「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 1

明けましておめでとうございます


今年は、お正月早々から”日本の歴史”をテーマにしたミニシリーズを連続してアップします。


これは昨年夏、京都と奈良に妹と弟との初めての”兄弟旅”をした時取材したものを、14回のシリーズにまとめたものです。


その内訳は、1回から6回まで”奈良”を旅した取材したものをまとめまして”日本歴史の夜明け・外史”と題しましたものを書きます。概ね”飛鳥・奈良時代”を中心とした歴史です。


日本の国号は、古くは”倭国”(わこく)と言い、天皇を”大君”(おおきみ)と言っていた時代から、国号を”日本”と呼び天皇を”天皇”と呼び表(あらわ)した初めての時代を中心に書いていきます。


残りの8回は”京都”での取材を元に、堅苦しい”歴史的記述”にはとらわれない気楽に読める”名所旧跡案内”といったものにまとめました。


正月早々から長いシリーズで、皆さんにとっては余り興味がないであろう”日本の歴史”がテーマです。中学・高校でも教科として習ってきましたね。でも、退屈だったのではないでしょうか。


少なくとも、私達の年代の者が習ってきた”歴史”は、その後の”古代史”研究や”古墳”等の発掘調査研究によって、その内容や事実が大きく変わってきています。それを見直す意味でも、改めて勉強し直して私なりにまとめてみました。


ただし、ワタシはあくまでも歴史の素人。素人のワタシが、様々に感じたことを書き連ねただけで、「これが歴史的事実だ!」などというものではありませんので、何時もどおり、ワタシが歴史物を書くときのスタンス”外史”(がいし=歴史家ではない素人が書いた歴史)としてまとめたものです。

石舞台古墳遠景1
この画像は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳です。1952年に”国特別史跡”に指定された”石舞台古墳”(いしぶたいこふん)です。


この古墳は、未だ日本が”倭国”と言っていた時代のもので、”蘇我馬子”(そがのうまこ)のものではないかと言われています。


さて6世紀前半の”倭国”(わこく=今の日本)の状況と言いますと、倭王権の列島支配が次第に構築されてきた時代でした。


ただしその”倭王権”は、”倭王権”の中心であった”大君”(おおきみ=今の天皇家につながった)が絶対的な権力を持っていたという訳ではなく、ヤマトを中心とした有力豪族たちのリーダーといった位置づけでした。ですから、豪族の君主の中でも飛び抜けた存在として”大君”(おおきみ=君主の中のリーダー)と呼ばれていたのです。


ただ、”倭王権の大君”の存在が大きくなってきた事により、倭王権に直接仕える中央の有力豪族のあり方も大きく変わってきました。それが”氏(ウジ)”と”姓(カバネ)”の成立です。


氏(ウジ)”と”姓(カバネ)”の制度の詳細は、昨年11月25日にアップした”「松山市の地名・町名由来」・ 「和気町・興居島」 36”で書いています。それをご参照下さい。(「松山市の地名・町名由来」・ 「和気町・興居島」 36


なお、時の”大君”(今の天皇)に“”(ウジ=今の””=苗字)がないのは、天皇自身は“氏”を与える立場で、その与える立場の天皇自身に“”(ウジ=今の苗字)があるのは自然ではないという考えに基づいているからです。


ですから、今でも”天皇家”は、我々が誰でも持っている姓名の””がありません。”今上天皇”(きんじょうてんのう=現在の天皇)のお名前は”明仁”(あきひと)様です。


最初に”氏と姓”の仕組みについて書きましたのは、これ以降お話する内容は、この古代の権力者集団の相互の立場を知っていたほうが分かりやすいと考えたからです。

石舞台古墳2
この”石舞台古墳”(いしぶたいこふん)の画像を初めに用意したのは、日本と名乗る前の古代史で活躍した”蘇我氏一族”のことを主にご紹介したかったからです。


その”蘇我氏”といえば古代史における最大の氏族です。6世紀初頭に”蘇我稲目”(そがのいなめ)が突然大臣(おおおみ)として歴史上に登場してきました。


まったく突然に勃興して、古代史一番のキーマンとも言うべき存在となったのです。


大臣(おおおみ)というのは臣(おみ)の中の最高位、連系(むらじけい)の最高位は大連(おおむらじ)で、のちの時代の左大臣と右大臣です。(左大臣の方が上位)


その蘇我氏は、自分の娘を大君(今の天皇)に入れて(后として嫁がす)大君の外戚となります。その蘇我氏の出自(しゅつじ=出身)には諸説ありますが、この蘇我氏ほど、渡来系(とらいけい=朝鮮半島からの人たち)の知識や技術を巧みに採り入れ利用した氏族はありませんでした。


この蘇我氏は理数というか、計算に長(た)けていた人たちで、財政にその才を発揮した氏族です。

石舞台古墳3
蘇我氏の基盤を築いたのが”蘇我稲目”(そがのいなめ)です。


時代は6世紀の前半から後半にかけて。この”蘇我稲目”は、それまでの倭国にはなかった中央集権政治の体制を敷きました。


また、”欽明朝”(きんめいちょう)の時代に、蘇我氏は”百済仏教”(くだらぶっきょう)を受け入れました。この仏教の受け入れが、蘇我氏が権力闘争の勝者になった大きな要因となりました。後でご説明します。


この蘇我氏が急浮上するまで、大君を支えていた最大の氏族は”大伴氏”(おおともし)と”物部氏”(もののべし)でした。


ともに大君家(おおきみけ=今の天皇家)の”軍事伴造”(軍事のとものみやつこ)の長で、”雄略天皇”(ゆうりゃくてんのう)が即位したときに両氏は共に大連(おおむらじ)となりました。


当時の”大君”は、”ヤマト地方”を中心とした有力豪族たちの中の”最有力者”という位置づけでした。


ヤマト地方”以外の地方で、例えば今の岡山県に大きな勢力を持っていた”吉備氏”(きびし)や、今の島根県で大きな勢力をもっていた”出雲国”(いずもこく)、関東では今の栃木県、当時は”下野国”(しもつけのくに)の有力氏族の”毛野氏”(けぬし)および”那須氏”(なすし)などがいましたが、今回のシリーズでは触れません。(但し、”出雲国”の歴史につきましては、3月に触れる予定です。なお”出雲国”に”出雲氏”がいたわけではありません)


その”大君”という豪族連合のリーダーを、他の有力豪族が支えるという権力構造の中では、ナンバーツーが二人いて、それが並列するということはあり得なかったのです。どちらかが一方を倒さなければならないという宿命を背負っていました。


先ず、”大伴氏”が”継体天皇”(けいたいてんのう)を擁立して勢力を一気に握ろうとし、それに対して”物部氏”は”蘇我氏”と組まざると得ない立場になりました。


しかし、大伴氏が擁立した継体天皇は直ぐに亡くなって大伴氏は失脚します。大伴氏は物部氏と蘇我氏連合との権力闘争に負けたことになります。

石舞台古墳入り口4
大伴氏の失脚後は、今度は物部氏と蘇我氏との争いになります。


蘇我氏”は、軍事氏族の”物部氏”の巨大な軍事力に対して、経済力と政治力で対抗していきます。蘇我氏が真っ先に仏教を採り入れたのは、物部氏を倒すための手段としたのです。


物部氏”は、大君家と同じく天から降りた氏族という伝承を持つ古い豪族で、”石上神宮”(いそのかみじんぐう)を握って”祭祀権”(さいしけん=神聖な祭りを主催する権利)も掌握していました。


つまり”物部氏”は、”神武東征”(じんむとうせい=神武天皇が日向からヤマトへと攻め上ったという神話)以前に、”ヤマト地方”を支配していた最大の氏族でした。


一方蘇我氏は新興勢力ですから祭祀権を持っていません。物部氏が有していたもう一つの権力の象徴である”神祇権”(じんぎけん=国津神・クニツカミをまつる権限)に対抗できる宗教がないと負けてしまいますので、熱心に”仏教”を採り入れました。


蘇我氏にとって仏教は政争の道具に過ぎませんでした。


後に”聖徳太子”と結びついて政治の表舞台に立つことになりますが、聖徳太子の「仏教を道具扱いにはしないという」姿勢との違いが、最後になって蘇我氏が滅びる遠因になったもの歴史の皮肉でしょう。

石室内5
蘇我稲目”は日本書紀によれば、570年に亡くなっています。


稲目の次に現れたのは稲目の息子である”蘇我馬子”(そがのうまこ)です。


この”蘇我馬子”が、同年代の”聖徳太子”と組んで、仏教を採り入れた政治を行うようになります。


そして、その過程で最大の政敵であった物部氏一族をことごとく殺し尽くして、物部氏最後の当主、”物部守屋”(もののべのもりや)を殺しました。


しかも馬子は物部守屋を殺すとき、後の”推古天皇”(すいこてんのう)を巻き込んで「守屋を誅殺せよ」という(みことのり=大君の命令)を出させることに成功しています。


それで、全豪族が一気に馬子の下に集まったのです。ここに蘇我氏の全盛時代のきっかけを作りました。


馬子は、情勢判断が正しく、強敵を全て抹殺していきます。最後には”崇峻天皇”(すしゅんてんのう)まで殺しています。


馬子が崇峻天皇を殺したことが分かっていても、馬子の勢力が余りに絶大になっていましたので、大君家も他の豪族たちも馬子を追求することが出来なかったのです。

高松塚古墳6
この画像は”高松塚古墳”(たかまつづかこふん)です。


この”高松塚古墳”は、奈良県高市郡明日香村にある古墳です。藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、1972年に”極彩色の壁画”が発見されたことで一躍注目されるようになりました。


今日のお話は、この古墳が築かれた前後が舞台となっていますので、その画像をご紹介しました。


さて”崇峻天皇”を殺して権力の絶頂期を迎えた”蘇我馬子”です。つまり馬子の時代には大君家といえども、それほどの力はまだなかったということです。


そして”聖徳太子”を後ろ盾に、実際の政治は”馬子”がやっていました。他の豪族の誰一人として、馬子に異を唱えることができる勢力はいなくなっていたのです。


この時が馬子の、そして蘇我氏の絶頂期でした。


しかし、蘇我氏が絶頂期を迎えたことで、後に蘇我氏崩壊の種が蒔かれました。馬子は聖徳太子を徹底的に利用し、政治の主導権を握りましたが・・・・・・。

高松塚古墳7
聖徳太子”と”蘇我馬子”、この二人を結びつけたのは、当初は”仏教”でした。


馬子は仏教を政治を司る道具として利用しのし上がってきました。


一方、”聖徳太子”は父、”用明天皇”(ようめいてんのう)が仏教徒でしたから、生まれながらの仏教徒でした。

しかも、”聖徳太子”は仏教や道教に学んで、”人間平等主義の思想”を打ち立てた歴史上初めての大君でした。


政治を牛耳る為に仏教を道具とした馬子と聖徳太子が合うはずがありません。聖徳太子は、馬子の政治力で政治の表舞台から遠ざけられ、622年に49歳で失意の中亡くなります。

高松塚古墳壁画8
絶頂期にあった馬子ですが、最高権力者ではあっても専制君主ではありません。


つまり大君家を滅ぼして自分が大君になることだけは出来ませんでした。日本に、この頃根付いた”血統意識”です。


この後、様々な政治権力が生まれますが、誰一人として大君家(今の天皇家)に取って代わることはできませんでした。そこが、この国の基幹となりました。


まず蘇我氏絶頂期を築いた馬子が死にます。馬子が死んだのは聖徳太子が亡くなった4年後、76歳で亡くなります。

その跡を継いだのが馬子の息子の”蘇我蝦夷”(そがのえみし)であり孫の”蘇我入鹿”(そがのいるか)です。


馬子の時代に築かれた蘇我本宗家の権威と権力が、蝦夷の時代には落ちてきます。

高松塚古墳構図9
蝦夷と入鹿の時代には、大君家の継承にまで口出しして、、自分が推す次代の大君を就けるために(推古女帝が亡くなった後に、田村皇子、後の舒明天皇)蘇我氏一族間で殺し合いをしなければ自分の意思が貫けなくなっていたのです。


次の大君(今の天皇)を決めるに当たって、自分の意中の大君候補を全豪族に丁寧に根回しして決めていた馬子とまったく違っていたのです。馬子ならあり得ないほど手際が悪く、大君後継者争いに蝦夷や入鹿自身が巻き込まれていきました。


しかし歴史は皮肉です。蘇我一族の血を血で争う闘いまでして即位させた”舒明天皇”(じょめいてんのう)の子供が、後に蘇我一族を滅ぼすことになる”中大兄皇子”(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)だったからです。


蝦夷が存命中に、蝦夷の息子”蘇我入鹿”(そがのいるか)が表舞台に登場してきます。この入鹿は、恐らく日本史上唯一無二で大君(おおきみ)を目指した人物でしょう。

発掘前の高松塚古墳10
実は、蘇我氏一族を憎み切っていた大君が”中大兄皇子”(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)でした。


そして”中大兄皇子”が尊敬してやまなかったのが後の”藤原氏”の祖となった”中臣鎌子”(なかとみのかまこ=後の中臣鎌足=後の藤原鎌足)です。

大君というのは中国の皇帝のように律令(法律)を作り、それを大臣にも一家臣として命令する立場でなければならないと考えました。それが正当な大君政治のあり方だと考え始めました。


これらの動きに危機感を持ったのが、その時の最大の権力者、”蘇我入鹿”です。


中国のような政治形態になると、つまり大君が完全な政治権力を握ってしまうと、蘇我本宗家の権威、権力が消えてしまうと考えたのです。


蘇我入鹿”としては、蘇我本宗家を守るには自分が大君になる以外はないと思いつめます。

卑弥呼の墓
上の画像は、”箸墓古墳”(はしはかこふん)で、奈良県桜井市にあります。”纒向遺跡”(むくまきいせき)群の中にある中心的な古墳です。


この”箸墓古墳”(はしはかこふん)は、一時期新聞などで”卑弥呼の墓”(ひみこのはか)ではないか?と騒がれました。個人的には違うと思います。その理由を書くと長くなるので書きません。


さて、興隆を極めた蘇我一族ですが、遂に滅亡の日がやってまいります。


それが、後に、と言うか教科書的に言えば”大化の改新”です。


厳密に言えば、蘇我氏を、”中大兄皇子”(なかのおおえのおおじ)と、”中臣鎌足”(なかとみのかまたり)たちが倒した、645年の”乙巳のクーデター”(いっしのクーデター)を言います。


このクーデターによって”蘇我入鹿”が、”皇極天皇”(こうぎょくてんのう=女帝で、後に斉明天皇に重祚<ちょうそ=一度退位いた天皇が、再び天皇に返り咲くこと>します)の目の前で刺殺されます。


それに続いて、蘇我入鹿の父である”蘇我蝦夷”も自邸を中大兄皇子軍に囲まれて、自邸に火を放ち、一族郎党全てがその場で果てました。ここに” 蘇我本宗家”は死に絶えます。


世に言う「大化の改新」以降、蘇我氏を滅ぼした”中大兄皇子”と”中臣鎌足”とは、聖徳太子が目指した「律令制度」を基にした”大君親政”による国家運営を目指します。


なお”乙巳のクーデター”の時の大君は”皇極天皇”(こうぎょくてんのう)でしたが、このクーデターが成功した翌日”中大兄皇子”を呼んで、大君を譲位したい旨を告げています。


中大兄皇子”は”中臣鎌足”と相談して、その”譲位”(じょうい=天皇を譲る)は中大兄皇子の叔父の”軽皇子”(かるのみこ)が受けるべきだと申し出て、その”軽皇子”が即位し”孝徳天皇”(こうとくてんのう)となります。


これが史上初めての、”皇位権の譲位”です。ただし、この時点で”譲位”という制度が確立された訳ではありません。


この”譲位”という制度がまだ確立していなかったことが、後に古代日本の最大の戦い”壬申の乱”(じんしんのらん)を引き起こすことになります。それは、明日以降のお話です。


今日は、古代史に忽然と姿を表し、古代政治の世界で大きな権力を握り、そして滅んでいった”蘇我氏一族”の歴史を中心に、日本と名乗る前の時代のお話をご紹介しました。


明日は、蘇我氏一族から権力を奪い返して、”天皇親政の中央集権国家”を目指し、”今の日本の基礎を築こうと模索した”時代のお話です。




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「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 2

今日は”日本歴史の夜明け・外史”の2回目です。


今日は、645年に起こった”乙巳のクーデター=大化の改新”の立役者である”中大兄皇子”(なかのおおえのおうじ)が”天智天皇”(てんじてんのう)に即位し、”中臣鎌足”(なかとみのかまたり)を参謀に”律令国家”の樹立を目指したことからご紹介しましょう。


世に言う「大化の改新」以降、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足とは、聖徳太子が目指した「律令制度」を基にした大君親政による国家運営を目指します。


ここで歴史上に忽然と姿を表し、以降”藤原氏の祖”となった”中臣鎌足”(なかとみの かまたり)とはどういう人物であったのかに触れておきます。

飛鳥観光マップ1
鎌足”は常陸(ひたち=今の茨城県)の鹿島の”藤原郡”にあった神官の子でしたが、神童の誉高い子でその評判が遠く飛鳥まで及んだのでしょう。


後の”藤原”という””(うじ)も、出身地を””(うじ)として、天皇から賜ったものとして出来た”氏”(うじ)で、日本の”名族中の名族”という””となりました。


この際、日本の名族と呼ばれる”源平藤橘”(げんぺいとうきつ)について、一度整理しておきましょう。先ず四姓の内、源=”源氏”と平=”平氏”は、天皇家の出身で”皇籍”(こうせき=皇室での戸籍を持つ)を離れ”臣籍”(しんせき=皇室の臣下としての戸籍を持つ)に下った氏族が名乗る姓です。


例えば”源氏”の元は”清和天皇”ですし、”平氏”の元は四姓ありますが、主流は”桓武天皇”がその祖です。


それに対して、”橘氏”は”元明天皇”から賜った”橘諸兄”(たちばなのもろえ)がその祖ですし、”藤原氏”は、壬申の乱で功績を上げて、それまでの”中臣氏”から”藤原氏”を天武天皇から賜った”藤原鎌足”が、その祖です。


つまり、源氏と平氏は天皇家の流れ(皇籍から下って臣籍になった)であり、藤原氏と橘氏は皇室に認められた臣籍の流れです。

なお現在の松山市”立花”は、上に書いた”源平藤橘”の中の”橘氏”の祖である”橘諸兄”(たちばなのもろえ”を、町名の由来を持つ町です。(「松山市の地名・町名由来」・ 「東雲町・立花」 13


この時は、藤原氏も橘氏も天皇家の流れを流れを組む”名族中の名族”と書きましたが、上に書きましたようにこれは誤りでした。ここに訂正させていただきます。


さて、”藤原氏”の祖となった”鎌足”(かまたり=当時の名は”鎌子”)は、飛鳥の地で大君(おおきみ=今の天皇)と神とを取り持つ神官であった”中臣家の養子”として迎えられます。


