言わば高級”お吸い物”です。


心行くまで味わったことは言うまでもありません。

藤部氏石像他12
お店を出る時、画像の風景を目にしました。早速店主さん(蕎麦打ち職人)さんに話をお伺いしました。


「ここに飾ってある石の彫塑は、確か大野ヶ原在住の石の彫刻家のー・・・・・・・・・???」っと。


「ええ、藤部さんの作品です。お友達なんです。今は三間(みま)に降りられていますが。他でお金が掛かったからお金が払えない。変わりにこれを取って欲しいと、三間(みま)から持って来られて置いて帰られたのです」と店主さん。


「女性には蕎麦を打つのは重労働でしょう」と話しかけまた。


すると、笑顔で「ええ、確かにそれは・・・・だから早く終わっちゃうんです!」と。このお店は、店主さんが心身込めて打たれた蕎麦が出てしまえば、その時点で閉店です。火曜日がお休みです。


こうやって、様々なお店を廻っていますと、時折”とてつもない”お店に出会うものです。このシリーズを終えることが出来ない所以(ゆえん=りゆう)です。




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「再訪 108 和ビストロきむら」・「愛媛グルメ紀行」 525

今日は”再訪シリーズ”108番目のお店、県道伊予川内線沿いの砥部町高尾田にある”和ビストロきむら”さんをご紹介しましょう。


このお店は、今年に入って1月11日に”愛媛グルメ紀行”シリーズ452番目のお店としてご紹介しております。(「和ビストロ きむら」・「愛媛グルメ紀行」 452


更に”再訪シリーズ”101番目のお店(通番504番目)として4月2日にご紹介したばかりです。都合3度目のご紹介となります。(「再訪 101 和ビストロきむら」・「愛媛グルメ紀行」 504


4月に”再訪シリーズ”として採り上げたのは、店主さんの奥様から「2月にお店をリニューアルしたので、一度見に来ていただきたい」とのお誘いを受けたことでした。

玄関1
こちらがお店の玄関。当日は雨でした。


実はその前にも3度目の訪問をし、その時は記事にはせず普通に食事をいただきました。なお、3度目の訪問の時に偶然にも、再訪のきっかけとなった店主さんの奥様にもお会いしました。


その奥様がブログを書いておられることを、今回店主さんにお聞きしましたので早速ブログを覗かせていただきました。ブログ名は”和ビストロ きむら  ゆるゆるぶろぐ。”でURLはhttp://ameblo.jp/udonya-kimura/です。

店内2
早速ブログを拝見し、コメントしようとしましたが「アメーバ会員IDを持っている方のみコメントできます」とありましたので、コメントを断念しました。


何故コメントしようと思ったのかと言いますと、奥様がワタシが訪問した日の4月24日にアップされていたメニューをその日にいただいたからです。


奥様のブログは、実に個性的な、そして感性的な”不思議ワールド”的なブログでした。決して誰にも真似できない、奥様の感性をそのまま表現されたもので、しばらく声が出ませんでした。


その独特の空気感、世界観、研ぎ澄まされた超個性的な世界に拍手を贈りたくてコメントしたかったという面もありました。ワタシには決して真似できません。


何と表現したらいいのでしょう?まるでメルヘンの世界が、不思議に現実の世界とクロスオーバーしているのです。宇宙人の世界ではこういう会話をしているのかも知れません。

メニュー3
さてこちらが当日の、”パスタランチ”メニューです。お値段は950円(内税)です。


メニューの上に張られている”付箋”、これは恐らくワタシが奥様のお誘いで2回目に訪問した時に「どういうメニューなのかを、もっと具体的にプレゼンスしたほうが、お客様にシェフの意図が伝わるのではないか」とアドバイスしたことを受けられての工夫なのでしょう。


それを忠実に表現されようとしたことは伝わりました。でも、この”付箋”方式はやはり”野暮ったい”のではないでしょうか。お洒落にお客様に、シェフの意図を伝えたいという趣旨からすれば、もう一工夫が必要ではないかと思いました。


せっかく奥様が、パソコンでの表現方法をご存知なのですから、ここは奥様の表現力を毎日のメニュー表に生かせないものでしょうか。

前菜4
さて、こちらが4月24日の”前菜”です。白い器で統一感を持たせられました。


毎回感動させられるのは、店主さんのそのメニューに対するアイデアの豊富さと的確さです。


以下に、個々の画像を通してご説明したいと思います。ただし、調理の素人ですから、シェフの意図を正確・的確にお伝えできるかどうかは保証の限りではありません。

コンソメスープ5
先ずは”スープ”です。


店主さんの”付箋メモ”では、”あわお鶏のコンソメスープ”とあります。スープの色は、あくまでも透き通ったやや薄い琥珀色です。


これは徳島の代表的地鶏”阿波尾鶏”(今では三大地鶏を追い抜いて日本のトップブランドに躍り出ました)から出汁を取ったもの。脂肪分が少ないからこそ、そして丁寧に丁重にアクを取られたからこそ、こういう薄い琥珀色に輝いた透明なスープが出来上がるのです。


スープの味付けも、あくまでも鶏の出汁を生かせるように、塩と胡椒でシンプルに徹せられ、実にいい風味が出ているのです。「ウフフフ・・・・・」、笑みが自然にこぼれます。派手さや奇をてらったところは一切ないホンモノです。

パプリカマリネ6
こちらは”パプリカマリネ”と”付箋”で説明されているもの。


パプリカ”とは”唐辛子”の仲間ですが、”唐辛子”の辛さの素の”カプサイシン”を全く含まない栽培品種です。このパプリカなら辛さ苦手のブログ友:”乱 駆郎”さんでも全く大丈夫!です。


なにしろ甘いんですから!この”パプリカマリネ”というメニューは、パプリカの肉厚でジューシーで甘いという特性をトコトン引き出されたお料理です。つまり、パプリカの持つ甘さを”マリネ”という酸味でバランスさせて仕上げられた。


このアイデア、実に光ります。

生ハムブンタン7
こちらは”生ハムとブンタンのカルパッチョ”と”付箋”で示されたメニュー。


生ハム”はご承知のようにやや塩分が効いたもの。それを柑橘王国の中でも既にマイナーとなった”ブンタン”を併せて使われた。


ここでは、平凡に考えると最近流行の”酸味を抜いた”甘い柑橘を使い勝ちかも知れません。もっとも、プロの調理人さんなら、その辺りは先刻ご承知でしょう。


ここで”生ハム”に、例えば甘い柑橘の代表選手”せとか”などを合わせると、それはもうデザートの世界になっちゃう。


ここはお料理の世界。シェフさんは意識して苦味と酸味をもった”文旦”を生ハムに合わせられた。敢えて文旦を使われた理由をお聞きすると、「味のバランスを考えたら文旦が最適だと!」っというお答え。

サラダクレソン他8
こちらは季節のサラダ。今は盛りの”クレソン”の苦味を使って、サラダを”大人のサラダ”に演出された。


ただ単に旬の野菜を使うというのではなく、他の生野菜とのバランスを考えて、アクセントに旬のクレソンを使われた。


プロと言う凄みを、さり気無く感じさせる一品でした。

パスタ9
さてさて、メインの”パスタ料理”です。このパスタ、初めてお目にかかりました。


皆さん、”ホウボウ”という魚をご存知でしょうか?”カサゴ”(愛媛では”ホゴ”と呼ばれる)の一種で、頭部が異様に大きい魚です。見ようによっては極めて愛嬌のある顔つきをしています。


この”ホウボウ”の”魚卵”と””を使われました。


パスタ料理で、”魚卵”(魚の卵)を使ったメニューはそこそこ目にします。一番代表的なのが”タラコ”や”メンタイコ”等の鱈(タラ)の魚卵を使ったメニューでしょう。和風スパの代表選手です。

パスタ10
その他にも、”トビウオ”の”魚卵”である”トビッコ”を使ったスパ。ワタシのお気に入りのスパ専門店”フォンターナ”さんの代表的メニューでもあります。

その他に”イクラ”を使ったパスタなど数多くあります。ですが”ホウボウ”の魚卵を使ったものなど、見たことも聞いたこともありませんでした。

普通、ホウボウは漁師さんの底引き網漁で網に掛かりますが、魚卵は切り捨てられることも多く、市場に出回りにくい魚です。

「イヤーー、多分ご承知でしょうけど”魚卵”を料理素材にする時、一番手間隙が掛かるのは”魚卵”を守っている膜を完全に取り除いてやることです。イクラなどは魚卵自体が大きいので、その点は楽です。ところが、この”ホウボウ”の魚卵は小さくて・・・・」っと店主兼シェフさん。

「でも、私はこの魚卵が好きで、これで”テリーヌ”を作ると美味しいんですよ!」っと顔が弾けます。

そして「実はこのメニューは”まかない”(シェフ自身や家族や従業員の為に作るメニュー)で作ったんですよ。そしたら””はこれは美味しい!でも”ホウボウ”ってどういうお顔をしているのか分からない!」って言ったんですよ。

「そしたらねー、祖父ちゃんが孫の為にと”魚類図鑑”を買ってきてくれたんです。するとね!””が”ホウボウ”の顔を見て、可愛い顔をしてる!って喜んでくれたんです。そこでレギュラーメニューに昇格させたんです」っと。

ホウボウとイタリアンパセリ11
もう涙が出そうになりました。最近ワタシ、涙腺が緩んで・・・・・・・

ホウボウ”は、刺身、煮付け、唐揚げ、塩焼き、鍋料理、干物など多種多様に料理される魚で極めて美味な魚です。また身以外にも、アラからは良い出汁が取れます。

事実「このパスタは”ホウボウ”(の骨)から出汁を採りました」とはシェフさん。

ワタシは魚の生を、単に醤油を漬けるだけでいただく”刺身”は苦手ですが、こうやって”ポアレ”されてるものは好きなんです。ただ単に焼くだけなら”ソテー”ですね。

ところが”ポアレ”は、ライパンに多めの油をひき、焼く調理法で、”ホウボウ”の表面の皮目はパリパリに揚がっています。その香ばしいことと言ったらありません。

ホウボウの卵”のネットリ感と、ホウボウの香ばしい焼き上がり(多めの油で)との組み合わせの妙は、食べていただくしか、そりゃあもうありませんよ。

ワタシの貧弱な描写力ではとても、その美味しさはお伝えし切れません。

まかない”から生まれたこの名品、「奥様、ブログアップされた同じ日に確かにいただきましたよ!」っと。

ご馳走様でした。このお店、まだまだ目が離せません。

なお明日からの8日間は「南予史探訪」と題して、内子町大洲市宇和町鬼北町日吉宇和島市そして吉田町の中世期の歴史をシリーズでアップします。長くなりますが、自分の出身地の歴史に触れておきたくて。

連休中に現地取材を2日間入れて、記事をまとめました。退屈な8日間になるかも知れませんが、ゴメンササイ。




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「南予史探訪」・「内子・大洲・宇和・吉田」を書くに当って

今日は、明日5月12日(日曜日)から5月18日(土曜日)にかけての7日間、「南予史探訪」・「内子・大洲・宇和・吉田」と題した、”南予中世期外史”シリーズについて、その予告を兼ねましてご紹介します。

なお”外史”(がいし)というのは、歴史家ではなく個人が書いた歴史のことです。つまり、私は歴史学者でもありませんし、郷土史を古文書などで読み解いて研究している”郷土史家”でもありません。

単に歴史が好きなというだけという”素人”のワタシ、が趣味で書いた”南予中世期”の歴史です。

今までに、”愛媛の歴史”に関しては何度か”ミニシリーズ”で書いてきました。


例えば2012年4月28日からの3日間、「吉田町の風景と歴史」と言う題名で吉田町史(”吉田藩史”に残る)”武左衛門一揆”のことを中心に書きました。(「吉田町の風景と歴史」 1

今回も17日と18日の最後の2日間、再度踏み込んで書きます。”愛媛の歴史”というテーマの、ワタシとしての”集大成”の気持ちで書きたいと考えています。

法華津湾1
(上の画像は、吉田町の法華津湾)

また2012年5月3日から4日間のシリーズで「しまなみ海道と村上水軍の歴史」という題名で、伊予国中世期”瀬戸内海”で”覇権を唱えた”村上水軍”のことを中心に書きました。(しまなみ海道と村上水軍の歴史

来島海峡と船1
(上の画像は、来島海峡の朝)

更に2012年9月15日からの3日間、「伊予の豪族河野氏の歴史と善応寺」という題名で、伊予国において中世期”守護大名”として名を馳せた”河野氏”の歴史を書きました。(伊予の豪族河野氏の歴史と善応寺

石碑2
(上の画像は、北条河野にある善応寺の”河野氏発祥の地”を示す石碑)

それ以外にも2012年11月23日から5回に分けて「村上水軍と河野氏・「家紋」を巡って」と言う題名で、”家紋”というキーワードで伊予国中世期に活躍した”村上水軍”と、伊予国守護大名であった”河野氏”との関係と歴史を書きました。(村上水軍と河野氏・「家紋」を巡って

なおその際にお隣の”土佐国”で、日本国の戦国時代を代表する戦国大名に上りつめた”長宗我部元親”(ちょうそがべ もとちか)と伊予国の関係につきましても触れました。

大山祗神社折敷に縮三文字5
(上の画像は、大山祗神社の”神紋”であり、河野氏の”家紋”である”折敷に縮三文字”(おしきにちじみさんもじ)です。なお恐縮ながら我が家の家紋も”折敷に縮三文字”であることが、このシリーズを書いて分かりました)

そして、今回”南予の中世期”の歴史を明日から書いていきますが、その前触れ的な記事を2012年12月22日に『「伊予国中世期・余話」 宇和海の日暮れを背景に』と題して1回だけ書きました。(「伊予国中世期・余話」 宇和海の日暮れを背景に

雲間光5
(上の画像は、三瓶湾での雲間から漏れる太陽の光)

さて、それで明日からの7日間は連続して「南予史探訪」・「内子・大洲・宇和・吉田」と題したシリーズを書いてまいります。その間、他のシリーズはお休みします。

主なテーマは、伊予国中世期に”大洲藩”で起こった”内ノ子一揆”と、その43年後に”吉田藩”で起こった”武左衛門一揆”をそれぞれに採り上げ、またその関連性をご紹介したいと思います。

また今は”大洲城”と言っていて、その前は”比志城”更に”地蔵ヶ嶽城”と呼ばれていた”大洲地蔵ヶ嶽城”を巡る戦国時代の凄まじい攻防の歴史をご紹介します。

更には、江戸時代”大洲藩”の城主として大洲地域を治めた”加藤家”の歴史や、中世期宇和郡を治めていた”西園寺氏”の歴史にも触れたいと思っております。

今まで書いてきた”歴史シーリーズ”でも最長のシリーズになりますが、ワタシの出身地である”南予の歴史”をどうしてもまとめておきたいと思い、筆を取りました。

当然”南予の歴史”に触れますと、今まで上にあげました様々なテーマで”東予と中予の歴史”を書いてきておりますので、それぞれに重なり合ったりクロスする部分も出てきます。

それは”歴史”というものを、時の経過に従って”縦軸”として眺める見方に加えて、横への相互の関連を”横軸”で立体的に見るという、ワタシの”歴史観”をご紹介したいと考えたからです。

それと”愛媛”の地から歴史を眺めると、中学・高校時代に習った中央の歴史がどう見えるか?これが、ワタシが歴史を見る上での視点です。

興味がない方にとっては退屈なだけの、今日を含めて8日間になります。一本一本の記事自体が、ワタシが書いている通常のブログの3倍くらいの量です。しかも、それが延々と続きます。

以下にその日程と内容を記しておきます。

① 5月12日(日曜日) 「南予史探訪」・「内ノ子一揆・(小田・内子・大洲蔵川)」
② 5月13日(月曜日) 「南予史探訪」・「大洲地蔵ヶ嶽城を巡って」 1
③ 5月14日(火曜日) 「南予史探訪」・「大洲地蔵ヶ嶽城を巡って」 2
④ 5月15日(水曜日) 「南予史探訪」・「大洲城 加藤氏の治世」
⑤ 5月16日(木曜日) 「南予史探訪」・「宇和郡 西園寺氏の始まりと終わり」
⑥ 5月17日(金曜日) 「南予史探訪」・「吉田 武左衛門一揆」 1
⑦ 5月18日(土曜日) 「南予史探訪」・「吉田 武左衛門一揆」 2

申し訳なく思います。ただ、これだけはどうしても書いておきたかったものですから。これで、ワタシが自分のブログで書いておきたいと思う”歴史”に関するテーマは、今書き進めている「松山の地名・町名の由来」だけになります。

このシリーズは週に1回のペースで年内続きます。それを書き終えたら、ワタシの歴史シリーズはほぼ終わりです。



「南予史探訪」・「内ノ子一揆・(小田・内子・大洲蔵川)」

今日は、寛延3年1月16日(1750年)に”大洲藩”で起こった”内ノ子一揆”をご紹介します。

またこの”内ノ子一揆”は、それから43年後の寛政5年(1793年)に”吉田藩”で起こった”武左衛門一揆”に影響を与えたとされています。

吉田藩”で起こった”武左衛門一揆”のことは、既に2012年4月29日に「吉田町の風景と歴史 2」で一度ご紹介しています。(「吉田町の風景と歴史」

また今回のシリーズでも、”吉田藩武左衛門一揆”のことは5月17日と18日に詳しく触れます。今回は、”内ノ子一揆”と”武左衛門一揆”は、実はつながっていた(共通項が多い)ということを示唆するに留めます。

先ず今日は、現在の”喜多郡内子町”で起こった”内ノ子一揆”の発端や経過、そしてそれの結果についてご紹介しましょう。

その前に、”喜多郡”の成り立ちについてご説明しておきます。

645年に起こった”大化の改新”で、中世期の”日本の骨格”が定まりました。”大化の改新”によって全国を国と郡と里に区分し、国毎に”国府”、郡には”郡衙”(ぐんが)が置かれ地方政治をする体制が整ってきました。

その当時の”伊予国”は、”宇摩”(うま)・”神野”(かみの=後の”新居”<にい>)・周敷(すふ)・桑村(くわむら)・”越智”(おち)・”野間”(のま)・”風早”(かざはや)・”和気”(わけ)・”温泉”(ゆ)・”久米”(くめ)・”浮穴”(うけな)・”伊予”(いよ)・”宇和”(うわ)の、十三郡に分けられました。

大洲や内子は”宇和郡”の一部でしたが、人口増加を理由に貞観8年(866年)(この2年前、貞観6年に富士山の大噴火があった。この噴火は”貞観の大噴火”と呼ばれ、富士山噴火の文献記録に残る最大規模とも言われています)に、宇和郡から独立して”喜多郡”が出来ました。分かれた当初は、宇和の北にあるので”北郡”と言われていましたが、漢字の文字から受ける印象の良さで”喜多郡”に変わったのです。

さて、寛延3年1月16日(1750年)に”大洲藩で起こった”内ノ子一揆”です。

小田1
内ノ子一揆”は、喜多郡の”小田郷薄木村”(おだごう うすきむら)(現在の小田町臼杵地区)の農民が起こした一揆が発端となりました。

上の画像は、現在の”小田町臼杵地区”の山村の様子です。今は廃校になった”臼杵小学校”校庭から撮影しました。

この”小田郷薄木村”の農民が、年貢の重さと村役人の横暴に立ち上がったのです。

内子遠望3
この騒動は一揆に発展し、たちまち喜多・浮穴の農民一万八千人が内子・山中地区の庄屋・豊農・豊商を打ち壊して、一揆が起こった4日後の20日には、画像に見える”内ノ子河原”に集まったのです。”内ノ子”とは、現在の”内子”です。

毎年5月5日の”子供の日”に、”大凧合戦”が行われる河原のことです。

この時に農民たちは、村々の庄屋・組頭・特権商人宅などと”大綱”などを用いて次々と引き倒しながら大洲城下を目指しました。

なお、この一揆において使われた”大綱”と、”特権商人”宅を大綱で引き倒すという一揆の方法が、この43年後に起こった”吉田藩”における”武左衛門一揆”にも見ることができます。

