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「松山市の地名・町名由来」・ 「衣山町・水泥町」 23

松山市の地名・町名由来」の第23回目は、前回の第22回と同じく”菅原道真”に因むという共通点を持っている「衣山」(きぬやま)と「水泥町」(みどろまち)の町名由来をご紹介しましょう。

菅原道真”に関しては前回詳しく書きましたので、今回は省略します。

”菅原道真”に因んだ地名や伝承が愛媛に数多く残っている理由は、大きく言って3点あります。

その第一が、道真が九州の大宰府に流された時、この地に立ち寄ったという伝承です。第二点は、父親が”伊予守”(いよのかみ)に、本人が”讃岐守”(さぬきのかみ)に任じられていたということです。

そして第三点は、江戸時代から明治維新後の廃藩置県が実施されるまで”松山藩”の藩主であった”久松松平家”が、菅原道真の子孫であったことが上げられます。

もちろん例えば”弘法大師”を筆頭に、古来著名であった人物の由来・伝承は全国各地に点在しています。

それの全部が本当だったとすれば、物理的に考えて、当時に自家用ジェット機を持っていたとしか考えられませんから、名前を借りたということに過ぎないことが大部分ではあります。

衣山駅表示1
さて、上の画像は伊予鉄高浜線の”西衣山駅”の駅名表示です。なお、今の「衣山」は人口が増え、町名の下に町がつかず1丁目から5丁目に分かれています。

この「衣山」(きぬやま)が、どう”菅原道真”と関係があったのか、これも数多くある著名人に因んだ伝承であったのかも知れません。

ここ「衣山」には、この地が大昔大旱魃(だいかんばつ)に見舞われた時のことが伝承として残っています。

金比羅宮入り口2
上の画像は、衣山4丁目にある”"金比羅宮”の入り口です。この”金比羅宮”が「衣山」という地名と関係しています。

その大旱魃に見舞われた時に、この地の住民は困窮しました。そこで、”道真公”に頼み、雨乞いの祈祷をしてもらったと伝えられています。

なぜその時、菅原道真がこの地に居合わせたのか?などという野暮な話は抜きという世界です。

その道真公の雨乞い祈祷は天に通じ、大雨が振り出しました。

霊験(れいげん)あらたかという世界です。”霊験”とは、超自然的存在が人間の求めに応じてその力を発揮し,ふしぎな現象を出現させることを意味します。キリスト教の世界ではこれを”奇跡”と言います。

金比羅宮3
さて突如振り出した大雨に、この地の住民は喜び踊りました。しかし、当然のこととして衣服はずぶ濡れになりました。

そこで大雨があがった後、濡れた衣(きぬ)をこの画像にある”金比羅宮”がある”金比羅山”に登って乾かしました。

その由来から、この地を””(きぬ)を干し乾かした””から「衣山」(きぬやま)と呼ぶようになったのです。

<注>最初に書いた記事では、「衣山」は1丁目から4丁目と書きましたが、5丁目までありました。記載ミスです。ご指摘頂いた読者様がいらっしゃいます。早速、上の記事に訂正させて頂きました。ご指摘に感謝いたします。

水泥町標識4
上の画像は「水泥」(みどろ)の表示がある、伊予鉄バス停の表示板です。

実はこの「水泥町」(みどろまち)も、”菅原道真”伝承をもっています。

「水泥」は、仁和2年(886年)菅原道真が”讃岐守”(さぬきのかみ)に任命された時、この地にもやって来たというというのです。

播磨塚5
上の画像は、今の”南梅本町”にある”播磨塚”(はりまづか)の森です。

松山市から県道松山川内線を重信町方面に向かうと、”自衛隊松山駐屯地”の手前、道路の右手にこの森が見えてきます。

この直ぐ近くに、松山市の埋蔵文化財センターが発掘調査を実施し”播磨塚天神山古墳”が確認された所です。

6世紀初頭から前半ころに造られた”前方後円墳”があったことが分かっています。

また”播磨塚”の森には”生目神社”(いきめじんじゃ)がありますが、その由来は調べても分かりませんでした。

水泥町播磨塚内6
菅原道真がこの地に来た時、”播磨塚”にある”徳威王楯”(とくいおうだて)の館に足を運び休憩しました。

その時、道真公が通った道を”御道路”(みどうろ)と名づけたことから、それが今の「水泥」になったというものです。

何か語呂合わせにも見えますが、そういう伝承がこの地に残っているということです。

なお、その道を通ったのは実は”聖徳太子”だったという別の伝承もあるそうです。

なお”徳威王楯”(とくいおうだて)とは一体どういうものだったのか、色々調べてみましたが分かりませんでした。

ただこの地がなぜ”播磨塚”の”播磨”と呼ばれたのかは、昭和13年に編集された”自治制50周年記念誌”として書かれた”北吉井村誌”の一部に記録が残っていました。

水泥町播磨塚由来8
昔この辺りは”久米郡 吉井郷”という地名で呼ばれていて、その”吉井郷”には”徳威原”という地名や、今も残る”牛渕村”や”田窪村”や”播磨塚”などを示す地図が残っています。

その”北吉井村誌”は、この地が”播磨”と呼ばれるようになった由来を、645年の”大化の改新”以前の国の制度に見える”国造”(くにのみやつこ)が存在していた時代に書かれたという”国造本”から引用されています。

その内容によれば、清寧天皇(せいねいてんのう=5世紀半ばの第22代天皇)の時代に久味国(今の久米)に”来目部の小楯”(くめぶのおだて)という者が、”播磨国”(はりまこく)の国司に任命されたことに因んで、この地域を”播磨”(はりま)の名前で呼んだことが由来とありました。

上の画像は、その”来目部の小楯”を顕彰する石碑です。

一度地名の由来を辿(たど)り始めますと、次から次へと時代が遡(さかのぼ)っていくものですね。

なお次回の”松山市の地名・町名由来”シリーズ第24回目は、「福角町」「湯山地区」をご紹介します。



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「内子まちの駅 nanze(なんぜ)」・「愛媛グルメ紀行」 588

今日は”内子町”に、今年7月6日にオープンしたばかりの”内子まちの駅 nanze(なんぜ)”さんをご紹介しましょう。


本当はあの酷暑の中でお訪ねしたかったのですが、8月下旬はワタシ自身がすっかりバテてしまって、内子まで足を伸ばすことが出来ませんでした。


皮肉なことに台風通過に伴う大雨の中、随分涼しい日にお伺いしました。実家の野村町に帰ったときに寄りました。


なおこのお店のことは、お互いにリンクし合っている:”大洲のひで”さんの以下の記事から知りました。(内子町まちの駅「Nanze」にて、驚愕に旨いかき氷に遭遇!!)ありがとうございました。

玄関1
こちらが、その建物です。


このプロジェクトの主体者は、”内子まちづくり商店街協同組合”です。


つまり内子の商店街の店主さん達が出資し協同組合を作られ、この施設を作りました。

開店日4
このポスターの通り、今年の7月6日に開店されたばかりです。


この施設の設立趣意は、ここ”内子まちの駅 nanze(なんぜ)”に来館された方々に、商店街でそれぞれが扱っている商品を展示してあって、興味を示されたお客さんにはその対象となるお店のご案内をすることです。


全国的に、地域商店街の空洞化が進行しているのはご承知の通りです。ここ”内子町”も白壁がある歴史的な街であることを全国的に発信され、独自の町づくりに取り組んでおられます。


その一方、内子には”道の駅 フレッシュパーク からり”という、全国的にも成功事例として名前が知られている施設があり、観光バスまで呼び込むほどの活況を呈しています。

店内2
ところが”道の駅 フレッシュパーク からり”は、商店街から距離があります。商店街の活性化には直接つながらないという、一種のもどかしさがあったのではないかと推察します。


そこで、個々のお店での集客力には限界があるという事実から、商店街の中に位置するこの施設で集客力のアップを図ろうと考えられたのでしょう。

店内商品3
店内には、画像の様に商店街で手作り品を扱っておられるお店もあり、そういった個性的な商品を展示してあります。


nanze”(なんぜ)という言葉は、ワタシは南予人ですからお店の方に聞かなくても意味がわかります。


南予で「なんぜ!」というと、「~~っと言うことなんですよ!」と言ったほどの意味合いです。


このお店のコンセプトは、施設の看板プレートに記されています。”Made in uthiko”(メイドイン・内子)なんです。

メニュー5
さてこの施設は、この夏、県内でも大きな話題を集めました。それは、一体何で話題を集めたのか?


そうです!”かき氷”なんです。しかも、ユニークな”かき氷”で、マスコミ等にも盛んに採り上げられました。


それがこの”メニュー”です。このメニューだけではちょっと分かりづらいかも知れませんが、かき氷に掛ける”氷蜜”に工夫があるのです。


そのヒントは、”愛媛グルメ紀行”シリーズで2012年7月9日にアップした、今治の”登泉堂”さんです。(「今治 登泉堂」・「愛媛グルメ紀行」 328


つまり”氷蜜”に、果物の単なるフレーバー(香り)やシロップではなく、果物そのものを潰してジャムにしたペーストを使っておられます。

テラス6
さて、今やすっかり内子の新名物となった”かき氷”の中の”ナンゼ・ストロベリータ(天然いちご)”と名付けられたものを、この”テラス”でいただいてみましょう。


こちらの”テラス席”、施設の入り口に向いていて開放感溢れる魅力的な”テラス”なんです。どうです!お洒落でしょう!!


但し、当日はゲリラ豪雨が一日中降り続くという気候的環境。しかも、涼しい!でも、”かき氷”をいただくにはどういう気候環境でも、ワタシは一向気にしないタイプです。

いちご7
さーーーて!!”ナンゼ・ストロベリータ(天然いちご)”を、マーーー見て下さい。


どーーーですか?ウフフフ・・・・・美味しそうでしょう?


いえいえ、実際美味しいんです!

いちご8
氷の肌理(きめ)が細かい。その淡雪のような”かき氷”の上に、”天然のいちご”を、コレでもか!っと言うほど濃厚に掛けてあります。


ですから、出された瞬間から溶け出します。カメラで写している場合なのではないのです!


でも、これが”ブロガー”の悲しいとこころ。取り敢えず画像に収めなければ話になりません。「オアズケ!」を食らった子供の心境、よーーく分かります。

アップ9
お店に方におうかがいしました。「今治の”登泉堂”さんも行かれましたね!」っと。


すると「ええ、当然です。”いちご”がそのシーズン売り切れただけでニュースになるお店なんですよ。でも、今年は”いちご”のストックが無くなって売り切れになった後は”ブルーベーリー”で頑張っておられるようです」っと、きちんと研究なさっています。


ところが「ええ、でも、この商品はここの店長のオリジナルです!このお店を開くに当たって、全国様々なお店を訪ね歩きました。そして、研究に研究を重ねられて、このオリジナルが出来上がったという訳です!」っと、胸を張られた。


ウンウン、その心意気や良し!ではありませんか。爽やかな気持ちにさせていただきました。

ドアップ10
などと、アレコレしている間に、アッという間に食べちゃいました!


ウーーーン!!トローーーーっとしていて、・・・・甘ーーーーー~~~い!」そして”いちご”そのものを食べさせていただきました。


口腔内は”いちごだらけ”ですよ。これは、間違いなく”絶品!!!”に違いありません。


季節も終わろうとしている時に皆さんにご紹介してしまって、「ゴ・メ・ン・ナ・サ・イ・・・・


但し、課題は夏が終わるこれからでしょう。”かき氷”で多くの方の興味を集め、集客にも成功しました。すると、”かき氷”のシーズンが終わった後は”何で”集客を図るのか?(なお、このお店の情報を頂いた:大洲のひでさんによれば、このかき氷、11月までいただけるそうです)


当然、これだけの大プロジェクトを手がけられた”プロデューサー”さんがいらっしゃるでしょう。二の矢三の矢は当然として、それ以降の展開に期待がかかります。


また訪れてみたい!そういう気持ちにさせる施設でした。




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「再訪 156 瓢華」・「愛媛グルメ紀行」 589

今日の”再訪シリーズ”156番目のお店は、は湊町4丁目、千舟町通りと銀天街を南北につなぐ路地にある”瓢華”(ひょうか)さんを再度のご紹介です。


最初にご紹介したのは、2011年3月30日のことで2年半前のことでした。(「瓢華」 真っ当な「B級グルメ店」・23


愛媛グルメ紀行”を書き始めてまだ23番目のお店で、ワタシがまだ20代の後半頃から行っていたお店です。


このお店は、一番最初は清水町4丁目の”松山大学御幸グランド”サッカーコートの直ぐ南側で開店されました。その後、ワタシが今度は40代半ば頃行っていた時は清水町3丁目、勝山中学北門前にお店を移転されていました。


今、そこには”手打ちうどん 鶴鶴 清水町店”が入られております。

玄関1
こちらがお店の玄関です。再訪するのに2年半も空けた理由は、以前の”瓢華”さんであれば注文するメニューはただ一つ”中華そば”だけだったからです。

再訪しても同じメニューは載せないという自分に課したルールに合わないと、ずっと思い込んでいました。


ところが、千舟町の”瓢太”さんも、冷たい麺などの新メニューを出されていたことを思い出し、もしかしてこのお店も?っと思ったのが再訪した動機でした。

厨房2
そしてお店に入りますと、案の定冷たいラーメン系のメニューが新登場していました。


このお店の創業者は、一時期溝辺町でお店を出されていましたが、最近になって体調を崩され今では閉店されています。


瓢華”さんも”瓢太”さんも、文字通り二代目の時代に切り替わったという訳です。この2つのお店の関係については、これまで”瓢太”さんをご紹介した時にも触れていますが、後ほどもう一度整理したものをご紹介しましょう。


現在このお店は、創業者の奥様と二代目の息子さん、それに若い女性が一人の3人体制です。

持ち帰り用メニュー
このメニュー表を見て下さい。これは”持ち帰り用メニュー”です。


松山のラーメン屋さんで”持ち帰り用メニュー”を用意されているお店は、ワタシはこのお店しか知りません。


なぜこの”お持ち帰り用”が用意されているかに付きましても、このお店の創業に係ることなので後でまとめて書きましょう。

冷やしラーメン4
今日は冷たいラーメン類の中でも”冷やしラーメン”を注文しました。お値段は600円です。


なお”持ち帰り用”にも同じ物があって、それは”冷やし中華”と呼ばれ、お値段は500円です。


このお店には冷たいメニューが他にもあって、冷麺などが用意されています。初代の時代にはなかったし、お考えもされなかったでしょう。


冷やしラーメン”の外観は、このお店の看板メニュー”中華そば”と全く同じです。外観だけでなく、具材の配置も同じです。


ただ、スープの表面を注意深くご覧になって下さい。チャーシューから溶け出た脂が、今度は冷やされていますので固まって白い膜状になっているのが分かります。


チャーシュー自体も、チャーシューの周囲は脂が白く固まっています。ここは、ちょっと一工夫の余地があるように思いました。

冷やしラーメン5
さて三番町6丁目にある”瓢太”さんとこの”瓢華”との創業に係るお話です。両店とも今は完全に二代目の時代に入りました。

ワタシが”松山ラーメン”と呼んでいるもの、非常に甘いスープ、分厚いチャーシュー(角煮と言ってもいいくらい厚い)、そのスープに合ってよく絡む細麺。

これらを開発された方は、戦後屋台からスタートされたと聞いいたことがあります。(聞き間違いであったならゴメンナサイですが)

その方は、リアカーを引いて屋台を移動させ、今”瓢太”さんと”瓢華”さんが継承なさった”松山ラーメン”を開発されました。

その方は後に屋台をやめられ、子供さんが開いた保免西1丁目、ニシオカ家具から県道久米垣生線を西に入った所で”ロシナンテ”というパン屋さんの一角に、”持ち帰り用コーナー”を設けて、そこでご自分が開発された”中華そば”(ワタシが”松山ラーメン”と呼んでいるもの)を売られていました。(今はある宗教施設になっています)

ワタシはよく、その”ロシナンテ”さんまで足を伸ばし、家族へのおみやげ用に”中華そば”を買って帰りました。

家に帰って麺を湯搔き、スープは別鍋で温めると、お店でいただくのと同じ”中華そば”を食べることが出来ていました。その時は、家族全員笑があふれたものです。

その方は、必ず「アノナー、絶対に麺を湯搔き過ぎたらイケンヨー!ちょっと固いと思う頃が一番エエンヨー!」っと。何度その言葉を聞いたことか。今となっては懐かしい思い出です。

アップ6
そして、その方とともに屋台で修行されたのが”瓢太”さんの初代さんで、その方の直弟子です。

また”瓢華”さんの初代さんは、その方とは”乗馬友達”で、友人として”松山ラーメン”を教わりました。

このお店の二代目さんに「お父さんは昔、乗馬をやっていましたか?」っと。すると「アーアー、そういえば馬に乗っとった乗っとった!」と目を細められました。

”瓢太”さんの初代さんと”瓢華”さんの初代さんとの伝承の違いが、今の味の違いとなって現れています。

その方の作り上げた”松山ラーメン”の味をより正確に伝承されたのは直弟子であった”瓢太”さんの初代さん。

一方”瓢華”さんの初代さんは、一種に屋台を手伝われたわけではないので独自に工夫を重ねられ、今の”瓢華”さんの味を完成されました。

ただし、”持ち帰り用”という販売手法を守られ伝えられているのは”瓢華”さんです。冒頭で”持ち帰り用”のメニューを用意された理由は、このお店の創業に係ると書いたのはこの意味です。

チャーシュー7
こちらが”瓢華”さんの”チャーシュー”です。”瓢華”さんの方が、豚肉の繊維をより多く残る程度の煮込み方です。ですから、やや硬いのと、厚みがやや薄い。


一方”瓢太”さんの方は、口に入れると”ハラリ・トロリ”と解けます、溶けます。しかも分厚い。


この甘く甘く煮られた”チャーシュー”が、”松山ラーメン”のスープの味の決め手になっています。

もやし8
これは”瓢華”さんだけに入れられている”もやし”です。


松山ラーメン”に”もやし”が入った経過です。一度書いたことはありますが、再度まとめておきましょう。


それは”瓢華”さんが初めてお店を出された立地に関係します。清水町3丁目の近くには愛媛大学と松山大学があって、その辺りは”学生の街”です。


そこで、貧しかった当時の学生さんに栄養のバランスのいいものを食べさせてあげたいと”もやし”を選ばれました。食材として安かったことも採用した要因です。この話は初代さんから直接お聞きしました。


かくして、”瓢華”さんの中華そばにはもやしが入り、”瓢太”さんのそれにはオリジナル性を重視してもやしは入れていません。

麺9
”は、”松山ラーメン”を開発された方が、試行錯誤の末に、あの甘いスープに合い、更によく絡むものを採用され、今に至っています。


この細麺が、間違いなく”松山ラーメン”に合うんです。


”持ち帰り用”を買う度に、その方がクドいほど「麺は湯搔き過ぎたらイケンヨー!固いくらいでお湯から揚げんと、ヤオーなってしもうて、オイシューないよ!」っと。その表情まで頭に残っています。

完食10
などと、様々な思いが頭を駆け巡っている内に、気が付いたら”完食”していました。


この”冷やしラーメン”に派手さはありませんが、それでも革新的に旨かった!