鎌足自身は、飛鳥の神官である”中臣家”(なかとみけ)の養子になった時から政治的野心を持っていました。それは、権力の絶頂にあった蘇我本宗家を倒し、自分が大君の側近として政治に大きく参画したいというもの。


そこで”中大兄皇子”(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)に目をつけ自ら近づいていき、中大兄皇子の絶大なる信任を得るのです。


乙巳のクーデター=大化の改新”の筋書きは全て”中臣鎌足”が描きましたが、鎌足自身は、完全に黒子に徹してクーデターを成功させました。

宮内庁お達し2
この宮内庁の掲示板は、この場所が”天武天皇”と”持統天皇”が合葬されている”檜隈大内陵”(ひのくま おおうちの みささぎ)であることを示しています。


明日と明後日の記事で登場し、その時代の主役を担う夫婦で、今の日本の基礎を築いた天皇たちでもあります。


さてクーデターに成功して以降は、”中大兄皇子”はしばらく大君には就かず皇子の身分のままで、”中臣鎌足”の広い学識と世の中を読み解く力を借りながら”律令制度国家樹立”に邁進します。


その間に、鎌足と組んで自分たちの”政敵”(せいてき=政治的敵対勢力)になる可能性のあるものは、例え大君家の者であっても有力な豪族であっても根こそぎ殺しつくしました。それだけの兵力を持っていたということで、この二人に異を唱えるものは誰もいなくなりました。


中大兄皇子”は668年に近江(おおみ=今の滋賀県)に都を移し”天智天皇”(てんじてんのう)となります。


なお、天智天皇がなぜ飛鳥を離れ近江に都を作ったのかというと、663年に朝鮮半島の百済に味方して兵を送りますが、唐と新羅の連合軍に大敗します。


これを世に”白村江”(はくすきのえ)の戦いと言います。


天智天皇”は、唐と新羅の連合軍が勢いを駆って、当時の倭国に攻めこむのではないかと恐れ、攻められにくく、いざとなれば日本海に出やすい”近江”を都に選んだのです。

天武天皇持統天皇稜3
この画像は、大化の改新以降聖徳太子が掲げた”律令制度”に基づく国家運営を目指しながらも、道半ばしてなくなった”天智天皇”の弟で、その”天智天皇”から命を狙われた”天武天皇”と”持統天皇”が合葬されている”檜隈大内陵”(ひのくま おおうちの みささぎ)の今の様子です。


天武天皇”への墓に合葬を選んだのは、妻で天武天皇の次の天皇に即位した”持統天皇”自身の意図、遺言です。その事情は明後日に説明します。


しかし、”近江遷都”以後の”天智天皇”の勢いはこれ以降次第に衰えていきます。


体調不良に悩まされるようになったのです。


衰える体力に鞭打って、聖徳太子が律令制度という理想を掲げ道半ばで亡くなりましたが、その後継者として”律令制度確立”に力を振り絞ります。


「冠位十二階制度」「庚午年籍」(こうごねんじゃく)によって、全国の戸籍調査にも乗り出しました。


後の「国司」となる「国宰」(くにのみこともち)などを任命しています。


ここに、律令制度の基礎部分まではたどり着いていたのです。しかし天智天皇の親政もここまでが限界でした。体力が衰弱してしまったのです。

天武天皇持統天皇稜4
さて、”天智天皇の後継者問題”です。


その当時は大君の弟が皇太子になって跡を継ぐのが通例でした。


ですから、弟の”大海人皇子”(おおあまのおうじ)が当然に”天智天皇”(てんじてんのう)の後継者になる予定でした。


ところが”天智天皇”には男の子があって成人にまで達しました。これが”大友皇子”(おおとものおおじ)です。


天智天皇は、我が子”大友皇子”を後継者にしたいと思うようになりました。


なおこの当時は、まだ時の大君自身が後継者を指名するという時代ではなく、多くの有力豪族の”錐体”(すいたい=すいせん)を受けたものが後継者になるという時代でした。


ですから、天智天皇にしてみれば”大海人皇子”を事前に殺しておかなければ、我が子の”大友皇子”を後継者には出来ないという時代です。


既にこれまでに天智天皇は、有間皇子(ありまのみこ)や古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)など、何人もの皇子を殺してきています。


なお、昨日の記事の最後に、”乙巳のクーデター”の時の”皇極天皇”が当時の中大兄皇子に譲位を意を示しましたが、中大兄皇子はこれを断り、叔父を推した、と書きました。


また、それが”皇極天皇”(こうぎょくてんのう=の次に即位した”孝徳天皇”(こうとくてんのう)であることも書いています。


この時に”譲位”という制度を確立していたなら、後の”壬申の乱”は起きていません。

天武天皇持統天皇稜説明5
ここで、”大海人皇子”は、自分の身に危険が迫っていることを察知します。


自分と后や子どもたちの命は、風前の灯火(ともしび)となったのです。


そこで、”吉野”に隠遁(いんとん=引退して世の中から隠れること)して僧侶になることを宣言し、僅かな部下と后(うののさらら后=この后が後の持統天皇となります)と草壁皇子(くさかべのおうじ)と忍壁皇子(おさかべのおうじ)の2人の幼子を連れて吉野に落ちていきます。


なお、この時、大海人皇子と行動を共にした”うののさらら后”は、大海人皇子の命を狙う天智天皇の娘でもありました。


つまり”うののさらら后”は自分の父親の弟(叔父)の妻になっていたのです。”うののさらら后”は、命を狙われている夫を捨てて父・天智天皇の元に残る選択肢もあったのです。

文武天皇陵の方向6
しかし”うののさらら后”は父親(天智天皇)を捨て、自分の夫である”大海人皇子”とともに吉野に落ちることを選択しました。


うののさらら后”は、何故父を捨て夫を選んだのか?


しかも父親である、天智天皇の過去のやり方を目の当たりに見て知っていた”うののさらら后”は、父の”天智天皇”が追手を差し向け、自分たちの命を奪いに来るということを覚悟していました。

文武天皇陵7
上の画像は、持統天皇の次に天皇に即位した”文武天皇”(もんむてんのう=持統天皇の孫)の陵墓だと言われているものです。


しかしその時、天智天皇は大海人皇子に追手を差し向けてとどめを刺しておくことをしませんでした。娘である”うののさらら后”や、自分の孫である”草壁皇子”(くさかべのおうじ)や”忍壁皇子”(おさかべのおうじ)をいとおしんだからでしょうか?歴史上の大きな謎です。


しかし、このことが、後に日本国最大の戦と言われる”「壬申の乱」”(じんしんのらん)を生むことになります。


天智天皇は671年に亡くなりました。大海人皇子が近江を発って吉野に逃げてから1ヶ月半後のことでした。


さて、”大海人皇子”や”うののさらら后”や連れ出せた子供2人と、数十人の”舎人”(とねり=親衛隊)たちの運命は?命の行方はどうなったのか?


それは明日、詳しくご説明します。




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「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 3

今日は、”日本歴史の夜明け・外史”の3回目です。


特に、”天武天皇”と”持統天皇”が都と定め政治を行った”藤原京跡”の画像を中心にご紹介しながら、日本という国がどういう風に形作られてきたのかというテーマで考えてみました。


その前に、天智天皇に命を狙われて、吉野に落ちていった”大海人皇子”一家のその後と、古代期最大の戦いとなった”壬申の乱”を中心にご紹介します。


さて、”大海人皇子とその家族”、及び僅かな部下たちの運命はどうなったのか?

藤原京跡表示1
この画像は、”壬申の乱”の立役者となった”天武天皇”の妻であり、天武天皇の次に即位した”持統天皇”が飛鳥から遷都した”藤原京”の位置を示すもの。


日本で初めて国号を”日本”とし、”大君”と呼ばれていたものを”天皇”という称号を使った”天武天皇”と、その次の天皇である”持統天皇”(天武天皇の后)の治世を振り返ります。


今日ご紹介する画像、日本では初めてとなる都城があった”藤原京”の遺跡を見ながら、その時代を記述します。


時の大君(今の天皇)を巡る争いは、数限りなくありました。”大海人皇子”一家(その中には自分の娘”うののさらら妃”を含む)の命を狙った”天智天皇”自身も天皇家(その時はまだ”大君”といっていた)を巡る争いで生まれた天皇です。


つまり、645年の大化の改新(=乙巳のクーデター)で、事実上の政治権力を握っていた”蘇我入鹿”を刺殺して政治の実権を、中臣鎌足を参謀に使って握っています。


しかし、この大化の改新(=乙巳のクーデター)は、皇極天皇(後の斉明天皇)がいる板蓋宮(いたぶきのみや)という、皇居の密室で行われたもので、国内にそれを巡って内乱などは起こっていません。

藤原京跡地図2
今日詳しく書きます「壬申の乱」は、古代の中で最大の戦でした。


一番スケールが大きくて、その当時の倭国の三分の一ほどを動かした大変な戦でした。


さて”大海人皇子”一家が吉野に落ちていったのは、671年の冬です。


この時の正月には、天智天皇の子”大友皇子”は太政大臣になり、実質的な皇太子になっています。


それに比べて”大海人皇子”は、復活を心に誓いながらも、髪を剃って敢えてボロボロの布を身にまとって都落ちします。


その当時の都は天智天皇が遷都(せんと=都を移す)した近江でしたから、大海人皇子の近江朝に対する怒りと怨念は如何ばかりだったのでしょう。察するに余りあります。

耳成山3
この画像は、”藤原京”の周囲にある”大和三山”の一つである”耳成山”(みみなしやま)です。


そして、天智天皇から命を狙われていた大海人皇子が、命からがら吉野に逃げた、その年の12月3日に天智天皇は近江宮で亡くなります。


予てより近江に密偵を残してきた大海人皇子は、天智天皇崩御の知らせが届くと同時に、直ちに行動を起こしています。


綿密に計画を練っていた証です。先ずは、吉野の豪族たちを集めて味方につけます。


また吉野だけではなく、美濃(今の岐阜県)の豪族たちなどにも使いを出し、味方につけることに成功しています。


大海人皇子”の后であった”うののさらら妃”(後の持統天皇)も、その計画に密接に加わっていたのでしょう。


だからこそ、父天智天皇を捨てて、夫である”大海人皇子”と行動を共にしたのだと思います。


そして、大海人皇子は天智天皇が亡くなった半年後に、近江朝を倒す準備が整います。まだこの時点で、近江朝は大海人皇子の動きに気がついていません。油断していたのでしょう。

畝傍山4
この画像は、上の画像と同じく”藤原京”の周囲にある”大和三山”の一つである”畝傍山”(うねびやま)です。


天智天皇が亡くなった翌年、6月14日に”大海人皇子”は遂に吉野を発ちます、”打倒近江朝!”を掲げて。


そして25日には三重県の積殖山口(つむえやまぐち)というところに着いていました。


ここで、近江京に残してきた子である”高市皇子”(たけちのみこ)が出迎えました。


大海人皇子の子らは、近江朝側の厳重な監視の目を掻い潜って、近江京を脱出していたのです。このことも、大海人皇子の”打倒近江京朝”が、事前に綿密に計画されていたことを示しています。


6月26日には、大海人皇子一行は三重県北部に達しています。ここで大海人皇子は、遥か南にある”伊勢神宮”の方角を向いて戦勝を祈願するための祈りを捧げています。


そしてここで、やはり近江京にいた当時十歳の”大津皇子”(おおつのみこ)が、大海人皇子一行に合流します。大海人皇子の舎人(とねり=親衛隊たち)に守られての近江京脱出です。

天の香具山5
この画像は、上の画像と同じく”藤原京”の周囲にある”大和三山”の一つである”天の香具山”(あめのかぐやま)です。


松山市にある”天山”と同じ伝承を持つ山です。(「松山市の地名・町名由来」・ 「星岡町・天山町」 18


6月29日、”大海人皇子”はいよいよ近江朝討伐の総攻撃の命令を下します。全軍を二つに分けて編成していました。


近江京の大津を直撃する部隊と、近江京を遠回りして大和から近江京の脇腹を攻撃する部隊です。


大海人皇子軍と近江朝軍の最大の激戦は、7月7日でした。これ以降も激戦が続きますが、この戦いの最大の特徴は、大海人皇子軍の戦意の高さに比べたら、近江朝軍の戦意の低さです。


近隣諸豪族の寄せ集めの軍でしたが、彼らはこの戦いを全く予想していませんでしたから、何の戦略的・戦術的準備もなされていませんでした。


それに、大海人皇子の部下への接し方と大友皇子のそれとでは大きな隔たりがありました。大友皇子は天智天皇の御子として何一つ苦労なく現在の地位に就いています。


ところが大海人皇子は生命の危機にさらされて、自分と行動を共にしてくれる舎人などの部下をとことん大切にし、仲間付き合いを重ねてきました。


この差が出たのです。仲間の長である大海人皇子のためには一身を捧げる覚悟をした大海人皇子軍と、突然出撃命令を受けて急ごしらえで駆りだされた豪族たちの配下に大きな戦意の差があったのは当然でしょう。


大海人皇子の圧勝でした。大友皇子は自害し果てるしかなかったのです。ここに大君(今の天皇)自身を巻き込んだ、日本史上最大の戦い大海人皇子の勝利に終わります。圧勝でした。

大極殿院跡6
この画像は、藤原京の”大極殿院跡”です。大極殿とは、天皇が政治を執り行う宮殿のことです。


この大海人皇子が、史上初めて”天皇”という称号を使い、国号(こくごう=国の名を)”日本”とした初めての天皇です。


大海人皇子は、”天武天皇”として即位します。この時が「日本という国の夜明け」だったのか?


それは明日の”日本歴史の夜明け・外史”の4回目で明らかにします。


そこには、意外な結末が待ち受けていました。





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「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 4

今日は、”日本歴史の夜明け・外史”の4回目です。


昨日”壬申の乱”(じんしんのらん)が、乱の当事者”大海人皇子”(おおあまのおうじ)側の圧勝に終わって、天智天皇を継ごうとした”大友皇子”側の”近江朝”を倒したところまでを書きました。


しかし、大海人皇子が即位して”天武天皇”となり、大海人皇子が兄”天智天皇”から受けた仕打ちの無念を晴らすべく「律令国家」に樹立を目指しますが、果たして”天武天皇”の思い描いていたであろう展開になったのでしょうか?


つまり”壬申の乱”の勝利が、そのまま”日本の夜明け”になったのかどうか?


それを一言で言うなら、”壬申の乱の圧勝と天武天皇の即位”は”日本の夜明け前の曙(あけぼの)”であった、太陽がが登る直前の”夜明け前”であったということです。


今日は”壬申の乱”の意外な結末を、ある女性を軸に書いていきます。”天皇”としてと言うより”人間”として生きた女性の物語です。


実は今日を含めた4回の記述は、彼女が”人間として生きた”人生を主軸に描きたかったのです。


彼女とは、後に持統天皇になる”うののさらら后”のことです。

蓮
さて、”壬申の乱”の圧勝によって、大海人皇子は673年に飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)で即位して”天武天皇”となります。


天武天皇”は兄であった”天智天皇”から受けた屈辱感と挫折感をバネに、用意周到に近江朝打倒を胸に秘めて吉野に落ちていきました。


この吉野落ちの時に、”天武天皇”の胸の内を知っていのは、天武天皇の后(天智天皇の娘でもあった)後の”持統天皇”だけではなかったでしょうか。


言わば”壬申の乱”は、天武天皇と后で後に持統天皇になる”うののさらら后”との共同作戦であったと思います。

大極殿跡7
天武天皇は、天皇に即位した後は、それまでとは人が変わったような専制君主になります。


壬申の乱”の、言わば同志であった”舎人”(とねり=親衛隊)たちとも親しく交わるといった振る舞いは消えてなくなりました。


それと同時に、次々と若い后(きさき=つま)を向け入れ、子供をどんどん産ませていきます。天武天皇は壬申の乱の後に、藤原鎌足の娘や蘇我赤兄(そがのあかえ)の娘を後宮に入れている他、兄であった天智天皇の娘(自分にとっては姪)を4人后にしています。


この時、天武天皇は45歳~46歳でしたが、孫のような年代の16歳~17歳の娘を后に迎え入れています。


後の持統天皇(うののさらら后)も、天智天皇の娘なので、天武天皇にとっては姪ですが、后としたのは天武天皇がもっと若かった頃です。持統天皇は、言わば天武天皇の”糟糠の妻”(そうこうのつま=貧しいときから一緒に苦労を重ねてきた妻という意味)です。


なお、自分の姪を含む多くの后を迎えるというのは、当時の倫理観では、不謹慎なことということではありませんでした。ですから皇后になっていた後の”持統天皇”(うののさらら后)は、正面切って夫の天武天皇に異を唱えることなど出来ませでした。


しかし、皇后とは言え一女性です。多数の若い妃たちを受け入れていった夫、天武天皇に対して好ましい感情を持つということが不自然でしょう。


この後の持統天皇の行動が、天武天皇への複雑な思いとなって歴史に表れます。しかし皮肉なことに、その持統天皇の複雑な思いが、「日本の夜明け」につながったのです。

持統天皇石柱7
天武天皇”が目指していたのは”天皇親政”でした。


豪族連合の上に乗った政権ではなく、天皇家に権力を集中させる「中央集権体制」でした。そして聖徳太子が掲げ、兄の天智天皇も目指したものの果たせなかった「律令国家」の樹立でした。


天皇を”現人神”(あらひとがみ=生きた神様)と見立てた初めての天皇が天武天皇でした。


なお、「律令制度」の中身とは、豪族たちの私有地を取り上げて公地公民とすることです。


律令制度の根幹は”班田収授法”(はんでんしゅうじゅのほう)で、調査した戸籍に基づいて、田を分け与え、税金を取る制度です。税金は稲と布と労役を指します。


それを実際に監督するのは、その土地の豪族である”国造”(くののみやつこ)であり、彼らを監視するのが国から派遣された”国司”(こくし)という制度です。


天智天皇はスローガンを掲げただけで終わりましたが、天武天皇は本気でやろうとしました。なお、この”天武天皇”が目指し、取り掛かった”律令制度”の確立がもたらした影響は、松山でも直ちに表れました。


昨年「松山の地名・町名由来」シリーズを40回に分けて書きましたが、上に書いた影響はそのシリーズの第7回で採り上げた「余戸・保免・市坪」の町名由来となって現れています。(「松山市の地名・町名由来」・ 「余戸・保免・市坪」 7


なお”律令制度”を確立する為には豪族の田を没収しなければなりませんから、天皇に権力が集中する”中央集権化”が必須です。これらの政策を遂行する上での天武天皇の最大のブレーンが天皇の皇后(後の持統天皇)でした。

朝堂院跡石柱8
この画像は、”藤原京”の”朝堂院跡石柱”です。”朝堂院”(ちょうどういん)というのは、天皇の臣下である役人たちの仕事場、言わば今の”役所”に当たります。