この点を含めて、この”内ノ子一揆”は43年後の”武左衛門一揆”に大きな影響を与える事になります。

内子町並み5
上の画像は、現在の”内子の町並み”です。

農民たちは、年貢の4割免除、農民による公役の減免、年貢徴収時の計りの不正使用の廃止、悪質な村役人の排除など二十九ヶ条を要求して、大洲城下を目指して蜂起したのです。

大洲藩では、支藩”新谷藩”の調停を受け入れ、一揆が起こって8日目の24日には農民の要求をほとんど認めるという回答を、新谷藩を通じて農民に伝えます。

本芳我邸8
この画像は、内子町で木蝋生産で財をなした豪商の家”本芳我邸”の今の様子です。この画像の建物は、明治22年(1889年)に建てられ、国指定重要文化財です。

さて上に書いた”内ノ子一揆”は、発生から11日目の27日には一揆の指導者への処罰を不問にさせるという交渉をし、それを大洲藩に受け入れさせました。

このことからも”内ノ子一揆”が、一種の世直し一揆の性格をもった愛媛県最大規模の一揆となったと言えると思います。

ただし、一揆指導者の処分を不問にするという約束は一ヵ月後に破られ、一揆後、小田筋の村々で14~15人が召し捕られ、拷問の末に入牢や追放、閉居の刑に処せられたという記録が残っています。

大洲蔵川村
また、大洲藩では明和7年(1770年)に”蔵川一揆”(くらかわいっき)が起こっています。

上の画像は、現在の大洲市”蔵川”の様子です。

蔵川一揆”は蔵川の農民160人が、租税の軽減を願い出て認められなかったので、全員で”宇和島領”に”逃散”(ちょうさん)したというもの。

逃散”とは、他国領に逃げることで、言わば”一村夜逃げ”です。

大洲蔵川田植え
今は何事もなかったかのように、地域の農民が一人で田植えをされていました。

蔵川一揆”の結末は、説得されて全員で帰農したことになっていますが、それを示す資料は残されていません。

ただ”蔵川村”にある”正願寺”の過去帳や石仏などから、蔵川村の庄屋と組頭が投獄され、首謀者(頭取)の2人が斬首されたとあります。

上に書いた2つの一揆の中で”大綱”を使ったり、厳しい一揆の責任追及を逃れて、地続きの”宇和島藩”の領内などに逃げ込んだ農民が、後の”吉田藩”の”武左衛門一揆”にどう関係したのか?それらは、このシリーズの最後にご紹介することにしましょう。




「南予史探訪」・「大洲地蔵ヶ嶽城を巡って」 1

今日と明日は現在の”大洲城”、それ以前には”亀城”や”比志城”、そして長く”地蔵ヶ嶽城”と呼ばれていた”大洲地蔵ヶ嶽城”を巡る戦国時代の激しい攻防の歴史をご紹介しましょう。


今日はその”前編”です。今日と明日は、まだ”大洲城”と呼ばれるようになる前の時代の話なので”地蔵ヶ嶽城”(じぞうがたけじょう)という名前で通します。

なお”比志城”(ひしじょう)と呼ばれた由来は、宇都宮氏が城を築く時”おひじ”という娘を人柱に選んだことからその名前が残ったという言い伝えもあります。

また”比志”や””は川が大きく曲がっていることを意味する他、”ヒジ”がその由来と言われ、更には”ヒジ”はぬかるみや湿地帯を意味する言葉、上流から肥沃な土地が流されてきて泥地になり、その名がついたとも言われています。

なお”地蔵ヶ嶽城”の由来は、肱川の淵の上に石地蔵が安置されていたという伝承に因(ちな)みます。

肱川から大洲城1
さて中世期の大洲を長く支配した”宇都宮氏”は、元々は”下野”(しもつけ=今の栃木県宇都宮市周辺)の出身で、全国各地に散らばっている”大族”(分家が多い)で、伊予に来たのは九州”筑後”からの分家です。

ただし意味なく伊予に流れて来たと言うのではなく、正治2年(1200年)に源義経(みなもと よしつね)と対立した源氏の武将・梶原景時(かじわら かげとき)を倒した恩賞として、宇都宮氏は喜多郡の”地頭職”(じとうしょく)になり、更には”承久の乱”(じょうきゅうのらん=後鳥羽上皇と鎌倉幕府の戦い)(1221年)の後に、伊予国の”守護職”が与えられました。

そして元徳2年(1330年)、九州の宇都宮頼房(うつのみや よりふさ)の二男”宇都宮豊房”(うつのみや とよふさ)が伊予国喜多郡の分郡守護(ぶんぐんしゅご=郡の一部を支配する守護職)に任命され、伊予国喜多郡に入り治めることになりました。

肱川から大洲城2
つまり”宇都宮豊房”が”伊予宇都宮氏”の初代となります。

この”豊房”が、元弘元年(1331年)に”大津”(おおつ=後に大洲と変わりますが、それまではこう呼ばれていた)に入って”地蔵ヶ嶽城”を築きました。(なお現在の”大洲城”は、明日名前が出てくる”藤堂高虎”によって築かれたもの)

肱川と大洲城3
この”伊予宇都宮氏”は戦国時代の真っ只中に”大津”において”地蔵ヶ嶽城”を守ろうと奮戦しますが、北は中予の”河野氏”に、南は”宇和郡”の”西園寺氏”に挟まれ、八代に渡って続いた間、一貫して様々な戦いに明け暮れました。

宇都宮氏”を脅かした、中予を支配していた”河野氏”は、後に伊予国国主となる”小早川隆景”(こばやかわ たたかげ)を通じて”周防”(すおう=今の山口県)の”毛利氏”と同盟関係を結んでいました。

また”宇和郡”の”西園寺氏”は高知中村の”一条氏”、そして一条氏の背後を操る土佐の”長宗我部元親”の支配下に置かれていました。

なお”西園寺氏”も当初は”長宗我部元親”と争いますが、”西園寺公広”(さいおんじ きんひろ)の代で長宗我部氏に降伏しその配下に加わる事になりました。

三の丸石垣4
八代”宇都宮豊綱”(うつのみや とよつな)は、土佐中村の”一条兼定”(いちじょう かねさだ)に自分の娘を嫁がせ、一条家の攻撃から逃れようとまでしましたが、”一条兼定”は宇都宮氏の姫に二男一女をもうけさせた後で、他の女に目が移り情け容赦なく離縁し大津の宇都宮氏の元に送り返しています。

戦国時代の武将の娘は、”政略の道具でしかなかった”という時代を表わすエピソードだと思いましたので、敢えてご紹介しました。

弘治元年(1555年)宇都宮氏は、西園寺氏の枝城である”飛鳥城”を攻め、”西園寺実光”(さいおんじ さねみつ)の息子・公高(きみたか)を討ち取りましたが、これを聞いた”西園寺実光”は当然怒り心頭、早速報復に”地蔵ヶ嶽城”に迫り、宇都宮氏はあわや落城というところまで追い詰められます。

この時は、”河野通宣”(こうの みちのぶ)の仲介で辛うじて和睦が成立し生きながらえます。

大洲城遠望5
永禄元年(1558年)には、”宇都宮豊綱”は河野氏のその当時の当主であった”河野通直”(こうの みちなお)と戦火を交えました。

この時の戦いでは、”河野通直”は”毛利輝元”の姪を妻にしていた関係で、中国地方の雄に成長していた”毛利家”に援軍を求めます。

一方”宇都宮豊綱”は、自分の娘を嫁に出していた土佐中村の”一条兼定”(いちじょう かねさだ)に援軍を依頼、毛利家のと一条家の代理戦争と化しました。

大洲城石垣6
この戦いは一条家の敗戦と、宇都宮氏の”河野家”従属という結果になり、愛媛の戦国地図が塗り替えられる結果となりました。

永禄10年(1567年)、遂に土佐の”長宗我部元親”が四国征服の最後の仕上げとばかりに立ち上がり、伊予に攻め込んできます。大津(今の大洲)にも長宗我部の大軍が襲い掛かりました。

宇都宮豊綱”は、先の戦いで従属さえられた”河野氏”に援軍を要請し、宇都宮軍に河野軍が加わりますが、強壮をもって知られる土佐”長宗我部軍”の前ではひとたまりもありませんでした。

”宇都宮豊綱”は長宗我部に降伏します。

”宇都宮豊綱”が滅び、”伊予宇都宮氏”が歴史の舞台から姿を消す一年前の出来事です。

大洲城石垣7
さて、”伊予宇都宮氏”が歴史の舞台から姿を消す年がやってきました。永禄11年(1568年)のことです。

”宇都宮氏”の長宗我部氏への降伏を聞いた”河野氏”は危機感を募らせます。このまま座していただけでは、”河野氏”の滅亡と自分の死を迎えることは必定という状況となったのです。

そこで河野氏は縁戚関係にあった”毛利氏”に援軍を求め、”小早川隆景”と”吉川元春”(きっかわ もとはる)の強力な援軍を得ます。

なお”吉川元春”(きっかわ もとはる)とは、毛利元就の次男で”小早川隆景”とは異母兄弟の兄です。この二人を”、毛利両川”(もうりりょうせん)と言って、戦国時代”毛利家”を西国の雄にまで押し上げた原動力になった二人の内の一人です。

大洲城石垣8
兵を増した河野軍は、地蔵ヶ嶽城周辺の山城を次から次へと落としていき、遂に毛利氏・河野氏連合軍は”鳥坂峠”(とさかとうげ=今の大洲市と西予市宇和町の境で、国道56号線が通っています)で長宗我部・一条軍と対峙します。

この戦いは、毛利・河野連合軍の勝利となりますが、その間に”地蔵ヶ嶽城”に家老の”大野直之”(おおの なおゆき)と共に篭城(ろうじょう=城にこもっていた)していた”宇都宮豊綱”は、結局土佐長宗我部軍に降伏してしまいます。

その降伏を怒った”小早川隆景”によって”宇都宮豊綱”は備後国(今の広島県福山辺り)に流されます。

ここに、”伊予宇都宮家”は実質的には終焉を迎えました。

暗い大洲城9
ただし、戦国時代は奥が深い。

備後に流された”宇都宮豊綱”は、許されて天正元年(1573年)に”地蔵ヶ嶽城”に戻ってきます。

ところがその時既に”地蔵ヶ嶽城”の主は、自分の家老であった”大野直之”(おおの なおゆき)に乗っ取られた後だったんです。いわゆる”下克上”の時代性を髣髴(ほうふつ=アリアリと想像できること)とさせる出来事です。

大洲城10
実権を失った豊綱は、元家老でしかも自分の娘を嫁がせた”大野直之”に城を奪われ追い出されました。

豊綱は、天正13年(1585年)三原市で、失意の中病没し”伊予宇都宮氏”は名実共に滅びます。

なお南予地域、特に大洲市・八幡浜市・西予市宇和町に”宇都宮”姓が多いのは、上に書いた”伊予宇都宮氏”の”地蔵ヶ嶽城”支配の影響です。ご自分の”宇都宮姓”が、実は今の栃木県宇都宮市に出自を持っていたことをご存知の方は多くいらっしゃったでしょうか。「宇都宮さん!

明日は、”地蔵ヶ嶽城”を下克上で乗っ取った”大野直之”の運命と、それ以降、江戸時代に入って明治まで続く城主”加藤氏”が大津(今の大洲)に入るまでの歴史をご紹介します。

細々とした、ことを書き連ねましたが、どうか嫌にならずに、伊予国戦国時代の動乱の行く末を見るべく、もう少し辛抱してお付き合い下さい。





「南予史探訪」・「大洲地蔵ヶ嶽城を巡って」 2

今日は、”大洲地蔵ヶ嶽城”を巡る、権謀術策(けんぼうじゅっさく=人をあざむき陥れたり、逆にあざむかれて失墜すること)が駆け巡り激しい争奪戦が行われた戦国時代末期の様子をご紹介する、その”後編”です。

昨日は、九州から移ってきた”伊予宇都宮氏”の八代に渡っての”地蔵ヶ嶽城”を巡る様々な戦いをご紹介しました。

そして、戦国時代”の世相を表わす”下克上”(げこくじょう=家臣だった者が主君を倒して、自分が新しい主君にとって代わること)によって、”大野直之”(おおの なおゆき)が自分の主君であり、自分の妻の父(舅=しゅうと)であった”宇都宮豊綱”を無情にも”地蔵ヶ嶽城”から追放し、自分が”地蔵ヶ嶽城”の城主になった、というところまで書きました。

肱川と大洲城1
さて”宇都宮豊綱”を追い出し、自らが”地蔵ヶ嶽城”の城主になった”大野直之”(おおの なおゆき)は、その前は”菅田城”(すげたじょう)の城主でしたから”菅田直之”とも呼ばれ、宇都宮氏の家老職を務めていました。

しかも”直之”の兄は、敵対していた”河野家”の筆頭家老・”大野直昌”(おおの なおしげ)という複雑な関係を持っていました。

なお”河野家”の筆頭家老・”大野直昌”(おおの なおしげ)は、ワタシが今年2013年1月1日にアップした”「新年 大野ヶ原から」 1”で書きました。

大野ヶ原”と言う地名の由来になった武将です。(「新年 大野ヶ原から」 1

この「南予史探訪」というシリーズは、過去にワタシが”愛媛の歴史”にカテゴリー”してきた記事の数々の、いわば集大成。様々な部分で、過去にアップしてきた記事とクロスオーバーします。

それがこの本編7回、予告編1回、都合8回シリーズを書いた動機の一つでもあります。

さて”河野家”の筆頭家老・”大野直昌”(おおの なおしげ)の弟”大野直之”(おおの なおゆき)こそが、戦国時代を象徴するような生き方を我々に見せてくれます。

肱川から大洲城2
大野直之”は、それまでは敵対していて何度も戦火を交えた”長宗我部元親”と密かに通じました。

そして、それを背景に”大津”(後の大洲)近郊の城(宇都宮氏の家臣団の幹部達の城)を落城させ自分の支配下に組み込んでいきます。

それを知った”河野通直”(こうの みちなお=伊予国の戦国大名河野氏最後の当主)は、五千の軍勢で”地蔵ヶ嶽城”を取り囲み落城させます。

肱川から大洲城3
”大野直之”はその時、煙に紛れて城を逃げ出し”鴇が森城”(ときがもりじょう)に逃げ込みます。

河野通直”は、”大野直之”の息の根を完全に止めてしまおうと、”毛利氏”に一万の兵を借り”鴇が森城”(ときがもりじょう)を包囲して攻めました。

敗色濃厚になった大野軍からは投降するものが続出。しかし”大野直之”はここで潔く腹を切って果てるような男ではありません。

直之”は白旗を掲げて河野軍に下り、”河野通直”に、”河野氏”の筆頭家老である自分の兄の名前を出して”兄”直昌”(なおしげ)と力を合わせて、河野氏の力になりたいと懇願します。

石垣と大洲城4
河野通直”はそれを聞き、”直昌”(なおしげ)に免じて”直之”を許し、”直昌”の家来として働けと命じます。

伊予国中世期の守護大名として中予地区で名を馳せた”河野氏”の最後の当主となった”河野通直”は、人徳厚く多くの美談を持つことでも知られていますが、”戦国時代”を自分の智謀だけで駆け抜けた”大野直之”の前では、所詮(しょせん=結局は)は”お殿様”に過ぎなかったのかも知れません。

命拾いした”直之”(なおゆき)は、兄の”直昌”(なおしげ)が”河野家”の中でどういう立場になるかなど全くお構いなしに、翌年”直昌”のところから逃げ出し、土佐の”長宗我部元親”の元に走りました。そして長宗我部の力をバックに”菅田城”に舞い戻り、”地蔵ヶ嶽城”の奪還を様々に画策します。

その権謀術策は成功したり失敗したり、波乱万丈の生き方を辿る事になります。

石垣と大洲城5
そして、自分が劣勢に置かれておると見るや、兄”直昌”と和睦を図るといって、伊予と土佐の国境”笹ヶ峠”に誘い出し騙まし討ちを図ろうとします。直之にとっては親も兄もありません。しかしこれには失敗します。

天正4年(1576年)、直之は高森城城主・梶谷景則(かじや かげのり)に年始の挨拶をしたいと言って、高森城に入り込みこれをアッサリ奪い取ります。

そして高森城を根拠地に変え、翌年遂に”地蔵ヶ嶽城”の奪還に成功し、”長宗我部元親”に献上します。

天正7年(1579年)には、小早川隆景を中心とする毛利軍が地蔵ヶ嶽城を攻め、直之は長宗我部の元に逃げ帰りました。

そして、その翌年再び長宗我部元親は直之を先頭に立てて五万の大軍で地蔵ヶ嶽城を奪還します。

石垣と大洲城6
そして長宗我部元親の命によって、”大野直之”は正式な”地蔵ヶ嶽城城主”になったのです。どんなに劣勢に追い込まれても決して諦めない”直之”、人生絶頂を迎えました。

しかし絶頂期に立った瞬間から、既に転落の道が待ち構えていたとは、さすがの”直之”も気がつかなかったに違いありません。

”地蔵ヶ嶽城”の天守閣から”大津”の町や村を睥睨(へいげい=勝ち誇って周囲を睨みまわすこと)したのは、そう長い時ではありませんでした。

”河野通直”は、今度こそ”直之”の首を取ると、直之討伐の厳命を河野軍に下します。

それを聞いた”直之”は震え上がり、戦っても勝ち目がないことを悟り・・・・切腹を・・・イヤイヤそんなヤワな男ではありません。再び”河野通直”の前に身を投げ出し、命乞いをします。

石垣と大洲城7
河野通直”は刀の束にまで手が及びましたが、そこで考えました。直之の背後にいる不気味で間違いなく自分を上回る勢力と戦力を持っている”長宗我部元親”の存在を。

そこで再び”直之”を許し命を奪うことは断念しました。”直之”は三度(みたび)”地蔵ヶ嶽城”の城主に返り咲きました。そして、光り輝いたよう見えました。

しかし、それは滅びる前に一瞬燃え上がる炎のようなはかない光だったのです。

いよいよ、四国の既存勢力を根こそぎ奪い燃やし尽くす”業火”(ごうか=激しい炎や大火)がそこまで迫っていたことに気がつきませんでした。

その”業火”とは、豊臣秀吉の”四国攻め”です。そうです、始まったのです。

石垣と大洲城8
豊臣秀吉”は、主君の”織田信長”が”明智光秀”に倒されるや否や、電光石火の速さで”織田信長”亡き後の主導権を一気に握ったのです。

そして、その勢いを更に加速させるかのように”四国征伐”を決め、1585年(天正13年)5月4日、黒田孝高に四国攻”めの先鋒として淡路に出るよう命じました。(今から428年前の、ほぼこの季節でした)

豊臣秀吉の勢力に加わった”毛利氏”の先頭にたったのは”小早川隆景”です。

その”小早川隆景”に、”四国征伐”の軍令が出たのは翌月の6月。

直ちに”隆景”は今治の浜から四国に上陸し、それから僅か3ヶ月後の9月には四国全土が豊臣秀吉の軍門に下ったのです。

得意絶頂にあった”地蔵ヶ嶽城城主”の”大野直之”は、篭城している自軍の兵の助命を条件に自刃したとか、女装して城を抜け出し、伝兵衛という武士の槍先に命を散らせたとか、様々な伝承が残っていますが、事実は不明です。

しかし、”大野直之”の最後を笑うことはできません。四国征服に一歩前まで行った戦国時代を代表する”長宗我部元親”でさえ、織田信長の四国征伐の時は、自分の命に代えても抵抗すると息巻いていていたにも関わらず、秀吉配下の四国討伐軍とは、結局一戦も交えることなく降伏し、土佐一国を安堵(所領をみとめられること)されています。

長宗我部元親”は、豊臣秀吉四国攻めに一戦も交えることなく降伏した後は、腑抜けのような別人に成り果てました。戦後大名と呼ばれていたころの覇気はすっかり失せました。

この後一種の夢遊病者のように、秀吉が命ずるままにズルズルと、秀吉の九州征服(この時大敗し、自分の嫡男を死亡させています)、朝鮮半島から中国明を目指した”文禄・慶長の役”にも参戦させられ、秀吉亡き後の”関が原の戦い”でも、世の中の流れがどう動いているかと言う考察をすることなく、歴史の舞台から消え去り、長宗我部の血脈は途絶えました。