今まで”松山ラーメン”に抱いていたイメージとはやや違うけれど、スープのコクといい麺とのバランスといい、胃への収まり具合といい、極めて優れた新メニューを二代目さんが開発されました。敬意を表したいと思います。


戦後の混乱期を経て誕生した”松山ラーメン”。そしてそれを伝承されたお店が2軒あって、その2軒とも二代目に入りました。


その方から考えれば、三代目さんの時代です。(血のつながりはありません)ワタシの経験では”松山ラーメン”の味は、松山のこの2軒に来なければ味わうことはできません。


小さな小さな物語かも知れません、狭い食文化かも知れません。しかし、戦後の日本の復興と繁栄、そして混沌とした時代を”松山ラーメン”はずっと見続けてきました。


どうか、両店の二代目さんにお願いしたい。三代目、四代目を育てられて、”松山の地で松山ラーメン”の味を繋いでいって頂きたい。それを切に願いながらお店を後にしました。




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「再訪 157 手打ちうどんそば 水車」・「愛媛グルメ紀行」 590

今日は”再訪シリーズ”157番目のお店、石手1丁目、石手川に架かる「岩堰橋」のたもとにあって、セブンスター石手店の真向い、道端に水車がありので分りやすい”手打ちうどん・そば 水車”さんを三度目のご紹介です。

初めてご紹介したのは、2011年1月29日のこと。まだ”真っ当な「B級グルメ店」”といっていたころで、シリーズ6番目

2回目は、2012年8月31日のこと。”愛媛グルメ紀行”366番目のお店としてでした。

水車鴨うどん1縮小
初めてご紹介したときは、上の画像の”鴨うどん”。(「水車」 真っ当な「B級グルメ店」⑥

これは絶品でした。今でもそれは変わりません。何度も何度も食べました、それ以降も。何時も唸らされます。

冷麺うどん7
2回目のとき注文したのは、画像の”中華風 冷麺うどん”。(「再訪26 水車」・「愛媛グルメ紀行」 366

これは完璧に外れだった。余りの酸っぱさに、右往左往して努力したが大量に残した。

強い酸っぱさには、幾らお水を足しても何の役にも立たず、ずっと酸っぱいままだということを学んだ。

玄関1
こちらが玄関。

石手川ダムから今治を目指す方は、見慣れた風景でしょう。

メニュー2
メニューも、何時も見慣れたもの。

レギュラーメニューとは別に、お店の壁に”かきあげおろし”の文字が飛び込んできた。

フロアー係りの女性が注文を取りにきたので、それがどういうものか尋ねてみた。

「はい、先ずうどんか蕎麦か?そしてアツアツかヒヤヒヤかを選んで下さい」と言うので「うどんで、ヒヤヒヤをお願いします」と注文した。

ただし、そのメニューを書いた紙には値段が書いていない。「時価・・・・・っということだろうか?」と、疑問は残った。

かきあげおろしうどん5
この画像が”かきあげおろしうどん”のひやひや、です。

勘定を払うときに値段が分った。710円でした。普通の”かきあげうどん”が610円なので、大根おろしが付くと100円高くなるようです。

このお店は、”石手寺”を参拝された観光客もやってくる。だから、堂々の”愛媛うどん価格”になっている。

うどん6
さて、こちらが冷たい(かきあげだけは、やや温かい)うどんの姿。

うどんの上に、野菜かき揚げがドンと乗っかっていた。

遠い昔学生時代に東京に住んでいた時、うどん屋で”かき揚げ”を頼むと、高いお店は”海老や小柱(貝柱)のかき揚げ”だった。

駅の立ち食いうどん屋のそれは”野菜かき揚げ”だった。私の頭の中には、幼児体験のように”安い”=”野菜かき揚げ”(しかも、タマネギが主役の)が摺り込まれている。

かきあげアップ7
その”野菜かき揚げ”をシゲシゲと見てみた。・・・・・・・タマネギが堂々の主役を張っているではありませんか。・・・・・・

おまけに、揚げた油が高温過ぎたのか?タマネギが焦げている。悪い予感が・・・・・・

この段階で私の頭の中に、東京のJR(当時はまだ国鉄と言っていた)駅構内の”立ち食いそば屋”のシーンが髣髴(ほうふつ=アリアリと)と蘇(よみがえ)ってきた。・・・・・・

特に駅構内の立ち食いそば屋の”かき揚げ”は、揚げ置き(業界用語で”バク”という)だったので、冷たく、タマネギの角か鋭く尖っていて、よく口内を切った思い出・・・・・。

混ぜた8
エイヤーー!」っと、”悪夢”を振り払うようにかき混ぜにかき混ぜた。

うどんも大根おろしも、かき揚げもグッチャグッチャになるかと思いきや、かき揚げが意外と崩れない。・・・・

あれ?崩れない、解(ほど)けない・・・・どうなっているんだろう??っと怪訝(けげん=不思議な)な表情で全体を見回したが、わからない。

ただしうどんの”麺”は、艶やかに、たおやかに佇んでいる。上品な表情に顔が緩む。

こういう””を、ワタシは”官能的”な麺だと呼んでいる。端的に言えば、麺を食べることそのものが快感につながる、そういう””を言う。

アップ9
どうです?この””の照り、輝きと艶。

ウフフ、美味しい麺には独特の”表情”があると思っています。

この麺を”官能的”と言わずして何と言う?という感じなんんです。

麺10
そもそも、このお店の”知恵の輪”のように絡んだ””は好きなのです。”愛媛グルメ紀行”シリーズを書き始めて6番目、その中で”うどん屋”の2番目にアップしたお店なのです。

その当時、このシリーズがこんなにロングランのシリーズになるなんて、予想だにしていませんでした。

だから、好きなお店から順にアップしていって6番目のお店なんです。

一番最初にご紹介した”鴨うどん”、その後記事にはしませんでしたが何度食べに来たことか。何時も笑顔でお店を出ます。

でも・・・・・・・・・  で     も    ・・・・・・

残った11
無残にも残りました。

何故(なぜ)残ったか?

何が残ったか?

ハイ、タマネギ主役の”野菜かき揚げ”だけが残りました。

これは、ここのお店の”かき揚げ”がどうだ、という以前の、バイトに急ぐので、駅の構内で立ったまま慌てながら”かき揚げそば”をかっ込み、口内を血だらけにした記憶が故のもの。

ただし、このお店はこれ以降も足繁く通うと思いますが、頼むのはもうこれ以降は一切”鴨うどん”に限定しようと決めました。



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県外特別編・京都「京料理 六盛 手をけ弁当」・「愛媛グルメ紀行」 591

今日から6回続けて”県外特別編”と題しまして、京都と奈良に妹と弟との3人兄弟旅をした時の”食べ物編”をご紹介します。


既に8月17日に県外特別編として、奈良県「三輪そうめん 山本」と題しましたものをご紹介しましたので、都合7回の記事になります。(県外特別編・奈良「三輪そうめん 山本」・「愛媛グリメ紀行」 579


これらの記事は、読んでいただいた方にとって、「おおそうか!じゃあ行ってみよう!」ということにはなりにくいでしょうから、”愛媛グルメ紀行”の本来の趣旨からは外れますが、「ほー、そういうお店もあるのか」という位に気軽に目を通して頂ければ幸いです。


今日ご紹介しますのは、京都市左京区岡崎西天王町にあります(平安神宮西横を流れる疏水の北側)”京料理 六盛 手をけ弁当”というお店です。

玄関1
こちらが、そのお店の玄関です。このお店は、元々”仕出屋”さんからスタートされたお店で、今は料亭になっています。


創業は明治32年と言いますから、今から114年前です。やはり京都ですね。これでも「ウチなんか、まだ100年をちょっと過ぎたばかりですから、新しいお店です!」って言われるに違いありません。


現在は二代目さんの代になっています。特に二代目(当代)さんは、伝統の”京料理”の研究に熱心で、様々な”創作京料理”を生み出されています。


特に若い世代の和食離れを危惧されて、学生さんを対象に和食のマナー教室も実施されているそうです。伝統の継承というものは、生半可には出来ないのです。


平安神宮”から歩いて10分ほど、お店の前には琵琶湖から水を引いた”琵琶湖疎水”が静かに流れています。


弟が今回の旅で、唯一予約していてくれたお店です。それ以外のお店は、その時の状況次第で決めました。ただし、その中の何店かは弟の推薦で決まり、ワタシが唯一希望したお店は”三輪そうめん山本”さんでした。

琵琶湖疏水
上の画像が、お店の南側を流れる”琵琶湖疎水”です。

この”琵琶湖疎水”は、明治18年6月に着工され、明治27年9月に完成したもので、実に9年の歳月を要した大工事でした。

当時の京都市の、年間予算の十数倍という膨大な費用を投入した大事業だったそうです。

この”琵琶湖疏水”の途中にあるのが、”南禅寺”近くで今も保存されている有名な”インクライン”(傾斜鉄道)です。この”インクライン”については、改めまして後日”南禅寺”をご紹介するときにふれる予定です。

手をけ弁当2
さて上の画像が、このお店の代名詞ともなった”手をけ弁当”です。


”手をけ弁当”も、8種類のメニューを用意されています。


手をけの中に、様々な料理を盛り込まれたものを中心に、ご飯と汁椀と塩昆布という構成です。

手をけ弁当3
この画像が”手をけ”の中身です。


どの料理も手の込んだ仕事がなされていて、さすがに完成度の高い品々でした。


でも普通にこれをお昼ご飯とすることなど、ワタシの感覚ではできませんが、でもいるんです、これを当たり前のように食べに来るお客さんが。世の中、広いですね。


ワタシの経済的感覚では、「スミマセン!ワタシのような庶民が行くことなどあり得ないお店を記事にして」という感覚です。


ただ今回は、ひょっとすると3人兄弟の最後の”兄妹弟旅”になるかも知れません。兄弟は、50代の弟以外は還暦を越しました。記念として、ありがたくいただきましたし、特別に記事にもさせて頂きました。

蛸飯4
これがご飯物の”蛸飯”(たこめし)です。

蛸を煮た時に出る、ピンクに近い茶の色がご飯を彩っています。

ところが残念なことに、手桶の中身だけで満腹になってしまい。この蛸飯には箸一つ付けることができませんでしたので、味は?分かりません。

なお”我が松山”には、西垣生町”今出港”(いまずこう)前に”たこめし三原”という名物があり、松山で”蛸飯”というと典型的な”漁師料理”です。

今出港の真ん前で獲れる”真蛸”(まだこ)を、まだ生きている状態から料理するものです。さて、海から遠い京都の”蛸飯”と比べて、お味はいかがでしょう。

ごぼう巻き6
これは、鰻で巻いた牛蒡(ごぼう)を煮た料理です。


上品にほんの一切れですが、口に入れた瞬間に唸りました。牛蒡の力強さ、土臭さを殺すことなく生かし切って料理されています。


海のものと野のものを、出汁で見事に合わせられています。只者ではありません。

サワラ西京焼7
さてこちらは”鰆の西京焼き”(さわらのさいきょうやき)です。鰆(さわら)料理の代表的な調理法ですね。


サワラは、スズキの仲間で白身の魚に見えますが”赤身魚”です。瀬戸内でも日本海側でも獲れる魚です。


西京焼き”とは、”西京みそ”(京都で作られる甘い白みそ)に味醂・酒などを加えた漬け床に魚の切り身などを漬け込んで焼いた料理で、京料理の代表選手でしょう。


サワラは美味しい魚ではありますが、身は淡白。ですから、京味噌でキチンと味の方向性を決め、醸造された酒や味醂の旨味を乗せる。すると、サワラ本来の旨さがギリギリまで引き出されています。これも唸る他ありあせん。

さつま揚げ8
竹串に刺されているものは、”さつま揚げ”です。


ちゃんと彩りを計算されて配されています。


魚のすり身を上品に調理されています。

海老10
海老の手前にキヌサヤの煮物を配して、その更に手前にあります長方形のものは何だか分かりますか?


これは”鱧(はも)魚卵のゼリー寄せ”です。鱧の魚卵は、梅雨明けから一斉に脂が乗り始めて””を迎える瀬戸内の”鱧(はも)”の卵のことです。


実はこの料理、最近松山の”土佐長寿司”さんでいただいたばかりです。(「再訪 139 土佐長寿司」・「愛媛グルメ紀行」 567


この料理のことは、”土佐長寿司”さんで詳しく書いております。地元贔屓(じもとびいき)ということではなく、正直に言って”土佐長寿司”さんの”鱧(はも)魚卵のゼリー寄せ”の方が美味しかった。

冬瓜と里芋煮11
この画像、やや白くて六角形に切ってあるのは”里芋”の類でしょう。やはり京料理の特徴は、こういう煮物にあるのかも知れません。


その左手にあるうぐいす色をしている野菜は何だか分かりますか?分かった方は、京野菜に詳しい方。


これは”冬瓜”(とうがん)の煮物です。平安時代に京の都に入ってきて、それ以来”夏野菜”の代表として広く栽培されています。


この”冬瓜”は、ほぼ水分だけでできているので味は殆どありません。要するに、冬瓜という身をを借りて”出汁”を食べさせる料理なのです。出汁が勝負です。もちろん文句なく美味しい。


いやーー、確かな”京料理”を心ゆくまで堪能出来ました。弟に感謝!です。そして、私達3人を産んでくれた、今は亡き両親に心から「ありがとう!」を捧げたい。





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県外特別編・京都「カポディモンテ」・「愛媛グルメ紀行」 592

今日は、毎週土曜日にアップしています”愛媛グルメ紀行を振り返る”シリーズをお休みします。

そして、”県外特別編”として、京都府京都市北区上賀茂畔勝町にありますイタリアンのお店”Capodimonte(カポ ディ モンテ)”さんをご紹介しましょう。

このお店は弟が時折利用するそうで、弟の推奨するイタリアンレストランです。店名はイタリア語で、その意味は”偉大な山”だそうです。(弟の説明)

玄関1
この画像が、イタリアの民家をそのまま再現したという、ご自慢の一軒家レストランです。


しかもこのお店の最大の”ウリ”は、野菜ソムリエ協会認定レストランの京都1号店ということらしい。


お店のホームページでも「地元上賀茂の契約農家や全国のこだわり農家の安心安全絶品野菜を提供」と書いてあります。


注文は弟に任せました。お料理の内容を知りませんので。

前菜野菜3
この画像が、真っ先にだされるご自慢の”野菜”です。生野菜ではなく、ちゃんと調理されています。


味は覚えておりません。妹と弟との話に夢中になってしまい、味わう余裕を失っていました。


ハウスワインも白と赤を一杯ずつ呑みました。でも酔っ払う量ではありません。


店内の照明が薄暗いので、残念ながら綺麗に写せませんでした。

サラダ4
これはサラダですが、画像の上に黒く見えるものは”ブルスケッタ”で、パンの上に何やらお肉の類が乗っていたような?


その他、右下に見えるのは生ハムです。また左下に見えるのは、白身魚のカルパッチョです。


元々”カルパッチョ”とは、生の牛肉の薄切りにチーズもしくはソースなどの調味料をかけた料理を言いますが、日本では多くの場合、マグロやカツオ、サケなどの刺身を使って酢とオリーブオイルと他の調味料を使って調理されることが多いですね。


”カルパッチョ”に使われている魚の素材は分かりませんでした。説明があったように思いますが、覚えておりません。

マルガリータ5
さてこちらはピッツァで”マルゲリータ”です。


ナポリピッツァ”の代表的なメニューですね。バジリコの緑とモッツァレッラチーズの白とトマトソースの赤が鮮やかです。ただ、採光が弱いので、緑色が表現されていません。それが残念です。


実際は彩り鮮やかで、見るからに美味しかったです。生地もパリパリですし。

マルガリータワンピース6
3人で分けあって食べましたから、一人2ピースづつです。


そりゃあ美味しいですよ。3人でワイワイガヤガヤ言い合って食べるのですから。


性格は三人三様。弟は極めて穏やかな性格で、彼が怒った顔など今まで一度だって見たことがありません。


ワタシは2人に対して何も遠慮することなく思ったことを直ぐに口にしてしまうタイプで、母の血を色濃く受け継いでいます。(と、妹と弟は主張します)


妹は1つ違いですが、3人兄弟のまとめ役。何時もそうです。妹がいなかったら、兄弟がここまで仲良く付き合えたかどうか。兄弟の”キーウーマン”です。

トリュフ入り7
上に画像は、”トリュフ入り”のパスタです。


麺がスパゲティより幅広なので、タリアテッレ(フェットゥチーネとも言う)の生パスタではないかと思います。


弟がその時、このパスタの説明をしてくれたのですが、残念ながら内容は覚えておりません。


実はこの頃から、「お料理の味や内容などどうでもいい!」という、信じられない光景を目にすることになります。

ワタシは、丁度厨房が丸見えという席に座って食事をしていました。

サーモン8
上の画像は”お魚料理”にカテゴリーされるもので、魚の素材はノルウェー産の”サーモン”です。

その”サーモン”に野菜とチーズを乗せて、オーブンで焼き、その上にムニエルソースをかけた料理です。


などということは、実はもうどうでも良くなってしまいました。妹と弟の会話にも参加できなくなってしまいました。


ワタシの目は、ただ一点”厨房に釘付け”になってしまっていたのです。この”愛媛グルメ紀行”シリーズももう間もなく600回を迎えようとしています。その中で一度も目にしたことがない光景が厨房で繰り広げられていたのです。

ビーフ9
上の画像は”お肉料理”にカテゴリーされるもので、お肉の素材は”仔牛肉”です。柔らかい”仔牛肉”をクリームで煮てあり、味はマスタード風味になっています。まあ、どうでもいいことですが。


店内の客は私達兄弟以外に、もう一組か二組でした。店内は、言わば閑散とした状態でした。


そして「あろうことか!」(この「あろうことか」という言葉の意味は、あっていいことでしょうか?いや、決してあってはならないことです!という意味が含まれています)・・・・・・・・・・信じられませんでした。


厨房の中では、料理人3人がいましたが、その内の2人は仲間内の私語を延々と続けていました。


しかもその二人の内の一人は、客には背中を向けて厨房内の台のようなものに腰を下ろして駄弁っているではありませんか。

デザート10
客に背中や尻を向けて、座って仲間内の話に興じるお店ってアリですか?