なお、天武天皇は686年に亡くなりますが、その数年前から体力気力ともに急速に衰えていきます。


そうなると、天武天皇の後継者を誰にするかという問題が急浮上します。


天武天皇は679年に吉野に行幸(ぎょうこう=天皇がでかけること)します。その時、6人の皇子と皇后を伴って行きました。


そしてその6人の皇子に「お前たちの母親は全て違っているが、どの皇子も私(天武天皇)と皇后の子として同等に扱う。皆で力を併せて天皇家に忠誠を誓いなさい」と言います。


天武天皇の本心は長子であった”大津皇子”(おおつのみこ)を後継にしたかったのでしょうが、その当時は天皇自身が後継者を指名できる時代ではありませんでした。やはり豪族連合の推薦が必要な時代でしたから。


もちろん、皇子たちは口々に誓いました。そして皇后もこれに続き誓います。これで天武天皇は安心したのでしょう、その7年後に亡くなります。

藤原京跡発掘現場9
でもまさか、この誓いを真っ先に破ることになるのが皇后であったことなど、天武天皇は想像もしなかったことでしょう。


皇后は自分が生んだ”草壁皇子”(くさかべのみこ)を天武天皇の後継天皇にしたかったのです。しかし草壁皇子は病弱でした。


一方能力、人望ともに優れていたのは皇后の姉が生んだ”大津皇子”(おおつのみこ) でした。


この時点で”大津皇子”は、皇后の心を見破っていました。


ですから、自分が生きながらえる、或いは天武天皇の後継天皇になるためには、天武天皇が亡くなった時すかさず”皇后”と、皇后が生んだ”草壁皇子”を殺しておくべきでした。


でもそれを潔しとしないというロマンを持っていたのが”大津皇子の悲劇”でした。


天武天皇が亡くなると、皇后は真っ先に自分の息子である草壁皇子を天皇の就けることの最大の障害となる”大津皇子”に謀反の罪を押し付けて死を命じます。(これと似たような出来事が、世界の何処かで最近起こりましたね。その国は、1300年以上も前の時代と同じ感覚が今に生きているんですね)


大津皇子”はこのことを予め予測していました。死を命じられる前に、伊勢神宮の斎宮となっていた最愛の姉、”大伯皇女”(おおくにのひめみこ)に最後の別れを言いたい、ひと目だけでも見て死にたいと伊勢神宮に行っています。


686年10月”大津皇子”は絞首刑に処せられ亡くなります。歴史の影に隠れていた悲劇です。



天武天皇の後継として皇后が”持統天皇”として即位したのは690年10月。


自分の生んだ子”草壁皇子”をどうしても天皇に就けたいという気持ちと、”天武天皇”とともに手がけていた律令制度の定着を自分の手で果たしたいという思いもあったのでしょう。


また、次々と若い后を宮に入れて子供を産ませていった天武天皇への口には出せぬ怨念もあったのでしょう。


しかし、皮肉なことに期待の”草壁皇子”は689年に28歳の若さで亡くなりましたから、自分が天皇に即位して、草壁皇子の子であった後の”文武天皇”(もんむてんのう)、つまり自分の孫に夢を託すことにしたのです。

蓮池10
この”持統天皇”という人は、行動力があって知識吸収力にも優れた開明的な女性でした。その裏には気の強いところもあったのでしょう。


律令制度の整備は、むしろ持統天皇主導で行われたふしがあります。天武天皇は国家運営の基本になる”飛鳥浄御原令”(あすかきよみがはられい)の編纂を681年に開始宣言しています。


しかし、飛鳥浄御原令が施行されたのは689年、持統天皇の時代になってからでした。そして、持統天皇は天武天皇とともに構想を暖めていた飛鳥京から”藤原京への遷都”を実現させます。


藤原京は、唐の京をモデルとして作られた都です。この”藤原京”は、持統・文武・元明の三天皇の都となった、日本最初の本格的な都城です。


697年に、持統は皇位を皇太子になっていた”軽皇子”(かるのみこ=文武天皇)に譲り、自らは”太上天皇”(だじょうてんのう)となります。持統天皇は”太上天皇”を名乗った初めての天皇です。略して”上皇”(じょうこう)と言います。


しかし、持統上皇は702年の10月に57歳で亡くなります。


持統上皇”は、自分の意思で天武天皇の墓である”檜隈大内陵”(ひのくま おおうちの みささぎ)に合奏されます。

天武・持統天皇陵墓
画像は、”天武天皇”とともに眠る”持統天皇”の合葬陵です。


この時、持統は、天皇としては初めて火葬にふされました。ある作家は、持統はなぜ火葬を選んだのかという疑問に対して、最後は綺麗な白い骨になって夫の傍に横たわりたかったと想像されました。


真偽は分かりませんが、持統は若い頃は天武を愛し、天武が天皇になってからは,夫への嫉妬から我が子を溺愛し、自分が権力者になって以降は、孫に心を託しながらも、夫との思い出に生きた。最後は平凡な女性に帰ったというのです。


持統は、わが国で最大の権力と権威をもった女帝ですが、苦労を共にした夫への愛と嫉妬、子供や孫への期待など、”人間持統”の生涯ではなかったでしょうか。


さて、今日で「日本歴史の夜明け・外史」と名づけたミニ歴史シリーズを終え、明日からの2回は、奈良時代”聖武天皇”の最大の歴史的業績である”東大寺の造営”と”盧遮那仏”(るしゃなぶつ=奈良の大仏)に関する歴史をご紹介します。



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「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 5

今日は”日本歴史の夜明け・外史”の5回目です。

今日と明日は奈良時代の中心地であった”平城京跡”近くの、”東大寺”の中にある”南大門”や”大仏殿”など、更には”二月堂”などと共に、現在の”奈良公園”(鹿で有名な)近くにある及び”興福寺”などの史跡を中心にご案内しましょう。

なお、今日ご紹介する”東大寺”と”盧遮那仏”(るしゃなぶつ=大仏)を創建したのは、”平城京遷都”をも果たした”聖武天皇”(しょうむてんのう)です。

この”聖武天皇”(しょうむてんのう)という人は、昨日までに書きました”日本の歴史の夜明け”で大きな役割を果たした”持統天皇”の孫、”文武天皇”と、その当時朝廷最大の実力者になっていた”藤原不比等”(ふじわら ふひと)の娘、”宮子”の間に出来た子です。

文武天皇”の跡を中継ぎ的に継いだ”元明天皇”と次の”元正天皇”という2人の女帝の後、で満を持して即位した天皇です。

この”聖武天皇”の外祖父である”藤原不比等”(ふじわらふひと=藤原家の創始者・藤原鎌足の次男)は、3月にアップ予定の”出雲神話”や、更には”古事記”と”日本書紀”という、日本で最初の歴史書に大きく関わった人で、その件はその時改めてお話します。

この”東大寺”創建に大きな役割を果たしたのは、”聖武天皇”と、創建当時の”東大寺初代別当”を務めた”良弁僧正”(ろうべんそうじょう)、大仏の開眼導師を務めた”婆羅門僧正”(ばらもんそうじょう)、更には”東大寺”創建資金を集めるため多くの弟子とともに全国を飛び回り、民衆とともに大仏造立に尽力された”行基菩薩”です。

なお、この”東大寺”創建と”盧遮那仏”の造立という国家的事業がなければ、”僧行基”(そう ぎょうき)が四国に来ることもなかったでしょうし、「松山の地名・町名由来」で書きました様に、”浄瑠璃寺”・”繁多寺”・”石手寺・”太山寺”・”円明寺”などの寺は生まれていなかったかも知れません。

昨年40回に渡り、シリーズとして書きました「松山の地名・町名由来」の中で、上に書きました4つの寺院については触れています。「松山市の地名・町名由来」・「浄瑠璃町・畑寺町・太山寺町」 32

この四人を”四聖”(ししょう)とよび、”東大寺”を「四聖建立の寺」とも言います。

聖武天皇”は、言わば”東大寺”と”盧遮那仏”の創建に全生涯をかけ、749年(天平21年)に平城宮において”出家”しました。仏弟子になったのです。天皇の出家はこれが史上初でした。

東大寺航空写真
この画像は、”東大寺全景”を写した航空写真です。


画像の手前半分は、広大に広がる”奈良公園”の一角です。


そして、中央から一番奥に、巨大な”大仏殿(金堂)”の建物が見えています。


大仏殿の前庭を取り囲むように回廊が伸びています。その回廊の一番下部にある”中門”、そして一番手前の一際大きい”南大門”の姿も見えます。

南大門1
この画像は国宝に指定されている”南大門”の勇姿です。現在ワタシたちが目にしているものは、天平時代に創建されたものではありません。


創建された当時のものは、平安時代の大風で倒壊しました。


現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した”重源上人”(ちょうげんしょうにん)が再建したものです。この”重源上人”(ちょうげんしょうにん)は、”南大門”だけではなく、”大仏殿”と”大仏”さん自身も再建された方です。

東大寺南大門下から
752年(天平勝宝=てんぴょうしょうほう4年)に完成した”大仏殿”は、過去に2回戦火に焼け落ちています。


一回目は、1180年(治承=じしょう4年)の兵火の時。平清盛の息子の重衡(しげひら)が南都(奈良)を焼き討ちして、興福寺とともに焼け落ちました。


二回目は、室町時代の1567年(永禄10年)の三好三人衆と松永久秀の兵乱によって大仏殿が消失しました。


その一回目の消失の時に再建の大役をはたしたのが”重源上人”(ちょうげんしょうにん)で、今から800年も前の時代に61歳で再建に取り掛かり、83歳という高齢で”東大寺復興”という大事業を成し遂げられたのです。

仁王像2
この画像と下の画像の2枚は、”南大門”の”仁王像”です。


今の”仁王像”は、”重源上人”(ちょうげんしょうにん)が南大門の再建にあわせて、1203年(建仁3年)7月24日から、10月3日までの、わずか69日で造立したものです。


大仏殿から見て右側(上の画像)は口を開けた”阿形像”(あぎょうぞう)です。


像の高さは約7.8メートルありますので、実に巨大な像です。

仁王像3
こちらは、大仏殿から見て左側(上の画像)は口を閉じた”吽形像”(うんぎょうぞう)です。


これらの”仁王像”は、他の寺院の仁王像とは違っていて二体が互いに向き合って立っています。


二体の仁王像は、江戸時代に部分修理が行われた他、1988年(昭和63年)から本格修理が行われました。そして1993年(平成5年)に仁王尊像の落慶法要が行われました。


この”仁王尊像”を解体修理した時に、像の内部に”運慶”と”快慶”と”重源上人”の名前が書かれていたそうです。”運慶”と”快慶”は、鎌倉時代をというより日本を代表する”大 仏師”(だい ぶっし=世界に誇る大彫刻家で、仏像にかけては、世界の歴史にその名を残す)です。

中門4
この門が、南の”南大門”の北に位置する”大仏殿”とに挟まれるように建っている”中門”です。


この”中門”から”大仏殿”までは、大仏殿前の”前庭”を取り囲むように”回廊”が伸びています。


その回廊の中の大仏殿前の庭には、夏休み中であったこともあり、海外からの観光客で溢れていました。

八角塔灯籠5
この画像が、大仏殿の前に広がる”前庭”にある”金銅八角灯籠”です。


この”金銅八角灯籠”は、大仏殿の創建とほぼ同じ時代に作られたものです。”大仏殿”は、既に書きましたように治承(じしょう)4年(1180年)と永禄(えいろく)10年(1567年)に消失し、その都度再建されてきた歴史を持っています。


ところが、この”金銅八角灯籠”はその都度火災をくぐり抜け、創建当初の高度な鋳造技術を今に伝えてくれています。しかも、わが国で現存する最大で、なおかつ最古の銅製灯籠です。


そして、灯籠の竿の部分には4つの経典が彫り込まれています。

大仏殿6
さて、この画像は”中門”から伸びる回廊から見た”大仏殿(金堂)”の遠景です。


大仏殿”は、天平(てんぴょう)19年(747年)に起工され、5年後の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年(752年)に完成しました。


”大仏殿”の現在の大きさは、正面が約57メートル、奥行きが約50メートルあります。


なお、高さは”12丈6尺”(約38m)ありますが、創建当時の高さは”15丈”(約45m)でした。


因みに、3月にアップ予定の”出雲大社”を支えている柱は、かつて”16丈”(48m)もあったことが遺跡調査で分かっています。(現在の”出雲大社”は創建当時の高さの半分の高さです)


なぜ”出雲大社”が、現存する世界最大の木造建築物である”東大寺大仏殿”を遥かに上回る高さでそびえ立っていたのか?その謎は、3月にアップ予定の”出雲国の歴史”で触れます。

大仏殿7
こちらの画像が、”大仏殿”の真正面に立って撮ったものです。先ほども書いたように、正面は現在約57メートルです。


ところが創建当初は、奥行きは現在とほぼ同じですが、正面はなんと86メートルもあったのです。今の約1.5倍の大きさでした。


これより更に1.5倍あった横の広がりを想像してみて下さい。


”大仏殿”は現存する世界最大の木造建築物ですが、当初はそれよりはるかに大きかったということです。


しかも、こんなに大きな建造物を、鎌倉時代と江戸時代の2回再建したのですから、凄いものですね。鎌倉時代は”重源上人”(ちょうげんしょうにん)が、江戸時代には”公慶上人”(こうけいしょうにん)がその大役を果たされました。しかも二人は”大仏”そのものも再建されました。

大仏8
この画像が、大仏殿の中の”盧遮那仏”(るしゃなぶつ=大仏様)です。


この”盧遮那仏”は、「華厳経」の(けごんきょう)の教主として奈良時代に造立されたものです。


「華厳経」は、”釈尊”(しゃくそん=おしゃか様)が悟りを開かれて最初に説法せられたものといわれています。

大仏9
仏陀”(ぶっだ)の世界は、美しいいろいろな華の花園の様な世界であり、全宇宙のあらゆるものが、お互いに助けあって、”重々無尽”(じゅうじゅうむじん=華厳宗では、この世界は、相互に関係しあい無限に重なりあっていると考ます)に関係しあって生かされていると説いています。


なお”盧遮那仏”とは「太陽の光の仏陀」という意味です。「華厳経」の教えでは、この大仏が全宇宙を包括するとされています。


像の高さは14.868メートルあり、国宝です。この大仏本体は金銅、つまり青銅製で、3年8ヶ月に渡った当初の鋳造に用いられた銅は280トン。補修用に16トン、螺髪(らほつ=仏像の丸まった髪の毛のこと)鋳造用の銅も6.5トンを要しています。


大仏鋳造用の銅は、長門国(ながとこく=今の山口県西部)、秋吉台カルスト台地の東麓にある”長登銅山”(ながのぼりどうざん)で産出されたものです。

虚空菩薩10
この画像は、盧遮那仏の左に控えている”虚空菩薩”(こくうぼさつ)像です。


虚空菩薩”とは、広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味です。


そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰されています。

多聞天11
そしてこの画像は”多聞天”(たもんてん)僧です。”毘沙門天”(びしゃもんてん)ともいわれますが、仏教の守護神、”四天王”の中の一神です。


北方の世界を守護する神で、右手に宝棒,左手に宝塔をもつ姿であらわされ,七福神のひとつでもあります。

如意輪観音12
そしてこの画像が”如意輪観音”(にょいりんかんのん)像です。


如意輪観音”とは、仏教における信仰対象である菩薩の一尊で、”観音菩薩”(かんのんぼさつ)が姿を変えて現れたとされる、六観音の中の一尊です。

戒壇院13
さて、最後は東大寺大仏殿の西側にある”戒壇院”(かいだんいん)です。


天平勝宝5年(753年)に、有名な”鑑真和上”(がんじんわじょう)が来日します。


その翌年、和上は東大寺に入り大仏殿の前に受戒(じゅかい=僧侶になる人が戒律を守る誓いをする神聖な儀式をいいます)を受けるための戒壇を設けましたが、それが今の”戒壇院”の施設になります。(場所は後に、今の所に移された)


それまでは、日本では正式な戒律を授ける僧侶がいませんでした。”奈良時代は仏教の時代”でもありました。


なお”戒壇院”につきましては、来年3月3日にアップします”比叡山延暦寺”を創建しました、天台宗の開祖”最澄”が、その生涯を掛けて延暦寺に”戒壇院”を設けようとしました。


また、”東大寺戒壇院”といえば、内部に安置してある天平彫刻を代表するといわれている”四天王像”が有名です。


それは”持国天立像”、”増長天立像”、”広目天立像”、そして”多聞天立像”です。





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「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 6

今日は”日本歴史の夜明け・外史”の6回目です。


そして”日本歴史の夜明け・外史”(奈良編)の最終回です。


昨日は、主に”東大寺”の”大仏殿”を中心とした説明をしました。今日は、”東大寺”の周辺の施設や様子をご紹介しましょう。

二月堂へ通じる道縦1
この小さな石段は、”大仏殿(金銅)”の北側にあって、普段は観光客が足を伸ばさない場所でしょう。


この石段は、通称”ねこ段”とよばれているもので、この坂を東に登って行くと、”鐘楼”(しょうろう)や、”お水取り”で有名な”二月堂”などがあります。


坂の中央に上方にチラッと姿を見せているのが”二月堂”です。

二月堂2
この画像が、東大寺でも最も重要な行事”修二会”(しゅにえ)を行う”二月堂”の姿です。国宝です。


旧暦の二月に行われ(今は毎年2月20日から3月15日まで)る行事の中で、3月12日の深夜に行われる行事を特に”お水取り”と呼びます。


テレビなどでも”春を告げる行事”として、この”お水取り”の行事を報道することが季節の風物詩になっています。


なお、”二月堂”の前に見える”杉の木”は、”良弁杉”といわれるもので、東大寺創建に力を尽くし初代東大寺別当となった”良弁僧正”の誕生伝説に出てくる””です。


今の”良弁杉”は、実は三代目です。

二月堂3
お水取り”の行事が始まったのは奈良時代半ばの752年(天平勝宝4年)のことです。


つまり”東大寺大仏”さんが完成した年です。今から1260年以上も前のことです。そして、今日まで一度も途切れることなく続いている行事です。


しかし、その長い歴史の中で、その行事が途切れるかも知れないという危機は3回あったそうです。その一回目は、1180年(治承4年年)、平清盛の息子重衡(しげひら)の南都焼き討ちによって東大寺や興福寺などが焼け落ちた時です。


二回目の危機は、室町時代の1567年(永禄10年)三好三人衆と松永久秀の兵乱です。この時も大仏殿が消失しました。三回目の危機は、江戸時代の1667年(寛文7年)、ここ二月堂から出火し焼け落ちた時です。


そして実はもう1回あったといいます。それは”第二次世界大戦”(太平洋戦争)末期、大阪を含めて近隣が太空襲で焼けました。その時に灯火管制が敷かれ、二月堂の戸を全て閉めきって、ロウソクの煙で目をしょぼつかせながら何とか乗り切ったそうです。