この後は、四国討伐の戦功厚かった”小早川隆景”が伊予国国主になったことは、今までも様々な機会に書いてきました。

大津は、隆景の養子であった”小早川秀包”(こばやかわ ひでかね)が配置されました。

石垣と大洲城9
その後”小早川隆景”に代わって、天正15年(1587年)豊臣秀吉腹心の部下であった”戸田勝隆”(とだ かつたか)が南予に配されます。

ことろが南予の人々は、一種狂気とも言える”戸田勝隆”の暴政にトコトン苦しめられることになります。悪夢と言うか、絶望のドン底に南予の人々は押し込まれ、命を奪われ血の涙を求められました。

戸田の残虐さを、ワタシは知ってはいますがここで活字にするのが憚(はばか)られるほどの内容でした。”血の気もよだつ”という言葉があります。ゾッとする怖さです。その言葉が意味する通りの暴虐な政治を行った男です。

世界史の中で、”残虐な支配者”として常に名を出すのが”ローマ皇帝ネロ”でしょう。まあ、戸田と言う男は、”暴君ネロ”のやった歴史に残る残虐さに比べると遥か小型版ではありますが、”南予のネロ”と言ってもいい男でした。

普通の人々だけではありません、宇和郡の支配者であった”西園寺氏”もこの”戸田勝隆”によって騙まし討ちにあい謀殺され、西園寺家の血は途絶えました。明後日の”西園寺氏”の歴史編でもう一度触れます。

この”戸田勝隆”の死は南予の人にとっては朗報だったことでしょう。南予にとって最悪だった”戸田勝隆”は、秀吉の朝鮮出兵の時に病死しました。

戸田勝隆”の後は、小紛(こまぎ)れに”池田秀氏”(いけだ ひでうじ)とか、”藤堂高虎”(とうどう たかとら)だとか”脇坂安治”(わきさか やすはる)が大津を治めました。

石垣と大洲城10
その中では”藤堂高虎”は、有名な武将ですね。元々近江(おおみ)の出身で、浅井長政、織田信澄(おだ のぶすみ)、羽柴秀長(はしば ひでなが)などの使え、更に豊臣秀吉、そして徳川家康にも仕え、その後二代将軍秀忠や三代将軍家光まで仕えました。

この”藤堂高虎”という武将は、武力ではなく築城の名人としてその優れた土木建築の知識と才能、それに智謀戦略を活かしきった、戦国時代でも異能の武士でした。

藤堂高虎”が築城した城は、宇和島城大洲城今治城の愛媛三城を始めとして、甘崎城、伊賀上野城、津城、大和郡山城、大阪城和歌山城江戸城、篠山城、膳所城、再建伏見城、丹波亀山城、淀城など、日本の名城のことごとくを手がけています。私見では世界規模で見ても、この時代においては世界有数の建築家だったのではなかったのかと思います。

今日の最後に、”藤堂高虎”の後に大津に入った”脇坂安治”に触れて終わりにします。

脇坂安治”は慶長14年(1609年)に入府して”それまでの”大津”を”大洲”と改めました。ここで歴史上に初めて”大洲”の名前が出てきました。

というには、安治はもともと近江の人なので、郷里の大津の方が頭にあり、紛らわしいということで”大津”を”大洲”にしたのではないでしょうか。

ただし大津を大洲に改名したのは、脇坂安治の後に入府してきた”加藤貞泰”(かとう さだやす)だという説もあり、定かではありません。

私は近江出身の脇坂安治が、出身地の”大津”と紛らわしいから”大洲”に変えたと言う説の方が自然なように思います。

明日は、元和3年(1617年)”大洲”に入府し、明治期まで続いた”加藤家”の”大洲治世”(おおずちせい=大洲に於ける政治)をご紹介します。





「南予史探訪」・「大洲城 加藤氏の治世」

今日は”元和元年”(1614年)大阪夏の陣で戦功を上げ、その恩賞として伊予国大洲六万石へ移封して”大洲城城主”となり、明治期まで続いた”加藤氏”の治世(ちせい=政治)についてご紹介しましょう。

先ず”加藤氏”の出自からご説明しておきましょう。名字の下に””がつくのは、いずれも”藤原氏”をその祖としています。日本の名族の証(あかし)”源平藤橘”(げんぺいとうきつ)の中の一つ””です。(因みに残りの4姓の”源”は源氏、”平”は平氏、”橘”は橘氏です)

大洲藩主”加藤氏”は、藤原氏利仁(ふじわら としひと)の流れで、それから七代目の影通(かげみち)が加賀介(かがのすけ)となったことから、賀の原氏、つまり”加藤氏”と称するようになったのです。

その”加藤氏”の子孫である”加藤貞泰”(かとう さだやす)が、関が原の戦いの恩賞として”伯耆国”(ほうきのくに=今の鳥取県西部)米子六万石へ美濃の国から移封します。

その”貞泰”(さだやす)が、大阪夏の陣で戦功をあげ”大洲城”に入りました。

法眼寺1
加藤家は、初代藩主”貞泰”(さだやす)から十三代、約250年に渡って続きました。ただ、初代藩主”貞泰”が残した遺言が、後々の”内ノ子一揆”を引き起こした遠因となります。

初代藩主”貞泰”は、大洲六万石の内一万石を二男”直泰”(なおやす)に分地することを遺言していたのです。

これに異を唱えたのが貞泰の正室”法眼院”(ほうげんいん)です。長男の”泰興”(やすおき)と二男の”直泰”が半分づつの三万石づつを分地するよう主張したのです。”法眼院”は、二男の”直泰”を偏愛していたのです。

上の画像は、大洲市新谷(にいや)にある”法眼寺”(ほうげんじ)です。新谷藩初代藩主、”直泰”(なおやす)が自分の肩を持ってくれた母親の為に”新谷”に建てたお寺です。

新谷金比羅宮山門2
この問題の決着がついたのは、途中、この問題を拗(こじ)らせに拗らせた元凶”法眼院”が亡くなった後ですが、実に17年の不毛な時を要しました。

結局、江戸幕府が認めたのは、”大洲藩”を六万石並として扱い、軍役や普請の責任を負わせる。一方”新谷藩”は一万石の大名として扱うという折衷案。

上の画像は、難産の末に誕生した”新谷藩”領内に作られた”金比羅宮”です。”新谷藩”では、当時から"和算”が盛んで、この”金比羅宮”に奉納された”和算の算額”は、天明8年(1788年)別宮四郎兵衛が奉納したもので、県下では一番古く、全国でも九番目に古いものです。

隅櫓3
さて江戸幕府が降した兄弟喧嘩の裁定は、実際は六万石しかないのに七万石の負担を負わせようというものです。

母親”法眼院”の二男”直泰”への盲愛と、初代”貞泰”の藩財政の実態を考えない無邪気とも言える”遺言”が重なって、藩内の領民にだけ無用な負担を負わせるという結果を招きました。

この重なった要因が、”大洲藩”をして強(したた)かな”江戸幕府”の餌食(えじき)にならしめたのです。

元々六万石しかなかった小藩である”大洲藩”を二つに分地すること自体に問題があったと言わざるを得ません。

このことが、将来に渡って大洲藩を慢性的財政困難な状況に追い込んだことで、農民に対する過酷な年貢や使役の強制に結びつき、結果として”内ノ子一揆”を引き起こすことにつながったと思うからです。

実は、同じ状況が”宇和島藩”を分地して誕生した”吉田藩”においても発生しました。17日と18日にアップ予定の”武左衛門一揆”の時に、もう一度触れます。

画像は”大洲城”の”隅櫓”(すみやぐら)で、明和3年(1766年)に作られたものです。”大洲城”の三の丸にあって、現在は”大洲高校”のテニス部や野球部が使っている運動場の隅にあります。

大洲高校”に学ぶ諸君は、この”隅櫓”を作った”加藤のお殿様”の創世記の事情を知ってか知らずや、額に玉の汗をかきながら部活に励んでいました。

大洲城遠景5縮小
さて大洲藩の財政は元禄年間(1688~1704)を過ぎた頃から逼迫(ひっぱく)しはじめます。幕府からの公役負担が大きかったことや、地震や旱魃、相次ぐ大火など自然災害、あるいはそれに近い要因があったことも事実です。

でも、元々六万石という”小藩”を二つに分け二つの政府を作った。行政の無駄を作った上に、体裁(ていさい=うわべ)だけは大名の格を維持したかった。その悲しき見得(みえ)が領民の負担を一層過酷なものにしたのです。

藩の財政を潤すために殖産政策も取られました。大洲藩は山間部の物産を活かして、特産品作りに励みます。

伊予の紙は江戸時代には質・量とも全国有数でした。また、(はぜ)の生産は収益が大きかったため、急速に普及し山間部の代表的作物になりました。さらしていない生蝋(なまろう=青蝋と言った)生産は元文3年(1738年)から大洲藩ではじまっています。

大洲城4
また、安永4年(1775年)には九代藩主・泰候が砥部において磁器生産を命じ、”砥部焼”は大きな産業に育ちました。

砥部町にお住まいの方々は、”砥部焼き”が大洲のお殿様の命令によって生まれた、更には砥部が大洲藩の領地であったことをご存知だったと思います。”砥部焼き”の誕生秘話や、失敗挫折と成功の話は、今回のテーマではありませんので書きません。

さて、その一方で藩は緊縮財政政策を採り、城郭修理などもせず無駄を省き、藩臣には借上米といい、藩に米を返還させる措置や、従来の石高より大幅に少ない手取りにする方法も採られたと言います。その減部率は八割カットにまで及びました。

藩士である武士の生活も貧窮していましたから、ましては農民の生活は”餓死”が現実問題として浮き上がってきます。

大洲城5
当然のごとく年貢の見直しも行われ、作柄を調べて年貢を決めるという検見法(けみほう)から一定の税率を定めた”定免制”(じょうめんせい)を導入。

つまり収穫の出来具合に関わらず一定の年貢米を納めなければいけないという、今で言う”消費税”と同じ考え方が採られました。また藩の財政が苦しくなると村の収穫高に応じた出銀という特別税も命じています。

政府や役人は何時の時代でも、取りやすいところから取りやすい方法で取るという、こういう無茶を平気で考えるものです。

大洲城6
また裕福になってきた商人たちに御用銀、御用米を巻き上げることもしました。ただし、農民に対する措置と決定的に違うのは、商人にはその見返りとして特権を与えました。

ただし特権の与える匙加減は藩の役人が負いましたから、そこに商人と藩の癒着(ゆちゃく)も生まれ、今で言う”贈賄”(ぞうわい=ワイロを贈る)が横行し、一部の商人はますます大きく太っていったのです。

如法寺階段7
なお、上の画像は大洲市柚木(おおずし ゆのき)にある”如法寺”(にょほうじ)の山門に至る石段です。

この”如法寺”は二代藩主泰興(やすおき)が、既にその当時全国的に有名であった名僧”盤珪”(ばんけい)の為に建てたお寺です。寛文10年(1670年)の創建です。

盤珪”(ばんけい)は、播磨国浜田村(今の姫路市)の生まれですが、全国各地を行脚して修行を積み24歳ののとき結核に冒されて苦しい闘病生活のかなで悟りを開いたといわれる”名僧”です。

”盤珪”は全国各地から求められ、多くの寺を開山していることでも有名で、その寺の数は200とも言われ、その弟子は400余名、俗家の信徒は五万余名とも言われています。

如法寺山門8
その名僧”盤珪”の為に建てたこの”如法寺”(にょほうじ)は、現在、”仏殿”が国指定重要文化財に指定されていて、寛文の建築様式を当時のままに残していることでも有名です。

ただ傷みが激しく、現在は文化庁や愛媛県、大洲市が合同で修復工事を行っている最中でした。

ですから、”国指定重要文化財”の仏殿は被いに囲われ建物を見ることは出来ませんでした。大洲の”冨士山”(とみすやま)の真裏側にヒッソリと佇んでいます。

曹渓禅院山門9
この画像は、”曹渓禅院”(そうけいぜんいん)の山門です。”曹渓禅院”は、大洲藩主”加藤家”の菩提寺としてよく知られています。

ここ”曹渓禅院”には、一時期上に書いた”盤珪”もいたことがあります。

この寺には、大洲藩初代藩主の父の”光泰”(みつやす)の他、初代藩主の”貞泰”、八代”泰行”(やすゆき)、十代”泰済”(やすずみ)、十一代”泰幹”(やすもと)、十三代”泰秋”(やすあき)の墓があります。

一方”如法寺”には、二代”泰興”(やすおき)、三代”泰恒”(やすつね)、五代”泰温”(やすあつ)、七代”泰武”(やすたけ)、九代"泰候”(やすとき)、十二代”泰祉”(やすとみ)の墓があります。

加藤邸10
(上の画像は、旧大洲藩主であった”加藤家”が大正14年に建てた住宅で、国登録有形文化財です。旧大名家の住宅らしい格式の高さと、西洋風のモダンさを随所に備えています。映画「男はつらいよ」の撮影にも使われました。大洲では「殿様の家」と呼ばれ、市民に親しまれています)

初代”貞泰”の分地するという遺言が、後に”内ノ子一揆”を引き起こす遠因となりましたが、”大洲藩主加藤家”は英明(えいめい=優れた)な藩主を多く輩出しました。

明治維新前には土佐藩士”坂本龍馬”が土佐勤王党同士”沢村惣之丞”と共に土佐を脱藩する時に選んだのが、四国山地を伊予へ抜けるコースでした。

そして、土佐の梼原から伊予に入り大野ヶ原を越えて更に大洲領の水ヶ峠を越え、小田川から肱川を下って昼頃大洲に着き、その夜は長浜の冨屋金兵衛宅に泊まっています。

何故”坂本龍馬”が経由地に大洲藩を選んだのかと言うと、大洲藩内が勤皇派で占められていたという事情があったと言われています。

大洲藩は、その後の伏見の戦いでも長州藩を支援しており、小藩ながら全国に聞こえた藩であったのです。

明日は大洲の南にある”宇和郡”を、中世期において長く支配した”西園寺氏”の歴史をご紹介しましょう。




「南予史探訪」・「宇和郡 西園寺氏の始まりと終わり」

今日はワタシの郷里(今の西予市)の”宇和郡”において、中世期に勢力を持って君臨していた”西園寺氏”の歴史をご紹介しましょう。

なお、冒頭に書いておきます。市町村合併によって”宇和郡”という、645年の”大化の改新”以前からずっとあった由緒ある”地名を殺した”のはどこの何方(どなた)ですか!

なお、そういうお方の方便として①、”宇和町”という地名が残った。②、五町合併で、他の野村町、城川町、明浜町そして三瓶町の町民の心理をおもんぱかったっと言われることでしょう。

でも、そんな”矮小”な理屈など意味がないと、ワタシは個人的にですが考えます。考えても見てください。”宇和郡”は、元々伊予国の”伊予郡”と”温泉(ゆ)郡”から南一体を、全部”宇和郡”と言っていたのですよ!

さてこの地は、室町時代から戦国時代にかけて、京都の公家(くげ=朝廷に仕える貴族や上級官人)であった”西園寺氏”の一族が宇和郡まで流れてきて支配するようになりました。

流れ公家”が地方に居ついて武士化し、その地域を支配したのは全国で3人だけですが、その内の一人が”宇和郡”の”西園寺氏”で、もう一人は”土佐中村”の”一条氏”です。その2人が戦国末期互いに争うようになります。

さて最初に居付いたのは、鎌倉時代中期の”西園寺公経”(さいおんじし きんとう)で、宇和郡は西園寺家によってほとんど横領に近い形で所領とされます。

しかし、当初は西園寺氏は宇和郡を支配するといっても、代官に統治させ、宇和庄を領家として経営しておりました。

実際に現地に土着するようになるのは、西園寺氏の庶流”公良”からです。

宇和盆地を本拠に宇和郡内に広く影響を及ぼしました。その西園寺氏が本城としていたのが、”松葉城と黒瀬城”です。

松葉城がある山1
上の画像が、国道56号線から見た”松葉城”があった山です。城はこの山の山頂にありました。

松葉城は、西予市宇和町の卯之町(うのまち)の北、松葉地区にあります。一方黒瀬城は、そこから卯之町の市街を挟んで南へ約2キロの所にあり、JR卯之町駅の裏手真正面に見えます。

両城とも尾根を利用して、おおまかに3段の曲輪(くるわ=山頂の城を守るために削り、或は盛土した平らな部分)を中心に構成されていますが、松葉城は岩場の狭い尾根に造られていました。

西園寺氏”は当初”松葉城”を本拠としていたのを、戦国時代に”黒瀬城”に移ったといわれています。”西園寺氏”は、約170年間この”松葉城”を居城としていました。

西園寺氏は、宇和郡内に一族がいくつか分派し、立間・来村・竹林院などと呼ばれる一族が出ましたが、この松葉城を本拠とした家はその名を取って「松葉殿」と呼ばれていました。

本拠とした”松葉城”に拠って、宇和地方の在地豪族を傘下におさめ、守護大名的な活躍をするようになります。

松葉城城壁跡2
松葉城”があった山を、目を凝らせてよく見ますと、山頂付近に岩場が見え一種の”城壁”の役割りをしていたことがうかがえます。

天然の地形を活かした、いかにも攻められにくい”要塞”的な城だったことがうかがえますが、一方では京都の公家出身らしく、城で度々”能の宴”を催したという記録も残っています。

典型的な”山城”で、戦国時代に出来た城の多くは敵に攻められないことを念頭に城作りをしました。

なお通常の登山道の他に、上松葉側から辛うじて小型の車なら山頂近くまで行ける道を地元の方に教えていただきました。

ただし時速5キロ程度の、超ノロノロ運転でなければ車が転倒する恐れもあります。余りお勧めはできません。

松葉城登山道4
なおこの山は、標高409mで、急峻な山道を喘ぎながら上っていかないと辿り着けません。


この”登山道表示板”は、上に書いた小型の車なら辛うじて登れるという終点のところにあります。


この登山口から山頂までは歩いて約5分程度ですから楽ですが、滑らない足元準備をしていないと危険です。

松葉城址階段5
登山道を登っていくと、最後にはこの階段が用意されています。

木で組み立てられた階段を、細いロープをしっかり握って山頂を目指します。

でも幾ら”殿様”だからと言って、こんな山頂暮らし決して快適ではなかったのではないか?っと思いながら上りつめました。

松葉城址6
ここが山頂にある”松葉城跡”です。

平らにされた山頂は三段に別れ、その面積は約40アールです。1200坪余りの広さです。

松葉城は山塊から北西に張り出した尾根の頂部に築かれています。南東背後を大きく削って遮断し、北西に伸びた尾根に段々と曲輪を造成しています。

山頂には、地元の家族一組が後から上ってこられました。おじいちゃんと息子さんとお孫さんの3人で。

松葉城址7
その中のおじいちゃんに声を掛けられました。

「ここは昔城があったと聞いとるけど、一体ここのどこに城が建っとったんジャローー???」

「この山には、散歩がてら何度も登っとるけど、ちっともここに城があったとは思えんのヤケドー?」っと。

周囲を盛んにコンデジで写していたワタシを、郷土史家と錯覚なさったのかも知れません。

松葉城柱跡8
そこで、この岩場にご案内して「この岩の、この四角い窪み、これ人為的につけられたものでしょう」っとワタシ、足元を指差しながら説明しました。

するとそのおじいちゃん(ただしワタシもおじいちゃんではありますが)「アッ!ア・・・・・アッ!。ヤッ!ヤ・・・・ヤヤッ!」と奇声を発せられ、岩場にしゃがみ込まれた。

「この四角い角、これはここに柱が建っていたと考えられませんか?」っとワタシ。俄(にわ)か”郷土史家”に早代わり。

「ウンウン、ソーーージャ。間違いない、これは確かに柱の跡じゃナー!」っと目を輝かされた。

それからは、山頂のアチコチで「ここは、お城の庭園跡でしょう。そして、柱跡の間隔が開いていて、平らなこの辺りは、昔は能舞台があった場所かもしれませんよ」と、二人の空想合戦が始まった。