ない でしょう!!!

しかも、店主は一切それを注意することなどないのです。オマケに、輪をかけたように店主自身がその仲間内の話に加わった!!!

この弛緩(しかん=ゆるみきった)した店内の空気は、一体どうしたのか!ワタシが一人でこの店に入っていたら、すぐさま立ち上がって間違いなく店主に抗議しています!

でも、ここは弟が知っているお店。それは出来ません。でも兄弟にはそのことを伝えました。

すると、妹は飲食店で長い間働いていて、お店に新しく入ってくる子たちの教育係をしていたので、キッパリと「私も許せない!」と言いました。

弟は困り切った顔で私達を見て「そこまで言わんてもヨカロー!」っと、小さい声で呟いた。優しい弟なので無理はありません。

兄弟の楽しい時間を台無しにしてくれたこのお店は許せない!店名の”偉大な山”って、一体どんな山なんでしょう?まさか”偉大な恥の山”でもありますまい!聞いて呆れます

でも、最後に書いておきます。それ以降も楽しく楽しく”兄弟旅”を続けたことを。




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「松山市の地名・町名由来」・ 「福角町・湯山地区」 24

松山市の地名・町名由来」の第24回目は、鎌倉時代から南北朝の時代にこの地で活躍した武将に因むという共通点を持っている「福角町」(ふくずみちょう)と「湯山地区」(ゆやまちく)の地区名・町名由来をご紹介しましょう。

まず「福角町」は、松山市内から北条へ向かう国道196号線の東西に分かれてあり、堀江町の東隣にあります。

福角町標識1
上の画像が、「福角町」を示す標識です。

この町は、鎌倉時代に”高野家定”(こうの いえさだ)という地方豪族がいて子孫繁栄を願って、現在の町制区分では「堀江町」にある(当時は「福角町」に含まれていた)”花見山”に城を構え、自分の名前も”福津見家定”(ふくずみ いえさだ)と改名しました。

この”福津見家定”(ふくずみ いえさだ)との改名が、現在の「福角町」の町名の由来です。

花見山2
上の画像が、現在の「堀江町」にある”新池”の中ほどまで伸びた展望台から北東方面に”花見山”を見た風景です。

「堀江町」の”なすび池”の北側にある小高い山です。城と言っても”館”に近い程度のものだったのでしょう。

福津見家定”が館を築きこの地域を支配しますが、時代が下って室町時代前期(1368年)になりますと中予地域の最大勢力となっていた”河野通堯”(こうの みちたか=河野氏29代当)が配下の武将”村上大蔵大夫”(むらかみ おおくらたいふ)に命じて”花見山”に”出城”を築かせました。

花見山祇園神社3
福津見家定”が改名までして子孫繁栄を願ったその願いは100年余り続いただけで、伊予国も守護大名河野氏を中心に、地方の豪族や地侍たちが激しく精力争いを繰り返す”戦国時代”に突入していきます。

現在の”花見山”には既に城郭の遺構なども見られず、”祇園神社”の古い社(やしろ)が残っているだけです。

河野通堯”(こうの みちたか)は、ここの”出城”を中心にお隣讃岐から勢力を伸ばしてきた”三好勢”等諸勢力を退け中予地区に安定を生み出した。

また”河野通堯”はその後、京の将軍”足利義満”に協力し、伊予国の守護に任ぜられました。

花見山から福角町4
この画像は、”花見山”頂上から南東の方角を見た風景です。この画像の奥にコンモリと茂った小高い山が見えると思いますが、そこには”正八幡神社”があります。


”河野通堯”は”花見山”の出城の城代に”西山氏”を据えました。

福角町正八幡神社山門5
その”西山氏”の第四代城代”西山通倫”(にしやま みちとも)と、第六代”西山五右衛門通周”(にしやま ごえもん みちちか)が、この地域の開発や村民救済に多大な貢献がありました。


その功績を讃え偲ぶ為に、画像の”正八幡神社本殿”左側に”周敷神社”に祀られました。

湯山駐在所表示6
さて、次は「湯山地区」(ゆやまちく)の由来をご紹介しましょう。

先ず「湯山地区」ですが、現在「湯山町」とう町名はありません。645年の”大化の改新”の時代に伊予国にあった”郡”は十三郡ありましたが、中予地区には”温泉郡”(ゆぐん)がありました。

ですから、当時から”温泉郡”(ゆぐん)の山手地域を”湯山”(ゆやま=ゆ郡の山手)と呼んでいたのでしょう。

その名残りが上の画像の様に、現在は「末町」にあるのに”湯山駐在所”の名前が使われ、「食場町」(じきばちょう)にあるのに”湯山小学校”と呼ばれています。

両新田神社鳥居7
この「湯山地区」にあった元の「日浦町」、現在は町名が変更されて「河中町」となっていますが、そこにある”両新田神社”には、”室町時代”の前期”南北朝時代”、南朝方についた”新田義宗”(にった よしむね)にまつわる”椿”が残っています。後でご説明します。

上の画像が、その”新田義宗”(にった よしむね)にまつわる”椿”が残っている”両新田神社”の鳥居です。

ここは「湯山地区」でも、かつては「日浦村」と呼ばれていました。今でも、小学校や中学校、それに駐在所やバス停などには「日浦」が残されています。

なぜこの地区を「日浦村」と言ったかといいますと、「日」は「日」のことです。

「日裏」は日当たりの悪い場所というと土地の特性が由来となった町名です。

両新田神社社殿8
上の画像は”両新田神社”の社殿です。

上の続きです。ではなぜ「日浦町」が今の町名の「河中町」に変わったのか?

それは「」が「」に繋がることから火事を連想する言葉として避けられ、石手川と福見川の合流地点にあることから「河中村」に変更されたのです。それは、江戸時代後期の話です。でも、今でも地域の方は「ウチの日浦ではノー!」っと、「日浦」が生きています。

さて、画像の”両新田神社”の来歴です。

鎌倉時代”と”室町時代”の狭間(はざま=すき間)に、”建武の新政”と呼ばれた2年間という短い時代がありました。

その時代に活躍したのが”新田義貞”(にった よしさだ)ですが、彼の息子が”新田義宗”(にった よしむね)です。

この”義宗”は南朝方(足利尊氏に京都から追い出された”後醍醐天皇”に味方した勢力を南朝方という)について、”室町幕府”を立てた”足利尊氏”(あしかが たかうじ)を相手に戦い、そしてそれに破れ室町幕府から追われる身になります。

お杖椿9
その時の南朝方の”新田義貞”や”楠木正成”(くすのき まさしげ)は戦死し、”後醍醐天皇”もお亡くなりになって、”義宗”は逃亡の生活を、僅かに残った共の者とたった一人生き残った家来の”脇屋義治”(わきや よしはる)と共に続けていて、ついに伊予のこの地まで落ち延びてきました。

疲れた足を引きずって、山道を上がって行く義宗を労(いたわ)しく思ったお供の者が、山の中に生えていた”椿”を切って””を作って義宗に渡しました。

その時義宗が使った杖を大地に立てたところ、芽が出て大きく育ったといういわれがあるのが、画像の”大椿”です。

これを”お杖椿”あるいは、”新田椿”と言います。

二人の武将はそこで生涯を終えましたが、村人やこの地の領主・得能家(とくいけ=伊予国守護大名であった河野氏の一族)が二人の死を哀れんで、新田義宗を”上新田神社”、脇屋義治を”下新田神社”に祀りました。

明治3年になってこの二つの”新田神社”を合わせて、ここに”両新田神社”としました。

お津w椿10
この椿は、松山市指定天然記念物で、昭和48年8月19日に指定されています。

根のまわり5.1メートル、高さ10メートル、枝張り東西15メートル,南北14.5メートルもあり、椿の中では県内第一です。

室町時代のお話が、今になってもこの地に残り、そしてこの大椿に残ったということに心動かされます。

なお最近になって、松山の本屋さんに「軍神の血脈」という書籍が一斉に並びました。著者は「高田崇史」氏、出版元は「講談社」です。

その書籍のサブタイトルは「楠木正成(くすのきまさしげ)秘伝」とあります。

この著作の中に、今日書きました”楠木正成”や”新田義貞”や”後醍醐天皇”が登場します。結論から言いますと”歴史SF”だと見たら、単純に見て面白いかも知れません。”

この著作は”SF”にカテゴリーするべき著作だと思いました。ところが天下の「講談社」は、これを歴史本にカテゴリーした。??????です。

多くは語りません。職業作家の方が書いた本で、既に出版されています。でも個人的・素人的には”???”だと思いました。


なお次回の”松山市の地名・町名由来”シリーズ第25回目は、「大可賀町」「越智町」をご紹介します。




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県外特別編・京都と奈良「かき氷 宇治金時」・「愛媛グルメ紀行」 593

今日も”県外特別編”として、京都の”平安神宮”の中の庭園にある”澄心亭”さんでいただいた”かき氷”と、奈良の”東大寺・二月堂”前の”絵馬堂茶屋”さんでいただいた”かき氷”をご紹介しましょう。

8月3日に、京都で行われた弟の長男(ワタシにとっては、甥)の結婚式に参列し、翌4日から7日に松山に帰るまでに間、弟の車に妹と乗って、京都と奈良を旅して来ました。

その間は、連日の猛暑・酷暑をついての旅になりましたので、まあ暑いこと暑いこと。ですから、どうしても冷たいものが欲しくなります。

平安神宮澄心亭1
京都に”平安京”を築いたのは”桓武天皇”で、延暦12年(西暦793年)同国葛野・愛宕両郡を選び都の造営を始められました。そして翌年13年10に造営なった京都に移られ、ここを”平安京”と名付けられました。


またここ”平安神宮”は、平安遷都1100年を記念して、明治28年に”桓武天皇”をご祭神として創建されました。”平安神宮”に関する記事は、後日まとめて”日本の歴史・夜明け編”としてアップする予定です。


そしてこの”澄心亭”は広大な平安神宮の庭園の中で、西の位置にあって”南神苑”(平安の苑)の一角にあります。

澄心亭屋根裏2
真夏の太陽が容赦なく降り注ぐ中、ワタシは息も絶え絶えになってここにたどり着きました。


澄心亭”の中に入りますと、広い庭園の木陰から涼しい風が吹き抜けて生き返った気持ちになりました。


小さく簡素な庵(いおり)ですが、庭園の散策者にとってはありがたい”オアシス”です。

澄心亭から外を3
”澄心亭”の中から庭園を望みますと、目の前には”白虎池”が広がり、蓮の花が今は盛りとばかりに可憐に咲いております。


ここで”命の洗濯”をすることにしました。

宇治金時4
ワタシは迷うことなく”宇治金時”を注文しました。弟も同じ。妹はアイスコーヒーを。


ワタシは例によって、”宇治金時”を横からた上から斜めから写真を写しています。


二人が呆れた顔で「あ、あああ、あ~あ、それじゃあ氷が溶けてしまうじゃん!」っと。

宇治金時5
そんな二人の声を他所に、写真を撮り終えた後は一気呵成に”宇治金時”に挑戦です。


「ソリャアー、京都に来たからには”宇治金時”よなー!」などど言いながら、アッという間に平らけてしまいました。


それを見ていた二人、またあきれ果てた顔で「氷を食べにかかったのは一番後なのに、真っ先に食べ終わった!エーーー???氷食べて、頭がキーンと痛くならんのー??」っと。


もうこうなりますと、還暦過ぎの兄弟の会話ではありません、子供時代の会話です。「ニーチャンはなー、頭痛うならんのよーー!」っと。

東大寺二月堂絵馬堂茶屋6
こちらは奈良県の奈良公園近くの”東大寺”境内にある”二月堂”前の”絵馬堂茶屋”の玄関です。


東大寺”は、天平年間(てんぴょうねんかん)(西暦700年代中盤)に”聖武天皇”の命によって創建されました。このことも”日本の歴史・夜明け編”で詳しく触れる予定です。


その”東大寺”の境内に”二月堂”があります。旧暦2月に”お水取り”(修二会)が行われることからこの名がつきました。

絵馬堂茶屋から二月堂7
”二月堂”前の”絵馬堂茶屋”の窓から外を見ますと、”二月堂”と”法華堂”の建物が見えます。


画像の左手の高い建物が”二月堂”です。


奈良と京都に共通しているのは、海外からの観光客が多いこと。ところによれば、同じ境内にいる観光客の中で、明らかに海外客と分かる人の割合いが6~7割ということもあります。


特にこの”二月堂”や”法華堂”など、日本人観光客は余り足を伸ばさない施設は圧倒的に海外客のほうが多いですね。

宇治金時8
さてここ奈良でも注文したのは”宇治金時”。ここは宇治ではないけど、ここで氷イチゴはないでしょう。


弟も妹も、今度は同じ物を注文しました。


ワタシが氷を食べるスピードが早いことを知ってる二人は、ワタシが撮影しているのを尻目にさっさと取り掛かった。

宇治金時9
平安神宮の”宇治金時”の氷は、肌理(きめ)が細かった。だから、氷を口に入れると瞬時に溶けてしまった。


ところが、二月堂の”宇治金時”の氷の肌理の粗さと言ったら!

宇治金時アップ10
氷を口に入れると、「ガリガリ・・・・ガリガリ」と音がする。


二人は実に食べにくそうに挑んでいたけど、ワタシは家庭の冷凍庫で作ったブロック氷くらいは、平気でバリバリガリガリと噛み砕いて食べてしまう。


職場でも、ブロック氷をガリバリ噛み砕いて食べる。すると職場の同僚が「ああ、今年も夏がやって来たか!」っと言う。





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県外特別編・京都「名代 おめん」・「愛媛グルメ紀行」 594

今日も”県外特別編”として、 京都市左京区の”銀閣寺”横にある”稲庭うどん”の超有名店である”名代 おめん”というお店をご紹介しましょう。

日本の”うどん”には、”三大うどん”と名付けられたものがあります。その第一は皆さんもよくご存知、香川の”讃岐うどん”です。

他の2つは、上に書きました秋田の”稲庭うどん”と群馬の”水沢うどん”という説が一般的です。でも、これには諸説あります。三番目に何を入れるかで、説が分かれるようです。

ワタシなら当然に”伊予艶うどん”を上げますね。

玄関1
これがお店の玄関です。弟の推薦でお店に来ました。

このお店はこの”銀閣寺本店”の他に、”四条先斗町店”(しじょう ぽんとちょうてん)、”高台寺店”、そして”ニューヨーク店”まであります。

お店の創業は昭和42年、この”銀閣寺本店”で産声を上げました。今から46年前のことです。京都においては、比較的新しいお店でしょう。”稲庭うどん”は秋田のうどんですが、このお店は上州伊勢崎(今の群馬県)をふる里とします。

また店名の由来は、上州伊勢崎地方の方言で”御麺”がなまって”おめん”となったそうです。

店内は、平日の午後1時に入店しましたが満席でした。待ち席が用意されています。また土地柄を反映して、店内には海外観光客の姿も目立ちます。

一時期、松山でも枝松5丁目の南環状線沿いに”稲庭うどん”専門のお店がありました。興味本位に食べに行きましたが、やはり愛媛は”讃岐うどん”文化圏です。撤退は早かったように記憶しています。

”稲庭うどん”は手延べ製法の干しうどんで、乾麺として出回ることが多いうどんです。ところが、このお店はお店でうどんを打って”生麺”を湯掻いて出されています。

薬味2
さて、先ず最初に驚かされたのがこの”薬味群”です。これで3人前の量です。


薬味の種類といいその量といい、圧倒されました。これは”薬味”というものの位置づけが”讃岐うどん”系のうどんとはまるで違っています。


この画像に入っている薬味だけでも、揚げられた茄子(なす)、湯掻かれて一枚一枚重ねられて切りそろえられたキャベツ、針の山のようにそそり立つミョウガ、大量の刻みネギ、そして白くみえるのは、千切りにされた大根です。


千切り大根って、あの刺身のツマで付いてるアレですよ。

薬味ごぼう煮物4
一枚の画像には収まりきりません。


これは別皿で出された”薬味”で、牛蒡や人参などを煮た”キンピラゴボウ”です。


それ以外にも何か入っていましたが、圧倒されっぱなしで確認する余裕すら持てませんでした。

胡麻5
そして”薬味”の最後は、これまた大量の”煎り胡麻”です。


コンモリと盛り上がっているではありませんか。ワタシは”冷たいうどん”、この辺りで”ざるうどん”と呼んでいるものを注文しました。


その一般的に言う”ざるうどん”に、こんなに大量の”煎り胡麻”が薬味で付いているのは見たことがありません。
天ぷら盛合せ6
こちらは”天ぷら盛り合わせ”です。


まあ妹と弟との、恐らく初めてで最後となるであろう”兄弟旅”です。贅沢させて頂きました。非日常の世界です。


揚げたての天ぷらはどれも美味しかった。兄弟に笑顔が自然に広がりました。「こんな薬味、初めてやなーー!」などと、兄弟の話は弾みます。

うどん7
さあて、やっと”稲庭うどん”の登場です。稲庭うどんの特徴は、冷麦よりやや太めではありますが、”讃岐うどん”系のうどん麺と比較すると、随分”細麺”です。


しかもやや平打ち麺で、色がやや黄色味かかった色をしているのが特徴です。そのお約束通りの麺でした。更にこのお店、国産小麦粉100%で麺を打っておられます。


それと、やはり驚かされたのは”漬け出汁”を入れる器の大きさと形状です。この器は、あの大量の”薬味”を全部入れきる前提で作られたもの。


口径が、普通の丼ほどあって、しかも浅い。薬味と麺を同時に食べやすいという構造です。出汁は、上質の昆布とかつおでとられていますが、四国の出汁に比べてやや濃い目。

うどん麺8
どうです、やや細めながらしっかりした色艶ではありませんか。


たおやかな曲線を描いて、木製の器に収められています。うどん麺の上には、微かな青のりが掛かっています。


見ただけで、麺のモッチリ感が伝わってきます。自然に顔が綻(ほころ)びます。

麺9
早速食べてみました。先ず出汁を付けずに、麺そのものを味わってみました。


うどん麺は、小麦粉と塩だけで出来てるシンプルな食材です。ですから、小麦粉の良し悪しは味に大きく影響します。この麺には小麦粉の風味が活きています。


しかも肌触り滑らかなツルツル麺で、しかもモチモチ感に満ちています。


京都では馴染みのなかった”稲庭うどん”を、この地で普及させ「稲庭うどん ここにあり!」と名を売っただけのことはあります。

つけ汁10
これが”薬味野菜”を満載した漬け出汁です。


薬味を入れる器を、うどんを入れる丼と同じ大きさにしなければならない理由が、この画像でお分かりでしょう。


決して華美な薬味という訳ではありません。地元でその日採れた野菜に一手間一手間、手をかけて薬味に仕立て上げられました。当然に無添加、化学調味料、保存料など全て未使用です。