何れの時も、東大寺の僧侶たちやそれを支えていた多くの方の努力で、奇跡的に一度も途絶えることなく今日まで続いています。

四月堂4
この画像は、”四月堂”です。


四月堂”という名称は、四月にここで”普賢三昧会”という行事が行われていたことから名付けられました。


現在の建物は江戸時代、1681年(延宝9年)ころに改築されたものです、鎌倉時代や室町時代の古材が使われていて、国の重要文化財です。

法華堂5
この画像は、”法華堂”です。この”法華堂”は、東大寺の諸堂のなかで最も古いお堂です。”三月堂”ともいいます。


旧暦3月に”法華会”(ほっけえ)が行われるようになり、”法華堂”、または”三月堂”ともよばれています。国宝です。


法華堂はもともと大和国(今の奈良県)の国分寺である”金鐘寺”(きんしょうじ)の中の、一院として建てられていたものを、東大寺が創建されてされてからは、東大寺の一院に含まれるようになったものです。

法華堂6
この”法華堂”、左側の本堂(奈良時代)と右側の礼堂(鎌倉時代)との2棟を合体させたものです。(屋根の色が左右で違って見えると思います)


元々右側の礼堂(らいどう)は檜皮葺き(ひわだぶき)でしたが、鎌倉時代になって”重源上人”さんが改修して、屋根を本堂と同じ瓦葺きにし、更に二つの建物の間にも屋根を葺きましたので、南北に長い一棟の建物のようになったのです。

東大寺木の根1
この辺りは、”四月堂”から西に下っていって、”中門”の前にある”鏡池=八幡池”に向かう道筋にあたります。


さて、2日に渡って”東大寺”のことをご説明してきましたが、”東大寺”は”鎮護国家の祈願寺”なので、今でも東大寺では葬式は一切行いません


お墓もありません。東大寺の最高位”別当”を務められた方も、例外なくお墓は別の所にあります。

東大寺木の根2
東大寺は、明治までは”八宗兼学”(はっそうけんがく)といって、”三論”(さんろん)、”成実”(じょうじつ)、”法相”(ほっそう)、”倶舎”(くしゃ)、”華厳”(けごん)、そして”律”(りつ)の南都六宗に、”天台宗”と”真言宗”を加えた八宗を学ぶ”学問寺”でした。


また、他宗との兼学や他寺に行って学ぶことも自由でした。今の大学院のような存在でした。


元々日本という国は”八百万神”(やおよろずの神)を認め、それに仏教も柔軟に受け入れてきた融通性のある国民性を持った民族だと思います。


一つの考え方、思想しか認めないという時代も経験しましたが、その結果は無残なものでした。その時代は、そう遠い昔のことではありません。一つの価値観しか認めないという時代の悲惨さを、私達は決して忘れてはなりません。


このところ、その悲惨で無慈悲な時代に戻らせたいという策謀が、品を変え形を変えて表面化しているように思えてなりません。


声猛々(こえたけだけ)に言い募(つのら)れれている(例えば”積極的○○主義”などという美辞麗句)裏には何が隠されているか?


過去にたどった過ちを、恬(てん)として恥じない人がいるという現実を直視しなければ、私達の子や孫に過酷な運命を背負わせることになるのではないでしょうか?歴史を少しでも学んだ人間の責任が問われる時代になりました。


映画会の”宮﨑駿監督”さんなど有為な方々が、勇気を振り絞って声を上げられました。深く賛同するものです。


さて、この”奈良時代”の人々の”融通無碍”(ゆうずうむげ=一つの考え方や形にとらわれず、自由に考え行動すること)に学びたいものです。


元々、日本という国は”一つのイデオロギー”で固めてしまうという国では、歴史的伝統文化的にはなかったのです。

興福寺東金堂7
最後は駆け足で走り抜けます。この画像は、東大寺近くにある”法相宗大本山”である”興福寺”(こうふくじ)の”東金銅”(とうこんどう)です。国宝です。


興福寺”は、天智天皇の時代に山背国に建てられた”山階寺”が起源という大変古い寺です。


平安時代には摂関家(せっかんけ=摂政や関白を出す家柄)藤原北家の帰依を受け栄えました。

興福寺五重塔8
この画像が、五重塔の中でも有名な”興福寺の五重塔”です。

古都奈良を象徴する塔です。”藤原不比等”の娘”光明皇后”の創建です。もちろん国宝です。

なおここで”藤原不比等”(ふじわらふひと=藤原氏の祖、藤原鎌足の次男)の名前が出てきましたので、書いておきましょう。

恐らく、過去から現代に至るまでに出た”日本最大の政治家”でしょう。もうこの人以上の政治家は出ないのではないでしょうか。

藤原不比等”は”持統天皇”に重用され政治の表舞台に立った人です。

そして”持統天皇”の孫”文武天皇”の後を継いだ、元明天皇(女帝)”、元正天皇(女帝)”という2人の女帝に支えますが、既に”文武天皇”の時代から政治の実権を握っていました。

そして自分の娘”宮子”を”文武天皇”の妃に入れ、”文武天皇”と”宮子”の間に生まれた子を”元明天皇”の次の天皇に就けます。それが”東大寺”の創建に全精力を掛けた”聖武天皇”です。また”聖武天皇”の皇后に自分の娘を入れますが、それが”光明皇后”です。

そして”天皇”を政治の表舞台(実権を持たせない)から遠ざけ、政治の実権を”藤原家”でおおよそ1000年もの間、独占する体制を作った政治家です。

この仕組が現代にまで続いてますから、その意味では日本の国家像を組み立て上げた”大政治家”です。知謀知略の天才でした。

この”藤原不比等”が、「古事記」「日本書紀」編纂、”大宝律令”や”養老律令”の成立に大きな力を発揮します。この事は、後に改めて採り上げることがあるかも知れません。

東大寺南大門の鹿
さて、正月の1日から書いてきました「日本歴史の夜明け・外史」も、この6号をもって終了しましょう。


正月から立て続けに、余り馴染みのない世界を書いてまいりました。


東大寺南大門にいた”鹿くん”に、お別れの挨拶をしようと思って近づきました。


すると、「余り”鹿爪らしい”顔して、難しいこというオッチャン、嫌い!」って言われてしまいました。


「え?エ??”鹿爪らしい”って、それどういう意味?」って問いかけても”シカと”されてしました。慌てて意味を調べてみたという訳です。((まじめくさっていて堅苦しいという意味でした・・・・・・)


この”鹿くん”のように、皆さんには嫌われないよう、分かりやすい記事を目指していきたいと考えていますので、「今年も、この”ブログ”よろしくお願い致します」




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「再訪 193 キッチン・スプーン」・「愛媛グルメ紀行」 654

今日ご紹介するお店が、”愛媛グルメ紀行”シリーズの、今年の幕開けです。


その、年の初めにご紹介するお店として選んだのは、久万高原町直瀬(なおせ)にあります”キッチン スプーン”さんです。


このお店は、昨年4月23日に初めてのご紹介をしています。(「キッチン スプーン」・「愛媛グルメ紀行」 514


このお店をご紹介いただいたのは、久万高原町に在住され、ご主人は木工師、奥様は漆師という”兒玉ご夫妻”です。

冬景色1
久万高原町直瀬に向かう途中の風景です。


霜が降り、遠くは霧が立ち込め”冬景色”の様相で迎えてくれました。


予約の電話を入れます。冬の時期は””の心配があります。このお店は、電話予約の時から、既に店主さん兼シェフさんの”おもてなし”が始まります。


昨年話題を呼んだ、あるイベント会場でタレントが笑顔で言った「オ・モ・テ・ナ・シ・」という程、浮ついたものでも軽いものでも言葉だけでのものありません。ホンモノの”おもてなし”です。以下にその内容をご紹介しましょう。


「Hさん、お久しぶりです、ご予約ありがとうございました。先ず””についてですが、ご予約頂いた日の午前10時までに、私が一度”直瀬”から国道33号線まで車で走ってみます。」


「そこで、””が降っていて、車でお越しいただくのは危険と判断しましたら、Hさんの携帯電話に午前10時にお電話差し上げます。電話がなければ安全とお考え下さい」っと、天使の囁(ささや)きのようなお声でおっしゃいます。


店主さん兼シェフさんは、お客さんAではなく、必ずお客さんの苗字で呼ばれます。(予約なしで初めてお店に行かれた方をどう呼ばれるのかは、わかりません)

玄関2
こちらがお店です。お店は道路よりやや高い所にあって、眼前に”直瀬”の自然が広がっているというロケーションです。


キッチンスプーン”さんの女性店主兼シェフさん、御自身でも”ブログ”を書いていらっしゃいます。(Kitchen spoon blog


その”ブログ”の2013年12月1日の記事で「加藤さんの服」という題名の””を綴っておられます。一度その””を読んでいただければ、店主”姫野”さんの瑞々しい感性を感じ取ることができると思います。


このお店は「(直瀬の) 山の恵みを あるがままの ひと皿に」という思いを込めて開かれました。
(  )内の言葉はワタシが付け加えました。


このお店の左手にある”小窓”。前回訪問した時、私はこの小窓で感動の極みに追い込まれました。そのシーンを、今でもアリアリと覚えております。(前回記事をご参照頂ければ幸いです)


まるで、”映画のラストシーン”の様な情景がそこに展開されたのです。今回の訪問は、その”ラストシーンの続編”です。

外コーヒー3
お店には、天候の急変のことなども想定し、やや早めの午前11時に到着しました。


姫野さんは、まるでワタシが昨日も来ていたかのような”笑顔”を浮かべられ「Hさんようこそいらっしゃいました!Hさん、私今から丁度コーヒーを飲みたいと思っているんですが、ご一緒に飲んで頂けますか?」っと。


ええ、喜んで!」っと答えたのは言うまでもありません。そしてこう付け加えました。「姫野さん、今日はこの時間、珍しく外が暖かで、お日様も微笑んでいるようです。そのコーヒー、外のテラスで頂いてはいかがでしょう?」っと。


ええ、いいですね!私、こういう季節の”陽だまり”でコーヒーを頂くのって大好きなんです」っと、外のテラスに出られました。


2人でコーヒーを飲みながら、自然と人との関わり、環境のこと、人と人の縁が紡ぐ幸せ、チベットの話など、話題は多岐に渡り尽きることはありませんでした。


コーヒーカップを御覧ください。決してお客様用のカップではありません。このコーヒーを楽しむ時間帯は、店主さんと客という立場ではないことを、このカップにさり気なく込められている、そう感じました。

てんとう虫4
テラスとお店の中との間の厚いガラス窓に”てんとう虫”さんがやってきてくれました。てんとう虫さんがとまっているガラス窓に反射して写っているのは、外のテラスです。


姫野さんは、食事の準備に厨房に戻られました。外で一緒にコーヒーを頂いた時間は30分位でしたが、すっかり”直瀬”の自然の空気や陽だまりの暖かさを満喫出来ました。


2人で外のテラスに出た時に、姫野さんはこう言いました。「Hさん、このお店は午前11時からです。でも、11時にいらっしゃって頂いたお客様、果たしてその時刻にお食事をなさりたいのかしら?まだお腹は減っていらっしゃらないのじゃないか?って思ったんです」


「そこで、午前11時にお一人でお店に来て頂いたお客様で”いいよ!”と言って頂いた方とは、コーヒーをご一緒していただこう!ってこう思ったんです。私はコーヒーが大好き。でもお食事の準備に一段落ついて、コーヒーが飲めるってこの時間になっちゃうんです」っと。

メニュー5
こちらがメニューです。昨年春にお伺いした時は、”ランチメニュー”をご用意なさっていましたので、そちらをいただきました。


でも今はお客さんも増え、お昼にゆっくり”ランチメニュー”を、という時間的余裕が無くなったそうで「冬の、雪が積もっている頃、やはりお客様の数が減ります。その時にはまた”ランチメニュー”を復活させよう!って、そう思っているんです」と、姫野さん。


ワタシの後から、1組のご夫婦と一組の子供連れのご夫婦がお店に来られました。


注文したのは”冬のごちそう ライスグラタン”、お値段1000円です。サブタイトルに、「豆乳と米粉のホワイトソース 8種野菜とお米のチーズグラタン」とありました。

薪ストーブ6
この地域では、画像の”薪ストーブ”は必須です。このお店は、2012年9月に開店なさいましたから、開店後1年を越えたばかり。


「最初の冬を超す時でした。まだ”薪ストーブ”の使い方を知らなかったんです。長くここに住んでらっしゃる方は、ストーブで燃える炎で薪の状態が分かるんです。でも、その時私はまだ薪に火をつける、点け方さえ分からなくて」っと姫野さん。


「雪が積もっている日に、ご近所の方が<オーーイ、生きてるかーー?>って訪ねていただいたこともあったんです」っと、言いながら”薪ストーブ”に薪を入れ、火をつけられました。


その話を聞いて、父が凍てつく大地”大野ヶ原”で『零下十三度』という詩を詠んだ時のことを思い出しました。(「父を偲ぶ」 1

ライスグラタンセット7
さて、これが「豆乳と米粉のホワイトソース 8種野菜とお米のチーズグラタン」というサブタイトル付きの”冬のごちそう ライスグラタン”です。


8種野菜です。蕪(カブ)、長芋、ゴボウ、人参、ジャガイモ、かぼちゃ、蓮根(レンコン)、小松菜、長ネギ、白いんげん豆と黒豆(鞍豆とも言うそうです)っと、少なくともワタシが確認できただけでも8種を遥(はる)かに超えています。


このメニューにつきましては、姫野さん御自身がブログでその詳細をご説明なさっています。(ごちそうライスグラタン)手間暇が掛かっているのです。


お米は毎朝5分つきに精米して、雑穀といっしょに炊いてあります。野菜にしても、それぞれの素材の味をギリギリまで引き出すために丁寧に下処理をされています。


蒸焼にされたり、油で素揚げされたり、塩茹でされたり、オイル煮されたり、素材の持味を知り尽くしていなければ出来ない下処理です。

ライスグラタン8
最初の頃はね!」っと、姫野さんは話されます。


「8種野菜のバランスとかを考えていたんです!ところが、旬(しゅん)のものを使うと自然とバランスが取れることに気がついたんです」っと。


「レンコン以外は、ぜーーーんぶ、直瀬で採れたものです」っと天使の笑顔。


まだチーズが「フツフツ フツフツ」と音を立て、湯気が立ち上り、チーズの香りが辺りに充満します。ライスグラタンにスプーンを入れる前から、「ご馳走様!」って言いたくなるんです。

山芋9
こちらは、香ばしく焦げたチーズから取り出したばかりの”根菜類”、ひょっとしたら”山芋”かも知れません。


それぞれの食材に固有の、適度な硬さや柔らかさが見事に表現されています。形も色も、持ち味のままです。


この”根菜類”は、やや歯応えがあるくらいに固茹でされていました。でも、地下に根を這わせて、大地からたっぷりの養分を私達に伝えてくれる役割をシッカリと果たしてくれています。


豆乳と米粉のホワイトソース”が、マッタリと絡んで、ウフフフ  ウフフフ・・・・自然に笑顔がこぼれます。

ネギ10
こちらは、”長ネギ”の根本の部分。


ちゃんと、事前に焼かれて”ネギ”本来が持っている甘さをギリギリまで出し切られました。


フーフーと息を吹きかけながら歯を立てますと、何層にも重なったネギの繊維がヌルっと層の上下が入れ替わって、ネギの甘味が口中に充満しました。

小松菜11
この”小松菜”の瑞瑞(みずみず)しさを、まあご覧になって下さい。


”小松菜”は、そのシャキシャキ感を残すために下処理として”塩茹で”されています。もちろん、”小松菜の緑”を活かすためでもあります。


焦げが香ばしいチーズの下に、豆乳と米粉のホワイトソースが層厚く盛られていますが、その下からこんなに””が映える葉物野菜が顔を出すと、誰が想像できるでしょう?


まるで、春先に地表を突き破って新芽を力強く伸ばす”フキノトウの緑”ではありませんか。(緑色の種類は多少違いますが)

豆12
「私、お豆さん、だーーーい好きなんです!」っと姫野さん、微笑まれました。


そのお豆さん、本日は”白いんげん豆”と、”黒豆”(馬に付ける鞍に形が似ていることから”鞍豆”ともいうそうです)が、それこそゴロゴロ状態で入っています。


完食しました。満足し切りました。一体どれほどの微笑みを与えて頂いたことか。お勘定をして、お店の外に出ました。お勘定を済ませた時、姫野さん、ワタシの手にご自分で焼かれた”スコーン”を1個、そっと手渡して頂きました。


また、”あの小窓”から満面の笑みで手をふられるのだろうか?っと、期待して車をスタートさせました。ところが、あの”笑みの小窓”は開きませんでした。


後2組のお客さんが残っています。そういう時は無理もないだろうろと、お店を離れようとしたその瞬間でした。


何と、身を乗り出すようにして両手を大きく振って満面の笑みをたたえた姫野さんが、コーヒーをご一緒したあの”テラス”にいるではありませんか。


映画のような”ラストシーン”は、まだ終わっていなかったのです。お店に入ってから、全身でお見送りをされる姫野さんの姿を目にするまでの2時間10分、文字通り”至福の時”でした、”朱雀の味”でした。


姫野さんのおもてなし”は、余韻付きだったのです。




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「再訪 194 堀江港 みなと食堂」・「愛媛グルメ紀行」 655

今日は”愛媛グルメ紀行”で、4回ご紹介することになる堀江の”みなと食堂”さんをご紹介ましす。


今まで4回ご紹介するお店は、通算655号の中で12店目になります。


このお店は過去、以下の通り3回ご紹介しています。(「堀江港 みなと食堂」・「愛媛グルメ紀行」 277)・(「再訪39 堀江港 みなと食堂」・「愛媛グルメ紀行」 384)・(「再訪 107 堀江港 みなと食堂」・「愛媛グルメ紀行」 523

ソフトクリームと玄関1
こちらがお店の玄関です。お訪ねしたのは昨日です。


なぜ、その寒中の中で”ソフトクリーム”をバックに玄関を撮影したのか?は最後に。


このお店を初めてご紹介したのが、2012年5月1日でした。最初の訪問の時から、このお店の三代目さん、胸襟を開いてお話をして頂きました。


それ以降昨年と今年、”年賀状”を毎年頂いております。今年も頂いたので、”年賀状”のお返しの意味も含めて年明け早々にお訪ねしたという訳です。

店内2
お訪ねした日は8日、昨日は水曜日です。平日というのに、店内はあら方お客さんで埋まっていました。


ここ”みなと食堂”が産声を上げたのは、堀江港と本州の仁方港でフェリー航路が開始された翌年の昭和41年のこと。(今年で開業48年)