「この山には何度登ったか覚えとらんけど、こんな見方したことなかった。ウンウン、間違いなくここは城跡じゃな!うーーーん、楽しい!」っと目をランランと輝かせたおじいちゃん。男はワタシを含めて、幾つになっても子供なんです。

松葉城からの展望9
山頂から見れば、まさに難攻不落の城のように見えます。

どの角度から山頂を目指しても、城からは丸見えになります。

しかし、宇和地方で勢力を振るった”西園寺氏”は、戦国時代に入ると、伊予国東部の河野氏と土佐国の一条氏に挟み撃ちのように攻撃されます。

更には、九州の豊後国(今の大分県)の大友氏の侵攻に遭って次第に衰退していきます。

そして、致命傷を負ったのが1584年(天正12年)、土佐国”長宗我部元親”の四国統一を目指した侵攻でした。

当時の宇和郡の当主であった”西園寺公広”(さいおんじ きんひろ)は遂に長宗我部氏に降伏します。

松葉城からの展望10
天正13(1585年)年の”豊臣秀吉”による四国平定の後、伊予は”小早川隆景”の支配するところとなりますが、その時の当主公広(きんひろ)はまだある程度宇和郡での影響力を維持していました。


小早川隆景”は四国攻めにおいて最後まで抵抗した、宇摩・新居郡を支配する石川氏と、同氏家臣団の実力者である”金子元宅”(かねこ もといえ=元宅は東伊予の実質的な指導者であり、長宗我部氏とは同盟関係にあった)勢に対しては容赦することなく殲滅(せんめつ=皆殺し)させました。


それに対して、抵抗しなかった”河野通直”(こうの みちなお)と”西園寺公広”(さいおんじ きんひろ)に対しては寛大な扱いをし、客将扱いだったようです。

松葉城とりで石垣11
この画像は”松葉城”があった山の中腹にある”砦跡”の石積みです。今は、生い茂る”桧林”の中でヒッソリと息づいています。


いよいよ西園寺氏の最後です。


宇和には新領主として”戸田勝隆”(とだ かつたか=豊臣秀吉配下の武将であった)が封じられます。


1587年(天正15年)に”西園寺氏公広”は、「自邸に招待して歓待したい」という”戸田勝隆”の誘いにまんまと引っかかって殺害され、ここに”伊予西園寺氏”は滅亡しました。

なお本編とは直接の関係はありませんし、時代も違いますが今日の舞台となった”宇和荘”に関する話を一つご紹介しておきます。

それは”平安時代”末期に起こった”藤原純友”(ふじわら すみとも)の乱(一般的には乱の起こった元号をとって”天慶の乱”(てんぎょうのらん)と呼ばれます)に関してです。

純友の乱につきましては、2012年3月11日に(耕して天に至る「水ケ浦の段々畑」 4)でご紹介しております。詳しくはそちらをご覧下さい。

今日ご紹介する話は、藤原純友を捕らえて投獄したに伊予国警固使”橘遠保”(たちばなのとおやす)の後日談です。”橘遠保”は、この功績により伊予国”宇和荘”を与えられました。ところが、彼は何者かによって斬殺されます。

その後に伊予国”宇和荘”の領主になったのが”橘則光”(たちばなの のりみつ)です。この”橘則光”の妻が、有名な”清少納言”(せいしょうなごん)で、後に”枕草子”(まくらのそうし)を著しました。この”清少納言”は ”清原元輔”の娘なのですが、この一族が”清家”姓の始まりです。

つまり、今の宇和町や大洲市・八幡浜市に多い”清家”(せいけ)さんは、”清少納言”の子孫なのです。南予の”清家”さん、ご自分のご先祖をご存知でしたか?


明日17日と明後日18日は、”吉田藩”で起こった”武左衛門一揆”の歴史をやや掘り下げてご紹介し、全8日間の締めくくりとします。





「南予史探訪」・「吉田 武左衛門一揆」 1

今日はいよいよ「南予史探訪」・「内子・大洲・宇和・吉田」の最終編の”吉田 武左衛門一揆”の前編をご紹介しましょう。

この長かったシリーズも明日の”吉田 武左衛門一揆”の後編で最終回です。

既に”吉田 武左衛門一揆”については、2012年4月29日にアップしました。(「吉田町の風景と歴史」 2

今回は、一揆の背景と大洲藩”内ノ子一揆”との関連など、より掘り下げてご紹介しましょう。

日吉風景1
画像は”吉田藩”の領地でも”山奥筋”と呼ばれた”上大野村”(現在の日吉上大野村)の現在の様子です。

武左衛門一揆”を指揮した首謀者ともいわれる”武左衛門”は、この”上大野村”の農民だったと言われています。ところが、後編でもう一度触れますが、今もって”武左衛門”の出自は明らかになっていません。謎の人物だともいえるのです。

さて”武左衛門一揆”を簡単にまとめると、首謀者の農民”武左衛門”が三年間にわたり”門付芸”(かどづけげい)の”桁打ち(けたうち=ちょんがり)”を行って村々(八三ヵ村)を廻って農民を組織し、一揆を成功させたというものです。

なお”門付芸”とは、日本の大道芸の一種で、家々の門口に立ち行い歌や念仏や踊りなど様々な芸をしてお金をもらう形式の芸能のこと、そしてそれを行う人をいいます。代表的なものは人形つかいや獅子舞、万歳(愛媛では伊予万歳が有名)、門説教、鉢叩など様々あります。

武左衛門たちが用いたのは”桁打ち”(けたうち)といって、扇子1本を手にし一軒一軒領民の家を訪ね、”一口浄瑠璃”(ちょんがり)を語り、半銭一椀(はんせんいちわん=一銭にも満たないお金と一椀のおかゆ)の”合力”(ごうりき=僅かなお金や食べ物を与えて助けること)を受けながら領内を3年間くまなく廻りました。

その目的は領内の実情を把握することと、力を合わせて領民を組織する仲間を得ることでした。

そこで、先ず村々を廻って領民を組織固めするという極めて強い意思を持った同士、リーダー24名を得ることに成功します。そして、その同士たちは一様に武左衛門の人柄や能力に感服し、頭領と仰ぐようになりました。

日吉風景2
さて吉田藩が出来て137年後、また天明2年(1783年)から寛政5年(1793年)に至る10年間に、6回に渡って大洪水が起こり甚大な被害が出ました。同時に幕府からは武蔵川や相模川の修復工事など様々な財政負担を強いられ、藩の財政は極めて厳しい状態に追い詰められていました。

江戸幕府”=徳川家の地方政策の基本は、全国に配したどの””に対しても、徹底的な財政負担を押し付け続けけるというものでした。

二度と中央政権(この場合は江戸幕府を意味する)に弓引く勢力は作らせないという、別の意味で、長く続いた戦乱の世を終わらせたいという趣旨は理解できます。

ただ戦国時代の様に、領民の生命と安全を直接的に脅かす脅威は少なくなった反面、徹底的な財政負担の全てを領民(その当時領民の圧倒的多数は農民でした)に負わせるという、別の意味での”圧制”(あっせい=有無を言わさぬ政治)が始まったのです。

そういう大きな意味では、”大洲藩”に於ける”内ノ子一揆”や”蔵川一揆”、更には今日と明日でご紹介する”吉田藩”に於ける”武左衛門一揆”は、藩側も領民側も共に犠牲者であったとも言えます。

さて、その窮乏した藩の財政負担を、吉田藩は領民(ほとんどは農民)に全て押し付けたのです。年貢は増加され、雑穀や茶・桑・こうぞ(和紙の原料)にまで課税されました。おまけに土木工事普請や藩役人接待費に至るまで負担させられました。

吉田藩の山奥筋(今の日吉)の村々では、こうぞを栽培し紙を漉くことを主要な副業にしていましたが、吉田藩は紙製について専売制をとり、藩が認めた商人にしか売れない制度としました。

その紙を一手に引き受けたのが吉田の”法華津屋”(ほけつや)という豪商です。”法華津屋”は農家に手元資本を高利で貸して製品の紙を安く買い取り莫大な利益をあげていました。

また吉田藩は、役人の手下に提灯屋栄造(ちょうちんや えいぞう)とか覚造(かくぞう)などという無頼の徒(ぶらいのと=地元やくざ)を雇い、彼らが農家から押収した紙の7割は役得料として黙認したので、彼ら無頼の徒(ぶらいのと=やくざ)が土足で農家に踏み込んで押入れや天井裏まで探し回り、根こそぎ紙を没収するという暴挙を許したのです。

これは映画やテレビの”時代劇”の話ではありません。歴史が示す事実です。

日吉明ケ丘案内板3
画像は、元の日吉村役場、今の鬼北町日吉支所近くにある”日吉明ケ丘”の案内板です。この”日吉明ケ丘”には”鬼北町歴史民族資料館”や”武左衛門供養堂”などがあります。

ここで少し話を戻し、”武左衛門一揆”の舞台となった”吉田藩”の成り立ちと、”武左衛門一揆”が起こった遠因などをお話しておきましょう。

更に”吉田藩”をご説明する前に、近世伊予国の状況からご説明しておきましょう。

江戸期から明治期の”廃藩置県”(はいはんちけん=明治4年7月14日・現在歴で言えば1871年8月29日に、明治政府が藩を廃止し府と県に一元化したこと)前まで伊予国は、松山今治西条小松大洲新谷宇和島吉田の八藩と幕府直轄領の天領の九つに細分化していた、全国でも稀な国でした。

四国の中でも、土佐藩=高知県、阿波藩=徳島県、讃岐藩=高松県・丸亀県という風でした。

各藩とも極めて小規模だったので、財政規模も小さく飢饉や凶作などに極めて弱かったという特徴を抱えていました。また江戸幕府に対する各藩主えの負担も大きかったことがいえます。

日吉民族資料館4
画像は、鬼北町日吉にある”日吉民族資料館”の威風堂々とした偉容です。

伊予国の各藩は、ただでさえ小国分立状態で、それぞれの藩の財政状況は極めて厳しいものがありました。

そういう中にあって”大洲藩”と”宇和島藩”だけが、それぞれの初代藩主の意思によって”分地”(ぶんち=藩を二つに分ける)されたのです。”大洲藩”の分地につきましては、このシリーズの5月15日「大洲城 加藤氏の治世」のところで詳しく書きましたので省略します。

今回の舞台となった”吉田藩”の成り立ちについて簡単にご説明しておきましょう。”吉田藩”は”宇和島藩”から分地された藩です。

その”宇和島藩”は、慶長19年(1614年)に、奥州の仙台”伊達正宗”(だて まさむね)の長子”秀宗”(ひでむね)に”宇和島藩10万石”を”徳川家康”から賜ったのが始まりです。”伊達正宗”は、なぜ長子を仙台伊達家の跡継ぎに選ばず宇和島にやったのかについては諸説あります。”秀宗”が嫡子(ちゃくし=正室の子)ではなく庶子(しょし=側室の子)であったこともその理由でしょう。

しかし本筋は、”秀宗”は、”豊臣秀吉”絶頂期に秀吉の跡継ぎとして生まれた初めての実子”秀頼”の遊び相手として大阪城に預けられ、秀吉から一字もらって”秀宗”と名乗った運命を背負っていました。父正宗は、仙台伊達家が徳川家康から将来睨まれることを嫌って、長子”秀宗”を宇和島にやったのでしょう。

話が脇道にそれました。元に戻します。その藩祖”秀宗”は、宇和島藩を開いた43年後に、四男の”宗純”(むねずみ)に三万石を分け与え、宇和島藩領の中から三間・川筋・山奥筋などを割り与えて”吉田藩”を作りました。

日吉民家跡5
画像は、”日吉明ケ丘”の中にある”明星草庵”と名づけられた大正時代の農村の生活を再現した茅葺の民家です。

さて上まで書きました経過で、”宇和島藩”と”大洲藩”に共通する地盤と言うか土台と言うか、経済的環境が見えてきたと思います。

つまり、ただでさえ小藩で財政的に苦しいにも関わらず、親の、子の中で一人だけ編愛した子に貧しい中で”分地”を行い、更に小規模の(名前や石高だけは大名、でもその実態は・・・?)という極小藩を作ってしまったのです。(ただしこれはあくまでワタシの想像です。事実は確認できません)

その財政的しわ寄せを一手に受けたのが、両藩の領民、取り分け年貢や使役の負担を一身に背負わされた”農民”たちだったのです。ここに、大洲藩の”内ノ子一揆”と吉田藩(その実は宇和島藩)に起こった”武左衛門一揆”に共通する”悲しい素地”が生まれたのです。

ここをしっかり抑えておかないと、二つの一揆の本質が理解できません。

日吉武左衛門顕彰碑6
画像は、”日吉明ケ丘”の中にある”武左衛門顕彰碑”です。明治になってやっと彼を偲ぶ”碑”が作られました。

さて、”武左衛門一揆”に話を戻しましょう。

武左衛門一揆”が起こった当時の”吉田藩”です。時の藩主は既に六代目、”村芳”の時代です。藩主”村芳”はまだ13歳で、しかも江戸で暮らしていました。当然、藩政のことなど分からず吉田の家老らに任せっきりです。

また吉田領内にいる家老達も代々の世襲ですから、生まれたときから武士であり家老の子が長じて家老職を継いでいます。

農民の生活に目を向けるという発想は全く持たない連中が藩政を牛耳っていた(ただし、その家老たちの中でただ一人例外がいました。明日登場します)のですから、そこに吉田藩の農民達に藩の財政負担の全てがしわ寄せされてたというのも頷(うなず)ける話です。

年貢も米を量る””を次第に大きくしていって、農民達の負担は増すばかり。おまけに、藩の運営や庄屋の運営の経費負担も全て農民に負わせていました。

農民達はこのままでは”餓死”すると、吉田藩を直接監督する立場にあった宇和島藩に吉田藩の不正を度々訴えていますが、聞き届けられることは一度もありませんでした。

吉田藩の年貢米徴収の方法と言うのは、農民自身が米俵を担いで藩に出向いて直接納めなければいけませんでした。

そして驚くことに、米や大豆を農民自らが藩に納めに行った日、たまたま雨が降っていると、米や大豆を地面に下ろしては湿気を帯びるという理由で、背中に背負ったまま門の外で並んで待たされます。

武左衛門自身もこの経験をし、「これでは余りにもひどいではないか」と、一揆を起こす決意を固めたといわれます。

日吉武左衛門お堂7
”武左衛門一揆”の結果と特徴を先にご紹介しておきましょう。

この一揆は、”吉田藩”強いては”宇和島藩”に自分達の要求の尽(ことごと)くをのませ、成功裡に終わらせました。

一揆の詳しい経過や、成功裡に終わった要因は明日の最終回にご紹介します。

この時代、全国的にみてもこれほど見事に成功させた例はありません。ただ一点だけ類例をあげるとすれば、同じ伊予国で”武左衛門一揆”の43年前に”大洲藩”で起こった”内ノ子一揆”の例を上げるのみです。

これは偶然なのでしょうか?今日と明日に渡ってご紹介する内容は、決して偶然ではなかったということを皆さんにお示ししたいということです。(その内容は明日説明します)

日吉武左衛門位牌8
一揆は成功しましたが、「一揆の指導者を処罰しない」という宇和島藩の約束は破られ武左衛門は捕縛されました。

首謀者武左衛門(当時武左衛門は、まだ若干37歳でした。37歳の彼が、宇和島藩の農・漁民9800人を動かせたのです)は斬殺され、”反逆人武左衛門”という表札をつけて武左衛門の首は七日間晒されました。

武左衛門の処刑後、武左衛門の死を悲しむ村人たちは、上大野村瑞林寺(かみおおのむら ずいりんじ)に葬(ほおむ)り小さな墓を作りました。ところがそれを聞きつけた吉田藩役人は、武左衛門の石碑を粉々に打ち砕き川に捨てたのです。

そして「大反逆人を供養することは厳禁する」と農民を恫喝(どうかつ=おどす)したといいます。

ですから日吉の農民たちは、表立っては武左衛門を供養できず、村芝居の中にこっそり祈りを織り込んだり、子供達が歌う”猪子歌”に武左衛門を讃える歌詞を織り込んで後世に伝えたのです。

明治になってやっと彼を偲ぶ””が作られました。

日吉武左衛門木像9
さて、”武左衛門”とは一体何処(どこ)に生まれた””で、どういう方法で一揆のリーダー24人を養成し、そして3年間という長い期間、一切情報を藩に漏らすことなく農民を組織できたのか。

また、一揆に備えて大量の”大綱”や鎌や鉄砲まで秘密裏にどうやって用意できたのか。

これらの大事を、口伝(くでん=文字ではなく口から口へと伝える)だけで成し遂げることが果たして可能だったのか。

さらに43年前に大洲藩で起こった”内ノ子一揆”で使われ実施された”大綱で豪商や不正な役人達の屋敷を引き倒す”という方法をどこでどう知ったのか。両方の一揆の方法は驚くほどよく似てるのです。

内ノ子一揆”を経験した者と、”武左衛門一揆”を指導した武左衛門たち指導者との間に接点はなかったのか。

武左衛門一揆”には、様々な””があります。その謎を解く””は何なのか?ワタシは所詮(しょせん)素人なので、それらを解く術(すべ)がありません。

武左衛門一揆大綱10
この画像は、”武左衛門一揆”で農民達が”法華津屋”を引き倒す為に用意した”大綱”です。日吉村教育委員会が発行した「義農武左衛門物語」と題した小冊子に印刷された画像を借用しました。(ゴメンナサイ)

この”大綱”は、こうぞや麻を入れて丈夫なものにし、神社・寺院の護符や、怨念をこめた女の黒髪などをない込んだもので、一端を大きな節にし、他の一端を輪に作り、いざというときは簡単に必要な長さにつなぎ合わせることができるような工夫がなされています。

この一揆に先立つ43年前、大洲藩の”内ノ子一揆”で使われた”大綱”は、長さが約360mもある、とてつもなく長いものを用いています。

武左衛門一揆で用意された画像の大綱は、長さ約1.5mなので持ち運びも簡単で、一揆の道具としては実用的です。大洲藩での一揆の経験が生きていて、工夫されて吉田藩に伝承されたと考えるほうが自然ではないでしょうか。

明日は、長かった「南予史探訪」シリーズもいよいよ最終回。

武左衛門一揆”の経過と結果(それらの内容)をご紹介します。




「南予史探訪」・「吉田 武左衛門一揆」 2

さて、今日が「南予史探訪」・「内子・大洲・宇和・吉田」と題した、”南予中世期外史”シリーズの最終回です。

昨日に続いて”吉田 武左衛門一揆”の後編をご紹介しましょう。

先ず、”武左衛門一揆”の経過と一揆の様子をご紹介しましょう。

安藤神社鳥居1
この画像は今日の話”武左衛門一揆”の主人公が日吉の農民”武左衛門”であるとするなら、そのもう一方の主役となった”吉田藩”の家老”安藤儀太夫継明”(あんどう ぎだいゆう つぐあき)を祀った”安藤神社”の今の様子です。吉田町にあります。

いよいよ”武左衛門一揆”が起こります。

吉田藩はこのころになってやっと、領内に不穏な空気が漂い始めていたことに気がつきます。それまでは、全く察知できていませんでした。

吉田藩は各地に密偵を放って情報を集めていましたが、寛政4年12月19日(1792年)「山奥郷に百姓ども騒動の企てあり」との情報をやっと入手。藩は慌てて役人を派遣し、庄屋に百姓を集めて「一揆はご法度。侵せば極刑に処す。願いあれば聞き届ける」と伝えます。

百姓たちは、年貢・賦役の減免・紙取引の改善など17ヶ条の嘆願書を提出。その結果は、「強訴によって政令を改めては悪例を残す。従って願いの筋相立たぬ」という全面拒否の回答。

この1ヶ月前、紙座役人の手下”提灯屋覚造”(ちょうちんや かくぞう)が山奥で何者かに射殺される事件が起きていました。下手人は藩の懸命の探査にも関わらず判明していなかった。

藩の全面拒否回答、無頼の徒・紙座役人の手下”提灯屋覚造”の射殺事件と、山奥筋の農民たちと藩との間に険悪な空気が一気に高まっていた。

安藤神社大祭2
上の画像は、吉田町にある”安藤神社”。ワタシが取材に行った当日は春の祭礼の日でした。

武左衛門”は、今こそ決起の時到来とばかり「藩が我々の嘆願を聞き容れないのであれば、我々を餓死寸前に追い込んだ”法華津屋”を予ねて用意した大綱で引き倒し、自活の道を切り開く他ない。心あるものは我等と共に立て!」と、各地に””(げき=人々に決起を促す言葉)を飛ばした。