自然の恵みを自然のままに、愛情込めて、食卓の足も折れよとばかりに大量に提供なさいました。

鯖寿司11
さて、最後は”鯖寿司”です。京都でも奈良でも”鯖寿司”は最高のおもてなし料理であり、同時に庶民の味でもありました。

今でこそ、生魚の輸送手段が飛躍的に発達しましたが、鉄道や自動車が普及する以前の””は”鯖街道”(さばかいどう)を通って京に運ばれました。

鯖街道”とは、若狭湾の小浜藩(おばまはん)領内で捕れた””に一塩して”よっぴいて”(夜通しで)京都まで運んだ街道の総称です。

”鯖”に塩をまぶして夜通し京都まで運ぶとちょうど良い味になったそうです。ですから、運搬人夫は「京は遠ても十八里」と唄いながら、寝ずに歩き通したと言われています。

照明のない街道は、鯖と金が通る街道でしたから、運搬人は夜盗に襲われる危険をついて”鯖”を京に運び続けました。「命惜しけど金欲しい」でした。

長い歴史に育まれ庶民に愛され続けている”鯖寿司”を、いとおしんでいただいたことは言うまでもありません。




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県外特別編・奈良「中華料理 上海樓」・「愛媛グルメ紀行」 595

今日も”県外特別編”としまして、奈良県の”奈良公園”近くにあります”中華料理 上海樓”(しゃんはいろう)さんをご紹介しましょう。


このお店は昭和20年の開業です。ただし、戦前は理容店を営んでいて、創業の歴史は更に遡(さかのぼ)るそうです。

奈良上海樓玄関1
こちらがお店の玄関です。


昭和の香りが漂いますね。店名にしても”上海樓”って旧字体を使っておられますので、最近の方だと読めない方もいるかも知れませんね。


「この辺りにはねー、戦前は芸者さんの置屋も多くあってねっ!出前で頭をあたりに行ったもんでした。それは賑やかでしたし華やかだったんですヨー!」っと、昭和を色濃く感じさせる女将さん。


「それでねーー!戦後ですよ。幸い奈良は空襲からは免れましたけどねー、モーーなーーーんにも無くなっちゃって!皆んな、お腹空かせているしねー。でねー、中国の華僑の方を雇ってこの商売を始めたんですよー!」

店内3
「お料理なんて、当時は家庭料理の延長程度のもんでねー、炒飯なんて出していた。でもねー!皆さんお腹空かせているでしょー、そりゃあマアー、美味しい美味しいってね!」


「その内にねー、それらしい味になってったのよ!」女将さんの独白は続きました。


弟と妹は、黙ってお料理を食べていましたが、ニヤニヤとした顔だったような?


「奈良まできても、ブログネタにしようと思ってるな!」って顔でした。半ば呆れ顔とも言います。

メニュー4
こちらが膨大なメニューのほんの一部です。70年近い歳月をかけて、様々なメニューが生まれてきたことを物語ります。


しかも、奈良公園近くの観光地にあるにも関わらず”観光地価格”にはされていません。昭和人のプライドでしょうか。


ただし、気鋭の料理店のような目にしたことも食べたこともないようなメニューは一つもありません。昔からこれでやっています!っという感じでしょう。

五目海鮮麺5
ワタシはこのお店が”五目海鮮麺”と呼んでいる、通称”チャンポン”を頼みました。画像がそれです。お値段は850円。


小さい器に見えますが、極めて普通サイズです。


具材が山盛りに入っているので、麺が見えません。

五目海鮮麺6
主な具材は、人参、タケノコ、白菜、チンゲンサイ、きくらげ、ホタテなどです。


特別な具材が入っている訳ではありません。スープは澄んだ青湯(ちんたん)スープのようで、塩味のあっさり味でした。鶏ガラでとったスープです。


但し中国スープの最高峰である上湯(しゃんたん)スープではなさそうでした。それほどのコクはありません。

アップ9
ただ、具材の食感や元々持ってる持ち味はキチンと生かされていて、美味しく頂きました。


その地方に行って名物料理をいただくのは、もちろん旅の楽しみの一つですが、こうして地域に根ざして70年が来ようとしておるお店で、じっくりいただくのもいいもんです。


唸るほどのお味ではありませんが、胃や体全体に優しいお料理でした。女将さんの昔話も、うなずかされるばかりでした。

麺10
しかし””はモッチリしていて、スープがよく絡んで美味しくいただきました。


何れにせよ、妹と弟と共にいただくお料理は美味しいに決まっています。京都のイタリアンでの接遇の悪さには呆れ果てましたが、そんなこと3人にとっては些細なことです。兄弟旅には何の影響もありません。


さて明日が”県外特別編”の最終回となります。




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県外特別編・奈良「柿の葉すし ゐざさ寿司」・「愛媛グルメ紀行」 596

今日は”県外特別編”の最終回です。お店は奈良県の”東大寺”前にある”柿の葉すし ゐざさ寿司”(いざさ)さんです。


このお店の本店は、奈良県吉野郡上北山村河合にあり、今日ご紹介するのは本店を含めて5店舗ある中の”東大寺店”です。


今回は注文しませんでしたが、このお店の看板メニューは奈良県の”奥吉野”で生まれた”柿の葉すし”です。

玄関1
これが”東大寺”前にあるお店の玄関です。


さてこのお店の看板メニューである”柿の葉すし”です。ここの””は京都の”柿の葉すし”のように若狭の小浜市(おばまし)から”鯖街道”を運んでこられたものではありません。


奈良の””(さば)は、熊野灘で水揚げされ、浜塩を施して背負い籠に詰められ、高い峰を越え、谷川の難所をわたって村々に運ばれたものが始まりです。


これをこの地の人々は、薄く切ってご飯の上に乗せ、手近に豊富にあった山柿の葉に包んで重石をかけ、熟成させてお寿司に仕上げ、祭礼の日のご馳走としました。柿の葉に含まれるタンニンの抗菌作用を生かしたもので、”柿の葉寿司”には山里の食の知恵と工夫が凝縮されいます。

生ビールと大仏殿3
さて、ワタシが注文した”生ビール”の向こうに見えるのは、生ビールの直ぐ左手に”東大寺南門”の屋根です。


さらにその左手に見えるのは”東大寺金堂(大仏殿)”の屋根の姿です。


にわか雨に見まわれましたので、窓ガラスに水滴が見えます。この4泊5日の”兄弟旅”では旅した地域で記録的な豪雨に見舞われた地域もありましたが、不思議な事に私達は一度も雨に出会いませんでした。


この日が4泊した中で最後の夕食でしたが、このお店で食べている間は外は豪雨でしたが食事が終わって外に出ると雨は上がっていました。

風御膳4
さて上の画像がワタシが注文した、このお店で”"風御膳”と呼ばれているものです。


内容は、”季節の蒸し寿司”と”天ぷら盛合せ”、それに””三種の小鉢”と”季節のお料理”と”汁椀”で構成されています。


最後の”贅沢メニュー”です。”愛媛グルメ紀行”シリーズでいただく様々のメニューの値段とは違います。これは見ていただいている方々に「スミマセン!」という他ありません。”兄弟旅”が故の贅沢です。

蒸し寿司と大仏殿
さてこれがメインの”季節の蒸し寿司”です。


蒸し寿司の奥に、窓ガラス越しに見えるのが”東大寺”の”南大門”と”大仏殿”のシルエットです。


この”東大寺”に関しては、後日”愛媛の歴史”シリーズの”特別編”として、日本という国が”日本”という国号を名乗り始めた頃の歴史をシリーズとして書いていく予定です。

蒸し寿司穴子6
画像の”蒸し寿司”はこのお店のもう一つの名物メニューで、”鰻寿司”(うなぎずし)です。この”鰻寿司”以外に、京都名物でもある”鱧寿司”(はもずし)もあります。


鰻をタレに漬けて焼いたものに、キヌサヤ、カンピョウ、高野豆腐、海老、椎茸、ハジカミ(生姜)など、確認出来たものだけでも、とにかく具沢山です。


奈良県は海に面していない県です。その県は”ヤマト政権”の発祥の地となりました。”ヤマト”とは元々奈良県大和郡という地域名でしたが、その地に今の”日本”の原型を作った政権が生まれたことから”ヤマト政権”と呼ばれるようになりました。(政権の名前を”大和政権”と表記したのはずっと後代のこと)


つまり、こに地に””が開かれたのです。これらのお料理の数々は、かつてこの地に”王都”があったことを示すものです。ですからどことなく”華美”な雰囲気が感じ取れました。

三種の小鉢7
この画像は”三種の小鉢”と名付けられたお料理です。


右端は、大根を出汁で煮た物の上に湯掻かれた海老が一尾乗っています。真ん中は、イカと人参や牛蒡、昆布などの和物(あえもの)です。贅沢な品々ですね。


左端は奈良県の名産特産の一つである”胡麻豆腐”の上にイクラとワサビがちょこんと乗せられたもの。ねっとりした食感が旨い。内陸県の、特に精進料理主体のお寺のお坊さんの貴重なタンパク源だったのです。

季節の料理8
こちらはこのお店が”季節の料理”と呼んでいるお料理です。


内容は海老を揚げたものと川魚(?)、それに鶏肉を蒸したものに人参などを詰め物にしたものなど。


他は内容が確認出来ませんでした。妹と弟との会話に夢中でしたので。

天ぷら盛合せ9
こちらは見た通りの”天ぷら盛合せ”です。


もう、その中身の一つ一つを書くことはしません。こちらは、奈良県でないと味わえないというものではなかったからです。

レモン等10
これらの天ぷらを、レモンと抹茶塩と大根おろしでいただきます。


3人の”兄弟旅”の最後の夕食を満喫しました。兄弟の話は止(とめど)がありません。道中の弟の車の中でも幼いころの思い出話に花が咲きました。


ワタシが二人に「この兄弟旅は、今は亡き両親にとって最高の供養旅になったね!」って言いました。


すると二人が殆ど同じタイミングで声を揃えてこう言いました。「うーーーん・・・・・供養旅と言うより・・・・そう、これは兄貴の”ブログ取材旅”やでーーー!!!なっ!!」っと。




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「愛媛グルメ紀行」を振り返る 75

今週の土曜日も”愛媛グルメ紀行”シリーズを振り返ってみましょう。

今日振り返るのは、昨年の年初めにアップした223号から225号までのお店です。”イタリアン特集”を5回連続でしていたころです。

先ず最初に振り返るお店は、昨年2月10日にシリーズ223番目のお店としてご紹介した、国道11号線の久米から県道森松重信線に抜ける農免道路沿い、土居町にあるイタリアンレストラン”Wind Bell(ウインド ベル)”さんです。(「Wind Bell(ウインド ベル)」・「愛媛グルメ紀行」 223

玄関1
こちらがお店と、その玄関です。お店の前の駐車場は、19台が用意されています。

メニューを開いた瞬間、「え??!!」と、目を見張りました。

何と、なんと、ナント・・・”パスタランチ”が”1,580円!!”。

サラダと前菜、それに4種から選んだパスタ、そして飲み物だけで・・・・・・

この時点で席を立つべきでした。その勇気が無かったワタシが情けなくて。

敗れた旗9
お料理に関する感想など、ワタシの語彙力では表現仕切れません。

厳しく言えば、語る価値なし!です。払ったお金が勿体ない。

このお店の駐車場の入り口(お店の顔とも言うべき)にある、”破れたままで放置してあった旗”がこのお店の全てを語ってくれます。

もちろん再訪など致しません。その理由は言わずもがなです。なお極最近になって、さすがにこの破れて放置されていた旗は修繕されました。


二番目に振り返るお店は、昨年2月13日にシリーズ224番目のお店としてご紹介した、清水町3丁目の護国神社通り沿いにある”レストラン SHIMIZU(しみず)”さんです。(「レストラン SHIMIZU(シミズ)」・「愛媛グルメ紀行」 224

場所は、”清水小学校”の護国神社通り(県道六軒屋石手線)を挟んだ北側です。

玄関1
こちらが、護国神社通りから見たお店の概観です。

現在の店主さんおご両親が喫茶店としてお店を始められ、息子さんにバトンタッチされました。

お店を入ると、左側に広々としたオープンキッチンがあって、オーナシェフを含めて3人のスタッフが忙しく調理に集中しています。フロアー係りの若い女性は3人いたようです。

洋食メニューに腕を振るうシェフは”2代目”です。

ハヤシライス6
ワタシは””ハヤシBセット”(ハヤシライスと小海老のから揚げ、サラダ、スープ付)を注文しました。お値段は750円(内税)です。

画像はメインの”ハヤシライス”です。

型取りされたライスを崩しながら、ドミグラスソースを絡ませながら食べ進みます。

”ドミグラスソース”の奥深い味が、いい感じで味わえます。

ただし、このお店は再訪できません。その後お店を閉められ、現在は別のお店に貸されています。


最後に振り返るのは、昨年2月14日にシリーズ225番目のお店としてご紹介した、木屋町3丁目の護国神社通り北側にある”フライング・スコッツマン 木屋町店”さんです。(「フライング・スコッツマン」・「愛媛グルメ紀行」 225

場所は本町の電車通り、フジ本町店がある交差点を東に入って直ぐ北側にとんがり帽子の屋根が見えてきます。

玄関1
大街道の三越松山店向かい側に”大街道店”があり、この大街道店がスタートしたのは1988年。

今から24年前のことです。お客さんの多い店で、時間帯によっては駐車場が満車で入れないことも。

メンタイスパ7
こちらが、和風スパの代表的メニューである”明太子スパ”です。

麺の茹で方は、アルデンテよりやや柔らかめ。ソースは完全にバター風味の洋風味で、そこに明太子と貝柱とシメジが和えてありました。

ワタシがイメージしていたパスタとは趣を異にしましたが、でも美味しくいただきました。

でも再訪は致しません。ワタシは喫茶店でお昼をいただく習慣がないからです。




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「松山市の地名・町名由来」・ 「大可賀町・越智町」 25

松山市の地名・町名由来」の第25回目は、江戸時代の松山城主に因むという共通点を持っている「大可賀町」(おおかがちょう)と「越智町」(おちちょう)の町名由来をご紹介しましょう。

まず「大可賀」(おおかが)(現在は「大可賀町」という表示はなく、1丁目~3丁目に分かれています)の由来をご紹介しましょう。

江戸時代を通じて、松山藩は”新田開発”に力を注いでいます。それは幕末期においても同じでした。

大可賀2丁目1
上の画像は、現在の「大可賀」の住所を示す表示板です。

大可賀は松山市の西部、当時”吉田浜”と呼ばれていた海岸部にあります。幕末期に、吉田浜の北部にあった干潟に着目したのは”奥平貞幹”(おくだいら ていかん)という人物。

”奥平貞幹”(おくだいら ていかん)は、吉田浜北部干潟のの新田開発計画を藩に提出し、開発希望者を募りました。

奥平貞幹の開発案に呼応して、嘉永4年(1851年)西山村庄屋の”一色義十郎”が開発に着手し、安政5年(1858年)に50町余りの干拓地を完成させました。

大可賀記念石碑2
上の画像は、それらの”事跡”を記念して建てられた”記念石碑”と開発の契機や経緯等を詳しく記した”石碑”です。

この開拓の成功を、当時の藩主”松平勝成”(まつだいら かつしげ)は「いにし」(大変喜ばしく祝うべきことだ)称賛したことから「大可賀」という地名が生ました。

これが「大可賀」の町名由来です。

大可賀新田記3
その後、松山藩は開発途中で援助を開始し、更なる開発を奨励しています。

松山藩と”一色義十郎”は土地の折半や用水の工夫など、開発を進めるために力を合わせた事によって、現在の大可賀という干拓地が広がり、今の町並みにまで発展しました。

越智1丁目4
次は「越智町」(おちちょう)の由来です。画像は、現在の「越智」(おち)(現在は「越智町」という表示は無く1丁目~3丁目に分かれています)を示す表示板です。

5月20日に「松山市の地名・町名由来」の第8回目として採り上げた中で、「松前町」(まさきまち)の由来をご紹介しました。

つまり「松前町」は、”松山城”を築城した城主”加藤嘉昭”(かとう よしあき)が、今の伊予郡松前町から栗田・後藤・曾我部などの豪商を呼び寄せ、今の”古町”周辺の”商人町”に「松前町」を作ったのが由来です。

その”加藤嘉昭”は、。寛永4年(1627年)陸奥国会津藩42万石に加転封され、その後に松山藩に入府したのは出羽国上山藩から転封された”蒲生忠知”(がもう ただとも)(外様)で、蒲生忠知には寛永11年(1634年)嗣子に恵まれず蒲生氏は断絶しました。

そしてその後松山藩主には”久松松平家”の、"松平定行"(まつだいら さだゆきき)(親藩)が寛永12年(1635年)伊勢国桑名藩より15万石で入封し明治維新まで続きます。

なお”久松松平氏”は本姓菅原氏とされ、遠祖は”菅原道真”と伝えられています。元々は愛知県知多半島の出です。江戸時代に入って”徳川家康”が江戸幕府を開いた後、家康の異父弟の松平康元、勝俊、定勝の3人は、松平姓を与えられるともに大名に列せられます。

その中の”松平定勝”が””久松松平氏”の祖となり、定勝の次男”松平定行”が定勝のあとを継承して伊予松山藩15万石の祖となりました。

その”久松松平氏”も、前前代の松山藩城主”加藤嘉昭”(かとう よしあき)と同様に桑名から多く商人たちを移住させ、商人町であった「古町」に住まわせています。

大山祗神社5
そして第十二代藩主”松平勝善”(まつだいら かつよし)は、水利が未整備で痩せた土地であった今の「越智町」に、越智郡大三島の農業技術優秀な農民を30戸選別し松山のこの地に移住させました。

古来伊予国に於ける文化や農業などの先進地は、現在の東予地域でした。その先進地の中でも特に優良な大三島の農民を移住させたのです。

農民たちは、この地に井戸や泉を掘り、灌漑用水と利用できるように用水路の整備を図りました。

上の画像は、出身地の鎮り神である大三島の”大山祗神社”(おおやまずみじんじゃ)を心の拠り所とすべく勧請(かんじょう=本祀の社の祭神の分霊を迎えて新たに設けた分祀の社殿にまつること)したのです。