その後、昭和和57年7月1日に、赤字を理由に航路が廃止され”堀江港”は寂れました。


更に追い打ちを掛けるように、松山と北条を結ぶ196号線が現在のバイパス道路に付け変わり、車と人の流れから完全に取り残された”堀江港”です。

メニュー3
ところが、一時期お客さんの減った時期もありましたが、フェリー港があった往時を凌ぐお客さんがこのお店を賑わしています。


常識ではあり得ないことが、このお店で起こり今も続いているのです。


笑顔で出迎えていただいた”三代目”さんに、”年賀状”のお礼を告げましたところ「いやーーー、実は今朝のこと、ブログを拝見して、今頃お元気になさっているだろうか?って考えていたとこころだんですよ!」というお返事。


こういうお話は”ブロガー冥利”に尽きるお話です。ありがたいことです。

肉うどん4
さて、これが注文した”肉うどん”、お値段480円です。内税です。


三代目さんに話しかけました。「4月に”消費税”が上がります。こういうお店では大変なことですね!」っと。


すると三代目さん、こう仰っていました。「ええ、そうなんです。でも、ただ単に”消費税”が上がったから、その分お値段を上げさせていただきます!では、ウチのようなお店は通用しないと思うんです」っと。


そして「消費税分を値上げしない訳にはいかないでしょうけど、その分どういう内容のお料理をお出し出来るか?価値を高めないと値上げなんてできません!」っと。


消費税のアップ”を、政府の責任と言うのは簡単ですが、それを言い訳にせず、その分だけメニューに反映させようと工夫と知恵を重ねられています。


これが、フェリー便廃止や国道路線の変更を言い訳とせず、ダタひたすら自分のお店の味を磨かれて現在がある、その姿です。

肉うどん5
このお店の”潔い覚悟”と、”不断の努力の積み重ね”と、そしてもう一つは”先々代が作り上げた味を妥協することなく守り通す”という決意。


これが、普通の日の昼下がり、客が途絶えない秘密でしょう。決して言い訳なさらないのです。


そういう覚悟を、何の力みもなく笑顔で淡々と語る”三代目”さんの、あの”眼の煌(かがや)き”がワタシは大好きです。


画像の”肉うどん”だって、何の衒(てら)いもない。実に淡々とした佇(たたず)まいです。


でも出された瞬間から、”出汁”の品のいい香りに周囲が満たされます。喉が、はしたなくも鳴るのです。

ネギアップ6
もちろん、このお店は”食堂”ですから、メニューにはカレーライスだってオムライスだって、各種丼モノもひと通り以上に揃っております。


イヤイヤ、居酒屋と言ってもいい程に”酒の肴”だって豊富なラインナップを飾っています。焼き飯だって焼きそば・焼きうどんなど、思いつくものはほぼ何でも揃っています。


でもワタシが個人的に思うのは、このお店が圧倒的存在感を放つのは、”中華そば”と、”鍋焼きうどん”を筆頭とする”うどん類”、それに何と言ってもワタシが”松山一”と言い放つ”巻き寿司”(お店では、まきずし)でしょう。


この三種は、このお店に来なければ決して他では味わうことが出来ないものです。

肉アップ7
この”肉うどん”の”牛肉”だって、決して霜降りでも、牛筋でもなく、極々ありふれた”牛の細切れ肉”です。


ところが、この”牛肉”からも、得も言われぬ(ありふれた言葉で言い様もない)旨味が滲み出しているのです。


イリコ等の魚介と、牛肉のダブルスープ。ありふれたお店なら、それを壁面に”能書き”として大書するでしょう。


でも、何一つ言葉で大言しなくたって「旨いものは、ただただ旨い」のです。それを分かっているからこそ、今や辺鄙な場所になったこのお店にお客さんが詰めかけるのでです。


自分の店の味に自信がないお店こそが、外壁や看板や店内のアチコチに呆れるほどの”能書きを大書”するもものです。

麺8
”だって、在り来りの麺で、製麺所から仕入れているものかも知れません。


とことが、この””が一度(ひとたび)出汁と加薬(かやく=具材)に出会うと、一瞬にして輝きを増すのです。存在感を無言で示すのです。


この”肉うどん”で、特に優れて唸らされるのが”出汁”です。もう絶妙の”甘旨さ”を表現して余すところありません。


人によっては”腰なしのヤワヤワ麺”ではないか!っと言われる方もいらっしゃるでしょう。


でも、仮にそういう方がいらっしゃったら、「もうちょっと”麺道”を極めてから、出直していらっしゃい!」っと、ワタシは言います。

完食9
かくして、”完食”です。トーーーーーーゼン、でしょう。


このお店の場合、”出汁”を残すのは罪だとさえ思っていますから。


第一回目のこのお店の記事は、ワタシの”畏友”(いゆう=尊敬している友)の”ジンゴズンゴ”さんの以下の記事に触発されて書いたものです。随分古い話になりましたが。(『みなと食堂』は永遠に不滅でしょ!!!


ワタシはこの記事に接した時、これだけ精緻で詳細で、かつ”意を尽くした”記事は到底書けない!ということに思いが至り、衝撃を受けました。今でも忘れられません。


そこで、とことん考えました。「自分ならどう書けるか?」そこから考え出したのが、お店の懐に一歩飛び込んで、お店の方の生の声や息吹を捉える。そこから人との””を求める。


今ワタシが書いている”愛媛グルメ紀行”の記事のスタイルが確立した、記念すべき第一号の記事を引き出して頂いた、そう考えています。ワタシの記事の恩人です。


このお店に関する記事も含めまして、今では世代を超えた””となっていただいた”ジンゴズンゴ”さんに、この記事を捧げます。ありがとうございました。

ソフトクリーム10
勘定を済ませるとき、繁忙時間帯の”三代目”さんとお話する僅かな時間がありました。


実はこの画像の”ソフトクリーム”、元々好きな食べ物ではありますが、”三代目”さんとの会話の時間を僅かでも引き延ばしたいがための苦肉の策でもありました。


忙しい店内で幾ら旧知の仲とは言え、気軽に話しかけることは控えるのがマナーだと思っています。


ですから、ソフトクリームを三代目さんが目の前で作っていただいた、その”朱雀の時間”を稼ぐための注文。でも、この”抹茶ソフトクリーム”、ウン、甘かった!


画像は、その”三代目”さんに我儘言って、手に持ってもらって撮影した”抹茶ソフトクリーム”です。


かくして、冒頭の玄関風景と相成りました。





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「ラーメン 一興」・「愛媛グルメ紀行」 656

今日は、立花3丁目の住宅街の中にある”ラーメン 一興”さんをご紹介しましょう。この場所に、こういうお店があることは知りませんでした。


知ったのは、ブログ友:”乱 駆郎”さんの以下の記事でした。(じわじわマイブームな一杯


それでiPhone5のメモ欄に書き込み、やっと訪問出来ました。

玄関1
このお店、通りがかりに入るというお店ではありません。


知っている人が、知っている味を求めてわざわざ行くお店でしょう。


国道33号線を市内から南下し、伊予鉄横河原線の立花駅踏み切りを越えた辺りから、普通の狭い路地を西に入っていくんです。

店内2
その住宅密集地の細い路地の先に、このお店があることを知っている人だけしか来ません。


ところが、ここにこのお店があることを知っている方の、まあ多いことと言ったら。呆れるほどです。


この地にお店を開いて、既に12~13年と言います。お店の中に入ってみますと、お店の中からお客さんが車で来たのか?歩いて来たのか?


或いは何人で来たのかが見える仕掛けになっていて、「お客さんの車が入りましたー!」っという、店内フロアー係の大きな声。

メニュー3
このお店は、お客さんがお店に近づいた瞬間からお店の中に入るまでに、フロアー係の「何名様、入りまーーーす!」っという掛け声に、厨房内の2人がほぼ同時に同じ言葉を唱和します。


お客様がお店に入る前から、お水の準備などが終わっていて、お客さんがお店に入って席に着いた瞬間に人数分だけ”お冷”(その日は麦茶?)が運ばれて注文を聞かれます。


客が注文を告げますと同時に、フロアー係の「”モトバリ”!フツー!」っと言った超短縮形口調で、メニューと麺の茹で加減や他の注文などが発せられます。


その若々しいリズム感たるや、お見事!です。

カウンター4
カウンター席の、調味料や香辛料、或いは”博多ラーメン”に付き物の追加具材、”高菜”、”唐辛子豆モヤシ”、そして”千切り紅生姜”の入れ物が、乱れの一つもなく、整然と並んでいます。


些細なことですが、家業でお父さんとお母さん、おじいちゃんとおばあちゃんが細々とやっているお店以外は、”かくありたい”ですね。

三骨塩ラーメン5
さて、注文したのは””さんが「何気にハマってる」という”三骨塩ラーメン”です。お値段は650円。


この画像のラーメン、初めて見る外観をしていました。


博多ラーメン”を名乗っておられて、麺の茹で方も”粉おとし”、”はりがね”、”バリカタ”、”カタ”、”ふつう”、”やわ”の6種類あります。


どこか、松山に進出されている”博多一風堂”さんによく似ています。”元味”などというメニュー表現は瓜二つです。


ただお昼に掛けて、客が一斉にたてこんできましたので、このお店の由来などをお伺いするチャンスはありませんでした。

三塩ラーメン6
ワタシは、元々”豚骨ラーメン”は大の苦手としていました。


しかもスープの味は、”醤油ラーメン”しか価値を認めないという時代が長く続いていました。


ところが、”愛媛グルメ紀行”シリーズを書き続けている過程で””さんと知り合いました。その過程で”豚骨ラーメン”が体に馴染んできました。


おまけに、北条にある”北条カザハヤ ラーメン改 三宝亭”さんで”塩ラーメン”の、真っ当な美味しさに開眼しました。(「北条カザハヤ ラーメン」・「愛媛グルメ紀行」 239


ワタシの食味の視野を広げていただいた””さん(門前雀羅)さんと、現”三宝亭”さんにはひたすら感謝します。

アップ7
さあて、このお店のこの”三骨塩ラーメン”の最大の特徴は、画像の中央にドーーーーンと控えている”お肉”でしょう!


一般的にラーメン、或いはチャンポンに添えられているお肉といえば”豚肉”、それも”チャーシュー”もしくは”豚バラ”でしょう。


でも、見た目、このお肉”豚肉”には見えません。そうです!どうやら”牛肉”が使われているようです。早速食べてみました。


こういう調理法では初めて味わうお味だったので、厨房の方に「これは牛肉だと思うんですが、どこの部位を使っておられるんですか?」っとお聞きしました。


すると「はい、牛肉です。部位は””を使っています!」っと言うお答え。これで、この”ラーメン”に”三骨”と名付けられた意味がある程度分かりました。


牛肉の部位で””のことを、別名”三角バラ”と言ったりします。つまり”角バラ”の””と、”豚スープ”の””を合わせた造語ではないでしょうか。


なおこの部位”三角バラ”は、第1~6肋骨の部分を三角形に切った形になっているからその名が付きました。またこの部位は、”特上カルビ”などとして焼肉屋さんで出される”バラの中の王様”です。


ラーメンの分野では初めて味わう味でした。道理で”旨い!”訳です。なお、”豚骨塩”のスープも絶品でした。喉ほってでも”旨い!”っと言わしめるスープです。

高菜ともやし投入8
ワタシは人類ならぬ麺類を自認しています。でも、器に入って出されたラーメンなりうどんなりに、胡椒や七味など、テーブルに置かれている”香辛料”の類(たぐい)はまず使いません。


でも”博多ラーメン”となると、話は別です。追加具材としてテーブルに用意されている”高菜”、”唐辛子豆モヤシ”、そして”千切り紅生姜”の中から、”高菜と唐辛子モヤシ”を選択して投入しました。


すると、豚骨スープが塩味で整えられ上品にすら感じたスープが、一転して”ワイルド”に変身しました。


高菜の発酵した深みのある酸味と、モヤシのナムル、その唐辛子のピリカラ感がなんとも言えず刺激的なんです。

麺9
”はお約束通りの極細ストレート麺。大きな釜に投入すると、直ぐに茹で上がります。


ワタシは硬いのは苦手なので、硬さでは下から2番目の”ふつう”を選択しました。色々と写真を撮っていますと、麺が”やわ”になっちゃいましたが。


でもスルスル、スルスルと、いくらでも入りそうでした。コレなら大盛りだっていけそうだ!っと思わせる旨さ!


丁度、正午になりました。ふと気がついて周囲を見渡すと、いつの間にかほぼ満席になっていました。


何時もなら周囲の状況を注意深く観察するのですが、今日は珍しく目の前の”三骨塩ラーメン”を食べることに集中しきっていました。没頭していました。そのくらいに美味しかった!

完食10
え??っと気がついた時は、既にスープの最後の一滴まで飲み干しての”完食”でした。


うーーん、””さんのように嵌りそうな感じが!


少なくとも”角煮のせしょうゆラーメン”と、普通の博多ラーメンメニュー中の”あっさり元味”の二品は試したくなりました。うーーーん、今日は収穫大き日となりました。大満足でした。




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「愛媛グルメ紀行」を振り返る 90

今週の土曜日も”愛媛グルメ紀行”シリーズを振り返ってみましょう。

今日振り返るのは、昨年の春頃にアップした268号から270号までのお店です。

先ず最初”に振り返るお店は、昨年4月16日リーズ268番目のお店、花園町にある”とん吉”というお店です。(「花園町 とん吉(これはちょっと・・・)」・「愛媛グルメ紀行」 268

まあこのお店ほど、”言語道断”だと思ったお店は、この先も含めて唯一無二でしょう。

どう”言語道断”なのかは、元の記事を見ていただきたい。

玄関1
既にお店の玄関横にある”排気口”、尋常の汚さではありません。店内の不潔さ、汚さを見て、これが”飲食店か?”と目を疑いました。

汚れ7
でも、このお店の”言語道断”さは、お店の汚さが可愛く映るほどです。なお、このお店では、お料理の画像は採り上げません。お料理以前のお店だからです。

ワタシが席に着いた途端に厨房の中で店主の”怒号”が飛んだ!

バカー!もう見たンかアー、何時もユートルヤロガー!!お前なんか要らんのヤー、辞めたらいいんヤー!」

「こら、バカがー、ハヨー皿を出さんカー、何回ゆーたら分かるンゾー!バカがー!!

もう聞くに堪えられない”醜い雑言”が延々と続きます。3人の従業員(内1名は女性)は、ずっと顔を伏せたまま黙って耐えています。

この後、ワタシは席を立ち上がって店主に向かって言いました。

アノー、ワタシは客ですが、さっきから貴方の罵詈雑言を聞いていて許せないと思うので言います!」っと。

ワタシは、このお店に食事をしに来たのであって、貴方のその口汚い罵りを聞きに来たのではないですよ」とは、ワタシ。

当然このお店”再訪しません”。その価値の一欠片(ひとかけら)も感じなかったからです。


二番目”に振り返るシリーズ269番目のお店は、昨年4月11日にご紹介した、今在家町1丁目にある”BERRY AMOOL(あむーる)”さんです。

場所は、来住町の農免道路沿いにある”ドラッグストアマック久米店”と”愛媛銀行来住支店”の間の道路を西に入ると、今は閉鎖している大きなビニールハウスが右手に見えます。

玄関2
お店自体は、この地でもう20年以上前からありますが、”バラ園”が閉鎖され、更に今の経営者に代わったのが6年前とのことです。

住宅街の真ん中にあって、主要な道路に面しているわけではありませんが、それでも大型の店舗として地域ではよく知られたお店です。

喫茶メニューが中心のお店ですが、マスター手作りの”ランチ”を出すお店としても名が通っています。

ランチ5
さてこちらが”プレートランチ”です。

チーズハンバーグとエビフライ、そしてサラダにライスにミソスープという構成です。

可愛いでしょう。一枚のお皿にこじんまりとまとまっていますね。お値段は750円です。

”ライス”も”お子様ランチス”タイルで、今時珍しい”型抜きライス”です。

そうなんです、このライスの頂上に小さな万国旗を掲げたら、まさに、小さい頃三越の食堂で食べた”お子様ランチ”です。

でもこのお店は”再訪しません”。やはりワタシには喫茶店で食事をする習慣がないからです。


最後”に振り返るお店は、昨年4月18日にシリーズ270番目にご紹介した、”はなみずき通り”から一本西に入った古川北3丁目にある”ラーメン くーた(はなみずき店)”さんです。

”ラーメン くーた”さんは、大分県大分市に本部がある株式会社温という会社が手がけるフランチャイズチェーン店です。

愛媛県内には、このお店の他に国道56号線沿いの”土居田町”にもう一店舗出されています。(この記事を書いた現在で)

玄関2
こちらがこのお店の玄関です。”はなみずき通り”はご承知のように有力飲食店がひしめく、松山でも有数の飲食激戦区です。

ですから、一本西に入ったこのお店は、開店当時の集客力はやや衰えてきたようにもお見受けしますが、根強いファンに支えられています。

このお店のウリは、やはり九州系のお店らしく”豚骨ラーメン”で、豚骨系のラーメンなら”替え玉無料”がセールスポイントの一つでしょう。

ちゃんぽん5
さて、こちらが注文した”ちゃんぽん”です。

豚骨スープ系の乳白色の色をしたスープにたっぷりの野菜が入っています。スープの香りには、豚骨スープ特有の匂いはまったくありません。

むしろ、野菜の甘い香りが立ち昇っていて食欲をそそられる匂いです。お値段は760円(内税)です。

そして何よりも、”スープ”が絶品でした。

野菜から抽出された自然の甘さがスープに溶け込んでいて、豚骨スープにすっかり馴染んでいるのです。

ひょっとすると、今まで食べた”ちゃんぽん”のスープの中で一番に美味いスープかも知れません。

従って、既に”再訪しました”。(「再訪 130 ラーメン くーた」・「愛媛グルメ紀行」 556)これからの訪問につきましては未定です。





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「過去記事を振り返る」 1

今週の日曜日からは、今まで書いてきた”過去記事”の中から、自分が好きな記事を選んで”再掲”しようと思っています。


ただし、何時ものワタシらしくない不定期でアップします。


この記事で通算”1746号”です。


ただ、現在ワタシのブログを見て頂いている方でも、ワタシが実質筆を取り始めた2009年11月2日の「秋ですね」(4年余り前)以降書き続けてきた過去記事まで目を通される方はいないと思います。(ただし、現在お二人が過去記事読破に挑戦中です)


書き始めた頃は、画像なしで”エッセイ風”のものを書いていました。それに、その季節にあった画像を添えてみようと思います。画像と本文は、従って関係ありませんので画像の説明はしません。


それでは、以下、”過去記事再掲”です。


「秋ですね」 (2009年11月2日掲載)

四国ももう秋の鳥羽口。

四国山地にも紅葉が始まってきました。

渡り鳥たちも南への帰り支度を始めたようです。

紅葉
昨日の天皇賞、尻尾に可愛いリボンをつけた牝馬の”ウォッカ”、3着に沈んじゃいましたね。

馬券を買わなくても、声援だけは一杯送っていたのに。牝馬(ひんば=雌の馬)を負かせちゃ可愛そうでしょう、

と、女性群にに弱いワタシはつぶやきながら、今日も不動産の色々な相談事に東奔西走です。

行ってきマース。


っと、マーー、たったこれだけの記事からスタートしました。この記事は、内容がどう?というより、”ブログ”とは何か?も知らずに書き始めた、実質第1号の記事なので”再掲”しました。