この””に応じた村々は、予ねて用意していた大綱や、松明(たいまつ)・竹槍、鉄砲を手にして一斉に立ち上がった。当時山奥筋の農民は、狩猟の為に多数の鉄砲を持っていたと伝わっています。時に寛政5年(1793年)2月9日のこと。

一揆勢は法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らし、旗を高らかになびかせ、時々威嚇(いかく=おどし)の為に銃声をたてながら広見川沿いに進んだ。人数は見る見る間に膨らんでいった。第一夜は上大野から下った延川(のぶかわ)で眠らず明かした。

10日、膨れ上がった農民たちは小倉・岩谷村を進み、役人たちの制止には農民が襲い掛かった。役人は農民が歯向かう事など夢にも考えたことがなかった。慌てて庄屋所に逃げ込んだ。第二夜は出目村(いずめむら)で過ごした。

武左衛門率いる農民は群集と化して、翌日は近永(ちかなが)そして予てより打ち合わせ済みの集合場所宮野下(みやのした)へと結集した。

そこには吉田町の浦方(うらかた=漁村)である立間(たちま)・喜佐方(きさかた)・法華津(ほけず)方面20ヶ所の村浦(むらうら=農村と漁村)の農民・漁民たちが続々押し寄せ、群集はたちまち数千人に達した。村中総出という状態。

安藤神社内部3
ここで武左衛門は各村の総代を集め「一揆の真の目的は、永年にわたる過酷な負担軽減にある。吉田藩ではなく吉田藩を監督する立場にある宇和島藩に訴える。これより、我等は宇和島を目指す!結集場所は八幡河原なり!」と宣した。

何れの村の総代たちも全く異議なく、高らかな”鬨の声”(ときのこえ=士気を鼓舞(こぶ)するために、多数の人が一緒に叫ぶ声)で力強く応えた。

事の推移にすっかり慌てたのは吉田藩の重役たち。しかしなす術(すべ)を知らなかった。

宇和島に向けて歩く農民・漁民手段の群集に、北灘(きたなだ)・下波(したば)・蔣淵(こもぶち)の浦方(うらかた=漁村)3ヶ村の農漁民たちも次々と合流していった。

そして、結局吉田領内83ヶ村から宇和島領の”八幡河原”に結集した一揆勢は実に9,600人に上った。大群衆になっていた。

安藤神社手本石碑4
この画像は、”安藤神社”境内にある比較的新しい記念石碑で、「安藤様は私達の手本です」(村井保固氏の言葉)と刻まれています。今なお、吉田の人々が”安藤継明”(あんどう つぐあき)に感謝と敬意の念をもっていることが読み取れます。

さて一揆です。その日の天候は雨。9,600人の群衆の前に、さすがに宇和島藩も捨て置けず、八幡河原に仮小屋を立てたり、雨をしのぐ為の(とま=茅(かや)などを粗く編んだむしろで、雨露をしのぐもの)を集め、更に宇和島の豪商たちが大釜で粥の炊き出しを行った。

この宇和島藩の、一揆勢に対する、吉田藩への面当てともとれる対応に吉田藩の重役たちは顔色を失った。

吉田藩の主席家老飯渕庄左衛門(いいぶち しょうざえもん)は、頭を抱えて病気を理由に屋敷から出てこない。次席家老尾田隼人(おだ はやと)は、農民を買収しようと画策し失敗。一揆から6日が過ぎ、2月14日

万策尽きた吉田藩は、末席家老の”安藤儀太夫継明”を派遣することにした。安藤はかねてより領民と向き合おうとしない上席の家老たちに苦言を言い続けていた。しかしそれまでは「安藤氏は若いのー!」(あんどううじは、・・・)とばかりに安藤の建策をことごとく退けてきた先輩家老たちは安藤に委ねるしかなかったのです。

宇和島八幡神社鳥居5
画像は、今の宇和島市伊吹町にある”八幡神社”の大鳥居。”武左衛門一揆”の群集は神社前の”八幡河原”に結集した。

安藤継明”は、この時点で自分の命をもってしか事態を打開する方法はないと覚悟を決めます。

安藤は、妻子と水杯を交わし、”経帷子”(きょうかたびら=切腹する際の衣装(装束)死に装束で、白装束<しろしょうぞく>ともいった)を着て、一人従者を伴って宇和島の”八幡河原”に降り立った。

安藤継明は、予め用意していた”遺言”を宇和島藩の家老(桜田)に送り、群衆に向かって「私は吉田藩家老安藤儀太夫である。藩政に当を得なかったのは全て私の責任である。今ここでその責任をとる。皆のものは早く宇和島藩に訴状を出してご裁可を仰ぎ、村に帰ってそれぞれ家業に励むよう」と言った後に、その場で表情一つ変えぬまま腹を切った。安藤47歳

介錯(かいしゃく=腹を切った後、とどめに首を切り落とす)をしたのは、ただ一人伴った従者、若党千右衛門(わかとう せんえもん)。

安藤継明石碑6
この画像は、八幡神社境内横に立つ”安藤継明”の忠義を悼む石碑です。

安藤の見事な切腹の様子に、群集は一瞬にして静まり返った。江戸期を通じて、一揆の責任を家老が取って切腹した例は安藤がただ一人。

このとき一揆を指揮していた武左衛門は、たまたま一揆の指揮を副頭取に任せて三間(みま)に食糧調達に行っており居なかった。

急を聞いた武左衛門は慌てて八幡河原に駆けつけたが、時、既に遅し。武左衛門は「大切なお方を亡くしてしまった」と泣き崩れたという。武左衛門も、安藤の藩政に対する姿勢を知っていて、最後の砦になるお方だと分かっていた。

宇和島八幡河原7
この画像は、八幡神社前を流れる”須賀川”の”八幡河原の今の様子”。皆さん、水量が無くなった今の通常な状態であるこの画像をよく見た上で、次の画像も合わせてご覧になって下さい。

「アッ!」っと驚かれた方は勘がいい方です。後でご説明します。

さて、安藤切腹の知らせを聞いた宇和島藩の主席家老”桜田監物”(さくらだ けんもつ)の行動と決断は早かった。

15日(安藤が切腹した翌日)吉田藩に出向いて協議し「この大騒動、幕府が知ることとなればどのようなお咎めを受けるか分からぬ。百姓共の嘆願は容認し、早期解決を図るが上策」と決定。

宇和島・吉田両藩の役人が八幡河原に出向き、百姓の代表者に改めて嘆願書を提出するよう指示した。

百姓たちは、11ヶ条の訴状を提出。両藩の重役たちは徹夜で評定を行い、要求の全てを裁可し、さらに一揆の指導者は処罰しないことも決定し百姓たちに伝えた。

江戸期を通じて、百姓側の要求が全て通った例は、僅かに隣の大洲藩の”内ノ子一揆”を除いては、恐らく例がないでしょう。(完全には調べきれていませんので、他に例があるかも知れませんが)

ここからはワタシの想像です。

宇和島藩筆頭家老”桜田監物”の頭には、この一揆を遡(さかのぼ)ること173年前、元和6年(1620年)6月29日に宇和島藩で起こった”和霊騒動”(われいそうどう)のことが頭をよぎったに違いない。

和霊騒動”のことは、2011年1月15日に記事として採り上げています。(「宇和島城」⑤(最後)

詳しくはそちらをご覧下さい。その時、仙台伊達家から借りていた借金を返さなければならないと主張したのは筆頭家老であった”山家清兵衛”(やんべ せいべい)。

「借金は貰った事にしておこう」と主張した”桜田玄蕃”を筆頭とする他の家老たちの意見を採り、主命(これを別名”上意打ち”と言い、追っ手は城主が裁可した”上意”と書かれた高札を手にして、白刃を振り下ろした)として”山家清兵衛一家皆殺し”を実行したのは、家老の一人であった”桜田玄蕃”(さくらだ げんば)。借金返済不要論を唱えた主要人物です。

犠牲となった”山家清兵衛一家惨殺”の様子は以下の如くでした。<刺殺団は、蚊帳の中に寝ている山家清兵衛一家を、蚊帳の四隅の吊手を切り落とし、蚊帳に押し込めてそのまま斬殺しました。3人の幼子ともどもです。一人の子が蚊帳から逃げましたが、直ぐに捉えられ、井戸に吊るされ、吊るし斬りにされたといいます。清兵衛42歳の時のことです。>(2011年1月15日記事より転用)

そうです、今回の当事者になった宇和島藩筆頭家老の”桜田監物”は上に書いた”和霊騒動”の一方の当事者であった”桜田玄蕃”の子孫。

彼は、家老が責任を取って切腹することの意味の大きさを一番よく知っていた人物。

宇和島八幡河原8
さて、話が少し反れました。元に戻します。上の画像を見て、一枚上の画像とよく見比べて下さい。

同じ須賀川の”八幡河原”の様子ですよ。こちらは草一本ないでしょう。そうなんです!安藤儀太夫継明が切腹した場所”です。

安藤が腹を切って果てた、その場所だけは今でも草木一本もないように清掃管理され続けているのです。

宇和島藩、あるいは今の宇和島市にとっても、須賀川のこの場所は”神聖にして侵すべからず”の土地なんです。(全国で、河川の一部だけがここまで清掃管理されている部分を持っている河川があるでしょうか?)

ただし、宇和島藩が吉田藩領民に約束した”一揆の指導者は処罰しない”という約束は破られます。

その結果は、昨日の前編で書いた通りです。

宇和島八幡河原9
八幡河原”の中央付近に、ちょっと土が盛ってある部分が見えますか?あの場所で”安藤儀太夫継明”は切腹し47年の生涯を終えました。

さて、約束を破られ捕縛されて斬殺された”武左衛門”です。日吉の農民と言うことになっていますが、それを明確に裏付けるものは残されていません。

本名のままで3年も一揆の準備を、藩に見つからないように遣り通すことが果たして可能だったのか。

”武左衛門”と共に捕縛された者の中に、大洲藩出身のものが2名居たといいます。それを綿密に研究なさった方がいます。その当時は他の藩に移動することなど出来なかった時代です。

それでも、大洲藩の出身者が一揆の指導者の中に入っていたという事実。これが、43年前に起こった大洲藩の”内ノ子一揆”とを結びつける鍵です。両藩を結ぶ連絡網があったと考えるほうが自然でしょう。

大洲藩と吉田藩の共通性。両藩とも親の藩を分地して作られた極めて小さい規模の藩で、財政は何時も危機状態であった。それは、全て領民に押し付けるしか藩を維持する方法はなかった。

大洲藩と吉田藩で起こった一揆の共通性。大綱をもって豪商や役人宅を引き倒すと言う、一揆史上でも他に余り例のない特殊な方法を用いたという点。一揆を起こすまでは藩に情報が漏れなかったと言う領民同士の固い結びつき。

そして、実は農民でも文字の読み書きできるものが、両藩共に多かったことを指摘される方もいらっしゃいます。一揆を組織的にかつ整然と実行できた要因の一つに、南予の農民たちの教養の深さがあげられます。

両藩とも、一揆の指導者の処罰という犠牲だけで、領民の要求の全てを支配者である藩にのませたこと。両藩共に、一揆を起こした時、一揆を起こした側も藩側も、一人の血も流さなかったこと。

但し両方の一揆の指導者と、吉田藩の家老”安藤継明”を除いて。(なお、大洲藩の内ノ子一揆では、刑死したものはいなかった)

なお、何もかも全て似ていた訳ではありません。一番大きな違いは、”内ノ子一揆”では大綱を使って豪商や私腹を肥やす役人たちの家を何軒も引き倒すという実力行使を行っています。

それに対して”武左衛門一揆”では、現実の実力行使は一切行っていません。藩の財政の全てを操った”法華津屋”を大綱を使って引き倒すという目標は掲げましたが実行せず、一軒の引き倒しも行いませんでした。

では両藩のこの違いはどこから出てきたのか。それは、”武左衛門一揆”には”武左衛門”という強力な指導者がいて、彼が一揆について綿密に策を練り上げていたからだと考えられます。

さてワタシがこのシリーズをスタートさせて、その2回目”「南予史探訪」・「内ノ子一揆・(小田・内子・大洲蔵川)」をアップした日に、お互いコメントを交換し合っている:”せい爺”(気まぐれ爺さんの気ままな日々)さんから以下のようなコメントを頂きました。

「小田といい蔵川といい、一揆は役人の目の届きにくい、山村から起きるのでしょうか。 それと村の団結力でしょうか。」っと。実に的確な目の付け所です。

昨日と今日ご紹介している”武左衛門一揆”も、発端は書きましたように昔の”日吉村”でした。”せい爺”さんが指摘された2つの視点、山奥で役人の目が届きにくかった、山村の人は団結力が強かった。これは正解でしょう。

そしてそれ以外の共通点は、大洲藩、吉田藩共に財政状況が厳しいところに追い込まれ、当初はそれぞれの地区のその年の米の出来高に応じて年貢を決めていましたが、一揆が起こる前には更に藩の財政状態が悪化し、地域や出来高に関わらず年貢を一定額に決めて農・漁民に負担させました。

すると、生産力の低い山間部ほど負担が過酷になりました。山間部で始まった一揆の共通点のがここにあります。

安藤神社感謝10
ここに、今なお”安藤神社”の前で額(ぬか)ずく(=深く頭を垂れて祈ること)姿があります。

安藤儀太夫継明”は、今なお南予に、宇和島に、そしてどこよりも”吉田”に生き続けているという証(あかし)です。

安藤神社”の前で額(ぬか)ずく少年の左右の肩の上に見える”寺紋”は、仙台伊達家を代表する”家紋”でもある”竹に雀”。

仙台伊達家を創設した東北を代表する武将”伊達政宗”は、草葉の陰からこの子を見てどう思うのでしょうか。

これで「南予史探訪」・「「内子・大洲・宇和・吉田」と題した長い長いシリーズの筆を置くことに致します。

一本一本の記事自体が長い上に、それが8日間も続きました。長い間お付き合いしていただいた全ての方に感謝の意を表したいと思います。「本当にありがとうございました」





「松山市の地名・町名由来」・ 「志津川町・松前町」 8

松山市の地名・町名由来」の第8回目は、松山市近郊の市町村にも同じ町名がある「志津川町」(しつかわまち)と「松前町」(まさきまち)をご紹介しましょう。


この2つの町名の由来にはある共通項がありますので、地域的にはお互い離れていますが同時に採り上げます。


実はこの2つの”地名・町名”以外にも、似たような事情で付いた町名が他にも幾つかあります。今日はその一部を併せてご紹介し、それ以外はまた別の機会に採り上げご紹介しましょう。


ただし今回は、同じような事情で町名がついた町に”町名由来の物”が残っているわけではありませんので、「志津川町」と「松前町」の画像だけを添えました。


つまり町名由来が、神社仏閣、更には地形やシンボル的な物ではないということです。

志津川標識1
先ず画像は、松山市の北部の位置する「志津川町」(しつかわまち)を表わす土地改良区倉庫の表示です。


松山市に長年お住まいの方なら、松山市のお隣、”東温市”にも”志津川”(しつかわ)という地区名があることをご存知の方は多いと思います。


そうです、松山市にある「志津川町」(しつかわまち)の由来は、今の東温市の「志津川」地区に関係するのです。

志津川池1
この画像は、松山市志津川町にある”志津川池”の今の画像です。


さて、現在の東温市”志津川”の地区名が、なぜ松山市にも”町名”として存在するのか?


それは、”松山城”を築城した”加藤嘉昭”(かとう よしあきあ)が、松山城の城下町を作るために松山市近郊の町から地租(ちそ=税金)などを免除して人々を集めたのです。


つまり松山市「志津川町」は、松山市西近郊の”志津川”地区の人たちを呼び寄せて、一つの町を作らせたのです。


従って、今日ご紹介する地名は何れも1500年代末から1600年代の初めに付いた地名でです。今までご紹介してきた第7回目までの地名由来と比較するとズッと新しい地名なのです。

松前町標識1
この画像は、松山市の台所”萱町”の東隣の町”松前町”(まさきまち)を示す標識です。


この「松前町」の地名も、松山に長く住んでいる人にとっては、松山市の南隣の町に伊予郡「松前町」(まさきちょう)と言う町があることはご存知でしょう。


そうですこの松山市「松前町」も、”松山城”を築城した城主”加藤嘉昭”(かとう よしあき)が、今の伊予郡松前町から栗田・後藤・曾我部などの豪商を呼び寄せ、今の”古町”周辺の”商人町”に「松前町」を作ったのです。


元々”加藤嘉昭”は、”松山城”築城の前は今の伊予郡松前町にあった”松前城”に入城し伊予国中部支配を始めました。

加藤嘉昭”は豊臣秀吉の重臣だった人物で、秀吉が起こした”文禄の役”(朝鮮出兵)での活躍によって、それまでの”淡路志智城”城主から6万石に加増され、伊予国”松前城”に入城しています。

時に”文禄4年”(1596年)のことです。

その”松前城”が伊予国中部支配には手狭ということで、今の勝山の地に”松山城”を築城したのです。

松前町町並3
この画像は、現在の松山市「松前町」の町並み風景です。

なお、”松前”(まさき、或はまつまえ)という言葉の本来の意味は”区画された町の前の方”を指す言葉です。

お正月で門松を立てている期間を”松の内”といい、”松の内”の””とは、神々がいるところを意味するという見方もあり、”松前”の語源である”区画された町”というのは、”神が宿る神聖な町”であり、”松前”はその前の方を指す言葉なのでしょう。

加藤嘉昭”は上の二つの町以外にも、城下町作りの為に伊予の守護大名であった”河野氏”の時代に繁栄していた”湯築城”周辺から商人たちを集めて、「道後町」(どうごちょう)、「今市町」(いまいちちょう)、「一万町」(いちまんちょう)を作りました。

上に書きました三つの町名は加藤嘉昭が作った町で、当時は上の様に呼ばれていましたが、昭和37年(1962)の「住居表示に関する法律」に実施に伴って「一万町」が「道後一万」に、「今市町」が「道後上市」に変わりました。

また同じ理由で昭和37年に「道後町」は、地域が広域であったために幾つかの町に分割されました。

それらが「道後北代」・「道後喜多町」・「道後鶯谷町」・「道後多幸町」・「道後北代」「道後樋又」「道後湯月町」「道後姫塚」「道後緑台」などです。

これら「道後町」を分割して出来た町は、”道後”を上につけた町名が特徴です。これは旅館などが”道後”のイメージを大切にしたいために付けられました新しい町名です。

これ以外にも町全体が、その時の城主の意向で移住して、移住前の地区・町名を由来とする地区・町名が幾つかありますが、その紹介は別の機会に譲りましょう。


来週の第9回目は、今日ご紹介した「志津川町」のお隣にある「馬木町」(うまきちょう)と「高木町」(たかぎちょう)をご紹介します。




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「讃岐うどん 結結亭(ゆうゆうてい)」・「愛媛グルメ紀行」 526

今日は、西条市は中野という地区にある”讃岐うどん 結結亭(ゆうゆうてい)”さんをご紹介しましょう。

実は、最近”西条”付いています。つい先日、5月7日に”愛媛グルメ紀行シリーズ522番目のお店として、西条市朔日市(さいじょうし ついたちいち)にある蕎麦の名店中の名店”西條そば 甲(きのえ)”さんをご紹介したばかりです。

また、西条の別の蕎麦屋さんも紹介していただいていますので、近日中にお伺いしたいと考えています。

先日ご紹介したお店は久万高原在住の”兒玉さんご夫妻”に紹介され、直ぐに飛んで行きました。行った価値十分で、直ぐに再訪をしたいと決めたお店です。

お店1
こちらが探しに探し、迷いに迷ってやっと到着したお店です。予定より30分遅れての到着でした。

このお店は、ブログ友”乱 駆郎”さんが5月1日にアップされた(1週間に9時間しか開いてない店)でご紹介されたのを拝見し駆けつけました。

但し連休中に駆けつけるつもりでしたが、乱さんの追加情報で連休中はお休みと言うことで、連休が明けて駆けつけたという訳です。(実際に訪問したのは、5月9日、午前11時30分)