今はこの”大山祗神社”、越智地区の鎮守の神であり、更に伊予豆比古命神社の飛地境内神社となっています。

越智大山祗神社本殿6
越智郡大三島出身の農家30戸の努力が実り、荒廃していたこの地が優良農地に生まれ変わったのです。

以来、越智郡から来た人たちが開墾したことから、この地を「越智町」と呼ぶようになりました。

ただ、現在では松山市の一大ベッドタウンと化し、越智郡出身者が開墾した優良農地は地域内にほとんど残っておりません。

「越智町」は、国道33号線に沿ってある町で、昔は伊予鉄電車の森松線が通っていましたので、早くから住宅地としての開発が進んだ地域です。

越智大山祗神社石碑7
なお、この越智町にある”大山祗神社”境内にある、画像の左手前の”石灯篭”には、”安政3年4月吉日”の文字が刻印されています。

この”安政3年”(1856年)という年は既に幕末期で、アメリカの”ハリス”が伊豆の下田に入港し、時の江戸幕府に通商を迫った年でもあります。

と同時に、ここ「越智町」の町名由来を作った松山藩第十二代藩主”松平勝善”(まつだいら かつよし)が、江戸藩邸で亡くなった年でもあります。

この画像にある”石灯篭”が製作され、”大山祗神社”に奉納された4ヵ月後に”松平勝善”は39年の生涯を閉じました。

越智町農地8
最後上の画像は、現在数少なく残った「越智町」の灌漑用水が整備された農地の様子です。

30戸の越智郡大三島出身の農家の汗と涙の結晶が今僅かに残って、開墾された当時を偲ばせてくれます。


なお次回の”松山市の地名・町名由来”シリーズ第26回目は、「姫原」>をご紹介します。




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「再訪 158 おが多」・「愛媛グルメ紀行」 597

今日は、先月(8月7日)ご紹介したばかりのお店、、宮田町(JR駅前)にある”キスケボックス”の1階に入っておられる”おが多”さんを再びご紹介しましょう。


先月の記事はこちら。(「おが多」・「愛媛グルメ紀行」 572

冷麺5
前回いただいたのは、画像の”冷麺”でした。その巧みな美味しさに舌を巻いたばかりです。


今回短期間で再訪しましたのは、上の記事をアップした時、管理者だけが読めるコメントを頂きました。そのコメントによりますと、「おが多の若大将に記事を紹介したところ、お礼を言いたいと・・・・」ということでしたので再訪したという訳です。

玄関1
こちらがお店の玄関。


お店に入って直ぐに「あの~、グログを書いていて先日このお店を採り上げたところ、ある読者の方から<ぜひ再訪してほしい!>とコメントを頂きましたのでお伺いしました」と説明しました。


ところが店長さん「ああそうですか」っと、無表情。まあよくあることです、こういうすれ違いは。ワタシは美味しいラーメンが食べられれば全く文句はありません。

店内2
今回も、午前11時30分にお店に入りました。


店内はおおよそ7割の入り。ゲームセンター等のこの建物施設内だけのお客さんとは見えませんでした。


やはり、ここ”おが多”さんの各種”らーめん”の味を求めてのお客さんが多いように思いました。

メニュー3
前回いただいた”冷麺”の系列メニューは一種だけなので、今回は温かいメニューを求めるほかありませんでした。


そこで選んだのは”塩らーめん”です。実は私は根っからの”醤油ラーメン”派です。東京で4年間過ごしたことが、好みを固定化したものでしょう。所謂(いわゆる)”東京ラーメン”の、あのアッサリとした”醤油ラーメン”の頑固な支持者です。


とことが2012年3月5日にご紹介した、北条にある”カザハヤラーメン”さん(現在は三宝亭に店名変更)の”旨こく味玉塩ねぎラーメン”で”塩ラーメン”の味に開眼したのです。(「北条カザハヤ ラーメン」・「愛媛グルメ紀行」 239

塩らーめん4
さて、この画像が”おが多”さんの”塩ラーメン”です。


まあなんと清々しい姿なんでしょう。スープは暑いのに、見た目は実に涼しげです。


これが”醤油ラーメン”との持ち味の違いでしょう。見た目も味も違いますが、このところはすっかり”塩ラーメン”のファンになっています。

塩らーめん5
第一”気品”が感じ取れます。”醤油ラーメン”が下町のスターなら”塩ラーメン”は”山の手の貴婦人”でしょう。


スープは鶏ガラで取っておられるのでしょうが、スープに加える”タレ”に塩を使う。”醤油ラーメン”の場合の多くは”チャーシュー”を醤油等で煮ますが、その残りの煮汁を”タレ”に使っておられるのでは?と思います。


その点、タレに豚肉の持つ旨みが乗りますが、塩にはそれがない。それだけスープに自信がないと”旨い塩ラーメン”は出せないと思うんです。

白髪ネギ6
具台も至ってシンプル。カイワレと大きめに切ったネギの青い部分、白髪ネギ。


ユニークだと思ったのはレタスと輪切りの厚目に切ったトマトです。このトマトは”冷麺”でも大量に使われていました。これがこのお店の店主さんの工夫なんでしょう。


もちろん、目立ちませんがチャーシューも入っています。完全にラーメンの固定観念を超えた作品でしょう。

トマト8
スープが実に上品。鶏ガラの旨みがギリギリまで引き出されていまいます。


まあこの”トマト”をご覧になって下さい。温かいラーメンにトマトですよ。


これがアッサリしたスープに、僅かに酸味を与えていい仕事をしているんです。

麺9
麺はしっかりした”細麺”を使ってあります。これが塩ラーメンと相性がいいのでしょう。


スルスルと胃に吸い込まれていきます。いい小麦粉を使っていることも分かります。


これだから、ラーメン主体のシンプルメニューのお店づくりになさったのでしょう。

完食10
もちろん”完食”しました。レンゲではスープを一滴も残さず完食することは無理です。


当然、丼を両手で持ち上げてズルズルと飲み干しました。


なお今回は”ギューーーン”、”ビビビビビ”、”ガガガガガ”、”ドンドンドンドン    ドーーーーン”という、騒音の洪水が始終耳をつんざいていました。


何故なんでしょう???


更に なお!なんですが、ワタシ”ツイッター”を始めました。ブログ友:”ジンゴズンゴ”さんの影響です。


元々”ツイッター”の”ツイート”するとは”つぶやく”という意味。”じゅんのつぶやき”と言うブログ名自体が、今の事態を暗示しています。


ツイッターの”アカウント”は”じゅん @hyouga0620)です。自分のブログにもリンクさせました。


ただし、ジンゴズンゴさんのような”マシンガンツイート”は出来ません。ポツリ・・・・・ポツリ・・・デス。




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「らーめん工房 りょう花 束本店」・「愛媛グルメ紀行」 598

今日は東環状線沿いの束本1丁目にある”らーめん工房 りょう花 束本店”さんをご紹介しましょう。


南江戸3丁目、西環状線沿いにある”らーめん工房 りょう花”(フライブルグ店)さんは、過去2度ご紹介していますが店舗が変われば再訪扱いとはしていませんので新店としてご紹介します。


なお、”らーめん工房 りょう花”(フライブルグ店)さんを最初にご紹介したは、昨年5月31日でした。(「らーめん工房 りょう花」・「愛媛グルメ紀行」 301


二度目にご紹介したのは、今年の8月13日でした。(「再訪 146 らーめん工房 りょう花」・「愛媛グルメ紀行」 575


実は、今回別のお店を訪問したのには訳があります。

玄関1
こちらが、東環状線沿いにあります束本店です。両店とも、さすがに一流立地にありますね。


一流立地にあるお店は、地代が高いですから多数の客を呼んで、しかも客単価を上げなければ維持できません。


それには提供する商品の力と、接客力も入れた総合的な力を持ち続けることが必要条件です。

店内2
こちらが、店内のカウンター席から見た様子です。

先ほど書きましたワザワザ別のお店をお訪ねした訳は、この画像を撮りたかったからです。前回訪問したフライブルグ店では、メニューの提示の仕方に唸らされました。

そのお店が、今お客さんに売りたい商品を定めて、カウンター上の並んでいるメニュー表の一番表に来る”商品”を統一して掲示してあったのです。そのお店では、”冷やし 鶏塩 らーめん”メニューが一番表に来るように、フロアー係が絶えずチェックしていました。

そして、その店内メニューを統一して掲示する売り方は、全店すべてに統一されているのか?っということを確認したかったのです。

そして画像の通りです。このお店ではそうではありませんでした。9月末までの季節限定メニューなんて、一番後ろに隠れるようにありました。ここからは想像ですが、メニューの統一掲示は店長さんの裁量だと思いました。

メニュー3
その9月末までの季節限定メニューで、メニュー表の一番後ろに隠れるようになっていたメニューが、画像の”スープ冷麺”です。


この商品のキャッチコピーは「冷麺嫌いな社長が考えた あっさり優しい スープ冷麺」です。今回はそれをいただきに来ました。


ところがメニュー表をめくってめくって、やっと一番奥にあったのです。ここが最初から、ちょっと引っかかりました。

スープ冷麺1
さてこの画像が、上のキャッチコピーが冠せられた”スープ冷麺”です。


「コレハ・・・・・!」器といい、盛りつけといい、麺と具材のバランスといい、見た目にはその非凡さを感じさせられました。冷麺のこういうディスプレイ(表示法の意味でこの言葉を使いました)は、記憶にある限り初めて拝見しました。


”ラーメン丼”ではなく平皿に入っていますから、社長が工夫を凝らしたという”スープ”は、スプーンで掬って飲むことになります。実は、これが大変飲みにくい。

スープ冷麺5
彩り”は実にお見事ですね。きちんと計算され尽くした跡が見えます。


一番下に広い葉物野菜を敷き、その上に客に正対する方向から見て、麺は横にくねらせた。


そして、その上に乗せられた具材は、客に正対して縦に並べられた。しかも彩り良く。ここにセンスがキラリと光っていると感じました。

海草サラダ6
これは具材の中の”海草サラダ”の類(たぐい)です。


”海草サラダ”の内容はよくわかりませんでしたが、ワカメ中心に他はアラメ、或いはカジメなどでしょう。


全体の彩りの引き締め役を担っているようにお見受けしました。もちろん、栄養的なバランスもお考えになってのことでしょう。

キュウリ等7
こちらは、見ての通り。錦糸卵、キュウリ、チャーシュー、トマトです。綺麗ですね。


トマトも生のままではなく、皮は”湯剥き”されていました。


チャーシューも、平凡に切ってはおらず、厚い板状スティックに切り分けられています。

海老8
この湯掻かれた”海老”、背ワタをシッカリ取ってあり、皮も尾から一節だけを残して綺麗に剥いてあります。


キチンとした仕事を、丁寧に手抜きせず作ってあります。このお店のレベルの高さを忍ばせる仕事でしょう。


もちろんプリプリしていますから、極めて美味しい!

麺9
”の色艶を、まあ御覧ください。そりゃあもう、ムチムチプリプリですよ。


食べない前から、その美味しさが分かります。いい”麺”を使っておられます。


”麺”にしても、それぞれの具材にしても、どれをとっても主役を張れるほどの力量をもった者共を集結させた!っていう感じです。

麺10
ところが、トコロガ、ト コ ロ ガ !!!なんです。全部を食べきれず残してしまいました。量が多くてお腹に入らなかった訳では決してありません。

「冷麺嫌いな社長が考えたあっさり優しいスープ」なんです、問題は。

個人的に言えば”酸っぱすぎて”、とても飲めません。私は個人的嗜好から言えば”酸っぱさ”に弱い。もちろん、そういう個人的嗜好の問題も大きく作用したのでしょう。

この”スープ”、私にとっては決して”あっさり優しく”はありませんでした。鋭く尖っていたように感じました。

スター級を揃えた麺と具材の、全てのバランスを崩しているように味わえて、最後までは食べきれませんでした。

まあ、このお店のことですから”優れたメニュー”の一つなんでしょう。

で・・・・メニュー表の一番裏に、隠れるようにあったのは・・・・・偶然だったのか???単なる勘ぐりですが。

私にとってはこのチェーン店、3店目です。このメニュー、初めて「上手の手から水が漏れる」でした。





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「再訪 159 手打ちそば 無着庵」・「愛媛グルメ紀行」 599

今日は、椿参道沿いにある蕎麦屋の名店”手打ちそば 無着庵”さんの4度目のご紹介です。4回紹介したのは、このお店で5店目になりました。

このお店は、過去に3度ご紹介しています。最初は、2011年5月19日でした。(「無着庵」 真っ当な「B級グルメ店」 47

2度目は、2012年8月21日でした。(「再訪20 無着庵」・「愛媛グルメ紀行」 358

そして3度目は、今年の8月14日のことでした。(「再訪 147 手打ちそば 無着庵」・「愛媛グルメ紀行」 576

このお店を3度目から日を置かずして再訪したのは、3回目の訪問に原因があります。

玄関1
これが”椿神社”の表参道沿いにあるお店の玄関です。


前回お邪魔したのは、当初から明確な目的があったのです。それは前回書きましたように、このお店の”すだちそば”をいただきたかったからです。


ところがメニューを見た途端、下の画像の”桜おろしそば”の画像が目に飛び込んできて、咄嗟(とっさ)にそちらに注文を変更しました。

桜えびおろし3
これが”駿河湾”で穫れた”桜えび”のかき揚げと”辛味大根”を使った”桜おろしそば”です。


この”桜えびかき揚げ”の香ばしさと”辛味大根”のほろ苦さと出汁と蕎麦の組み合わせ、絶妙でした。癖になる味でした。


そのとき、メニューを取りに来たおばさんから「フフフ・・・これで次回は”すだちそば”を食べに来なきゃならなくなりましたね!」って囁かれました。悔しいけど、その予言通りになったという訳です。

メニュー3
こちらが前回もご紹介したメニューです。


夏季限定メニュー”は全部で5種用意されていますが、”桜おろしそば”は右側の1ページを占めています。


それに比べて他の4種は左ページにまとめて書いてあります。今度は迷うことなく、決然として”すだちそば”を注文しました。


そして注文を取りに来た若い女性に「この”すだちそば”って、量的にはどうなんでしょう?」っとお尋ねしました。


すると、その小柄で細い彼女が「フフフ、この”すだちそば”はアッサリしているので食べやすく、私いつでも””を注文して食べちゃいます!」って微笑まれました。


そこで、ちょっと詰まりながら「ダ   ・・イ・・・・大盛りでおねがいします!」っと。このお店のフロアー係りさんには完全に手玉に取られてばかりです。

すだちそば4
それで、出てきたのがこの画像なんです。


実はてっきり”もりそば”の上に”酢橘”(すだち)の輪切りが乗っていて、漬け汁でざるそば風にいただくものとばっかり思い込んでいました。


ところが、ところがなんです!「こ・・・・・これは????」っと声を詰まらせたワタシに「ええ、冷たく冷やされた出汁に入っているお蕎麦なんです!」っと、先ほどの小柄で細い女性が補足されました。


ちょっとメニューに示されているものからは想像もつきませんでした。しかも”酢橘”(すだち)でガラスの器が覆われていて、その下の蕎麦が見えないんです。

すだちそば5
しかも、やや斜め上から眺めてみますと”酢橘”の輪切りが何層にも重なっています。


この角度から見て、やっと蕎麦の姿を垣間見ることができます。今までに見たことも聞いたこともない”お蕎麦”でした。


ワタシはこれまで蕎麦屋さんに、この”愛媛グルメ紀行”シリーズ上で、延べ30軒行っていますが、これまでは全て”ざる”・”盛り”・”せいろ”と呼ばれる”漬け汁”に漬けて食べるお蕎麦だけをいただいてきました。


今回予期せずに、器に出汁が張ってある中に蕎麦が入っている種類をいただくことになりました。

すだちそば6
真横からはこう見えます。どうですか?涼しげでしょう。


清涼感あふれるお蕎麦です。これは見た目だけでなく、食べたら一層その感を強く感じます。


何しろ具材は”酢橘”(すだち)だけです。皆さんは”酢橘”をそのままで食べたことがあるでしょうか?


普通は酢橘を櫛切りにして、酢橘を絞ってその絞り汁から酢橘の”香りと酸味だけ”を移します。ところがこの”すだちそば”は、すだちの果汁だけでなく果肉も皮も、そしてその種まで全て食べてしまうおというものなんです。


いやーー、想像を絶するいただき方です。粗野だけど実に豪快な食べ方ではありませんか!

すだちそば7
この”酢橘の輪切り”です。紙のように薄く薄く切られています。


ここで”蕎麦屋”さんの包丁使いと、”日本料理屋”さんの包丁の使いの違いについて過去に書いた記事の一部を引用してみましょう。今年の7月24日にご紹介した、伊予市にある”伊予 味芳”さんです。(「再訪 136 伊予 味芳」・「愛媛グルメ紀行」 564


<「蕎麦を折りたたんで、板を宛てて蕎麦切り包丁で切るでしょう!あれが出来ないんです、和食職人には」

「ああそうか!和食の包丁は、刃の構造が”引き切り”するように出来ている。それに比べて蕎麦切り包丁は”押し切り”ですね!」>っと。


ですけど蕎麦屋さんは具材を切る時は”引き切り”にしますから、両方の包丁の使い方ができるんですね。

アップ8
酢橘(すだち)をここまで薄切りして、しかも果肉が崩れていませんし種だって見事にスパッと切られています。その包丁使いの見事さに先ず唸りました。


そして、酢橘(すだち)を丸ごといただこうというアイデアにも唸りました。


さらには、その味です。これはもう実際に食べて感じていただく他ない味ですね。他には比較しようがない独創的な味に唸りました。「清涼感、ここに極まれり!!」っていう感じです。


果たしてこの記事がアップ出来る時まで、このメニューが出されているかどうかです。

すだちと麺9
なお酢橘(すだち)の、食べ方です。”酢橘”単独を食べると酸っぱくて困難でしょう。


ここは蕎麦と出汁と酢橘を同時に口に入れて、三者が口腔内で混ざり合うように調整していただく。種の存在などを気にしていては美味しくいただけません。


すると、体の中に酢橘の酸味と香り、冷え冷えに冷やされた出汁の旨味、蕎麦だって冷たく冷やされていますから締まったいい味と食感を一体として味わえることになります。そりゃあ唸りますよ。

完食10
あれだけ大量に入っていた出汁まで、一滴も残さず飲み干してしまいました。


酢橘の皮だって種だって、一粒も残っていないでしょう?手品ではありません。


全部ワタシの胃に収まりました。道理でウエストが一向に細くならない訳です。美味しいメニューが悪いんです!