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「愛媛の歴史特別編」・「京都 知恩院と仁和寺」 7

今日からは、今までのような堅苦しい”歴史物”ではなく、京都を中心にした単なる”名所旧跡案内”です。

歴史的な話からは離れることは出来ませんが、お気軽に見流していただけたら嬉しいです。


今日は”知恩院”(ちおんいん)と”仁和寺”(にんなじ)をご紹介しましょう。


先ず”知恩院”です。

知恩院三門1
知恩院”は、京都府東山区にある”浄土宗総本山”で、浄土宗ですから当然に”法然上人”(ほうねんしょうにん)が開祖です。


浄土宗の宗祖である”法然上人”が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院です。


今のような大規模な寺院になったのは、江戸時代以降のことです。

知恩院三門2
画像は、”知恩院”の”三門”です。この”三門”は、徳川幕府二代目将軍である”徳川秀忠”の寄進で建立されたもので、1621年(元和7年)に建てられたものです。


三門”とは、”三解脱門”(空門・無相門・無作門の三境地を経て仏国土に至る門)の意味を持っています。


この”三門”正面に掲げてある「華頂山」(かちょうざん)という山号の勅額(ちょくがく=天皇が書いた扁額という意味)は、霊元天皇の筆になるものです。


なおこの”三門”、平成14年に国宝に指定されました。

知恩院阿弥陀堂3
この画像は、上に書きました”三門”を上がって直ぐ左手にある”阿弥陀堂”です。


本尊である”阿弥陀如来坐像”が安置されています。


この建物は明治時代の再建ですが、正面に掲げられている「大谷寺」という勅額は、後奈良天皇の筆になるものです。

多宝塔4
この画像は、”知恩院”の”多宝塔”(たほうとう)です。


多宝塔”とは、寺院建築のうち”仏塔”における形式のひとつで、裳階平面が方形、中央部平面が円形のものをいいます。


二層の屋根の内、上の屋根を支える中央部が丸くなっていますね、これが特徴です。

知恩院本尊5
この画像は、”阿弥陀堂”に安置されています”知恩院”の本尊”阿弥陀如来”です。


阿弥陀如来”とは、無明の現世をあまねく照らす”光の仏”であって、空間と時間の制約を受けない仏とされています。また、西方にある極楽浄土という仏国土(浄土)を持つ仏でもあります。(東方に極楽浄土を持っている仏が”薬師如来”です)


なおここ”知恩院”は、徳川家が特に力を入れて帰依し拡大しましたが、その意図は、先ず徳川家が浄土宗徒であったこともあります。


しかし、更には京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われています。


なおこの”知恩院”には、”千姫”のお墓があることでも知られています。



次は”仁和寺”(にんなじ)です。

仁和寺二王門6
この画像は、”仁和寺”(にんなじ)の”二王門”です。国の重要文化財に指定されています。



仁和寺”は、京都府京都市右京区にある真言宗御室派総本山の寺院です。開基(創立者)は”宇多天皇”です。


「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されています。


仁和寺”の開基である”宇多天皇”のことは、「松山の地名・町名由来」の22番目に触れています。(「松山市の地名・町名由来」・ 「今出地区・菅沢町」 22


つまり、松山の地名・町名で多くの由来を残した”菅原道真”の才能を見出し、抜擢した天皇です。


抜擢された菅原道真は、結局藤原家にその出世を妬まれ、讒訴(ざんそ=他人を落としいれようとして事実を曲げて言いつけること)されて九州の大宰府に左遷され、その地で58歳で生涯を閉じています。

仁和寺仁王像7
この画像と下の画像は”仁和寺”の、仁王門”にある”仁王像”です。


こちらの画像が、口を閉じた”吽形像”(うんぎょうぞう)です。


仁和寺”は、皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の”宇多法皇”がこの寺にお住いになったことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称されました。

仁和寺仁王像8
こちらの画像が、もう一つの”仁王像”で、口を開けた”阿形像”(あぎょうぞう)です。


”仁和寺”は”宇陀天皇”開基後も、皇族や貴族の保護を受け明治時代に至るまで、皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務めたお寺です。


しかし、室町時代にはやや衰退して、”応仁の乱”(1467年~1477年)で伽藍は全焼しましたた。江戸時代に入って、寛永年間(1624~1645年)、徳川幕府により伽藍が整備されました。

仁和寺金堂9
この画像が、国宝に指定されている仁和寺の”金堂”です。


現在の”金堂”は、 慶長18年(1613年)に建立された旧皇居の正殿・紫宸殿を寛永年間(1624~1645年)に移築したものです。


なお”紫宸殿”とは、天皇が在所する御所の中心的建物を言います。

仁和寺五重塔10
さてこの画像が、仁和寺の”五重塔”です。国の重要文化財に指定されています。


寛永21年(1644年)の建立で、高さが36.18メートルあります。


”東寺”の”五重塔”と同じく、上層から下層にかけて、各層の幅に余り差がないのが特徴です。


さて次回1月20日は、京都の”南禅寺”と、その近く”哲学の道”を通って直ぐの所にある”南禅寺水路閣”をご紹介しましょう。




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「烈骨神麺・ラーメンAJI10(あじと)」・「愛媛グルメ紀行」 657

今日は大洲市東大洲に、昨年11月23日に開店したばかりの、新進気鋭のラーメン屋さん”烈骨神麺・ラーメンAJI10(あじと)”さんをご紹介しましょう。(訪問日は、昨年12月8日)


このお店は、ブログをリンクしたりお気に入りに登録している、以下のお二人(”大洲のひで”さんと”おっさん”さん)の記事に誘われました。(11月の大洲花園会。2次会は必然の「烈骨神麺 AJI10(アジト)」。サイドメニューと鶏白湯ラーメンの美味しさにやられた!)・(大洲の新進気鋭のラーメン店オープン!  AJI10


国道56号線沿いにあって、最近”南予地区随一の商業集積”が進んでいる地区で開店されました。

玄関1
こちらが、国道56号線に面しているお店です。


お店の玄関脇には”ヒノマル製麺大洲工房”の看板があって、麺は”自家製麺”であることが分かります。


創業は、”弐千拾参年”っと重々しく、看板に焼入れされて表示されています。経営陣の意気込みが、まあ迸り出ているではありませんか。

箸箱2
お伺いしたのは、開店後1ヶ月を経ていない日曜日の正午前でした。本来、ワタシが取材する日時ではありませんが、郷里に用事を作った帰り道にお寄りしました。


玄関を入ると、待席に既に人・人・人。ウエイティングシートに名前を書いて、立って順番を待ちます。


ただ回転がいいので、余り待たずにカウンター席に案内されました。店内の活気は、予想を遥かに超えるものでした。


既に店員さんのオペレーションもほぼ出来上がっていて、スムースに流れていました。この”箸箱”だって、全く乱れがない。実に小気味いいお店の雰囲気です。こういうお店特有のリズム感が心地いい。

メニュー
こちらがメニューです。


大洲のひで”さんの記事を拝見しても、”おっさん”さんの記事を拝見しても、どのメニューも美味しそうなのでお店に行けばメニュー選択に悩まされると思っていました。


すると”おっさん”さんのコメント返しで「是非、”鶏白湯ラーメン”をお試し下さい!」っとありました。嬉しい助っ人コメントでした。


そこで迷わず”鶏白湯ラーメン”を注文しました。お値段650円。トッピングとして”煮玉子”60円と、サイドメニューとして”肉汁餃子”5個、200円を追加注文しました。


コストパフォーマンスの良にさ、好感を覚えました。

厠3
私は一番奥のカウンター席に一人座っていました。その右隣りは、ワタシの母親とほぼ同年代と思われるおばあちゃんとその娘さんが座っていました。

その時、娘さんがこう言ったのです。「バーチャン、奥は、あれ”トイレ”なんやろうけど、そこに書いてある漢字は何て読むんやろー?」っと。

すると、ばーちゃん、平然としてこう言った。「あの漢字はな!一字で”といれ”って読むんよ!」っと。すると娘さん「アーーー、あの漢字って”といれ”って読むんやー、バーチャン、相変わらず何でもヨーシットルナー!」

思わず口に含んでいたお冷を吹き出しそうになった。そのワタシの様子に気がついたばーちゃん、ワタシを見てニヤッと微笑んだ。

もちろん、あの漢字は”かわや”と読むが、ばーちゃん、の表情からは「そんなこと先刻承知なんやけどね!」って言ったように見えた。

ばーちゃんに、完全に一本取られた気になった。何時ものワタシなら、したり顔で”かわや”のうんちくを得意気に語っていたに違いない。そこに”ユーモア”の粉を掛けたほうが、世の中面白いということを学ばせてもらった。

ラーメン4
さて、これが”鶏白湯ラーメン”で、煮玉子はトッピングしたもの。これを”とりぱいたんラーメン”と読ませます。


ご承知のように”白湯”(ぱいたん)とはスープの一種で、魚介類や豚骨などを強い火力で長時間煮込んで、白濁させて仕上げる”白いスープ”の総称です。日本のラーメンの多くは、この”白湯スープ”をベースにされています。


白湯スープ”に””が加わるとどうなるか?それは、後ほど。


見た目、非常にスッキリして”オシャレ”です。白くて広い平皿をキャンパスと見立てたら、ひときわ大きくドッシリとした存在感を放っている”チャーシュー”の茶、それと対をなす”煮玉子”の赤と白。


その周囲に散りばめっれた刻みネギの緑、そして器の中央をスックと縦にあしらった太くて力強い”シナチク”の焦げ茶、更に添えられた”レンゲ”の鮮やかな朱が緩やかに曲線を描いています。””になっています。

ラーメン5
まずレンゲでスープを啜ってみました、風味を嗅いでみました、味わってみました。お店のメニューに、”スープ”の説明がありましたからそれをそのままご紹介しましょう。


「とろみ感のある厳選食材で長時間じっくり、鶏などの旨味をすべて、絞り出させて頂きました」っとありました。


確かに、スープに”トロミ”がありました。”丸鶏”を使ってスープを取っておられるのか、それは分かりませんでしたが、この”トロミ”は”モミジ”という”鶏足”がいい働きをしているのでは?っと感じました。


モミジ”のゼラチン質が溶け出して、スープの旨味をその”トロミ”でうまく封じ込めてあるように味わいました。


これは”聞きしに勝る”(聞いて予想していた以上に優れている)ラーメンとの出会いでした。

煮玉子6
”煮玉子”の黄身の半熟加減がニクイ!いやはや、恐れいりいますね!


トーーーロトロを食べてみました。口の中にチュルンっと収まりました。


そりゃあ、自然と笑みがこぼれますよ。

チャーシュー7
これが、このお店ご自慢の”チャーシュー”です。この”チャーシューが旨い訳”をお店はこう説明されます。


「”真空低温調理法”により、真空状態にしてから、65度で低温加熱を約2時間30分!! そのため、おいししく柔らかく仕上がります」っと。


このお店は、随所にこのお店のオリジナルな工夫が見て取れます。ここ、このお店に来なければ味わえないものばかりです。

麺8
この”麺”をとっても然(しか)り!です。この””についてのお店の説明を続けます。


「自家製二層平打ち麺使用。小麦胚芽使用の香ばしい風味の麺帯と弾力ある食感の麺帯をつなぎ合わせた当店オリジナル麺です」っと、説明されています。


ワタシは、アレコレと言い募る”能書き”を好みませんが、このお店のようにさり気なく、しかしきちんと説明していただけると有難いですし、その表現方法もメニューや箸箱にさり気なく書いてあります。好感が持てます。


そして”麺”ですよ!正直に、今まで食べたことにない麺の味と食感でした。何と表現していいのか?平打ち麺自体は珍しいものではありませんが、”鶏白湯スープ”が実によく絡むんです。


これだけスープが麺に絡めば、スープと麺をそれぞれに食べるのではなく、麺にスープを乗せて同時にいただく。大洲に”名店誕生”でしょう。まだ試したいメニューが幾らでも見受けられました。

餃子9
これが”肉汁餃子”と銘打たれた”餃子”です。焼き加減も良好。


柔らか硬い皮(ピー)と、中のジューシーな””とのバランスが、とってもいいですね。


ジューシーさを出すには、餡に閉じ込めた肉の油に頼るか?或いは、白菜などの水分が豊富な野菜の刻み加減で演出するか?その結果は、それぞれ個人のお好みの範囲でしょう。


ワタシが”餃子”と初めて出会ったのは学生の頃で、所は関東でした。関東は白菜などの野菜系の餡が中心だったように記憶しています。皮(ピー)も若干厚目です。


一方”博多一口餃子”に代表される西日本では、このお店のような”肉汁系”のものが多いように感じます。皮はこの様に、極めて薄い。

完食10
などと、アレコレ考える前にすっかり”完食”していました。もちろん”餃子”もペロリと。


このラーメン、平皿に入っていますから、見た目は量が少ないように見えますが、器の深さがあります。量的にも思った以上にボリュームがありました。


また、南予の実家(もう誰も住んではいませんが)に、”用事”を作らなきゃ!




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「ESCOBAR(エスコバール)」・「愛媛グルメ紀行」 658

今日は、大街道3丁目(ロープウェイ通り)に2年前にオープンしました”ESCOBAR(エスコバール)”さんをご紹介しましょう。


このお店”南米家庭料理”ということで、”アルゼンチン家庭料理”をウリにしているお店です。夜中心のお店ですが、午前11時30分~午後2時00分のランチタイムには、3種の”ランチ”を出しております。


会社の後輩職員の幼友達がお店を開きました。

玄関1
こちらがお店の玄関です。


このお店の正面には、今の”松山城”を築いたことで知られる、騎乗姿の”加藤嘉明”の銅像があります。


松山市観光の中心地、お膝元にお店を出されました。

店内2
これが店内の様子です。


では、なぜ”アルゼンチン家庭料理”のお店なのか?店名の”ESCOBAR(エスコバール)”の意味は何か?


それを語るには、おじいちゃんから続く3世代の、日本とアルゼンチンを跨(また)いだ物語を語らなくてはなりません。自分が当初、予期していなかった人生を余儀なくされた一家の歴史です。

家族写真3
その”物語”は、この1枚の”家族写真”に凝縮されているのです。詳細ではなく、そのほんのサワリの部分だけの物語をお話しましょう。

セピア色になった”家族写真”の中央で立っているのが、このお店の”物語”の発端となりました”おじいちゃん”です。

そして、スクーターの上に白い服を着て可愛く微笑んでいるのが、店主さんの”お母さん”で、今はこのお店で一緒に店主さん(息子さん)とやっておられます。

先ず店名は、店主のお母さんが住んでいたアルゼンチンの都市の名前。

まだ若い頃お母さんは、おじいちゃんやおばあちゃんなどご家族とともにアルゼンチンからやっと、郷里の松山に帰ってこられました。

メニュー4
こちらが、”ランチメニュー”の3種です。ワタシは、その中の”ミラネーサ”700円を注文しました。

さて、なぜ店主さんのおじいちゃんがアルゼンチンに渡ったのか?戦前(第二次世界大戦=太平洋戦争=愚かで罪深い戦争)に話は遡ります。

おじいちゃんは、松山からアルゼンチンに、花卉栽培の研修に出向いていたのです。希望に燃え、大陸で”花作り”を学びたいと、胸膨らませて地球の裏側にある新大陸”アルゼンチン”に降り立ったのです。当時は、何日も掛けての船旅です。

船酔い悩まされながら、生きた心地を失ったことでしょう。今でも、飛行機を乗り継いで50時間かかるのです。

おじいちゃんの運命を大きく狂わせたのは、軍部の独走で始まった”太平洋戦争”です。日本人だけでなく、他国の人々までをも含めて多くの人の命を奪い去り、無数の人々の人生を変えてしまった”戦争”です。

国民は、自分たちの運命や命さえ奪うことになる戦争のことなど、全く知らされていませんでした。”軍事機密”(何が機密秘密なのか?ということを、国民は何一つ知らされていませんでした)という名の元に。

知ろうとすれば”治安維持法”で突然逮捕され、場合によっては裁判なしで獄死させられた時代です。

国民を無理やり戦争に追い込んだ、日本歴史に名を残す悪法であった”治安維持法”より、更に悪質・危険だと言われる法律も強行されました。目を凝らしていなければ、とんでもない事態に突然見舞わるることを心配しています。

国を守る為”という美名と大義名分の影で、”誰が犠牲”になり、その犠牲の上で”誰の何を守らされるのか?”という、過去の歴史的事実を振り返って見ることです。

おじいちゃんは、戦争勃発という事態に、日本に帰りたくても帰れなくなったのです。そこで、アルゼンチンに住み着いて、おばちゃんと手を携え、子供2人を育てました。働き詰めの人生を送られたことでしょう。

エンパナーダ5
このお料理は”エンパナーダ”と言うもので、南米大陸では多く食べられている”パイ包み焼き”のメニューです。店主さんの幼友達という後輩社員が注文したものです。お値段550円。


南米のどこの街角に行っても、専門店があるという最もポピュラーな料理で、このお店のものは”鶏肉”を独自にブレンドしたスパイスと混ぜて炊いたものをパイ生地で包んで焼いてあります。南米の香りに周囲が満ちました。


さて、お子さん2人を育てられ、戦後ようやく生まれ故郷の松山に帰られたおじいちゃん。


店主さんのお母さんもまだ若く、二人の幼子を連れて松山に帰国されました。


結局このお店のお料理は、日本からアルゼンチンに渡ったおじいちゃんからお母さん、そして今は息子さんと三代に渡って、戦争に翻弄(ほんろう=もてあそばれた)されたゆえに伝わった”アルゼンチン家庭料理”という訳です。

ミラネーサセット6
さて、話題をお料理に戻しましょう。上の画像がランチメニューの一つ、”ミラネーサ”とサラダとご飯がワンプレートに乗って供せられました。スープとともに。


この”ミラネーサ”を日本流に言いますと”鶏メンチカツ”です。パリっと、カリッと揚がっています。


鶏肉を広げて、その両面に塩を振り、更にニンニクとパセリのみじん切りしたものを満遍なく伸ばした鶏肉に摺りこんでいきます。そこが味のポイントです。


そしてパン粉を薄くまぶして、カラリと上げます。これも、店主さんが何時も家で食べてきたという”家庭料理”です。

ご飯とミラネーサ7
ただし、アルゼンチンでは”鶏肉”は高くて庶民の口には入りません。

アルゼンチンでは”ミラネーサ”を、アルゼンチンでは一番安いお肉牛肉”で作るのが一般的だそうです。


なにしろ、3年前の2010年の国際統計で、国民人口4,090万人の国で飼育されている””の数は、4,894万頭いるという国なんです。


国民の人口より飼育されている”牛”の数の方が多いのですから、一番安い肉が”牛肉”ということになります。国民1人に、牛が1.2頭。


このお店のお母さん「日本に帰ってきて何が嬉しかったか?色々あるけど、大好きな”鶏肉”をお腹いっぱい食べられる贅沢!コレ、嬉しかったーー!」には、実感がこもっていました。