連休中店主さんご夫婦は、広い広い”お庭・花壇”の草引きに精を出されていたそうです。

玄関と庭2
これがお店の玄関と、お店の前に広がる花壇です。

駐車場は概ね15台以上は停められるのですが、ワタシがお店を後にした正午過ぎには既に満車。道路で待っている車も。

場所は、西条市内からでも遠く離れ、西条祭りの”楽車”(だんじり)が結集する主な舞台として有名な”伊曽乃神社”(いそのじんじゃ)の近くにあります。

でも通り掛かりに偶然発見した、などということは絶対あり得ない所にお店はあります。

道順3
乱さんの記事で住所(地番まで)が書いてありましたので、最近、記事取材に重宝している”iphone5”のナビに入力し、”ナビ嬢”の音声案内のまま松山を出ました。

ところが、ナビ嬢が例によって「目的地に到着しました!お疲れ様でした」っと案内した場所は、ナント”西条市神戸公民館”の駐車場。うどん屋なんて見当たりません。

乱さんが「ほとんどのカーナビではピンポイント到着は困難」っと指摘された通りの結果に。ただ、その時、偶然そこに居合わせたのが犬のオマワリさん、アッ間違えた”現地のオマワリサン”。

親切に、上に示した”讃岐うどん 結結亭”作成の現地地図をもっと簡単にした、オマワリさん手書きの地図を頂きやっと到着したという経過です。

今後このお店を目指される方は、上に示した地図をご参照下さい。iphone5のナビ嬢には、初めて裏切られました・・・・・。

最近になってブログ友:”ファットマン”さんも”iphone5”を導入なさいました。”ファットマン”さんに一点だけご忠告。

iphone5”の”ナビ嬢”は、とっても優秀ですが、彼女を盲信されることはやや危険です。

メニュー4
さて、乱さんが「1週間に9時間しか開いてない店」と題されたお店のメニューです。

つまり営業しております日時は、木曜日・金曜日・土曜日の11時から14時までの、一日3時間、週の合計は9時間と言うわけです。

そういうお店に相応しく「出来ますものは”うどん”でございます!」っと言っているばかりの様相。

メニュー以外には、奥様が”パン製作教師”の資格を活かして、週の営業日の3日間だけ焼く”パン”(一種類だけ)がカウンターに置いてあるだけ。開店後30分程度で売り切れます。

ご自由に7
これが「ご自由に」と表示された、”昆布の煮物”と”イタドリの煮物”、それに温かいお茶と冷たいお茶です。

このお茶は、何故か”そば茶”でした。なお、確認していませんので違っているかも知れません。

イタドリ他6
上の画像が、「ご自由に」と表示されたテーブルに置かれたものを小皿に取ってきたもの。

出汁に使われた”上質の昆布”を改めて味付けされ煮たものと、春先の野山で採れる”イタドリ”を採って来て一度乾燥して日持ちをよくされたものが煮られています。まあ美味しいのなんのって!何度も”ご自由に”取りに戻る方が多くいたのも頷(うなず)けます。

ワタシがお伺いした午前11時30分。既にお客様が9人程いらっしゃいました。皆さん、ご常連の様子。

しかも、9名の中に男性は2名だけ。皆さん、既にリタイアされ”リタイヤ後”、奥様主導で人生を謳歌されていると思(おぼ)しき方ばかり。

この地にお店を開かれて、今年で4年目を迎えます。私の後にお店に入られたリタイヤ組のご夫婦は待ち席に。

探しに探して、迷いに迷わなければ辿り着けないお店。このお店を目指して来られるお客様方は、皆さん週3日の開店日と開店時刻を待ちかねておられる方ばかり。

ワタシの頭にあった、”飲食店立地”など、全く無意味であったことをシミジミ実感させれれました。

ざる7
さて注文したものは上の画像。”ざるうどん 小”と、”えび天ぷら”。お値段450円と150円の合計600円。

出された”ざるうどん”を見た瞬間、その気品あふれる佇(たたず)まいに胸を打たれました。いただく前から、その存在感と高貴な姿に魅入られました。

乱さんが書いておられたように、「このうどん、食べる前からその美味さがわかる!」っという凛とした存在感があるのです。

麺の肌には艶(つや)と照りと、冷水で締められたことによる微かな緊張感すら漂っています。

まず、視覚ですっかり魅了されてしまいました。周囲は余裕を持った配席なので、待ち席に待っておられるお客さんがいるにも関わらず圧迫感がありません。

お店の窓は、実に大胆に広く取ってあります。広いお庭の花々が、店内にいても心を癒してくれるからかも知れません。

海老天8
こちらが、別注文の”えび天ぷら”です。どうです、上品でしょう。

海老の大きさは”マキ”程度。

マキ”とは、”車海老”の10~15cmのサイズを言います。因(ちな)みに15cm以上のものを”車海老”、10cm以下のものは”サイマキ”といいます。

なぜ海老の大きさを細かく書いたのかといえば、天ぷらにして揚げて一番美味しいとされるのが、”手一束”(ていっそく)」 などと言って、海老を手で握った時に頭と尻尾がちょっと顔を出す大きさという意味で、 約12~13cmの”マキ”だといわれるからです。

その”マキ”が、上質の油でカラッと揚がっておりますので、色白です。上品なうどんには、この貴婦人のような”えび天ぷら”しか似合わない。

薬味9
薬味”一つとっても、瑞々しいではありませんか。切られたばかりのと、これまた摩り下ろされたばかりの生姜が、清々しくにおい立ちます。

この”薬味”を漬け汁(つけつゆ)にタップリと入れますと、これにカツオ(ただし讃岐の出汁は、多くの場合イリコで取られますので、それかもしれません)の香りが加わって、いいお出汁を使われていることが香りだけで分かります。

この薬味をタップリ投入した”漬け汁”(つけつゆ)、辛過ぎもせず、もちろん甘すぎもせず、絶妙のバランスです。今までにいただいた”ざるうどん”の”漬け汁”では最高水準だと思いながら味わい尽くしました。

うどん10
さて、もう一度”うどんの麺”に目を転じましょう。よくご覧になって下さい。

緩やかにざるに置かれた”うどん麺”、よく目を凝らせて見ると”空中に浮き上がっている”ように見えませんか?なぜそう見えるのかには理由があります。

それはこのお店のうどんの””の色と質感にあります。色はまず、”膨張色”とされる明るいホワイト。浮き上がって見える所以(ゆえん=理由)です。

また、光に反射している”照り”です。愛媛県は”真珠”の生産日本一。その”真珠”の価値は、その”照り”(テリ)で決ります。この麺、最高品質の真珠のテリに勝るとも劣らない輝きをしています。

これが、この”うどん麺”がざるから浮き上がって見える理由です。

麺12
このお店は”讃岐うどん”を名乗られています。このお店の麺を食べてみますと、所謂(いわゆる)『腰』があります。

但し、麺を噛みますと、歯が押し戻されます。弾力があるからです。弾力と言っても、お菓子のガムのそれとは全く違います。

愛媛の巷(ちまた)でよく見られる「腰=固い」という悲しい錯覚とは無縁の『腰』です。ガムの弾力とは異質の、口腔内に馴染む弾力です。

このお店をご紹介いただいた乱さんは、この麺をして「弾力性に富んだもっちり感は妙齢のご婦人の二の腕の内側」と表現せしめた。卓見です。

ただし、ワタシは「妙齢のご婦人の二の腕の内側」の感触などトンと覚えておりませんので、ただただ上品で高貴な””だと申し上げておきましょう。

口腔に馴染む麺であり、確かに、どこかで”エロス”を思い起こさせてくれる麺だとも。

麺11
西条”は、江戸期に入るまではずっとお隣”讃岐国”の有形無形の支配と影響を受け続けていた地方です。

中予以南の愛媛とは趣を事にしていて、西条を含む東予地方は地政学的にも讃岐圏と言った方が馴染むかも知れません。

讃岐うどん”を名乗られても何の違和感もありません。讃岐に媚びて名乗られているわけではないことは、うどん麺をいただいて見ればたちどころに分かります。

これなら胸を張って、「讃岐の方々よ、ぜひお食べにおいで下さい!」と言えます。

残念でなりませんでした。もちろん”ざるうどん”胃も心も十分な満足感を持って堪能させていただきました。でも、でも”ざるうどん 小”しか食べられなかったからです。

釜揚げうどん”も”ぶっかけうどん”もいただきたかった!!隣でそれらを食べておられる姿が、今でも脳裏にちらついています。

これはしばらく西条詣でが続きそうです。乱さん、「ご紹介、本当にありがとうございました!



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「再訪 109 魚介系らーめん あずま家」・「愛媛グルメ紀行」 527

今日は、二番町通りで大街道よりは東寄りのミツワ第28ビルの1階にあります”魚介系らーめん あずま家”さんを再びご紹介しましょう。


このお店は”愛媛グルメ紀行”シリーズ154番目のお店として、2011年10月22日に一度ご紹介しています。(「魚介系らーめん あずま家」・「愛媛グルメ紀行」 154


その後何度かお店を再訪しましたが、お昼のランチは止めておられたおられたようで、久しぶりの再訪になりました。


お昼のランチを再開されたという情報は、ブログ友:”ファットマン”さん(ブログ名:ファットマンの松山B級グルメ日記http://ameblo.jp/199170/page-2.html)の4月11日の記事で知りました。

玄関1
こちらが久しぶりに訪れたお店の玄関です。

このお店、”愛媛グルメ紀行”シリーズの154番目に採り上げた記事であることは上に書きました。

実は、それだけではありません。ワタシがこのシリーズを書き始めて、初めて2日連続でお訪ねしたお店でもあります。

その当時は、頑(かたく)なに初回訪問の記事だけを採り上げていた時期でした。ですから2日連続して訪問しても、記事的には無駄になりますが、それを承知で訪問したのです。

そしてその当時、自らが決めていた初回訪問の時だけを記事にするという””を、自らが一度だけ破ったお店です。

つまり、初回訪問時と翌日訪問時の記事を、1回の記事としてまとめちゃったんです。実質”再訪シリーズ”第一号店だったんです。

店内2
ところがこのお店、ある日を境に昼間の営業を止めてしまわれました。


店内に入ってカウンター席に付くなり「昼間の営業を再開されたんですね!」っと、お声を掛けました。


ワタシが初回と二回目訪問した時は、店主さんの他に若い男性が居られたように記憶しています。ところが今回は、店主さんと他に若い女性がいらっしゃいました。


「ええあの時は、昼間営業の人繰りが付かず、止む無く夜間だけの営業に切り替えました。ここにきてやっと人の目処が立ったので、4月2日から昼のランチを再開しました!」という、笑顔の店主さん。

あさりらーめんめにゅー3
さて、ワタシ好みの”醤油ラーメン”系メニューを頼むつもりでお店に入りました。

ところが、目に飛び込んで来たのが画像の”春の限定”と銘打たれた”あさりらーめん”850円です。

まるで”あさり”に魅入られたように「”あさりらーめん”をお願いします!」と注文しました。

ワタシは”愛媛グルメ紀行”を書き始めて、このお店の前のお店まで延べ”526店”を採り上げてきました。

その中で、”ラーメン店”とカテゴリーしたのは過去73店、その他”中華そば”や”チャンポン”など、大きく言えば”ラーメン”のカテゴリーに入れてもいいお店の総数は132店です。

つまり概ね4店に1店は”ラーメン店”にカテゴリーされるお店にお伺いしています。カテゴリー的には一番多い店です。

メニュー4
その”ラーメン関係”のお店132店で、”あさり”をメインに据えられたメニューは初めてお目にかかりました。(132店舗を再チェックしてみました)

しかも”春の限定メニュー”ですよ!  飛びつきましたね。

ワタシが好きなラーメンのスープは、断然”醤油”です。苦手としていた”豚骨系”も、このところ”ブログ友”乱 駆郎”さんとの交流あってのお陰で、何とか普通にいただけるようになりました。(ただし、”獣臭”漂う”久留米ラーメン”を除く)

また、全くいただいたことがなかった””も、北条の”風早ラーメン”(今は”三宝亭”)さんの”塩ラーメン”に出会って開眼しました。

なお”味噌”は今もって論外です。500号を遥かに越える”愛媛グルメ紀行”で、一度も採り上げたことはありません。

ただし、札幌で食べた”味噌ラーメン”は確かに美味しかったし嫌いではありません。札幌は過去に2度行って、2度とも”味噌ラーメン”をいただいて唸りました。

あさりらーめん5
さて、画像の”あさりらーめん”です。スープは””をベースに”バター”が加えられています。

このお店の味のベースになっている”醤油スープ”は、スープ素材の王道のトリガラを中心に、豚骨と瀬戸内海の鯖節や鰹節をジックリに込んだトリプルスープという贅沢なもの。(初回記事から引用)

作り方を見ていますと、麺をお湯に入れて湯掻きながら、小鍋に”あさり”をドッサリと入れて熱を通します。

その間にラーメン丼に”タレ”を入れて、トッピングに選んだ”煮卵”を、麺を湯掻いているお湯に別のザル容器にいれて温めます。

なお、ワタシが行った時は、ラーメン1.5玉の”中盛り”と、2玉の”大盛り”、”煮卵”、そして”白髪ねぎ”のどれか一つをトッピングしても同じ値段と言うサービス期間中でした。ただし21時までの時間限定。

あさりらーめん7
そして、ラーメンが湯掻かれると同時に”あさり”が口を開けます。

大振りのあさり”が口を開いた瞬間にラーメン丼にドサドサ入れて、黒胡椒を粗引きして、海苔や刻み葱、煮卵、シナチクを、麺が見えなくなる位に大量に盛り付けて、最後の画像の茶色い紐状の物を乗せて完成です。

店主さんに「この中央に乗せてある茶色いものはネギの香りがしますが、タマネギをスライスして更に千切りにしたものを油に通してあるのですか?」っとお尋ねしました。

すると「それは”白髪ネギ”を瞬間的に油に通したものです」とのお答え。ネギの風味を失わないギリギリの選択でしょう。唸ります。

スープ
あさりらーめん”を目の前に供せられた瞬間に、”あさりとバター”の香りに全身が包まれます。

あさり”は本来海のもの。春から初夏を迎えるシーズンに、西予市の”狩江”の海岸で”潮干狩り”をした記憶が、一瞬にして脳裏に蘇りました。

そして、小学校低学年と中学3年生の時に通った郷里の”野村町”、”シルクとミルクの町”です。

ワタシが子供の頃は”野村町”には”明治乳業”の工場があって、そこで”牛乳”や”バター”等の乳製品が作られていました。

それが、目の前で鮮やかに香りとして蘇りました。体の奥底から湧き出る衝撃に身を包まれながら”スープ”を口にしました。

ただし、子供の頃過ごした郷里を思い出させていただいたから、美味しいと言っている訳では全くありません。

「・・・・・・・」声にならないのです。この”芳醇な海と山の幸”を、見事に合わせられた。この”あさり”には、個性が強い醤油や豚骨は合わないでしょう。味噌など論外です。シッ!

唯一合ったのが、味のベースはしっかりととった鶏がらと豚骨と魚介のトリプルスープ。そこに、絶妙に””で味を調え、最後にバターで豊かな風味とコクを加えられた、

正に”絶品”です。

あさり9
この大振りの”あさり”が、一体何個入っていたでしょう。


蜆(しじみ)の味噌汁”に於ける”蜆(しじみ)”の役割りは、味噌汁に出汁のコクを加える役目ですから、シジミの味噌汁をいただく時はシジミの実は食べません。出し殻だからです。


ところがこの”あさりらーめん”に於いては、”あさり”は堂々と主役を張っているのです。もちろん、あさりの身も、貝柱を残して全部いただきます。まあ美味しいのナンノッテ!!

煮卵10
こちらはトッピング(今はサービスで無料)で選んだ”煮卵”です。


もっと卵の黄身がドロドロの半熟を好まれる方もおられるでしょう。


でも、ワタシはこの程度の煮方が一番好きです。

麺11
最後に"”です。何と”平打ち麺”を使っておられました。以前にいただいた”醤油ラーメン”や”漬け麺”とは明らか違います。


以前いただいたのは、今から1年半前でした。でも明確に麺の食感は覚えております。


店主さんに「この麺は”平打ち麺”を使われていますね」っとお尋ねしました。


すると「ええ、”平打ち麺”を使っております。当然に”醤油らーめん”も”漬け麺”も、それぞれ別の麺を使用しております」とのお答え。当たり前でしょう!っという感じです。

完食12
もう、何も言わなくてもいい。タダタダ美味しいだけです。スープも何も、器を両手に持って、ズルズルと啜りました。”完食”です。


全く”別次元”のお味でした。どのお店との比較も出来ません。


このお店にしかない”ラーメン世界”です。

あさり殻13
このお店の”ライバル”を考えました。

もし、唯一このお店の”ライバル”となり得るお店は・・・・・・・・・・

二番町通りで大街道よりは東寄りのミツワ第28ビルの1階にあります”魚介系らーめん あずま家”さんだけでしょう。

つまり、ご自分のお店だけでしょう。

どういうことかと言えば、ご自分が進化を止められた瞬間からこのお店を追い越すお店が出現するかも知れないということです。今はまだ進化の過程にあります。

同じことは、ワタシのお気に入りのスパゲティー専門店”フォンターナ”さんにも言えることだと思います




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「再訪 110 中国料理 龍(ロン)」・「愛媛グルメ紀行」 528

今日は”再訪シリーズ”の110番目のお店として、中国料理の名店”龍(ロン)”さんをご紹介しましょう、3度目のご紹介です。


一番最初に採り上げたには、一昨年5月26日にシリーズの52番目のお店として、二度目は昨年8月14日に、”再訪シリーズ”15番目のお店、通算353番目のお店としてご紹介しました。(「中国料理 龍(ロン)」 真っ当な「B級グルメ店」 51)・(「再訪15 龍(ロン)」・「愛媛グルメ紀行」 353


場所はこれまでのおさらいで、「県道松山伊予線」の小野川に架かる”吉木橋”を南に進みますと、椿参道に”赤い大鳥居”が見えてきますが、その信号の南西角にあります。


このお店は、ブロブ友”ファットマン”さんや、ブログ友の”乱 駆郎”さんもご推薦のお店です。

玄関1
こちらがお店の玄関です。このお店、記事として採り上げるのは3回目ですが既に何度もお訪ねしています。


個人的感想ですが、城南地区では有数の”名店”だと思っています。開業して10年のお店です。

店内2
店内画像ではお客さんを写していませんが、正午を過ぎればどっとお客さんの数が増えます。


交差点の角で目に入りやすいということもあるのでしょうが、ほとんどのお客さんがこのお店の料理の確かな味を求めていらっしゃっているのだと思います。

鶏糸湯麺5
一番最初、このお店をご紹介した時に選んだのが上の画像の”鶏絲湯麺”です。多分、”チースータンメン”と読むのではないかと思います。お値段は735円でした。

これ以降様々なメニューを楽しみましたが、画像の”鶏絲湯麺”が、このお店ではトップメニューだと思います。事実、お店ご自身も”おすすめメニュー!”と赤い文字で書いておられます。

このメニューの最大のポイントは、スープの”上湯”(しゃんたん)だと思います。それは、鶏、豚や牛の肉、それに中国ハムなどを贅沢に煮込んだスープで、”透明で上品”な味が特徴です。

坦々麺5
2回目にご紹介した時に選んだメニューが、この”坦々麺”のランチです。

メインの”坦々麺”にご飯と小鉢と”杏仁豆腐”が付いてお値段は750円(内税)です。”坦々麺”を単品で頼むと735円(内税)です。随分お徳になっていますから、ほとんどの方が”ランチ”を頼んでおられました。

このお店の得意料理は”四川料理”でもありますから、さすが!というお味でした。

麺メニュー4
こちらが、”麺・飯類”メニューです。でも、今まで麺メニューしか頼んだことはありません。

また現時点では”ランチメニュー”がお徳だとは分かっていても、胃袋的に無理なので単品メニューを選びました。

今回選んだのは”什景湯麺”(スーチータンメン)の単品、お値段735円(内税です)