なお、明日の記事が”愛媛グルメ紀行”の通算”600号”となります。記念号として、ちょっとした工夫をしてみました。お楽しみにお待ちください。


それに関して、このお店は”プレ600号”に相応しい、つまり”600号”に採り上げたお店に全く遜色ないお店として選んだお店です。




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「再訪160 愛 LOVE ハンバーグ」・「愛媛グルメ紀行」600 ・「朝生田町由来」26

今日で”愛媛グルメ紀行”も600号になりました。”600号”を記念しまして、同時に「松山の地名・町名由来」シリーズ26号との合併号とします。

先ず600号に選びましたお店は、南環状線沿いの朝生田町4丁目にある”トイザらス”や”西村ジョイホームプロ朝生田店”が入っている”第一自動車教習所ビル”の1階にある”愛 LOVE ハンバーグ”さんです。

実はこのお店、4回目のご紹介となります。4回ご紹介するお店はこのお店で延べ600店の中の6店目となります。

4回ご紹介するお店は、延べ600店の中で6店目と言うことは、つまり”1%の世界”のお店なんです。ワタシにとっては”特別なお店”ということになります。

初めてこのお店をご紹介したのは2012年6月6日でした。(「愛 LOVE ハンバーグ」・「愛媛グルメ紀行」 305

2回目は今年に入って3月18日です。(「再訪 93 愛 LOVE ハンバーグ」・「愛媛グルメ紀行」 497

3回目は、同じく今年の6月27日。(「再訪123 愛 LOVE ハンバーグ」・「愛媛グルメ紀行」 548

店内1
これが店内の様子。このお店は午前11時30分開店ですが、その2分後にお店に入りました。

実はこのお店に4度目の訪問をするきかっけとなったのが、3回目の記事で頂いた”シン”さんと名乗られた方からの以下のコメントでした。確か、初めてコメントを頂いた方だったと思います。

その方のコメントは「非常に食べ辛いけど・・ハンバーガーも美味いですよ。」でした。このコメントを見た瞬間でした。

ハンバーガー”を使って「朝生田町」(あそだまち)の町名由来を説明したら面白いかも!と思ったのは。

様々な方のご支持やご協力があってこそ”600号”までたどり着きました。感謝の気持ちでいっぱいです。

メニュー3
さて、これが”シン”さんからコメントを頂いたメニュー、”愛LOVEハンバーガーランチ”です。お値段は895円。

この号で延べ600号となりましたが、その中で”ハンバーガー”を採り上げたのは初めてのことです。

ワタシの様に還暦もとうに過ぎた人間は、”ハンバーガー”というメニューに余り馴染みがありません。少なくとも子供の頃には口にしたことがないメニューです。

もちろん、マクドナルドやモスバーガーでハンバーガーを食べたことはあります。でも、元々ご飯派ですし、何より”人類”より”麺類”を自認するワタシには縁の遠いメニューです。

愛LAVEハンバーガーセット4
さてこれがこのお店の”愛LOVEハンバーガーランチ”です。

ワタシはこれを見た瞬間、「これは・・・・・・一体・・・・・どうやって食べればいいのか???」でした。

今回は600号記念に、このお店に来て”ハンバーガー”を頂き、その”ハンバーガー”を素材として画像の”コラージュ”(複数の画像を組み合わせて、合成写真とすること)を使って”朝生田町”の町名由来を説明しようという目的でお伺いしました。

ですから、お店のフロアー係の女性に今回は自分の立場を説明せざるを得ませんでした。店主さんにワタシの意図を説明し、納得を得ておく必要があったからです。

お店のフロアー係の女性に、「実は、ワタシはあるブログを書いている者ですが・・・・」っと、ここまで切り出しますと、ニッコリと微笑まれて「存じ上げております」と。(やっぱり、皆さんにバレていた)

そして店主さんの「お好きな様に、素材として使って頂いて結構です」という、ありがたいお許しを頂きました。

ハンバーガーセット5
さて”ハンバーガー”です。先ず”バンズヒール”(ハンバーガーの下部)があり、その上に”レタス”が乗せてあります。

そしてその上に分厚い”ハンバーガーパティ”がこんがり焼いて乗せてあります。出された瞬間から、肉の焼けたいい香りが鼻孔を襲いました。期待が否が応でも高まります。

更にその上に厚目に切った”トマト”の輪切りが乗せられ、更にその上に”レッドオニオン”(赤玉ねぎ)が輪切りにされたものが2層乗せられ、そのまた上にキュウリの”ピクルス”(酢漬け)が2層乗せられ、プラスティックの飾り串が刺さってまとめられています。

レッドオニオンは辛味・刺激臭が少なく、甘みと水分が多いので、生食のサラダに向いていますが、それがこの”ハンバーガー”にも使われていて、紫色とトマトの赤、彩りも見事です。

ハンバーガーセット6
上に書きました構造は、こうやって横の角度から見るとよく分かります。

でも、このピラミッド・・・・・一体どうやって食べればいいんだろう???

そこで注文を取らられたフロアー係の女性に声をかけて、食べ方を尋ねしました。レストランで”ハンバーガー”をいただくのは初めてなので、困惑しました。もちろん丁寧に説明して頂きました。

バンズ7
バンズクラウン”(ハンバーガーの冠部)は、こうやって別に置かれています。説明によりますと、この”バンズクラウン”をハンバーガーの上に被(かぶ)せて、別に用意されている水分が外に漏れない紙に包んで食べるとのことでした。

教わった通りいただきました。ところが、紙に包んだハンバーガーを食べようとしますと、”ハンバーガーパティ”が紙の奥に奥にと逃げるんです。

真っ先にトマトがせり出して来ます。次にレッドオニオンやレタスがせり出してきて「私達を食べて!」っと言わんばかりです。

それに比べると”ハンバーガーパティ”は、実に往生際が悪い!ズルズルズルズルと奥に隠れようとするんです。これだったんですね!コメントを頂いた”シン”さんが仰った「非常に食べ辛いけど・・」とは。

悪戦苦闘して、口の周りや手の指をベトベトにさせながらいただきました。初めてのお味でしたが、もちろん肉汁あふれる”ハンバーガーパティ”と上下の”バンズ”の香ばしさ、そして”野菜類の清新さ”を堪能しました。

さすがに”お肉屋”さんが作った”ハンバーガー”だけのことはありました。


さて「朝生田町」(あそだまち)の町名由来です。「朝生田町」は、現在1丁目から7丁目まであって、人口密集地の一つです。

愛 LOVE ハンバーグ”さんをご紹介する”600号”で、「朝生田町」(あそだまち)の由来を説明する合併号としましたのは、このお店が朝生田町4丁目にあるお店だからです。

朝生田町標識1
「朝生田町」は、石手川と小野川に挟まれたところにある町です。

その由来は諸説あるようですが、やせた土地を意味する「浅田」と呼ばれていたという説もあります。

そこで、土地を改良して、種をまくと翌朝には芽が生えるほどの肥えた””になったので「朝生田町」になったというのです。

ただ常識的に言えば、2つの川に囲まれた地域は、山から肥沃な養分を含んだ岩石・土砂などが運ばれたりして、最終的には肥沃な土砂・岩石が積もる作物がよく育つ地域とされています。

ですから上の説は、やや”こじつけ”的なようにワタシは考えます。

などと考えながら、「朝生田町」の田んぼを取材するために小野川の土手沿いの””までやって来ました。

すると、何と!何と!何と!「朝生田町」の田の中に”ハンバーガー”がドーーーン!と鎮座(ちんざ=物がどっしりと場所を占めていること)しているではありませんか。

リサイズ朝生田町1
ああああ、これはどうしたことだ!・??・・」と、腰をぬかさんばかりに驚いていますと、”ハンバーガー”の中から誰らや?出てきました。

「き・・・・君は・・・・・一体・・・・誰????」っと。

すると、”ハンバーガー星”からやって来た”ハンバーガー星人”だと名乗ります。”ハンバーガー”は彼らの宇宙船、つまり”UFO”だと言うのです。

そして、元々はここに住んでいて、「朝生田町」は彼らのふる里だと言うではありませんか。久しぶりに様子を見に帰ったと!

確かに、石手川や小野川等の河川は山地をを抜けて平野部に至りますと、平地部にある河川で堆積が進み、その付近の土地が高くなります。

つまり高い土地に田が出来て、川の浅瀬にある田という状態になります。

それを「浅瀬田」と言いますが、これが変化して「朝生田町」になったという説のほうが説得力があると思
っていたところでした。

「朝生田町」の田は、浅い田だったというのがワタシの認識だったのです。そこで”ハンバーガー星人”に、そのことを確かめようとしたその瞬間です。

リサイズ朝生田町3
ハンバーガー星人”が「あ!時間がない。時間切れのタイマーが鳴ったんだ!ゴメン、これで帰るよ」といって”UFO”に走りこみました。

「アッ!ちょっと待って!まだ聞きたい話がいっぱいあるんだ!」と叫びました。

でもその時でした。”UFO”が移動を始めたのです。

「ああああ、、ちょっと、ちょっと待って!」と大声で声をかけましたが、静かに田の中央へ移動しました。

そして次の瞬間です。

リサイズ朝生田町2
ハンバーガー星人”の乗った”UFO”が、音もなくフッと浮き上がりました。

その”UFO”から、彼の最後の声が!「うん、そうだよ。ここの「浅瀬田」は、僕たちの”UFO”程の高さしかない”浅い田”だったんだよ!」っと、一声言ったと思った瞬間、アッという間に宇宙空間に飛び立ってしまいました。

まだまだ聞いて確かめたかったことは多く残ったけど、”ハンバーガー星人”の声だけはシッカリ頭に残りました。

その”ハンバーガー星人”の愛くるしい姿に、思わず「愛 LOVE ハンバーガー星人!」と、つぶやき声が漏れてしまいました。



ワタシとしては、せめて”愛媛グルメ紀行”を1000号まで、記事全体を2000号までは続けたいと思っています。

しかし、それらが出来ますのも一重にワタシの記事を見ていただいている方々のお支えがあってのことです。改めまして熱く熱くお礼申し上げます

なお上の”ハンバーガー星人”の画像コラージュは、大阪に住む弟の協力を得ました。弟よ「ありがとう!」




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「愛媛グルメ紀行」を振り返る 76

今週の土曜日も”愛媛グルメ紀行”シリーズを振り返ってみましょう。

今日振り返るのは、昨年の年初めにアップした226号から228号までのお店です。”

先ず最初に振り返るお店は、昨年2月15日にシリーズ226番目のお店としてご紹介した、当社から歩いていける小坂4丁目、国道11号線が南環状線と交差する高架橋の測道沿いにある”ラーメン EBISU(えびす)”さんです。(「ラーメン EBISU(えびす)」・「愛媛グルメ紀行」 226

結論から先に書いておきます。このお店の寿命は、ほぼ1年と言う短命に終わりました。現在”テナント募集!”の看板が掛かっております。

当時の様子を振り返ります。場所は、国道11号線と南環状線が交差する北東角にある”太陽石油GS”の北隣です。昨年2月6日にオープンしたばかりの新しいお店でした。

玄関1
この店は、以前は”すし放題小坂店”という”回転寿司”のお店でした。

そして、その”すし放題小坂店”の前は、やはり同じ回転寿司の”廻る寿し舟”というお店でした。

いずれのお店も短命に終わっています。やはり、国道11号線沿いのお店から、高架橋が付いて即道に変わったという立地環境が激変したのも、長く保たなかった要因の一つでしょう。

ラーメン6
でも、環境の変化は小さな要因に過ぎないように思います。

探しても探してもたどりけないような山奥にあるお店だって、立派にお客さんを引きつけているのです。

外部要因に、撤退せざるを得なくなった理由をあげられたとしたらそれは間違い。

この商品・メニューにお客差を引き付けるだけの力がなかったのが最大要因でしょう。

従ってこのお店は再訪出来ません。既にお店が無くなっていますから。


二番目に振り返るお店は、昨年2月16日にシリーズ227番目のお店としてご紹介した、花園町アーケード街の西側にある”酒処 大黒屋”さんです。(「酒処 大黒屋」・「愛媛グルメ紀行」 227

場所は、市駅から北に伸びる花園町アーケード街、それを城山に向かって北上し、南堀端交差点の一本手前の交差点の西側の”大黒屋ビル2階”にあります。

玄関1
こちらが、お店の1階部分の玄関。この玄関から階段を上がって、お店は2階の奥にあります。

このお店をご紹介するには、戦後間もない焼け跡時代に開業した食べ物屋さんを同時に思い出さざるを得ません。

松山とその周辺には、戦前から終戦直後にお店を開いた老舗が何軒か残っていますが、この”酒処 大黒屋”さんも戦後60年以上過ぎている老舗中の老舗です。

中華そば5
このお店の二大カンバンメニューが、”鍋焼きうどん”と”中華そば”。それぞれ500円と400円です。

ワタシは画像の”中華そば”を頼みました。スープは丁寧に丁寧に採った”鶏がらスープ”。透明に澄み切っています。

スープの味は、冒頭で挙げた老舗に特有の甘めスープです。これは、敗戦直後の物資不足に中で、「美味しい=甘い」が当たり前であったころに食べ物屋さんを始めたお店の共通項です。

でも、この甘さが邪魔にならない、馴染んだお味なのです。それと、このお店の中華そばの特徴は””にあります。実にプリプリの活きのいい弾力をしているのです。

更に、具材の一つ一つがキチンと自分の役割を果たしていて、全く過不足ないところが、60年をはるかに超して積み重ねられた年輪のようでした。

従ってこのお店は既に再訪しました。懐かしくて懐かしくて、吸い寄せられるように再訪しました。


最後に振り返るのは、昨年2月17日にシリーズ228番目のお店としてご紹介した、本町7丁目の山越交差点東南角にあります”松屋”さんです。(「松屋」・「愛媛グルメ紀行」 228

このお店、”創業明治38年”です。

そうです、今から何と”108年前”なんです。

玄関2
この”松屋”さんの明治の創業当時は”米屋”としてスタートし、途中から”旅館”に業種を変えました。

戦時中も営業を続け、旅館と食堂の併営が出来ない決まりが出来た後は”食堂”を残し今日に至っています。

鍋焼きうどん6
このお店の三大看板メニューは”鍋焼きうどん”、”中華そば”、そして”巻き寿司”です。

画像はその中の”鍋焼きうどん”、お値段500円です。

カツオで丁寧に出汁をとってあるのでアッサリした出汁ですが、何と言っても”甘旨い”のです。

その作り方は、カツオ出汁にタマネギとゴボウを混ぜて炊いた、旨み十分の牛肉をたっぷりと鍋焼きうどんの上に乗せます。

大鍋で大量に炊く牛肉は、最初に少量の砂糖で甘く味付けし、アルミ鍋に移した後にもほんのちょっとだけ”砂糖”を加えれば、明治大正時代から続く”秘伝甘口出汁”の出来上がり。

甘旨い”出汁は、松山を代表する他の老舗に中の他の4軒の”鍋焼きうどん”と比較しても一番濃厚です。

従って当然に再訪しました。40年近く経って訪れたにも関わらず「あああ、久しぶりヤッタナーー、アンタ!元気ヤッタンー?」っと声を掛けていただきました。そういうお店なんです。



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「松山市の地名・町名由来」・ 「姫原」 27

松山市の地名・町名由来」の第27回目は、古代の記録”古事記”に因む「姫原」(ひめばら)の町名由来をご紹介しましょう。

なお今の「姫原」は、下に町が付かず1丁目から3丁目まである町になっています。

姫原公民館1
上の画像は「姫原」の公民館。

ここ「姫原」は、”木梨軽太子”(きなし かるのみこ)と”軽大郎女”(かるのおおいらつめのみこ)の”悲恋物語”が町名由来といわれています。

古事記”(こじき)は、日本最古の”歴史書”と言われ、712年(和銅5年)に天皇に献上されたと言われますが、歴史的事実を集めたというより、天皇と祭神を結びつけ、天皇の権力の正統性を証明するために書かれたものという見方もあります。

その”古事記”に拠りますと、”軽太子”(かるのみこ)は”允恭天皇”(いんぎょうてんのう)の皇太子でした。

木梨軽太子”(きなし かるのみこ)は、天皇系図で言えば第19代天皇とされる”允恭天皇”の第一子です。允恭天皇には全部で9人の子供がいました。

この”軽太子”(かるのみこ)に”軽大郎女”(かるのおおいらつめのみこ)という妹がいました。

” 軽大娘皇女”は(かるのおおいらつめのみこ)允恭天皇の第二皇女です。

軽大郎女”(かるのおおいらつめのみこ)の肌の美しさは特別で、着物を着ていても内側から輝きを発したと伝わっています。

軽之神社入り口2
その美しい”軽大郎女”(かるのおおいらつめのみこ)に恋してしまったのが、兄の”軽太子”(かるのみこ)です。

この当時、異母兄妹の結婚は許されましたが、同母の兄と妹は当然に結婚できません。禁断の関係に陥ったのです。

当然に、罪を得ることを覚悟の上のことです。遂に二人の関係は隠しきれないものとなりました。人々から非難されることとなったのです。

天皇後継者も”軽太子”(かるのみこ)から、弟の”穴穂御子”(あなほのみこ)に代わるという事態に、”軽太子”(かるのみこ)は兵を起こし失敗します。

軽太子”(かるのみこ)は捕らえられ、”伊余の湯”(いよのゆ)(現在の道後温泉)に流罪となりました。

当時の伊予は”伊余”と書かれていたと”古事記”には記されていますし、罪人の流刑地に選ばれる程の辺境の地だったんですね。

軽之神社3
軽太子”(かるのみこ)は悲嘆の内に、伊予に流されますが、その時”軽大郎女”(かるのおおいらつめのみこ)に、自分の思いのたけを””(和歌)に託して届けさせました。

軽大郎女”(かるのおおいらつめのみこ)とて、兄に対する思いは同じです。”軽太子”(かるのみこ)のいない京での生活など考えられない、との思いを抱いていました。

そして遂に京を逃げ出し、兄の”軽太子”(かるのみこ)を追って”伊予”に入り、二人はこの地で心中し果てました。

その”軽大郎女の名前に因んで名づけられたのが、画像で示した”軽之神社”(かるのじんじゃ)の脇にある”姫池”(ひめいけ)です。

悲恋に終わった二人を偲んで建てられたのが、画像の”軽之神社”です。

軽之神社扁額4
そういう悲恋物語がこの地に伝わっていますが、その二人を偲ぶ神社が”軽之神社”(かるのじんじゃ)であることをご存知の方は多くないかも知れないですね。