ご飯と一緒に食べると、ニンニクとパセリが食欲増進剤になって、まあ進むこと進むこと。

断面8
これが”鶏肉”の断面です。かる~く揚がった鶏肉から、香ばしいニンニクと清新なパセリの香り。


この味、このお店に来なければ食べることができません。


もちろん、飛行機で50時間ほどかけて”アルゼンチン”に行けば、どなたでもこの”ミラネーサ”の”牛肉版”が、驚くほどお安い値段で、お腹が張り裂けるまで食べることができるそうです。

焼き網10
この画像は、”アルゼンチン”を代表する国民食”アサード”を焼く網です。”アサード”とはスペイン語で”焼いたもの”という意味です。


アルゼンチンの国中を走り回る”ガウチョ料理”(ガウチョとは、アメリカでいうカウ・ボーイのこと)の決定版という”焼肉料理”です。


基本的には、塩で味付けをした焼肉ですが、”チミチュリ”と呼ばれる独特のタレを漬けて焼かれたりもします。


このお店でも、本格的”アサード”が味わえます。夜の部でどうぞ!舌が蕩けること請け合いです。

アイスクリーム9
デザートに出された”アイスクリーム”です。各種ナッツが散りばめっれていて、アマーーーイし、香ばしい。


ワタシのような非甘党派でも、ペロリと平らげました。


親子孫、3世代に渡る予定せざる苦難の歩みが、ここ松山で、甘く香ばしい味に膨らみをもたせることになりました。価値ある甘さ!でした。


「ご馳走様でした!」




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「再訪 195 ダイニングキッチン たゔぇるね」・「愛媛グルメ紀行」 659

今日は、来住町1416番3(電話 089-905-1070)にある洋食店”ダイニングキッチン たゔぇるね”さんの3度目のご紹介です。


場所は、通称”農免道路”を松山自動車道高架に向かって南進すると”四国包材㈱パックセンター”という建物がある交差点を西に入ると、民家の中の4軒目にあります。


このお店は、初めにご紹介したのが昨年10月4日でしたから、比較的短時間で3回目をご紹介することになります。(「ダイニングキッチン たゔぇるね」・「愛媛グルメ紀行」 608


2回目のご紹介は以下の通り。(「再訪 182 ダイニングキッチン たゔぇるね」・「愛媛グルメ紀行」 633

お店1
訪れた日は、冷たい小雨が降っていました。


今までお伺いした2回は、お昼になるとカウンター席まで満席になるお店でした。


でも、さすがに冬の小雨とやや強めの風に煽られるような天候では、お客さんの出足も鈍ったのでしょう。店内は余裕を持って座れました。

外メニュー2
このお店の”真髄”は、驚くほどの”コストパフォマンスの良さ”と、”お料理の内容が何時も充実している”ことでしょう。


女性シェフさんの修練の積み上げ方には、並々ならぬものを感じさせられます。


こんなに目立たない立地にあっても、甘い蜜を求めて自然に集まってくる蟻のように、お客さんが集まってきます。

スープ3
外に書き出されている”本日のランチ”、お値段、”驚愕の780円”を注文しました。


一番先に出されたのが画像の”パンプキンスープ”です。


これが実に滑らか、クリーミーでなおかつ”甘い!”んです。かぼちゃが持っている甘みが一番よく出る季節は冬です。


かぼちゃ”の収穫時期は夏から秋にかけてですが、収穫直後よりも収穫後、約1か月頃が糖化のピークで食べ頃となると言われています。絶好のタイミングで出されたということです。

サラダ4
こちらは、”スモークチキン・サラダ”です。単純に生野菜をドレッシングで和えて出されるということは、このお店ではありません。


必ず、一手間も二手間も手をかけてから供せられます。


今日は”チキン”をスモークされてむしられたものがたっぷり入っていました。またガーリックがカリカリに揚げられていて、香ばしい香りと食感を演出されました。

白身魚のエスカベッシュ5
画像のお料理は”白身魚のエスカベッシュ”というもの。”エスカベッシュ”というのは、酢に漬ける”マリネ”の一種で、”スペイン料理”です。


白身魚を一度揚げて、それに甘酸っぱく味付けされたお酢に漬け込まれたもので、日本でいう”南蛮漬け”もその一種です。


画像中央で、縦になって見えるのがその”白身魚のエスカベッシュ”です。日本の南蛮漬けより、やや甘みが強く、生野菜や湯掻かれたキノコ類との相性がいいですね。

トマトソースのハンバーグ6
こちらが当日の”メインディッシュ”として供せられた”イタリアンハンバーグ・トマトソース”です。


3枚の”イタリアンハンバーグ・トマトソース”の画像をご紹介しますが、その3枚目の画像を見て頂くと、ハンバーグの上に、大きめのトマトを横に輪切りしたものが乗せられ、その上にチーズを乗せ焼き上げられているのが分かると思います。


そしてそこに、タップリめの”トマトソース”がかかっています。

トマトソースのハンバーグ7
全体の色合いを御覧ください。トマトソースの、チーズの、ブロッコリーの、人参の、カボチャの色と、まあ見事ではありませんか。


目でもたっぷり楽しませていただけます。しかも、付け合せの野菜3種にしても、すべて別々の調理法で作られています。


昼間にはお客さんが一時(いっとき)に集中します。ですから、下準備されて、後は火を入れたらいいものと、ある程度作りおきできるものとを巧みに組合せてメニューにされています。プロの仕事ですね。

ハンバーグアップ8
ペタペタと、ハンバーグネタを両手の手の平で往復させて、ハンバーグの肉の内部の空気を抜く音が、厨房からリズム感よく響いてきます。


目で楽しみ耳で楽しみ、そして舌でたっぷり味わう。トマトソースの酸味が効いています。チーズの塩味と食感が活きています。ハンバーグの肉質も良好で、肉を味わう喜びに溢れます。


何時もでしたら、ハンバーグが出されたら真っ先にハンバーグをナイフで切り分け、ハンバーグの内部に閉じ込められていた”肉汁”を画像に納めるのですが、当日の天候が悪く店内の明るさが、撮影条件という点では厳しかった。


そこで、他のお料理の画像を何枚も撮っている間に、閉じ込められていた肉汁はなくなっていました。でも、ハンバーグの味は堪能出来ました。

肉汁10
この画像は、前回2回目のご紹介の時に撮影した”ハンバーグの肉汁”です。

これが美味しさの決め手です。ハンバーグは、グズグズせずさっさと喰らうべきだった!

でも、今回もこのお店の良さを存分に味あわせて頂きました。完食です。

このお店の店名”たゔぇるね”は造語で、元はギリシャ語の”タヴェルナ”(意味は食堂)からきていることは、過去記事でも書いた通りです。

ギリシャ語の”タヴェルナ”がイタリア語にもなり、ドイツ語で同じ言葉が”イタリア料理を出す食堂”と言う意味になりました。

このお店で1回目にいただいたお料理は”サンマのベカッフィユ(シチリア風)”と言う”シチリア料理”。2回目は、ペンネリガーテ(イタリア料理)とデミグラスソースたっぷりのハンバーグ(フランス料理或いはドイツ料理)、そして今日はスペイン料理。

持論ですが、”瀬戸内海”は世界の”地中海”に負けない”多島美”と”自然環境”と、豊かな”魚種”を誇ります。

このお店、地中海周辺のお料理を提供なさっていることが、将来は”洋風瀬戸内海料理”の創造へとつながっていくことを妄想半分で、願ってやみません。

「ご馳走様でした!」



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「再訪 196 中華飯店 鳳来」・「愛媛グルメ紀行」 660

今日は本町6丁目の、市内電車通りにある老舗の中華料理店”中華飯店 鳳来”(ほうらい)さんの二度目のご紹介です。


随分久しぶりで、最初にご紹介したのは2011年11月4日のことでした。(「中華飯店 鳳来」 ・「愛媛グルメ紀行」 164


前回お訪ねした時は、このお店のお味がどう!っというよりも、店主さんとそのご両親を含めた3人の見事な連携プレイに見惚れました。

玄関1
それで2年余り経った日に、もう一度3人の息のあったコンビネーションを拝見したととお店をお訪ねしました。


ところが、前回お訪ねした時は”出前”を担当されていた”おじいちゃん”の姿が見当たりませんでした。


お尋ねしてみたところ、体調を崩されて休んでおられるとか。


「ところが、本人はお店にデトーーテ仕方ないんヨーー!でも、万が一の事を考えると、家族としてはゆっくり休んで欲しいんよ!」っとは、店主のお母さん。

店内2
店内の正午前の、小上がり席の様子です。


ほとんどの方が、常連さん。このお店に通い詰めて、もう40年近いという方もいらっしゃいます。


このお店は、城北きっての老舗”中華料理店”なんです。


店内には”日本ハムファイターズの”鵜久森 淳志”(うぐもり あつし)選手の写真が飾られていました。

メニュー3
こちらが、厨房の上に掲げてあるメニュー板です。さて、写真の日本ハムファイターズ”鵜久森 淳志”選手です。


松山の済美高校出身で、。2004年に四番・左翼手として甲子園に出場し、春(第76回選抜大会)と夏(第86回選手権大会)に、同校の甲子園春初出場優勝・夏初出場準優勝に貢献した選手です。北海道日本ハムファイターズに8巡目で指名されました。


「この写真の”鵜久森選手”は、このお店に来ていたということですか?」っとお聞きしてみました。


すると、老舗らしい答えが返ってきました。「いえいえ、”ウグモリ君”がウチに来たんは、その写真を撮った時の一回だけよ!ウグモリ君の”おじーちゃん”がウチの常連さんで、それでプロになったお孫さんをウチに連れて来たんよ!」っとお母さん。

チャンポン4
さて注文したのは”チャンポン”500円。それに”中華料理屋”さんの”餃子”が食べたくって、併せて注文しました。300円。


店主さん(息子さん)が厨房で、一人で全ての注文をこなします。効率よく調理するために、”チャンポン”用に予め1人前に小分けされたの野菜類を、1個の椀に入れて冷蔵庫に入れてあります。


それを冷蔵庫から取り出して、具材の魚介類を追加し大きな中華鍋で一気に炒めます。そこにスープと麺を投入します。


味見は一度しただけで、5分かからず完成です。牛丼の出来上がり時間に匹敵します。

チャンポン5
上で調理の過程を簡単に描写しました。そこで”味見”は一度しかしなかったことを書きました。


実は昨年暮れ近くに、従業員同士の私語が止まない”中華料理店”の料理人さんが、何度も丁寧に味見”している光景を描写しました。


すると、あるプロの調理人からこう言われました。「プロの料理人なら、味見は一回で決める!味作りに自信がないから、何度も味見しなければならないのではないでしょうか」っと。

アップ6
さてこちらの”チャンポン”です。野菜が大半を占めます。


主な具材は、キャベツ、人参、モヤシ、椎茸、長ネギ、豚肉、イカ、海老、キクラゲなどです。


喉をほって唸るほどではありませんが、当たり前に美味しい。野菜の甘味も感じます。スープの味加減もちょうどいい。

麺7
”は市販の麺を、1個1個、袋を破って中華鍋に投入したもの。


特別な仕様をで注文された風には見えませんでしたが、中太麺のストレート麺でした。


ただ、普通の丸い麺ではなくエッジの立った平打ち麺であったのが珍しく思いました

餃子8
こちらが、焦がしすぎず、焦がし足りずに焼いた”中華料理店の餃子”です。


時折、餃子を焼いた後の鉄板を掃除しきれずに、黒く焦げた餃子を出すお店に出来食わします。


もうその餃子の焦げ具合一つをとっても、料理人の調理に対する姿勢が伺えようというものです。

餃子9
ただ、このお店も餃子の餡は””中心です。その餡のジューシーさに残念ながら欠けているように思いました。


もちろん好き好きの範囲でのお話ですが。関東系の”白菜”たっぷりで、ジューシーな餃子を探し求めているのですが最近出会いません。


1軒だけ、そういう”餃子”を食べさせるお店を知っています。今度はそのお店の”餃子”を一度ご紹介しましょう。


おじいちゃんの回復が一日も早いことを祈りつつ、お店を後にしました。





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「愛媛グルメ紀行」を振り返る 91

今年初めての”愛媛グルメ紀行を振り返る”シリーズです。

今日振り返るのは、一作年の春頃にアップした271号から273号までのお店です。

先ず最初”に振り返るお店は、一昨年4月19日シリーズ271番目のお店としてご紹介した、堀江町の旧国道196号線(現在は県道平田北条線)沿いにあります”パスタとオーブン料理”のお店”アルポルテ”さんです。(「Al Porte(アルポルテ)」・「愛媛グルメ紀行」 271

アルポルテ”はイタリア語で、直訳すると「ゲート(玄関)へ」ですが、”扉を開く”という意味です。

玄関1
こちらがお店の玄関です。イタリアの国旗”三色旗”が目印です。

国道196号線が新しく開通し、車の通行のほとんどがそちらに移ってしまいましたから、環境的には厳しいものがあると思います。

スパ上6
パスタは6種類の中から選べて、それにスープとサラダがついているものは890円です。

こちらが選んだ”たらことイカのスパゲティ”です。

和風味の代表選手の一つでしょう。

唸り声が自然に漏れてしまうといった風ではありませんでしたが、美味しく頂いてお店を後にしました。

このお店再訪しません。ただ、どうしても!っという感じではなかったからです。



二番目”に振り返るシリーズ272番目のお店は、一昨年4月20日にご紹介した、束本1丁目の東環状線沿いにある和食のお店”たべ のみ処 いっとこ屋”さんをご紹介しましょう。

このお店の南隣は”うどんの耕庵”があり、環状線を挟んだ向かい側にはラーメン店の”りょう花束本店”があります。

大変好立地にありますが、それは同時にサバイバル争いが激しいことを意味しています。

玄関1
この環状線は一種の”ファストフード通り”と化していますが、こちらのお店は板前さんが一品一品丹念に手わざを凝らした和食で勝負します。

昼は二種類のランチで、夜は一品料理やコース料理で一杯やるお店です。

開店は2011年9月29日です。

ランチ4
こちらが当日のBランチです。お値段は700円です。700円の価格以上のお料理が出てきて、驚きました。

メインは”ハマチの裕庵焼き”、小鉢は”ふろふき大根”と”サラダ”です。

これに、ご飯とお吸い物と漬物、そして食後にコーヒーが付いています。

このお店の”ご飯”・・・・・メシ・・・・もう美味くって美味くて、漬物だけで椀一杯の”ご飯”を食べられます。

一粒一粒が立ち、照り輝いていて、噛む毎に””の甘さが口腔に広がるんです。

でもこのお店は”再訪出来ません”。既に閉店され、その次に出店されたお店すら、開店後1年保たず閉店さらました。

好立地は競争が厳しいということで、コストパフォマンスが優れていて、なおかつ美味しいお店でさえ生き残れないのです。大変に残念です、期待していたお店でした。



最後”の振り返るお店は、一昨年4月24日にシリーズ270番目にご紹介した、平和通2丁目にある”中国料理居酒屋 永和(平和通店)”さんです。

この平和通店は開店してちょうど半年を経過しましたが(この記事を書いた時点で)、ちょっと”難しい挑戦”をされたものだと思いました。

この街、学生街のまちですが、この地で成功した飲食店は、それはもう奇跡に近いほどに少ない。

玄関1 
こちらがお店の”玄関”です。

このお店の前を歩いて通っても、お店が営業中なのか準備中なのか、あるいは閉店しているのかが分かりにくい。ましてや、車で走っていたのでは完全に判別がつかないでしょう。

このお店も二番町のお店も、経営者はもちろん従業員やコックさんたちも皆さん本場中国料理の国の方です。

厨房には、ナント3人ものコックさんたちが入っています。それにフロアー係りの男性を合わせて4人の男性でお店を運営されています。飲食店として成功する条件に極めて乏しいと思いました。

ランチ4
これが、その”コストパフォーマンス”などという生やさしい言葉では言い表せられない”永和ランチ定食”の内容です。お値段は何と、550円。

当日のメインは”レバニラ炒め”でしたが、これに”餃子”が5個とサラダとスープと大きなどんぶり飯(しかもお代わり自由)が付くのですよ。

最初っから、経営なんて考えていないとしか思えません。

案の定、1年を超えるk超えないかで忽然と、唐突にお店を閉められました。何の予告もありません。

そして、不思議な事に1年以上も閉店していたお店が、ある妃突然またお店を開けられた。

当然再訪しません。開いた口が塞がりません。飲食業を一体何と捉えておられるのでしょうか?視線が客には向いていません




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「過去記事を振り返る」 2

今日の”過去記事を振り返る”は、毎年、決まって年初に感じる”一抹の淋しさ”のお話です。


「調香師」 (2010年1月6日掲載)


香水の「5番」は、シャネルの創設者”ココ・シャネル”が作り出し、1921年パリで発売され、以来、常に世界の香水販売上位に名を連ねています。


54年に来日した”マリリン・モンロー”が「夜は何を着て寝るのか」と問われて「シャネルの5番を数滴」と答え、それは伝説となったことはよく知られていることですね。


「5番」はグラース産のジャスミンやバラなど80以上の成分を使い、組成は極めて複雑だそうです。

グラースの「調香師」(ちょうこうし=香水を作る人)養成所では「5番」は教材でもあるのだそうで、生徒たちは1週間かけて再現に挑戦します。


その新聞記事を読んだとき、娘が高校に入学した年の誕生日プレゼントに何がほしいかと尋ねたら、「香水」を買って欲しいと言ったことを思い出しました。


その唐突な望みに戸惑った記憶と共に。


結局買ってやったのは安い「オーデコロン」でしたが、この子は大人になっているのだと実感したものです。



1月1日に東京から帰省した娘は、年明け4日に東京に戻りました。

子供だった娘も、「香」ではなく、「音」を作り上げる社会人になりました。

鐘と佐知
娘の仕事は「MA」(マルチ・オーディオ)といって、音を調合する仕事だそうですから、さしずめ「調音師」でしょうか。


今は”エグザイル”というグループの、DVD等の制作に関わっているとか。”エグザイル”の何たるや?は知りません。


娘から送ってもらった”エグザイルのDVD”は何度も見ましたが、見た部分はアルバムの最後に流れる”エンディングロール”に出てくる”スタッフ名の娘の名前”だけ。


とまれ、私の”松の内”は終わりました。いよいよ仕事に取り掛からなキャ。



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「愛媛の歴史特別編」・「京都 南禅寺とインクライン」 8