五目汁そば5
こちらが頼んだ”什景湯麺”(スーチータンメン)、お店では”五目入り汁そば”と呼んでいます。


一般的には”五目そば”と呼ばれているメニューです。


麺はストレート細麺、スープは片栗粉でトロミが付いています。中国香料独特の香りが真っ先に鼻腔を刺激してくれます。

五目汁そば6
具材は実に豊かです。白菜、緑色の中国野菜(名前は分かりませんでした)、ヤングコーン、マッシュルーム、タケノコ、長芋、ニンジン、キクラゲ、豚肉、イカ、海老と、確認できただけでも10種ありました。


”五目”ならぬ”十目”でしょうか。スープにトロミが付いていますので、麺にスープや具材が絡んで、同時に口に入ってきます。

スープ8
スープには何やら刻まれた香り高き食材が使われており、それが何かは分かりませんでしたが味の決め手になっています。

更に、全体は”五香粉”(ウーシャンフン)の香りでしょうか?ちょっと正確には表現し切れない香りに包まれた”什景湯麺”、見事だとしか言いようがありません。

アップ7
このお店の場合、何時来て何を選んでも”外れ”がありません。調理人さんの熟達した料理技術とセンスに、何時も唸らされます。(私は素人ですから、具体的なことは分かりませんが)

店内も、何時も整理が行き届いていて清潔です。

ここのお料理の水準はちょっと飛びぬけていると思いますが、お客さんはそれを気軽に談笑しながら愉しんでおられます。

これからも、何度も足を運ぶお店です。今度こそ、飯料理に挑戦したいと思いながらお店を後にしました。




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「再訪 111 松屋」・「愛媛グルメ紀行」 529

お店に入ると、いきなり「アア、久しぶりやったなー!」と声を掛けられた。


そのお店は、昨年2月17日に”愛媛グルメ紀行”の228番目のお店としてご紹介した、”松屋”さん、本町7丁目の山越交差点東南角にあります。(「松屋」・「愛媛グルメ紀行」 228


お店は”創業明治38年”で、今から108年前のこと、”愛媛グルメ紀行”シリーズで採り上げたお店の中では最も歴史があるお店です。

玄関1
こちらがお店の玄関。目立たないお店ですが、松山の城北地区に住んでおられる方で、ある程度年齢がいった方なら知らない方はいないのではないか?という老舗”食堂”です。


明治の創業当時は”米屋”としてスタートし、途中から”旅館”に業種を変え、更に”旅館”を続ける傍らで”食堂”を併営されていた時代が続きました。

メニュー2
戦時中も営業を続け、旅館と食堂の併営が出来ない決まりが出来た後は”食堂”を残し今日に至っています。


1年3ヶ月振りにお訪ねすると、いきなり「久しぶりやネー!」と声を掛けていただいた今の女将さんは”4代目”です。


前回は大よそ30年ぶりにお訪ねしましたが、その時もまだ若かった頃の私を覚えていただいていました。


このお店の時間の経ち方は、実にっゆったりです。

いなり類3
お店を入るとすぐ左手にこの”寿司ケース”があって、”いなり寿司”や”巻き寿司”、更には”ばら寿司”が並んでいます。


このお店の”巻き寿司”は、極めて個性的です。ワタシは”巻き寿司”大好き人間で、市内で”巻き寿司”が美味しいといわれているお店のほとんどを食べてきましたが、このお店の”巻き寿司”が一番甘い!


何の甘さかと言えば、巻き寿司に巻き込んである”えびそぼろ”の砂糖の甘さです。これは、”美味しい=甘い”という時代を潜り抜けてきたお店に共通した味作りです。

鍋焼きうどん6
前回いただいたのが上の画像にある”鍋焼きうどん”です。


このアルマイト鍋に入って出てくる”鍋焼きうどん”も極めて甘いんです。


大鍋で大量に炊く牛肉は、最初に少量の砂糖で甘く味付けし、アルマイト鍋に移した後にもほんのちょっとだけ”砂糖”を加えれば、明治大正時代から続く”秘伝甘口出汁”の出来上がり。 

中華そば4
さて今回頂いたのは、このお店の三本柱メニューの一つ”中華そば”です。お値段は”鍋焼きうどん”と同じ500円です。


このお店の三本柱メニューとは、ワタシが勝手に思っているだけですが”鍋焼きうどん”と”中華そば”、そして”巻き寿司”だと思っています。


その根拠は30年以上前から今日に至るまで、このお店に入って他のお客さんの食べているメニューが”鍋焼きうどん”と”中華そば”に集中しており、持ち帰りのお客さんのほとんどは”巻き寿司”を注文されているとの観察結果からの判断です。

中華そば5
画像の”中華そば”、このメニューに限って甘くありません。


4代目の女将に「このスープは、”豚骨スープ”なんですね!」と声を掛けました。


すると「ウフフフ、うん”豚骨”と”鶏がら”よ!それに大量の野菜やね!」っと胸を張られる。


食堂の中華そば”というより、中華料理店、あるいは豚骨スープがウリのラーメン屋の味に近い味でしょう。実にシッカリした骨太のスープです。

アップ6
具材は、炒めた”豚肉”とタマネギ、ニンジンと白菜、それにカマボコ2切れです。後は刻んだネギだけと、至ってシンプル。


”だって、決して特注したような麺ではなく、ゴクありきたりの”中華麺”です。


ところが、これらが合わさったこの”中華そば”、”ラーメン専門店”のそれにも決して見劣りがしない出来です。

麺7
美味しく麺を啜っていると、4代目の女将が「今はナニされとるんー?」っと話しかけてこられた。


「うん、今は半分遊んドルンヨー!まあ勝手気ままってとこヤネー!」とワタシ。ここの女将は、ワタシの前前職をご存知です。その頃からのこのお店への出入りですから。


ウンウンそれがエエそれでエエンヨ!今まで真面目に、几帳面に働いてきたんやケーーン」と女将。


「私らもナーー、今では昼の2時までヤリヨルンヨー。2時がきたらお店閉める。そりゃー、昔は夜の9時、10時まで店開けとったけどなー。今は2時がちょうどいいんよ!」と。


このお店は今の4代目で終わり。後継者はいない。


ゆっくり、のんびり無理せずにやられて、少しでもながーーー~く、続けて欲しい。切実にそう思います。




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「愛媛グルメ紀行」を振り返る 61

今週の土曜日も”愛媛グルメ紀行”シリーズを振り返ってみましょう。

今日振り返るのは、一昨年の12月初めのころアップした181号から183号までのお店です。


先ず最初は、一昨年12月2日にご紹介した181番目のお店で、千舟町2丁目、ホテルNO.1松山の南向い側の黒光コープ千舟第二ビルの1階にある”中華料理 台北”さんです。(「中華料理 台北」・「愛媛グルメ紀行」 181

店内では、厨房に親父さんとその息子が入り、フロアー係りに女性が一人、合計3人で切り盛りされています。

玄関1
お店は、千舟町通りに直接面してはおらず、別の居酒屋さんの奥なので、ちょっと分かりづらいかも。

でも、ワタシがお店に入ったのは丁度12時のお昼時。既に店内は満員で、相席は当たり前、店内で立って待たされました。

店内はギューギュー詰めな状態です。客層も様々。お客さんは、このお店が美味しくて安いことをよく知っておられる方ばかり。

ランチ3
ワタシはBコースの”本日のサービスランチ”を注文しました。

お客さんの9割以上が食べているのは、お店の入口に手書きで書かれている”本日のサービスランチ”の2種類のようでした。

Bは、メインが”揚げそば”、それに”えび天”と”から揚げ”がチョイスでき”ライス”が付いています。どちらも、お値段は650円。

エビ天”の衣が、実にフワフワ・モチモチなのです。これまでに味わった経験がない、独特の食感です。海老はもちろんプリプリで、お塩で頂きます。

唸るほどではないと思いましたが、とにかく安くて程よく美味しい。流行るわけです。

でもこのお店は再訪しません。狭い店内はタバコの煙が充満していたからです。


二番目にご紹介するお店は、一昨年12月5日にシリーズ182番目のお店としてアップした、衣山1丁目の”パルティーフジ 衣山”の中にある、長い長い店名のうどんやさん”伊予の手造りうどん 名代 つるちゃん衣山店”さんです。(「伊予の手造りうどん 名代 つるちゃん」 ・「愛媛グルメ紀行」 182

このお店は、松山の飲食業界では成功組でもトップクラスではないかと思う”タケシカンパニー”さんが手がけたお店です。

これで、このグループは”イタリアン系”、”洋食系”、”和食系”、”焼肉屋”、そして”うどん屋”と、飲食業界を総なめの勢いです。

玄関1
さて、どの系統も成功を収めているグループが手がけた”うどん屋”さんの出来はどうか?確かめてきました。

このグループが、”うどん”と”出汁”と”かやく(具材)”の三本の柱で構成されているシンプル系の”うどん店”をどう作り上げたかが興味の焦点です。

釜揚げうどん6
注文したのは”釜揚げうどん”です。

うどんそのものの出来具合を確かめるには、シンプルなメニューに限るとの判断です。

お値段は、650円、しかも外税ですから支払い時には683円。なるほど、伊予のうどん屋さんの値段体系まで研究されていて、それをきっちり踏襲されています。

程よい”モッチリ感”があって、小麦粉の味もしっかり引き出されています。

「さすがダナー!そつがない、破綻もない、丁寧に作ってある、伊予人の好みを探求した跡はよく出ている」というのが、食べた感想。

お出汁も、瀬戸のイリコを使って丁寧に取ってある。うどんとの相性もいいし、薬味とのバランスもいい。

でも超個人的な感覚から言えば、ワタシのお気に入りの萱町のうどん屋さん”どん”さんの”釜揚げうどん”には足元にも及ばないと思いました。

比較以前の、次元の違いです。(なおくどいようですが、これは”味の好みは千差万別”という世界に於ける、ワタシの超個人的感想に過ぎないことをお断りしておきます。このお店の”釜揚げうどん”がこよなく美味しいという方がいて当然でしょう)

ワタシ的には当然に再訪はしません。再訪する魅力を”カケラ”程も感じなかったからです。この程度の味で”名代などと名乗って頂きたくありません。


最後にご紹介するのは、一昨年12月6日にシリーズ183番目のお店としてアップした、朝生田町5丁目、”カフェアンドダイニングバー haco”さんの南隣にある”海鮮闇市場 魚呂魚呂(ぎょろぎょろ)”さんです。(「海鮮闇市場 魚呂魚呂」・「愛媛グルメ紀行」 183

ワタシは本来、””は苦手で、特に生魚である”刺身”(ただし、カツオやマグロなどの赤身の魚を除く)以外ははほとんど食べません。

生魚を食べることが出来る唯一例外は、酢飯の上に刺身を乗せた”寿司”だけです。

玄関1
お店の場所は、南環状線の一本南側の東西に伸びる道路、”ジョープラ”のやや西側にあります。(ただし現在お店は違うお店になっています)

海鮮丼4
注文したのは、10種類の”刺身”が乗っているという”闇市海鮮丼”です。お値段1000円です。

出てきたのは、その”海鮮丼”に”お吸い物”、それに”香の物”と、丼に掛ける生卵入りのタレです。

生魚が苦手なワタシも、酢飯の上に乗った刺身を、卵掛けご飯にして、”ビビンバッップ”風にかき混ぜて食べれば、美味しく頂けます。

刺身の内容は、”イカ”・”ホタテ”・”甘えび”・”マグロ赤身”・”鯛”・”ハマチ”・”ウニ”・”イクラ”・”サーモン”と、ここまでの九種は分かりましたが、後一種の”白身魚”の名前は分かりませんでした。

「やっぱり、”ニク”だよ!ナーー」と、心の中で叫びながらお店を出ました。

それでこのお店は再訪できません。既にお店は他のお店に代わっていますので。



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「松山市の地名・町名由来」・ 「馬木町・高木町他」 9

松山市の地名・町名由来」の第9回目は、松山市北部に並んである「馬木町」(うまきちょう)と「高木町」(たがぎちょう)をご紹介しましょう。


上の2つの町の町名の共通点は””という文字が含まれていることです。


ところが同じ””でも、その””の意味することが全く違うのに両方の町は並び合う様な位置にあります。


そこが面白いと思ったので、2つの町の由来を並べてご紹介することにしました。

馬木・高木標識1
この画像は、「馬木町」(うまきちょう)と「高木町」(たかぎちょう)が並びあった位置にあることを示す”町名標識”です。


松山市内から北条を通って今治に向かう、196号線に沿うように2つの町は並んでいます。

馬木池5
この画像は、その「馬木町」の象徴的な池である”馬木池”の今の様子です。最近区画整理が実施されて、新しい町並みが出来つつある地域です。


実は今の「馬木町」一帯は、昔は”雑木林”が多く点在していた地域だったそうです。


そこで、松山から北条を越える峠一体で焼かれた炭を松山に売りに行くために、””の背中一杯に炭を背負わして山から炭焼き人が下りてきます。(炭だけではなく、米や野菜など様々な物を馬に乗せて山から下りてきた)


その時に、山から下りてきて””を雑木林の””(枝)に繋(つな)いで一休みしていたのが今の「馬木町」。それが結局、町名の由来となったというわけです。

高木町標識1
こちらは「高木町」を表わす集会所の表示板です。


この「高木町」も「馬木町」同様に、””という文字が含まれています。


ところがこの「高木町」の”木”は、「馬木町」のような雑木林の””が由来ではありません。

高木町高音寺3
高木町」の由来となったのは、高木町にある”高音寺”(こうおんじ)にかつてあった、高い一本の”松の木”が町名の由来です。


この画像が、今の”高音寺”と、一本の高い木の様子です。由来となった”松の木”は枯れましたが、その後に高い木が育っています。(樹種名は知りません)


全国で”松の木”が地名の由来となったところは数多くあります。「一本松」だとか「三本松」など。


この様に、その地域にあった象徴的なものを”地名・町名”の由来にしている所は他にも多数あります。


その全部はご紹介しきれませんが、別の機会にご紹介したいと考えています。


さて、来週の第10回目は、松山の西にある「味酒町」(みさけまち)と、そのお隣にある「萱町」(かやまち)と、町名ではなく地区名である「味生地区」(みぶちく)をご紹介します。




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「十割そば 竹ばやし」・「愛媛グルメ紀行」 530

今日は、西条市洲之内にある蕎麦の名店”十割そば 竹ばやし”さんをご紹介しましょう。

国道11号線を新居浜に向かうと、西条市で石鎚山側に”湯之谷温泉”方面に入った奥にあります。

言葉で場所を説明するのは難しいので、後でアップするお店の”案内書兼メニュー表”にある近傍図をご覧になって下さい。

このお店は、久万高原町在住の”兒玉さんご夫妻”にご紹介されました。ご主人は木工作家さん、奥様は漆芸家というご夫妻です。

ご夫婦には、今までに久万高原町の”キッチン スプーン”さんと”うどん 心”さん、それに松山市内の”茶房 ひょん”さんと西条市の”西條そば 甲(きのえ)”さんという超個性的且つ”名店”の4店をご紹介いただいております。

お店1
こちらが、探しに探してやっと辿り着けたお店です。

その立地たるや、ブログ友”乱 駆郎”さんにご紹介していただいて、5月21日に”愛媛グルメ紀行”シリーズ526番目のお店としてアップしたばかりの”讃岐うどん 結結亭(ゆうゆうてい)”さんに匹敵する、あるいはそれの数倍難しい所にあります。

このお店をご紹介して頂いた”兒玉さんご夫妻”に同じくご紹介して頂いて、既に5月7日にアップしました”西條そば 甲(きのえ)”さん(「西條そば 甲(きのえ)」・「愛媛グルメ紀行」 522)さんも、一般的に言えば三流地に立地していましたが、それでも市街地でした。

裏庭2
でもこのお店は、”お客様に分かり安い場所に出店し、多くのお客様に来ていただきたい”という価値観より、”自分がお客様に味わっていただきたい”お蕎麦”を提供するには、どういう場所ならそれが可能か?”をトコトン考えられてこの地に1年半前に開店されました。

その店主さんが考えられた”どういう場所なら自分のお蕎麦を提供できるか?”という内容は、後ほどご説明します。

この画像は、お店(兼自宅)の裏庭の風景ですが、この風景を覚えておいて下さい。(細部まで)

この画像に、このお店がここに出来た原因が秘められていました。それは後ほど。

店内3
店内は広々としていて、お客様が座る椅子は実にゆったりと余裕を持たせた配置です。

あくまでも天井は高く、店内から見える風景は素朴な山村のそれでです。

ワタシがお訪ねしたのは、道に迷いながら行きつ戻りつして、丁度正午頃に到着しました。

探しに探しても、容易には辿り着けないこのお店に、先客が一組。ある職場の上司と部下と思しき妙齢の男女のカップルです。どういうご関係かは、今回のテーマから外れます。

なおこのお店の営業日と営業時間は、木曜日・金曜日・土曜日・日曜日の、午前11時30分から14時までの一日2時間半、一週間で僅か10時間だけ。

ブログ友”乱 駆郎”さんにご紹介していただいた”讃岐うどん 結結亭(ゆうゆうてい)”さんに対する、乱さんのネーミングを拝借するなら”1週間に10時間しか開いてない店”ということになります。

その理由も後ほどご紹介します。その理由をお聞きになると、「・・・・・・・」っと、何方(どなた)も想像も出来ない理由に遭遇されて、ただただ無言で立ち竦(すく)むだけとなるでしょう。

メニューと案内4
さてこのお店、メニューは基本的には二つだけ。”もり”と”つけ鴨”と呼ばれている”十割そば”の二種類だけ。

しかも北海道産の”国産蕎麦粉”だけを使い、そば粉100%、つまり”十割そば”(別名”生粉打ち”<きこうち>)だけを出しておられます。

そこで注文です。「うちは基本的には”もり”と”つけ鴨”しかございません。どちらになさいますか?っと店主さん。

「せっかくここまできたのですから、その両方をお願いします」っとワタシ。”十割そば”なら、その一人前の分量を2人前位は平気でいける!っと、この時点ではそう思って注文しました。

その時の店主さんの、やや困惑した表情の意味を知ったのは、食べ終わった後のことでした。

つけ鴨特盛り5
ワタシが注文した後で、店主さんから以下の提案がありました。「では、”つけ鴨特盛り”をお出しして、それに別に”つけ汁”(つけつゆ)をお付けしましょう。それで両方の味を楽しまれてはいかがでしょうか?」っと。

ワタシが注文した通りに出していただくと、お値段は2000円に。店主さんのご提案ではそれが1900円に。しかも”つけ汁”は、恐らくサービスでお出しになるおつもりでしょう。僅かなことではありますが、ここに店主さんの心意気を感じました。

上の画像が、”もり”用の”つけ汁”を追加される前の”つけ鴨特盛り”の姿です。この時点で「オッ!」っと、小さな衝撃が走りました。

「そばの量が・・・・・・   。しかもこれで”十割そば”!!」声が自然に漏れてしまいました。

そば6
このそばの瑞々しさをご覧になって下さい。しかも、西条の名水・冷水でしめられていますので、そばには”凛とした佇(たたず)まい”すら感じます。しかもそばの量が多い。”十割そば”の”もり”単品なら700円

5月7日にアップした、同じ西条市にある”西條そば 甲(きのえ)”さんんでは880円。量はこのお店の概ね三分の二。でも甲(きのえ)さんの価格も随分良心的価格です。

このお店は厨房仕事から、お蕎麦の上げ下ろし、洗い物まで全て店主さんお一人でやっておられます。

しかも、腰を抜かすほど驚いたのは、”もり”を入れる(ざる)も、お茶を入れるも、薬味、つけ汁(つけつゆ)を入れるそば猪口(そばちょこ)まで、全て”竹製”ですが、「これら全部私の”手作り”です」っと、サラッと仰る店主さん。

後ほど、手作りの器類の全容はお見せします。

鴨7
こちらが”つけ鴨”の、つけ汁です。まあ大きな椀に、太葱を炙って香りを出す為に包丁目が入れられているものと鴨の胸肉(だき身)がタップリ入っているではありませんか。