第一”姫池”の土手の上に、”軽之神社”があることすら知らない方が多いでしょう。

なお、どういうわけか”軽之神社”は安産の神様ということになっているそうです。

この近くに”姫山小学校”が新しく出来ています。そこに集う児童達に、この地名の由来を教えることは難しいかも知れませんね。

姫池6
この画像の池が、”軽大郎女の名前に因んで名づけられた”姫池”です。

そしてそれが「姫原」の町名由来となりました。

画像の池の向こうの土手の中央付近に、赤い屋根が見えると思いますが、それが”軽之神社”です。

この地以外にも、同様の言い伝えが残っているところもあり、その伝承が事実かどうかは今は知る由(よし)もありません。

比翼塚7
なお、この”姫池”から100mほど山に入りますと、”比翼塚”があります。

上の画像がそれです。

この”比翼塚”は、別名”姫塚”とも呼ばれますが、室町時代に作られたものだそうです。

比翼塚8
この画像が、悲恋に終わった兄妹を悼む二つの”輪塔”です。

現在でも、ここをお参りする人は後をたちません。

ちゃんとお供え物やしきびなどがお供えしてあります。室町時代から連綿と続いているこの地の伝統でしょうか。

比翼塚からの眺望9
比翼塚”から見た、西の方角の風景です。

二人は、この地に立って(実際に立ったかどうかは定かではない)この画像の右手を仰ぎ見たのかも知れません。

右手の方角に、二人が生まれ育ち、幼き頃は手に手を取り合ってじゃれあいながら遊んだ””での記憶が蘇ったでしょうか。

その兄妹の無邪気な遊びが、何時のころ命に代える恋に変わっていったのでしょう。

今日は”古事記”に事寄せて、古代の”悲恋とロマン”をご紹介しました。



なお次回の”松山市の地名・町名由来”シリーズ第28回目は、「小野町」をご紹介します。この「小野」という地名由来も、今日の「姫原」同様に大変古いお話が残っています。



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「川串」・「愛媛グルメ紀行」 601

今日は、延べ601番目のお店です。そのお店は畑寺2丁目にあります、焼き鳥のお店でランチタイムにも営業されている”川串”さんです。


このお店は、何時も閉店したお店情報の補足や新しいお店の情報を頂いている” 四楓院”さんというハンドルネームの読者さんからの情報提供を受けてお訪ねしたものです。


実は、その” 四楓院”さんのコメントの中に「川串さんは確か初期の”本気麺”と関係があった」という部分がありました。ここが気になり、その内容を確認する意味でもお訪ねしたという訳です。


そのコメントにあったお店は三番町2丁目にあって、2011年12月12日にアップした以下のお店です。「えひめ本気麺」・「愛媛グルメ紀行」 187


このお店は今は別の店名になっていて、しかも夜の営業だけになっています。

ラーメン 
その”愛媛本気麺”というお店をお訪ねした時は、上の画像にある”あっさり本気麺”を注文しました。ラーメンメニューは2種類しかないお店でした。

今回の”川串”さんには午前11時30分、開店時刻にお店に入りましたが、このお店もラーメンメニューは1つだけしかなく、他は焼き鳥関連のメニューばかりです。

真っ先に”愛媛本気麺”さんとの関係をお尋ねしたところ、以下の様なお話でした。

「ええ”愛媛本気麺”さんの店長さんは、このお店で修業なさった後、このお店のオーナーが開店された三番町のお店の店長としてそちらに移られたのです」っと、お店に2人いる男性の中のお一人が答えられました。(他に女性が1人の3人体制でランチタイムをやっておられました)

「そして、その店長さんがお店のオーナーからお店を買い取られて、完全に独立されて今のお店の名前になったんです。だから店名は変わって営業時間も変わりましたが、同じ方がやっておられます」っと。

玄関1
こちらが”川串”さんの玄関です。ワタシが今まで2回ご紹介した”子規亭”さんと同じ川又ビルの1階にあります。


ここに”焼き鳥屋”さんがあるのは以前から知っていましたが、夜のお店とばかりに思っていました。


でも注意深く玄関を見ましと、玄関前に”ランチメニュー”を書き出したホワイトボードが置いてあり、そのトップメニューに”ラーメン”が掲げてありました。

店内2
店内は、その時間帯では客はワタシ一人でした。何時もの様にカウンター席に座りました。


店内は焼き鳥を焼く炭床を中心にカウンター席が取り囲み、他には小上がりの部屋も幾つもあるお店でした。


このお店にはオーナー兼社長さんがおられて、この地に開店されてから17年になるというお店です。

ランチメニュー3
こちらが”ランチメニュー”です。お店に来た目的通り”ラーメン”を注文しました。お値段は580円。嬉しい価格です。


この”ラーメン”メニューの下には、”替え玉”という文字が・・・・。


その時「このお店のラーメンは博多ラーメンの”豚骨系”なのかな?」っと思いました。

ラーメン4
でも出てきたラーメンは、鶏ガラで丁寧にスープをとった、堂々とした”醤油ラーメン”でした。


そして、一番上にアップした”愛媛本気麺”さんのラーメンと比べてみて下さい。似ているでしょう!


でも元祖、本家本元はこちらです。見た目もスッキリまとめられています。

ラーメン5
そこに漂ってくる”鶏がらスープ”のいい香りが、鼻孔をくすぐります。


「おおおお!本格ラーメンの香りだ!」って、直ぐに分かりました。


ラーメンを乗せたトレイには、”粒胡椒を粗挽き”する容器が用意されています。本気度が伝わります。

ラーメン6
具材は、キクラゲ、表面を炭火で炙ってあるチャーシュー、ワカメ、刻みネギ、白髪ネギ、それに胡麻です。

スープをレンゲで掬って啜ってみました。「・・・・・・・・・」声が出ません。

実にコクがあるスープなんです。久しぶりに、”本格醤油ラーメン”のスープを飲みました。本来ワタシはアッサリ透明な”東京醤油ラーメン”派なんです。

ところが最近、”塩ラーメン”の旨さにすっかりはまっていました。でも、やはり丁寧に取られた”鶏ガラスープ”は、ラーメンスープの王道だと実感させられました。

”は驚くほどの”細麺のストレート麺”でした。

「この麺は、豚骨ラーメンでよく使われている感じの”細麺”ですが、この麺を採用された理由はなんでしょう?」っとお尋ねしてみました。

すると「ええその”麺”は、ウチの社長が試行錯誤の結果、そのスープに一番マッチする麺として選ばれたんです」っと。

しかもこのお店は焼き鳥屋さんです。ワタシの見立てでは、焼き鳥を肴にお酒を飲んだ後に〆に食べるとことが出来るラーメンとして、この細麺は最適ではないかと思いました。

麺8
ちょっと照明が暗いので、いつもの様に麺を単独で撮しましたがピンぼけになってしまいました。


細麺のストレート麺ですが、力のない麺ではなく、しっかりした麺でした。


替え玉”ありというのも、”細麺”だからこそなんでしょう。納得です。


幾らでもスルスル胃の中に吸い込まれています。外はこの日も真夏日の酷暑。しかも店内の冷房がやや弱いような。

完食9
ですから、全身汗だくになりながら”完食”しました。


このところずっと”冷たいラーメン”や”冷たいうどん”メニューを食べ続けていました。


全身汗だくになりながら食べている様子を見た女性店員さんが、気の毒な表情で「今度お越しになったら、ぜひこちらのお席にお座り下さい」と示されたのは、天井に取り付けられたエアコンの下の席。


ワタシが座った席は、そこから一番遠くの位置でした。でも、美味しいラーメンを頂いたのですから、何の文句もありません。暑さなど物の数ではありません。

食育インストラクター10
完全に満足して、お勘定を払おうと立ち上がると画像の認定書が3枚、目に飛び込んできました。


画像はその内の2枚です。先ず”食育インストラクター”の認定証と”美味・安全野菜栽培士”の認定証が画像です。


それ以外にも”野菜ソムリエ”の認定証も飾っていありました。「え???これら3枚の認定証は?」っとお尋ねしてみました。


すると女性店員さんは「ハイ、ウチの社長です。社長は新鮮で美味しく、しかも安全な”野菜”を皆さんに食べていただきたいと、畑も持っておられて野菜を栽培されています。自分のお店で出す野菜は、自分の畑から!っと」っとのお答えでした。


社長さんは仙波さんとおっしゃいますが、この方、只者ではありません。本気も本気、”大本気”なのです!




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「丁字村 弐号店」・「愛媛グルメ紀行」 602

今日は、南久米町に今年5月17日開店された”丁字村弐号店”(ちょうじむら にごうてん)さんをご紹介しましょう。このお店は”和の継承料理”を標ぼうされています。


また”弐号店”とあるのは、”愛媛グルメ紀行”で2011年8月24日にご紹介した、大街道ロープウェイ街にある”鶏から揚げ”をはじめとするテイクアウト専門店の”丁字村”が壱号店に当たるからです。(「丁字村」・「愛媛グルメ紀行」 115


場所は、伊予鉄横河原線の久米駅から北に向かい県道松山川内線を越して1分足らず、”東道後のそらともり”という大型温泉施設へ向かう途中にあります。

玄関1
こちらが古民家を改造したお店です。このお店”丁字村”の店名由来は上に記した記事でご紹介しましたが、再度ご説明しておきましょう。


”司馬遼太郎”さんが描いた”坂の上の雲”に出てくるのが、ロシアの”バルチック艦隊”を”東郷平八郎司令官”と”秋山真之参謀”率いる日本海軍が打ち破った”日本海海戦”。

その”日本海海”戦において、松山が生み出した”秋山真之参謀”が採用したのが”T字戦法”だと言われています。


しかも、その”T字戦法”は、元々愛媛の今治”野島”を初めとする”瀬戸内”を主な舞台に活躍した”村上水軍”が生み出した戦法と言われています。それを店名にされました。


なお”村上水軍”についての詳しい事は、昨年11月23日から5話に渡った記事をアップしました。(村上水軍と河野氏・「家紋」を巡って 1

店内2
店内の様子は、正に田舎の古民家です。


立地的には、県道と県道をつなぐ間道沿いですから必ずしも優れているとは言えません。


ただ、お店と県道松山川内線との間には駐車場しかなく、県道からお店が見えるという立地です。しかもそれが古民家風となれば、話題を呼ぶことは間違いないと思います。考えられたものです。


天ぷらや釜飯、寿司など、和食一般に対応されています。ワタシがお訪ねした日も、家族連れや会社員風のグループ客が来店されていました。

日替わり定食メニュー3
”ランチメニュー”も充実していますが、毎日献立が変わる”日替わり定食”がこのお店の一種のウリではないかとお見受けしました。


上の画像、”数量限定日替わり定食”のメニューですが、ちゃんと当日の日付が書かれています。


そしてお料理の内容の紹介とともに、当日のお客様へのメッセージが書き添えられています。そこには「今日も、蒸し暑い土曜日になりそうです」という言葉に続いて、お客様の身体を労る言葉が続きます。


この細やかな心遣いに、先ず唸りました。

日替わり定食4
さて、これが8月24日土曜日の”日替わり定食”の内容です。お値段は980円です。サラリーマンのランチとしては値が張りますが、その値段に相応しい内容でした。


味噌汁や飲み物(当日はジンジャエールでした)も入れて、全10品が並んだ様は中々壮観なものがあります。


この膳を運んでこられた時は、思わず「エーーー!こ、コレ・・・・・全部!え~~~~・・・」でした。


ここに配膳の妙を見ました。

アジ唐揚げ・おろし出汁5
これが”アジ唐揚げ・おろし出汁”です。大ぶりのアジを丸ごと一匹唐揚げにしてあります。


そこに、出汁をタップリ含ませた大根おろしが掛けてあります。レモンの櫛切りを絞ると、出汁が香り立つのです。


しかも唐揚げにされたアジの下には、タップリ生野菜が敷いてありそれにはおろし出汁に合ったドレッシングが掛けられていて、サラダ仕立てになっています。


唐揚げにされていますから、アジの小骨までバリバリ食べられます。頭と背骨を残して、後は全部いただきました。

猟師たたき刺身6
さてこちらは”猟師たたき刺身”と呼ばれた料理です。


実はワタシ生魚や刺身が苦手で、自ら刺身を注文することはありませんが、こうやってお料理に組み込まれてると食べざるを得ません。


でも、でもこれが意外に美味しくいただけました。使ってある魚は”イシモチ”(グチ)でした。松山周辺の陸釣りでもよく釣れる魚で、釣り上げた時に「グーグー」と鳴く魚です。それが愚痴を言っているように聞こえるので”グチ”とも呼ばれています。


通常は、身が柔らかい魚で傷みも早いので市場では下魚(値段が出ない魚)とされています。でも、このタタキ風刺身は脂が乗っていて美味しかったですねー!

地あなご炙り7
こちらは、地元で揚がった”あなご”に甘いタレを漬けて炙られたものです。


2切れでしたので、1切れ目はそのまま食べました。タレの甘さと、炙られた香ばしさがいい具合でした。


残りの1切れは、下に敷いてある大葉に包んで食べてみました。すると、甘いタレだけで食べるのとは違って大葉の酸味と独特の香りがいい仕事をしていました。

山菜きんぴら8
こちらは”山菜きんぴら”と名付けられたもの。このきんぴら、唐辛子を刻んだものが潜んでいて、刺激ある味なんです。


見た目と、食べた印象が丸で違います。でも、食べながら考えました。どれとして高級な素材が使ってある訳ではありません。


しかも調理法においても、7月30日にご紹介した通称”椿神社”の表参道沿いにあるお寿司屋さんの名店”土佐長寿司”さんの調理に比べると、工夫に工夫を凝らしているという風ではありませんでした。(値段が違いますが)(「再訪 139 土佐長寿司」・「愛媛グルメ紀行」 567

このお店は、配膳の妙、お料理の見せ方が巧みだという印象です。

オレンジ釜9
お料理の全部は紹介しきれません。最後は”オレンジ釜”です。


オレンジの果肉を繰り抜いて、皮は器として使って見せました。でも、よくある手法ではあります。


全体として満足していただけましたが、唸って感動に体が震えるという程ではありませんでした。





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「中華料理 アモイ」・「愛媛グルメ紀行」 603

今日は空港通6丁目にある、ジョイランド21という商業施設内にある”中華料理 アモイ”さんをご紹介しましょう。


このお店は、今年の3月末に開店されたばかりのお店です。店内は、店主の調理人さんとその奥さん、そして娘さん3人の家族経営でやっておられます。

玄関1
こちらがお店の玄関です。中華料理店の雰囲気を色濃く出しています。


店名の”アモイ”は中国福建省南部にある都市で、日本では”厦門”と表記します。世界中の華僑のふる里としても有名ですね。


奥さんに店名由来をお尋ねしますと「あー、ソレハネ、ワタシタチの故郷なんです」とのお答えが。

店内2
こちらが店内の様子。店内の厨房では、店主さんやその奥さん、なるべく日本語で会話しようと努力なさっていますが、注文が重なって忙しくなると中国語になります。


客層は様々で家族連れあり、サラリーマン風あり、女性同士2人組あり。そして、ラーメンをおカズに”天津飯”を食べる現場関係風若者ありと多彩でした。

冷麺メニュー3
画像は、夏仕様の”冷麺メニュー”が独立して並んでいます。


9割のお客さんは、日替わりの2種類のランチメニューから選んでおられるようでした。そのお値段は680円。


ワタシは迷うことなく冷麺メニューから”エビマヨ冷麺”を注文しました。

エビマヨ冷麺5
こちらが注文した”エビマヨ冷麺”です。お値段は嬉しい600円です。食欲旺盛な方にとっては量的には、もう一品注文したくなるかも知れません。セットメニューも数多く用意されています。


福建省のご出身なら”福建料理”がお得意なのでしょうが、福建省は山間部が多い一方長い海岸線も持っていて、お隣の”台湾料理”や、”広東料理”との融合が見られる地域です。


ただしメニューを見ますと、中華料理専門店的な難解なメニューはなく、日本の何処に言っても見られる庶民的日本的なメニューが並んでいます。

エビマヨ冷麺6
大振りな海老が4尾、衣をつけて揚げられ、更にマヨネーズの濃厚なソースが掛かっています。


もちろん、単純にマヨネーズを掛けただけのものではありません。様々に味付けされたマヨネーズソースです。


日本で”エビマヨ”を普及させたのは、中国料理の達人として有名な”周富徳”氏であるという説もあります。


今までに”愛媛グルメ紀行”シリーズで”エビマヨ”をご紹介したことが一度だけあります。それは2012年1月12日の、”フジグラン 重信”の敷地内にある中華料理店の”蓬莱閣(ほうらいかく)”さんでした。(「蓬莱閣(ほうらいかく)」 ・「愛媛グルメ紀行」 203

アップ7
画像の”エビマヨ”、ハイ、大変に美味しかったです。久しぶりにいただきました。


海老自体がプリプリしていて、噛むと歯を押し返すようです。それに、一体どういう味付けをなさったのかは分かりませんが、マヨネーズソースにやや酢味が効いていてコクの有る濃厚なソースでした。


日本料理であれば、恐らく海老という素材の味をそのまま味わえるような調理法になるのでしょうが、中華料理では高温の熱とスープを絡めて、「これこそ調理と言うんだ!」っとばかりに料理されます。両国の調理感の違いでしょう。


もちろん、どちらも好きです。

麺8
そしてこの””も美味しかった。モッチリしていました。麺が粘って伸びるんです。


箸で持ち上げても中々千切れない。後の素材はトマトとレタスと一個分のゆで卵だけと、至ってシンプル。


ここをこう工夫してみた、どうですか!などという面はありません。でも全体のバランスが取れていて、酢味の加減も丁度いいのです。安心して、のんびり食べることが出来るお味でした。


ここの商業施設に入る飲食店は、浮沈が激しい傾向にあるように見ます。ご家族で頑張って、ここ日本、松山に根付いていただきたいと思いました。




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「再訪 161 中華飯店大王・「愛媛グルメ紀行」 604

今日は”再訪シリーズ”161番目のお店、2011年5月11日ご紹介した”中華飯店大王”さんの2回目のご紹介です。(「大王」 真っ当な「B級グルメ店」 41


場所は国道33号線から椿神社に入る参道の入り口付近にあって、店の看板には”元祖 中華つけ麺 大王”と表示してあります。


まだ”愛媛グルメ紀行”を書き始めてから41番目のお店ですから、お店の存在は昔から知っていたということです。

玄関1
こちらがお店の玄関です。国道33号線からも見えますので、ご存知の方の方は多いのではないでしょうか。


この地で”つけ麺”を看板商品もに掲げて、既に40年近くになります。


今厨房で腕を振るっておられる店主さんは、二代目さんではないでしょうか。(確認はできていません)


お昼時は、お店の前の駐車場は絶えず満車状態になります。

店内2
ワタシが店内に入った時はお昼前。一番客が立て込む時間帯で、厨房内は大忙し。


若い店主さんと、他には女性が2人の3人体制でした。


そのチームワークは極めて良好、息が合っています。次々と入る注文を的確にこなされています。

メニュー3
メニューを見ますと、このメニュー表の両面に並んでいますが、古くからある中華料理そのものです。


ただ、さすが”元祖つけめん”を名乗るだけあって”つけめんメニュー”だけで半ページ全部を占めるくらいラインナップは揃っています。


最初に訪問した時は、お店の名前を冠した”大王つけめん”を注文しましたが、今回は”肉つけめん”を。

肉つけめん5
この画像が注文した”肉つけめん”です。お値段は嬉しい600円です。(内税)


”肉つけめん”の””は、チャーシューのことでした。つまり豚肉。


ここの”つけめん”の特徴は、麺とつけタレの奥に置いてあるポットです。このポットには、麺を湯掻いた茹で汁が入っています。


前回は<中華ポットに中華スープが入っているのが出されています。>と書きましたが、これは間違いでした。

つけめん6
もう一つ、前回書いた記事で間違いがありました。


それは””についてです。前回は以下のように書いています。<ラーメンの麺とはやや違います。つけ汁にしっかり絡むように、”中太麺のちじれ麺”です>と。


でも今回はお店の方に確認しましたが、ラーメン等の麺と同じものを使っておられます。


最近”再訪シリーズ”を続けていますが、これは一回だけでお店を判断すると誤りが出ることに気がついたからです。2回目を廻っていますと、初回とはまた違った面を発見できたり誤解であったことなども分かります。

つけタレ7
こちらが濃厚なつけタレです。


お店の方は、必ず「タレが濃ければ、ポットに入ったものを継ぎ足して薄めて下さい」と言われます。


でもワタシには丁度いい濃さなので、そのまま麺を漬けていただきました。やや酸味があって、この暑さの中ではありがたい味です。

麺アップ8
こちらが””です。出された当初は、水分で艶があるように見えますが、ところがこの麺、弾力に欠けると思いました。


優れた”つけ麺”を出すお店の麺は「ツルツル、チュルチュル」と啜れますが、この麺は「モサモサ」と歯で噛みながら食べる感じです。


チキンラーメン”や”カップヌードル”を世に出し、世界の食のシーンを大きく革新的に変えたのはご存知”日清食品”さんです。


その創始者の”安藤百福翁”(あんどうももふく おう=翁、つまり”おう”は尊称です。今はお亡くなりになりました。ご冥福をお祈り申し上げます)と、事業を継がれた息子さん、及び日清食品の取締役陣は今でも毎日(毎週かも知れませんが)”チキンラーメン”を食べて、改良する余地はないかと日々考えられ続けておられます。


大企業と個人事業とを同列に論じることは出来ないでしょうが、周囲には美味しい”つけ麺”を出すお店で溢れています。


定休日には、それら同業者を食べ歩いて研究を続ける心が必要だと、正直に思いました。

茹で汁加え9
こちらは麺を食べ終えた時、残ったつけタレにポットのお湯を注いて薄めたもの。


ワタシの持論です。つけタレの濃いさは、麺を食べ終えた時、何も加えず何も引かずにつけタレを飲み干せることが優れた濃度だと思っています。


でもこのお店のつけタレは確かに濃厚なので、そのままでは飲み干せません。麺の茹で汁を注いで丁度飲み干すにはいい濃さになります。いい出汁が出ていました。

完食10
当然に舐めるように”完食”しました。


周囲のお客さんの中には、”味噌ラーメン”と”餃子”をおカズにご飯を食べているお客さんの姿が。このお店の客層は実に多彩です。


幾層にも重なったお客さんの層、それが40年近くになったお店の年輪でしょう。


どうか、それに胡座(あぐら)をかくことなく、日々新たという観点でお店を研ぎ澄まし、更にさらに地域のお客様方に支持され続けるお店であってほしいと切に祈りながらお店を後にしました。





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「愛媛グルメ紀行」を振り返る 77

今日の土曜日も”愛媛グルメ紀行”を振り返ります。

さて今日振り返るのは、昨年の年初めにアップした229号から231号までのお店です。

先ず最初に振り返るお店は、昨年2月20日にシリーズ229番目のお店としてご紹介した、久米の八幡神社から石手寺を結ぶ県道東部環状線沿い、畑寺2丁目の”イタリア食堂 ZiZi(ジジ)”さんです。(「イタリア食堂 ZiZi(ジジ)」・「愛媛グルメ食堂」 229

このお店は、今でも”鮮烈”に思い出が残るお店になりました。

そのことは、当時の記事で<このお店で、シリーズ229店目になりますが、上から考えても5本の指にランキングされる”傑作なお店”でした。>と書いております。

玄関1
お店の外看板に営業時間が書いてあり、開店は午前12時からとありましたので、それを少し回った頃にお店に行きました。

そしたら、玄関ドアには”クローズド”の札が掛けてありました。自分が決めた”開店時刻”が守れない!このこと自体が、このお店に携わられる方の意欲のレベルを如実に物語っていると、お店に入る前に感じました。

そして、このお店に入ってから出るまでの間、ずーーーーーーっと、上に書いたことを実感する事になりました。

ワタシが席に座ると、慌てたように各席にナイフやフォークなどのセットを始めました。開店時刻を過ぎてなお、開店の準備が整っていない・・・・

改めて店内を見渡すと、まあナント雑然としていること。とっても、若者が運営している店舗とは思えない。雑多なものが壁に、仕切りにぶら下げてあって・・・・。

メニューを開き、ランチメニューとかセットメニューはないか、と聞くと。「ウチは、単品だけです。単品を適当に組み合わせて注文してください」との返事。

単品・単品の値段がべらぼうに高いので、それを組み合わせると大変なことに、そこで単品を選んだ。

選んだのは”ブロッコリーとアンチョビパスタ”。すると・・・・・・

「今日は”ブロッコリー”がないので、その代わりに”白菜”になりますが、それでいいですか?」っと。唖然として言葉が出ませんでした。”傑作”でしょう!これは。

パスタ4
やむを得ず選んだのがコレ。”おいしいモッツレラとトマト”。

この料理が出てくるまでと、ワタシが食べ終わる間、ずーーーーーーーーーーーーーーっと、厨房で若い二人の男性が、延々とスノボーの話しに熱中し、調理の最中も”私語”を止めない。

「あのハーフパイプ・・・・・三回転半の半って、あれ本当に回転してるのかなあ、どこで見てると思う?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここでワタシの堪忍袋の紐が切れた。「あなた達は、せめて客が待っている間、あるいは食べ終わるまで、私語を止められないの?」っと、とうとう声が出てしまった。

「客は、あなた達のスノボーの会話や私語を聞きに来たのではないヨ、食べに来てるんだよ、その間は仕事に集中したらどうかな?」っと。

もちろん二度と行きません。行かない理由は書ききれません。


二番目に振り返るお店は、昨年2月21日にシリーズ230番目のお店としてご紹介した、伊予郡松前町の海岸に近い灘町にある小さな洋食屋さん”キッチン わびすけ”さんです。(「キッチン わびすけ」・「愛媛グルメ紀行」 230

マルトモ第三伊予工場から南に下って、”灘浜ふれあい広場”のまん前です。

玄関1
今は洋食屋さんですが、3年前までは”らうめん山科”というお店のラーメン屋さんでした。

元々は”洋食一筋”の店主さん、一時期”ラーメン屋”さんがやってみたかったのだそうで、9年間やられました。

でも今は、原点にかえって昔懐かしい雰囲気が漂う”洋食屋”さんに戻りました。

「ウーーン、やっぱりね、ワシはネー、”洋食屋”なんやなーと・・ね」っと店主さん。

ランチ6
注文したのは、680円(内税)の”Bランチ”です。

オムレツ”に”エビクリークコロッケ”が3個。

それに、ポテトサラダ付きの野菜サラダが、一つの皿に可愛く盛り付けられています。典型的な洋食屋メニューです。

エビクリームコロッケ”は奥さんの担当。

ご主人のシェフの手さばきを見ていて、オムレツが出来上がりランチプレートのセットが終わる寸前に、コロッケが揚がります。アツアツのコロッケを「ハフハフ」言いながらほうばると、自然に笑みがこぼれます。

従って、このお店は既に再訪しました。再訪した時の傑作な様子は、(「再訪60 キッチンわびすけ」・「愛媛グルメ紀行」 413)。



最後に振り返るのは、昨年2月22日にシリーズ231番目のお店としてご紹介した、県道伊予川内線沿いの、砥部町高尾田にあります”手打ちうどん 鈴屋”さんです。(「手打ちうどん 鈴屋」・「愛媛グルメ紀行」 231

この県道は、国道56号線と33号線、更には11号線をつなげる環状線の役目を持っていますから、通称”トラック街道”です。

このお店の開業は、平成元年ですから今年で25年目を迎えました。

玄関1
3階建ての木造建物で、1階は駐車場、2階は店舗、そして3階は住居になっています。

店内のお客さんの食事風景を見ていますと、「お弁当なんて食った気にならない!」という、強固な”うどん派”に支えられています。

彼らは店に入ってくるなり「おおー、特等席が空いとった!」とか「オレの指定席に座るゾー!」という人たちばかり。

そして「うどんと親子丼!」などと、うどんに丼モノを注文し、一人で平らげる人が目立ちました。

鍋焼き上5
さて、注文した”鍋焼きうどん”が運ばれて来ました。お値段は600円(内税)です。

いい出汁で、いりこから丁寧に取った懐かしい味です。

カヤクは、大振りの牛肉が甘辛く煮含められたものとワカメと竹輪、カマボコ、ネギ、そして生卵です。生卵は、食べ進むうちにちょうど半熟になってきます。

麺は、確かに手打ち麺でやや硬め。

ワタシ好みの弾力ある麺ではありませし、喉をほって唸るほどではありませんが、でも美味しく頂きました。

このお店は再訪しません。ワタシの好みの麺とは違っていたからです。




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「松山市の地名・町名由来」・ 「小野町」 28

松山市の地名・町名由来」の第28回目は、古い伝説に因む「小野町」(おのまち)の町名由来をご紹介しましょう。

今の「小野町」(おのまち)>は、県道松山川内線沿いにある水泥町から北上して”小野川”沿いに”観音山”に向かって進む県道河中平井停車場線沿いに細く伸びた町です。

「小野町」(おのまち)の町名由来は、諸説あるようです。

例えば、この地を治めていた古代豪族の”来目部小楯”(くめべのおだて)が、材木を切る道具として””(おの)を大量に買い入れたと言います。

その”斧”を持っている人がこの地であったために、””(おの)から「小野」に変わったというのです。

なお、上に書きました”来目部小楯”(くめべのおだて)の件は、既に「松山市の地名・町名由来」の第23回目の「水泥町」 の項で、9月2日に触れています。「松山市の地名・町名由来」・ 「衣山町・水泥町」 23

小野小学校1
上の画像は、現在の”小野小学校”です。小野小学校の創立は明治7年1月で、来年創立140年を迎える大変古い歴史を持った小学校です。”小野中学校”も小学校と並ぶように建っています。

上の二つの学校が建っている地は「平井町」ですが、昭和36年に「小野村」が松山市と合併するまでは、この辺り一帯は「小野村」でした。その名残で、今でも”小野小学校”などの校名が残っています。

こういう例は、市内の各地であります。今まで書いてきました「松山市の地名・町名由来」でも、そのような例は幾つか採り上げています。

県道196号線
さて、県道松山川内線から「小野町」に行くには、「水泥町」から県道河中平井停車場線(県道196号線)に入っていきます。上の画像が、それを示しています。

この県道河中平井停車場線は、松山小野カントリークラブを経て現在の「河中町」(元日浦町)に至る厳しく細い山越の道です。普通車で行こうなどとは思わないことです。

また上に書いた「河中町」の町名由来は、「松山市の地名・町名由来」の第24回「湯山地区」の由来で、9月9日に採り上げています。「松山市の地名・町名由来」・ 「福角町・湯山地区」 24

梅元寺3
さて、「小野町」の由来です。それは、平安時代に歌人として活躍した”小野小町”(おののこまち)伝説がこの地に残っていることに由来します。

小野小町”は、”百人一首”にも和歌が載っている平安時代を代表する歌人(六歌仙の一人)ですが、その一方で”絶世の美女”だと伝えられていることでも有名な人です。

世界三大美女に「クレオパトラ、小野小町、楊貴妃」と、日本では言っていますが、これは世界各国でマチマチです。ただし、日本の歴史上で名を残す”美女”であったことは間違いないようです。

話が脇道の反れましたので戻します。

「小野町」の伝わる”小野小町伝説”とは、以下の様です。この”小野小町伝説”の舞台となったのが、画像の「小野町・小野谷地区」にある”梅元寺”(ばいげんじ)です。

この寺の名前を”うめもとでら”と言うものとばかりに思っておりましたが、現地の古老に笑われました。地元では”ばいげんじ”と言います。

梅元寺4
でも画像でも分かるように、”梅元寺”と思われる寺院はありません。今は”廃寺”になっていました。その事情は後ほど。

先ず「小野町」に伝わる”小野小町伝説”からご説明しましょう。”小野小町”は、夢に”観音様”が出てきて都を旅立ちました。

その旅の途中で、全身に吹き出物が出来て苦しみました。その病を直そうと”住吉神社”にお参りをすると「道後の湯に浸かり、梅元寺(ばいげんじ)の”薬師如来”に百日の願をかけ、梅元寺の前にある”鏡の池”で身を清めれば治る」というお告げが出ました。

そのお告げ通り、”梅元寺”にお参りすること百日。でも一向に吹き出物は治りません。

治らない辛さを歌(和歌)に託して読み上げますと、その夜夢に薬師如来が現れて、「目が覚めたら自分の体を良く見てみなさい」と答えたそうです。

小野薬師如来像5
翌朝、目を覚ました”小野小町”は、自分の体をシゲシゲと眺めました。すると不思議、昨夜まで苦しめられた吹き出物はすっかり消えていました。

感謝した”小野小町”は三年間、”薬師如来像”を彫り続け、”梅元寺”(ばいげんじ)に奉納しました。

今では”廃寺”になっている”梅元寺”には山門も本堂も残っていませんが、平成21年に作られた真新しい”小野薬師如来像”だけは、形を残しています。

この”薬師如来”は”梅元寺”の、いや「小野町」の心のシンボルなのです。

梅元寺”の創建は古く、慶雲3年(706年)に僧”行基”(ぎょうき)によって開山されたとされ、以降伊予の守護大名となった”河野氏”や、松山城を築いた”加藤嘉明”なども信仰を寄せたと言われています。

僧”行基”(ぎょうき)の創建と伝えられる寺院は、松山でも多く残っています。何故、”行基”創建と伝えられるお寺が多く残っているかという理由については、今後の「松山市の地名・町名由来」で触れる予定です。名僧”行基”の名前だけは記憶に留めておいて頂きたい。

梅元寺前水田6
現在の”梅元寺”の前には”鏡の池”は残されていません。

かろうじて、”梅元寺”境内地の端にあるこの水田が、当時の面影を反映しているのかも知れません。

ここからは、遠く”皿が峰”を臨むことができます。

日本史上に残る絶世の美女”小野小町”は、この水田に写る田園風景の様に、自分の傷が癒えた体を写し見たのでしょうか。

梅元寺農水路7
さて、現在では”梅元寺”の殆どの諸施設が全く現存していない事情です。

「小野町」の北西の方向には”観音山”がありますが、その中腹ところに巨大な貯水池”逆瀬池”があります。

その貯水池”逆瀬池”から、山裾や尾根沿いに”農業用用水路”が流れています。画像では、手前に砂防フェンスが見えますが、その上の方に緑色の農業用水路のフェンスが見えると思います。

その山裾沿いを走っている農業用水路が、4年ほど前に決壊しました。この画像でも、当時の”土石流”の爪あとが生々しく残っていることが分かります。

地元の古老のお話では、”梅元寺”の裏山が大きな樹木毎に崩落して、”梅元寺”の本堂は跡形もなく流され押しつぶされたと言います。

梅元寺水没樹8
丁度南消防署の方たちが、防火水の栓の安全点検に来られていて当時の事をお聞きできました。

その中の責任者の方が、この樹木まで案内していただき「この木の高さ3m位のところまで樹皮に今でも泥の跡が残っていることを教えていただきました。

土石流”はこの高さまであって、”梅元寺”の”本堂”も立派だった”山門”も、大きな石碑なども根こそぎ流され倒壊したと言います。

梅元寺倒壊跡9
この画像は、倒壊した石碑や石仏や石塔などが無造作に転がっていることを示しています。

こういう状態の箇所が、この他にも何箇所もあって未だに手がつけられない様子をうかがわせています。

地元の古老は「山が動いた!ワシの孫が、もうちょっとで生き埋めになるところじゃった!」と語りました。

「”梅元寺”の再建話が地区で何度も起きとるけんど・・・・・なにせ、今の小野には僅か10軒余りしか人家がノーナッテのー。とてもその再建資金を集めることなどデキンノヨー!・・・」と、悔しそうにつぶやかれました。

小野集落10
この画像が、今の「小野町」の集落の一部。空き家が目だち、倒壊寸前の家さえあります。

所謂(いわゆる)”限界集落化”している様子がうかがえます。

「それでもナー、この上に久米の八幡さんを分祀した”一之宮神社”があってノーー、昔は祭りでも賑やかじゃったんヨーー。綺麗な絵馬も飾ってあってノー」っと、古老が目を細められた。

一之宮神社11
この画像が、「小野町」の集落の中ほどにある”一之宮神社”です。

画像の左端に見える”石の灯篭”には、”文化12年”の文字が刻印されています。

”文化12年”とは、江戸時代の幕末期で、この年から53年後に明治維新を迎えるという頃のことです。

なお、全国各地に”小野小町伝説”は残されていて、それに因む地名も多く残っています。その真贋は、今となっては誰にも分かりません。

でも、この地「小野町」に、その”小野小町伝説”が残り、今も地域で息づいていることは松山市民の一人として誇りに思います。


次回の”松山市の地名・町名由来”シリーズ第29回目は、「松江町」・「喜代町」・「道後姫塚」をご紹介します。




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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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