思わず目を剥きました。しかも、葱と濃厚な出汁と、鴨の脂身の香りがどっと鼻腔を襲います。

ここまで”豪儀”(ごうぎ=いせいがいいこと)な盛り付けには、出会ったことがありません。

「この太葱、きちんと炙ってあるので甘さが引き立っていますね!」っと、店主さんにお声をかけました。

先客のカップルがお店を出て、出されていた器などを厨房に下げられ洗い物が一段落した頃合を見計らってお声をお掛けしました。

「ありがとうございます。今朝、そこ、ええ、その裏の畑で抜いてきたばかりですから」っと店主さん、さり気無く仰った。

山葵と麺8
この時点では”もり”用に特別に付けていただいた”そば猪口”が二つと、摩り下ろしたばかりの”山葵”(わさび)と”辛味大根”、それに”刻み葱”が、竹製の器に乗って供せられていました。

”もり”用に”そば猪口”を二つ用意されたのは「”もり”でそばをいただくとき、山葵と辛味大根がそば猪口で混じりますと、それぞれの特徴がうまく合わないので二つ用意させていただきました」っと店主さん。

その心遣いは実に細やかですし、しかもといいますか当然といいますか、薬味のいただき方にまで細心の注意を払っておられます。

さっそく、そば猪口の一つには辛味大根を出汁に溶き、もうひとつのそば猪口には出汁だけを注ぎいれ、山葵は例によっておそばに直接食べる分だけ付けていただきます。

まず”鴨のつけ汁”は、驚くほど濃厚、かつ鴨肉の美味しい脂分が溶け出ていて香気香る出汁となり、淡泊なそばを引き立てています。

もり”でいただいた”そば出汁”は、ちょっと直立不動になる位に”辛い”。

甘かったり薄かったりの関西風出汁に慣れている方は、「ウッ!」っと息を詰められるでしょう。でも正に関東風の、そばを活かしきる出汁です。

手製そば猪口9
「先ほど、太葱は裏の畑で・・・っと仰いましたね。しかもざるやそば猪口などの竹製の器類も全て手作りだとも!」っとワタシが再度確認しました。

すると平然と「ええ、この刻んだ葱も”辛味大根”も、全て裏の畑に自分で植えて育てて収穫したものをその日に使い切るだけ朝、引き抜いてきます」と。

・・・・・・・・言葉になりませんでした。

「食器類は、山で竹を切り出し乾燥させて細工して作ります。お料理では、無農薬の自分で作った野菜を食べていただきたいのです。でも全ての食材を自前で、というのは不可能なので蕎麦粉は”北海道産”のものを特別に仕入れていますし、山葵は静岡、鴨肉は京都から仕入れています」

「ですから、週に4日しか営業しませんが、他の日は食器作りや畑仕事が忙しいので、この4日営業が精一杯なんです」

「ええ、ここにお店を出した理由ですか?それは、この広さと水の確保が同時にできるのはここしかなかったからです」

「松山で畑付きで水のいいところを、これだけの面積で確保しようと思ったらお店は出来ませんし、このお値段では客様に提供できません。自然にここに落ち着いたんですよ」っと店主さん。

完食10
この店主さんの思いを全て心からいただきました。そして何よりも”お蕎麦”自体が絶品!でした。

店主さん自身が「私は毎日このそばを食べますが、そばだけは飽きませんね」っと、心から蕎麦を愛していらっしゃる。

そして量がタダモノではなかったので、最後は苦しい思いをしながら完食しました。もちろんそば湯をいただいて、”もり”の出汁に刻み葱を浮かせてお吸い物としていただきましたし、鴨汁(かもつゆ)にも蕎麦湯を足して飲み干しました。

ワタシが完食したのを見ていたかのように、次の夫婦一組がお店に入られました。そば屋さんで、全部で1時間かけていただいたのは初めての経験です。

何で?????久万高原町にお住まいの”兒玉さんご夫妻”は、こういう隠れ家的な名店をご存知だったのでしょう?

しかし、とにもかくにも「兒玉さんご夫妻」様、本当に名店をご紹介いただきありがとうございました!!

なお、何故か”そば屋”に出会うと、ワタシ自身が饒舌(じょうぜつ=おしゃべり)になってしまいます。

そば屋には”能書”が多いと、何時も書きますがワタシ自身が”そば屋”さんを訪れたときは”能書”だらけになります。不思議でなりません。そしてゴメンナサイ!


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「再訪 112 うどん 麦わら」・「愛媛グルメ紀行」 531

今日は”再再訪”のお店です。それは、通称椿神社裏参道を南下し、椿神社西大鳥居がある交差点を西に曲がりドラッグストアー”マック”の南側の西沢ビル1階にある”うどん 麦わら”さんです。

このお店を一番初めに採り上げたのは、昨年9月6日に”愛媛グルメ紀行”シリーズ370番目でした。そして再訪したのは今年の2月28日、”再訪シリーズ”86番目、通算485番目のお店としてアップしました。(「うどん 麦わら」・「愛媛グルメ紀行」 370)・(「再訪 86 うどん 麦わら」・「愛媛グルメ紀行」 485

そして今回”再再訪”したのは、ブログ友:”ファットマン”さんの5月21日の記事(麦わらでとり天ぶっかけ(冷かけもあるでよ))の記事を拝見して、直ぐに飛んで行ったのです。

普通は1ヶ月先の記事アップになるのですが、このお店は特別です。訪問してほとんど日を置かず、本日アップとなりました。その位、皆様に一日でも早くお伝えしたかったのです。その理由を以下に書きます。

玄関1
これがお店の玄関。

このお店は3度目ですが、過去の2度ともその味というか出来栄えに感動させられました。

そこに”ファットマン”さんの、「いよいよ”夏うどん”到来!」の一報です。

昨年は、ブログ友:”乱 駆郎”さんの、「冷たいうどんと冷たいラーメン」の大騒動でした。(極一部のことであったかも知れませんが)

外メニュー2
「おおお!そうだった。もう夏到来なんだ!」っとばかりに、息せ切ってこのお店に駆けつけたというわけです。

という事情でこのお店の記事によって、「私の”冷たいうどん”と”冷たいラーメン”シリーズの幕開け」を宣言いたします。

などとグダグダ言いながらお店の玄関ドアを開けようとした瞬間、目に飛び込んできたのがこの”季節限定メニュー”(夏用メニュー)のメニュー表。

胸沸き血躍る”(むねわきちおどる)ではありませんか!(え?躍らない?ヘンだな・・・・)

おでん桶3
取り合えず席に着いて、改めて”季節限定メニュー”を見回しました。

何と!冷たいうどんメニューがファットマンさんの記事通り、24メニュー揃っています。その内、”ざる”や”ぶっかけ系”が19メニュー、冷たい出汁に入っている”かけ系”が5メニューという内容です。

さっそく”えび天ぶっかけ”を”ひやひや”で注文した。”ひやひや”というのは、うどんも出汁も冷たいもの。750円。

そして、迷わず”おでん桶”の前に立った。

おでん
手にしたのは、今まで余り選んだことがない”コンニャク”と”鶏つくね”で、それぞれ1本90円。

いい出汁が使ってあって、”コンニャク”はあくまでプリプリ、”鶏つくね”は中味ジューシー。

もうこの段階で、笑顔がこぼれるのを抑えられない。

えび天ぶっかけ5
サーーテ、出てきた。これが”えび天ぶっかけ”の”ひやひや”。熱いのは、揚げたての”海老”2本。

まだ、ジージー音を立てている。「うふふ、エビ君、待っておれ!美味しく食ってやるから!」と、チラッと一瞥を加えた。

この端正な盛り付けと、鮮やかな色使い!盛り付けも、店主さんのセンスが存分に生かされている。

えび天ぶっかけ6
冷たい出汁が張られた中に、冷水でキチンと締められた細身の、しかし艶やかなうどん嬢が控えている。

美脚を放り上げて、空中で足を組んだかのような”えび天”が2本。葱の白い部分と蒼い部分の中間部位を斜めに細切りし、ちょっと水で晒してエグ味を抑えてある刻み葱。

レモンの櫛切りが1片と、降ろされた大根がタップリかかっている。蕎麦をいただくときの、”辛味大根”ではないから辛くない。

かと言って、甘い青首大根では味がボケる。辛さの勝った夏大根の辛さを殺してしまわない程度に絶妙に摺り降されている。

えび天7
余りワタシがシゲシゲと、しかも”物欲しげ”に見つめたものだから、”海老”の尾が赤く染まってきた。

最初の”えび天ぶっかけ”の画像2枚と、上の”海老”の尾だけの画像では、赤さが変わったこと、お気づきですか?

実は、優れた”天ぷら”は、油から引き上げられた後も余熱でジンワリ揚がっているのです。腕のいい天ぷら職人さんは、油から揚げた後の余熱での揚がり具合も計算されています。

「ウフ・・・」と、海老が身を捩じらせたような・・・・・これは白昼夢なのか?

アップ8
この後、待ちきれなくなってレモンを絞り、海老も大根おろしも葱もうどんも全てグチャグチャにかき混ぜますが、これが端正な盛り付けの最後の画像です。

全体に出汁が廻って、うどんには大根おろしが絡んで、そして”えび天”の天ぷらの衣から旨い油が全体の味を成熟させてくれたら、後は一気呵成、積極果敢、無我夢中でうどんをかっ込む。

このうどんの””、スレンダーボディーだけれども、とってもしなやかで艶やか。西条のうどんの隠れ名店的な名店である”結結亭”さんの””は、実に男性的でなおかつ練れた大人の麺だった。

このお店の麺は、確実に女性的であり、しかも知的な魅力を内に秘めているから、決してフニャフニャなんてしていない。

伸びて曲がってしなって、大根おろしの薄辛さをシッカリ身にまとっているから、軟(やわ)な男では到底適わないという強(したた)かさを秘めている。

七味9
ワタシは、お店に予め汎用的に備えてある胡椒や七味や山椒などは使わない。もちろん、醤油を足したりもしない。ましてや、テーブル塩などは金輪際使わない。

でも、フッと心の中に悪魔が忍び込んだ。余りに艶やかで美しく、しなやかで強い、そして完璧に唸り声が漏れ出るのを抑えきれない””に嫉妬してしまった

「ふふふ・・・・この美しくも照り輝いている””に、このオドロオドロシイ”七味”をかけたら・・・・そのままの表情を、            悪魔が囁いた

すると驚いた事に、「ウフフ・・・・ジャァー・・・やって見る?^^     」と”麺嬢”囁き返してきた。

ムキになって”七味”をぶっ掛けてやった!「どんなもんヤ!」っと、やや勝ち誇って。

ところが「じゃあ 食べてみて!^^」って言うので啜(すす)りこんでやった!

「ウッ!!・・・・ウ・・・フ~・・・」っと、声にならない。見事に大人の女性に一気に成熟しきっていた。

「オッチャンの負けヤ!、アンタには適わんワー・・・ふふふ、でもありがとう^^色んな女性の一生を垣間見せてくれたんだね!」と、素直に頭を垂れた。

完食11
もう全くもって”完敗”でした。完膚なきまでに打ちのめされた。でも、でも、それが実に心地いいではありませんか。

そして、意地汚く舐めて啜って”完食”。スリリングな勝負でした。爽快な勝負でした。

自分は彼女(麺)に打ち負かされたのか・・・・。そうならそれでいいではないか。

「文句なんてないよ!   ウン  アリガトサン!また会いに来るよ^^

勘定を払う時、フロアー係りの若い女性に「直立不動で立ち上がる位に美味しかったです!ご馳走様でした」と正直に告白した。

玄関を出たら、一足先に出たおばあちゃんが、お店のステップから地面に降りることが出来ず難渋なさっていた。

黙って手を添えて、一緒に地面にユックリ降りた。そこに、玄関のドアを開けて店主さんが飛び出して来られた。

「ありがとうございました」と、笑顔の店主さん深々と頭を下げられた。

いい時間が過ごせたし、素敵な”麺嬢”とも出合えた。末永いお付き合いが始まった予感が持てた。お礼を言うのはワタシの方です。




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「北京料理 樹幸園」・「愛媛グルメ紀行」 532

今日は富久町にある老舗の中華料理店”北京料理 樹幸園”さんをご紹介します。


旧空港通りの太陽石油のガソリンスタンド前の交差点を南下した、県道砥部伊予松山線沿いにあります。道路の西側にあって、その更に西側には市営富久団地が広がっています。


このお店は、何時も貴重かつ希少なお店情報をブログで頂いている”きくりん”さん(ブロブ名:愛媛さすらい日記のhttp://6987452.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-f30d.html)の4月8日の記事で知りました。

玄関1
こちらがお店の玄関。


かなり年季が入っています。ワタシも”きくりん”さんの記事を読んでいなかったら入っていなかったでしょう。


見ただけで”中華料理店”と分かりますが、一体どういうお料理をどの程度のレベルでだしているのか?


お店の外観を見ただけでは、それを探索してみようというのは中々勇気が必要、という風体のお店です。女性単独では先ず入れないでしょう。

店内2
こちらが厨房とカウンター席を見た風景。


厨房では、ワタシと同年代では?っと思える男性2人が入っておられました。このお二人の風貌が極めてよく似ているのです。所謂(いわゆる)”瓜二つ”という表現はお二人の為にある、と思わせる程です。ですから、お二人の無言の呼吸、実にピッタリ合っています。


その他に、フロアー係りのおばちゃんとの3人でやっておられます。


注文をした時「このお店は何時からやっておられますか?」っとお伺いしました。


すると「何時から・・・・・・ユーーーテ・・ッ三十・・・・・五年は経っておるヤローーーカ?」っとおばちゃん。うなずけます。

メニュー3
メニューは一枚の裏表。どちたが表でどちらが裏かは分かりませんが、こちらの画像には主に単品メニューが並んでいます。


開店以来、そのメニューは弄ったことがない・・・・という雰囲気がするメニューです。

メニュー4
こちらは、主に”ランチ”や”セット”メニューが並んでいます。


このお店、決して侮る事なかれ!っというお店です。


店内も正午を過ぎますと、”現場関係”っという感じのお客で埋まります。そのほとんどが、”ランチメニュー”か”セットメニュー”を注文されるお客さんです。


ワタシの様に”ヤワ”な仕事をしていて、スーツ姿で”単品”を頼む客は、他の客から白い目で見られかねません。

チャンポン5
そこで、「ここで”ヒルメシ!”、午後は現場で””!」っという「大盛りね!おばちゃん!」の声に混じって、消え入るような声で「”チャンポン”、ただし単品で・・・。」っと注文を通した。


それで出てきたのがこの画像の”チャンポン”、お値段600円(内税)。


ラーメン屋さんや、ちゃんぽん専門店のそれではなく、完全な中華料理店の”チャンポン”です。

チャンポン6
「それのどこがどう違うのか?」って問われれば、先ずはスープが違います。


ラーメン店やちゃんぽん専門店のように、それ専用に作っているスープではないと思います。


他のメニューにも使える、言わば”汎用性”のあるスープでしょう。


醤油ベースの、やや濃い目のスープです。”塩分控え目”などと言う世界とは対極にあるシッカリしたスープ。


「じゃあ次の、その次はどこがどう違う?」っと聞かれれば「・・・・・・・・・・・」ですが。

チャンポン7
味も具材も、飛び上がるようなものは何一つありません。至って普通のお味です。


具材は、モヤシ、キャベツ、ニンジン、ニラ、タマネギ、豚肉、イカ、エビです。


隣では、作業服の若者4人が、それぞれ自分の好みの物を食べていました。例えば、大盛りの”焼きそば”をオカズに”炒飯”だとか、”唐揚げ”をオカズに”大盛りの天津飯”を食べるといった風。

アップ8
スープからは、余り香りがしません。でも、不思議にスルスル入るんです。


お店は古くて、決して清潔にピカピカ磨き上げられているといった風ではありませんが、このお店に来たら取り合えずお腹一杯にはなれる。


しかも牛丼屋や、ホット系の弁当、セルフうどん屋や、ファーストフードの代表のようなマクド、更にはコンビニ弁当なんか食った気にはならん!っという面々の胃を満たし続けて早30年がトウに過ぎた。


玄関やお料理サンプルがどんなに煤けて汚れていても、スポーツ新聞や漫画雑誌を片目に大盛りの熱々の中華丼をいただける。そのお昼の至福の一時がなければ、体が動かんじゃないか!っとばかりに、皆さん幸せ一杯の顔でお昼を楽しんでおられる。

麺9
麺だって、製麺所から仕入れた普通の麺。でも、不思議にこれが美味しく感じられる。


どんどん箸が進みます。僅か、20分もかからず完食しました。


ただしかなり濃い目のスープ、さすがのワタシも残しました。化学調味料を否定する立場には決して立ちません。それで育てられた世代なんですから。


ただ、このお店、それをもう少し控え目にされたらスープも全部飲み干していたことでしょう。


でも、でもこの味でお客さんの胃袋を35年以上満たし続けてきた。それはそれで立派ではありませんか。素晴らしいと思います。


一回や二回来た客が、味がどうのというのはおこがましい、そう思いました。




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「再訪 113 中華料理 味楽園」・「愛媛グルメ紀行」 533

今日は”再訪シリーズ”113番目のお店をご紹介しましょう。


それは昨年2月24日に”愛媛グルメ紀行”シリーズ233番目のお店としてご紹介した、久米の八幡神社から石手川に架かる”遍路橋”に至る道路沿いの、東野2丁目にある”中華料理 味楽園”さんです。(「中華料理 味楽園」・「愛媛グルメ紀行」 233


もう、この地でお店を出して今年で33年目を迎える老舗です。


お店の周辺は、東野町や正円寺町、更には石手白石や新石手など松山市の東部地区にある発展目覚しい住宅地域です。

玄関1
こちらが玄関です。


一ヶ所で30年を越える営業となりますと、お客さんの層も多種多様です。もちろん、親子二代に渡ってのお客さんも多いことです。


また立地的には家族連れはもちろんのこと、近くの事務所のサラリーマンといった風に、性別・職業別・年齢別を問わず、気軽に集うお店となっています。

店内2
店内は、厨房に店主さんを含め2人、フロアー係りにベテラン女性2人の合計4人体制で対応されています。


客の回転が速いので、席が空けば直ぐ次が埋まるという理想的な展開でお店を運営できているようです。


家族客は会話を楽しみながら、一人で座ったサラリーマンは漫画雑誌をめくりながらリラックスして食事を楽しんでおられる様子です。

メニュー3
メニューは幅広く用意されていますが、ほとんどのお客さんが630円の”ランチ”メニューを頼まれています。


前回お伺いしたときは私もそれを頼みました。明らかにお得な内容と価格設定になっています。


ところが、今となってはランチメニューを頼みますと残してしまう可能性があります。ですから、単品メニューで”チャンポン”を注文しました。

チャンポン4
こちらが注文した”チャンポン”です。お値段525円(内税)です。


チャンポンが入っている器も極々標準サイズでしたので、これなら安心していただけます。


ラーメン屋さんのスープや、八幡浜チャンポンのスープとも違う、中華料理店のスープの香りがします。

チャンポン5
第一、スープの香りが優しいんです。


そして野菜たっぷり、しかも多すぎるといった感じではなく、麺とスープと具材のバランスもとれています。


スープの味が円(まろ)やかで、今のワタシの味覚にはピッタリです。ありがたい。

アップ6
具材は、モヤシ、タマネギ、ニンジン、白菜、キクラゲ、タケノコの野菜類と、カマボコ、ジャコ天、豚バラ、そして飾り包丁が入っているイカです。


具材に特別珍しいものが入っているとか、高価な具材を使っているわけではありませんが、実に馴染みのいいお味に仕上がっています。


30年以上続いてるだけの、安心していただける味でしょう。

麺8
麺も特性の麺という感じではありませんが、実にプリプリとした弾力があって存在感をしっかり示しています。


中細麺の縮れ麺がスープによく絡んで、スルスルと喉を通過していく感触は何とも言えない心地よさです。

完食9
特別に、喉を掘って”大書”するものはありませんが、毎日連続して食べても飽きが来ないとでも言いましょうか。


食事をしている皆さんの顔つきが、実に穏やかにすら感じるお店です。


実に快調に”完食”していました。こういう完食は、心身ともに心地いい証拠です。





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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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