今日は、京都の”南禅寺”と、その近く”哲学の道”を通って直ぐの所にある”南禅寺水路閣”をご紹介しましょう。

先ずは”南禅寺”です。


南禅寺”は、京都市左京区にあって臨済宗南禅寺派の大本山です。開基(創立者)したのは”亀山法皇”です。


日本最初の”勅願禅寺”(ちょくがんぜんじ=天皇の命令で開かれた禅寺)であり、日本の全ての”禅寺”(ぜんでら)のなかで最も高い格式をもっています。

南禅寺三門1
この画像は、南禅寺の”三門”です。国の重要文化財です。


この”三門”、南禅寺の中でも掉尾を飾る(とうびをかざる=南禅寺の一種のスター的な施設です)ものです。


この”三門”は、愛媛とも関係が大変深い”藤堂高虎”(とうどうたかとら=宇和島城や大洲城、そして今治城を築城した戦国時代を代表する武将)が、今治城主から転封となって”伊勢伊賀藩主”時代に築いたものです。


藤堂高虎”は、大阪夏の陣で戦没した藩士の霊を弔うために、寛永5年(1628年)にここ南禅寺に建立寄進しました。


なお、愛媛にとっても大変の縁の深い”藤堂高虎”については、”南予史探訪”と題した6回のシリーズで採り上げ書いております。(「南予史探訪」・「大洲地蔵ヶ嶽城を巡って」 2

南禅寺三門2
また”南禅寺の山門”を一躍有名にしたのが、歌舞伎の「楼門五三桐」(さんもんごさんのきり)の二幕目です。


この二幕目の返しで、江戸時代の大泥棒”石川五右衛門”が「絶景かな絶景かな……」という名科白(めいせりふ)を残したのが。こ”南禅寺三門”です。


なお”石川五右衛門”は江戸時代に実在した大泥棒ですが、その”石川五右衛門”はこの”三門”が出来る30年以上前に刑死していますから、ここ”三門”を大舞台に出来たわけではありません。

南禅寺法堂3
この画像は、”南禅寺法堂”です。


法堂”というのは、法式行事や公式の法要が行われる場所で、”南禅寺”の中心となる建物です。

南禅寺法堂4
創建当時のものは、”応仁の乱”で焼失しましたが、文明11年(1479年)頃に復興されました。更にその後、慶長11年(1606年)になって、”豊臣秀頼”の寄進により大改築されましたが、明治26年(1893年)の火災によって焼失しています。


現在のこの”法堂”は、明治42年(1909年)に再建されたものです。




次は”哲学の道”を歩いて、近くにある”南禅寺水路閣”を目指します。

哲学の道案内板5
この画像は”哲学の道”への案内板です。


この”哲学の道”という名前がこの小道についた由来は、日本を代表する哲学者であ”西田幾多郎”氏がこの道を散策しながら思索にふけったことからこの名がついたと言われています。ワタシも若いころ、”西田幾多郎”氏の著作を読んだものですが、見事に忘れています。


さて、西田幾多郎氏に因んで”思索の小径”と呼ばれていたものが、いつしか”哲学の道”と呼ばれるようになり、昭和47年(1972年)に正式な名称となりました。なお、”日本の道100選”にも選ばれている散歩道です。

南禅寺水路閣6
さて画像で見えてきたのが、”哲学の道”を歩いた先にある”南禅寺水路閣”とよばれているものです。


この”南禅寺水路閣”は、明治18年に着工され、日本最初の水力発電所を稼動させた人口水路です。


日本初の路面電車の開業など、京都復興に大きな役割を果たしました。

南禅寺水路閣7
この”南禅寺水路閣”は、”琵琶湖疏水”(びわこそすい)の一部で、琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路(疏水)です。


なお”琵琶湖疏水”とは、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものをいいます。

南禅寺水路閣8
南禅寺水路閣”は、この疏水事業の一環として施工された水路橋で、延長93.17メートル、幅4.06メートル、水路幅2.42メートル、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持っていて、京都を代表する景観の一つになりました。毎秒2トンの水が、現在も流れ続けています。


また、”琵琶湖疏水”の一部には”インクライン”とよばれている施設があります。


琵琶湖疏水”は先ほども書きました通り、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見・宇治川を結んでいます。

南禅寺水路閣9
その中で落差の大きい蹴上(けあがり)と伏見(ふしみ)にはケーブルカーと同じ原理の”インクライン”が設置され、船は線路上の台車に載せて移動されていました。


水運の変化によって”インクライン”はいずれも廃止されましたが、蹴上(けあがり)では一部の設備が静態保存されています。


なおこの”インクライン”は、愛媛でも作られ活躍していた時代と場所があります。


それが、”東洋のマチュピチュ”とよばれる”別子東平”にありました。(「東洋のマチュピチュ・別子東平」その 2

蓮池10
さてこの画像は、”南禅寺”前にある”蓮池”です。奈良の”藤原京跡”でも、画像として採り上げました。


昔の”都城”の跡や、寺院にはなぜ”蓮池”が多く見られるか?


それは”蓮の花”が、汚泥(おでい=池の中の泥)の中から伸び育ち、汚泥に染まらず水面に清らかな花を咲かせるからです。

蓮の実11
つまり、泥水に咲く”蓮の花”は、汚濁(おだく=水質の汚れのこと)にまみれた世間(現社会)にあっても。超然としている”君子”の姿であって、知性の象徴とされてきたからです。


また””が極めて多く、しかも乾いた池の中にあっても、必ず将来実をつけることから、子孫繁栄や長寿の象徴などのシンボルとして、昔から尊ばれてきたからです。


この画像に見られる”蓮の実”は、一輪の花からこれだけ多くの種子を育(はぐく)んでいるのです。


この中の一つでも、将来(何百年先であっても)実を結んで花を咲かせれば、””にとっては本望なのでしょう。


日本の古都である”奈良・京都”に立ちますと、そういう悠久の時間を感じさせてくれます。


さて次回1月27日は、「愛媛の歴史特別編」「平安神宮と京都御所」9 をご紹介します。





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「HALF NOTE(ハーフ ノート)」・「愛媛グルメ紀行」 661

今日は会社の同僚(若手成長株)に教えてもらった、大街道2丁目の田都ビル2階にあります”HALF NOTE(ハーフ ノート)”さんをご紹介しましょう。


この地で、今年既に6年目を迎えるお店ですが、ワタシは全く知りませんでした。大街道のアーケード街にありますが、お店は2階ですから気が付きませんでした。


読者の方から教えていただく情報は多いのですが、同僚からというのは1月15日にアップしたばかりの”エスコバール”さん以来です。(「ESCOBAR(エスコバール)」・「愛媛グルメ紀行」 658

玄関1
こちらが、大街道アーケード街西側にあるお店の玄関です。


余程注意してみていなければ、気が付かずに通りすぎてしまうでしょう。


ところが、この地で非常に特徴のある個性的なお店として、ある方面の方々には有名なお店でした。

階段2
この急な階段を登り切ったところに、お店の玄関はあります。


この先には何があるんだろう?っという好奇心だけでは階段は登らないと思います。


でも今年で6年目、立派に認知されたお店なのです。

店内3
店内はこの通りオシャレで、一種の”ワインバー”の様相を呈しています。


と言いますのも、メニューの中に載っている”ワインリスト”、これ只者ではありません。


でも”ワインバー”はお店の顔の半分に過ぎません。残りの半分が、下の画像です。

ライブ会場4
そうなんです!このお店、店内に音楽の”ライブ会場”を持っていて、不定期なようですが”デュオ”や”トリオ”や、時には”カルテット”以上の編成でライブ演奏が行われるお店として有名です。


中々本格的な”音楽スタジオ”のようです。


このお店の店名”HALF NOTE(ハーフ ノート)”は、音楽の楽譜で言えば”2分音符”という意味です。


音楽を愛する人なら、すぐに分かるという店名を選ばれました。(当初”半音階”と書いたのは間違いでした、訂正しました)

メニュー5
当然に夜がメインのお店ですが、ランチタイムには3種類のランチを用意されています。


その3種の中で、店名を冠されているメニュー、”ハーフノートランチ”をいただきました。お値段は950円です。


メニュー構成は、プチオードブルとスープと、メインディッシュは”イタリアンハンバーグ”でした。

ハーフノートランチ6
この画像は、”プチオードブル”と”スープ”を除いたものの画像。


なお、ご飯は「少なめに!」っと頼んだものです。


確か、「お代わりのできます」と、言われたような?近日中に再訪予定ですので、その点は再確認しておきます。

スープ
”プチオードブル”は本当に”プチ”でしたが、”スープ”はベーコン・キャベツ・ニンジン・卵にパセリを散らしたチキンスープで、とっても濃厚で美味しかった。


ありあわせの野菜で誤魔化すといったものではなく、きちんと計算され尽くした見事なスープでした。

イタリアンハンバーグ7
こちらがメインディッシュの”イタリアンハンバーグ”です。熱々で供せられます。


トマトを潰して、まだそのトマト自体の食感を残したタップリ目のソースの上に”ハンバーグ”が乗り、更にその上に蕩けるチーズが被せられ、更にその上にもトマトのソースが掛かっています。


蕩けるチーズが、まだプチプチと音を立てて蕩けていく様子が、マア何とも食欲をそそります。


後ろに配した、彩り豊かなサラダとの、色のバランスも素晴らしいです。それに、甘酸っぱいトマトの香りに一瞬の内に全身が包み込まれる、そういう”イタリアンハンバーグ”でした。

半分8
ハンバーグ”は撮影に手間取っていると、肝心の”肉汁”が逃げてしまいます。


その美味しさの元である”肉汁”を撮りたくて、さっさと半分に切り分けました。


それがこの画像。その瞬間、心なしか「イヤ~~、別れるの嫌~~!」って、チーズが囁いたような?

肉汁9
そしてこの画像が、その”肉汁”です。既にちょっと流れでてしまいましたが、それでもこのハンバーグのジューシーさがお分かりいただけると思います。


厨房からは、絶えずペタンペタンと、ハンバーグのタネの空気を抜くリズミカルな音がモレ伝わります。


もう撮影はここまでが限界でした。カメラを置いて、早速ハンバーグに食らいついた。ウフフフウフウフフ・・・声が出ない。

アップ10
トマトの酸味がキツすぎることなく、マイルドに収められていますので、トマトがトマトしていない。これがいい!


でも尚且つ、間違いなく太陽の恵みをイッパイ浴びた美味しい野菜としてのトマトが旨い!トマト本来の酸味をどうやってマイルドにされたのかは、素人の悲しさ、分かりません。


もちろん、肉汁たっぷりの肉も美味しい。チーズがマッタリ絡んで美味しさを倍加させている。


トマトチーズが絶妙の”トリオ”を構成して、名演奏を聴かせていただいた。


これは、このお店の情報を教えてくれた若手伸び盛りの同僚に感謝しなきゃ!




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「餃子 のぶ」・「愛媛グルメ紀行」 662

今日は、昨年末12月15日に開店したばかりという三津浜の住吉1丁目、”住吉橋”の西側袂(たもと)にある”餃子専門店”、”餃子 のぶ”さんをご紹介しましょう。


実はこのお店を取材に行ったのは開店したその翌日、12月16日の午前11時30分です。


駐車場は7台分近くに用意されていますが、この辺りの土地勘がない人は探すのが難しい。ワタシも、お店の前に車を横付けにして駐車場の場所をお伺いすると、お店の中から男性が飛び出してきて「付いて来て、案内するから!」と一言言うなり走りだされた。


慌てて後を付けて行って、路地裏の空き地に駐車した。

玄関1
これが、開店2日目のお店の玄関です。開店直後の華やかさに包まれていました。


店内は8人腰掛けられるカウンター席と、奥に10人ほど座れる椅子席があるだけの狭いお店です。


ただ開店直後ということもあって、開店時刻午前11時30分直後には、ワタシ一人がカウンター席に辛うじて座れる程の盛況ぶりでした。

カウンター2
ただ店内のお客さんは、ほぼ全員が身内か友人知人、顔見知りの客で占められているようでした。


これは開店直後の光景としてはよくあることです。


狭い厨房内には、ナント男性が3人入って、その他女性2人と男性1人がフロアー係を担当するという布陣でした。

メニュー3
メニューは、基本的には”餃子メイン”で、後は”中華そば”も・・・・・・ありはします!っという感じです。


つまり、メニューは”餃子”と”中華そば”だけで船出された訳です。


但し、開店直後の1週間だけはテイクアウトはお断りするそうですが、それが過ぎると”テイクアウト”を重視したいという感じのお店です。


しかしそれでも尚且つ、これはまあ”大胆”と言えば言えなくもない。”無謀”という言葉も頭の隅を過(よぎ)った。


余程メニュー(2種)に存在感魅力、つまりは個々の”商品力”がないと、客には直ぐに飽きられてしまうという危険性をはらんでいるようにお見受けしました。

餃子4
さて”餃子メイン”なので、早速”餃子”を注文した。10個で350円。お値段はマズマズ。


そして、餃子が出された。餃子を焼いている厨房内を見ていると、餃子の焼き上がりをチャイムで判断していた。マニュアル通りなのでしょう。ベテランになると、餃子の焼けている過程の音で判断すると聞いたこともあります。


フロアー係の男性が手持ちぶたさにしている隙を突いて「餃子はどういう系統なんですか?」っておたずねしてみた。但し、その答えを聞く前に、おおよその想像はついていた。

餃子5
「ええ、ウチの大将は”関西”で修行したので”関西系”です!それを”三津浜風”にアレンジしました!」っと。思った通りだった。

博多の”一口餃子”に、その形態がよく似ていた。ということは、餃子の””は”肉系”だと想像ができた。

ワタシが生まれて初めて”餃子”を口にしたのは、大学生になって上京した時だった。従って、”餃子”と言ったら関東系の、”白菜”を中心とした柔らかい餡の味に馴染んでしまった。

そもそも”餃子”が日本に普及したのは”戦後”のこと。戦後の混乱期、戦地となった中国北部からどんどん引揚者が日本に返ってきた。”食糧難”が日本を襲った。

彼ら中国北部戦地引揚者が、戦地であった中国北東部の食物である”餃子”を見よう見まねで、露天で焼き始めたのが”餃子の事の起こり”。

従って当時は肉なんてなかった。”白菜”を中心とした野菜がほとんどという餃子を露天で売って、それが飛ぶように売れた。”餃子”に肉が入り始めたのはずっと後のことでした。

ですから、今でも東京や横浜を中心とした関東の”餃子”は白菜を多目に入れたジュージーなアッサリ餃子が多い。その後関西(特に大阪と北九州)で、肉を多目に入れて餃子の皮を薄くした餃子が生まれて(昭和30年のこと)関西一体に普及した。このお店は、後者の系譜に属する。

餃子アップ6
この一見”博多風一口餃子”の”肉餡”、ワタシにとっては馴染みが薄い。最初から最後まで馴染めなかった。


三つ子の魂百まで”とはよく言ったもので、例え大学生になっていようと、初めて食べた味が好みのベースになることを最近知った。


でも逆に言えば、この”餃子”に慣れ親しんだ人にとっては、この味でなければいけないということでしょう。


それが証拠に、餃子を食べ終わったおじいちゃん(ワタシよりかなり年上)がこう言われた。「この餃子、余りに美味しかったケン、持ち帰りしてやー、家を出られない弟に持って帰ってやりたいんヨー!」っと。これが””の世界と言うもの。

中華そば7
なお、メニュー2品のウチの1品を注文したので、残りの1品の””中華そば”も注文した。こちらはお値段550円。


食べてみて言葉を失った。・・・・・・・・・・「いくら、何でも・・・・・・・・・・


見た目は、全く不都合ない”中華そば”に見えた。

中華そばアップ8
でも、スープを啜ってみた。麺も啜ってみた。


先ず、下にお示しした画像の””がいけません


”と”スープ”が他人同士。全く馴染んでいない。仲良くなる前に、いきなり丼に一緒に入れられたので、スープと麺が互いに憮然(ぶぜん)として顔を背け合っている。


我関(われかん)せず、唯我独尊(ゆいがどくそん)、孤立無援、独立独歩、慇懃無礼(いんぎんぶれい)、有頂天外(うちょうてんがい)という言葉群を””クンには贈りたい。

敢えて厳しい言い方をすれば(但し、あくまで個人的素人的な判断ではありますが)、お客さんに提供できる以前の”試作品”にも届いてやしないレベルのものをを出された!っと。「飲食業、そう甘いものですか?」

麺9
それでも、ワタシが”中華そば”を淡々と啜っている傍で「オレ、カウンター席5番やけど、まだ”中華そば”出てないよ!」っという声が飛んだ。ワタシはカウンター席8番だった。

すると、その声を待ち構えていたように「私、カウンター席1番で、一番最初から”中華そば”待っとるけど、まだ出来んのーー??」っと端っこに座っていたおばあちゃんから声が掛かる

えーーーーー!!!あ、あああ、あのーーー、イチバンさんの注文ってどうなっとるーーん?」っとフロアー係のお兄さんが俄然慌て始めた。

厨房内は、その声で一斉にパニックに陥った。よくあることです、開店直後ですから無理もない。

フロアー係の女の子、厨房に向かってこう言った。「ご飯”大盛り”って、どの位盛るんですかーー???」っと。

すると厨房から、「アノナーー、”オオオオモリー!”に盛るんよ!」っと声が飛んだ。

すると女の子「”オオオオモリー!”って、それって”てんこ盛り!”ッて言うことですかー??」っと応対した。

かくして、中々過激にこのお店の”幕は切って落とされた”。

どうか、このお店に期待された人々の期待を裏切らないよう、走りながらでもいいから”精進”されんことを切に祈っています。

さて、このお店の”運命やいかに?




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「再訪197 闘牛」・「愛媛グルメ紀行」 663

今日は3回目のご紹介となる、久万ノ台の「県立松山盲学校」西側にある”闘牛”さんをご紹介します。


松山を含め中予地区にエリアを広めても、このお店は唯一無二の”正統派東京ラーメン”を出されます。


東京では、”鶏がら”でとった透明な醤油味スープのラーメンを、多くの場合”中華そば”と呼ぶ慣わしがありました。今ある数多(あまた)の”ラーメン”の基本となった味を守っておられます。


過去2回のご紹介は以下の通りです。(「闘牛」 真っ当な「B級グルメ店」③)・(「再訪3 闘牛」・「愛媛グルメ紀行」 329


つまり、”愛媛グルメ紀行”を書き始めて3番目に採り上げ、”再訪シリーズ”を書き始めて再訪の3番目に採り上げたお店です。

玄関1
このお店をこのタイミングで採り上げたのには、2つの理由があります。


その第一は、最近ちょっと凝っている”餃子”です。愛媛の地で”これぞ餃子だ!”っと呼べるお店はここしかないことに、最近気がついたからです。


このとろろ、立て続けに色々なお店で”餃子”を頂いています。心底満足したというお店には一度も出会っておりません。


そこで、このお店の”餃子”こそ、ワタシが考える”これぞ餃子!”、”ザ・餃子!”だということをお示ししたかったという訳です。


その第二は、このところ”豚骨ラーメン”と”塩ラーメン”の良さにハマっています。それだけに、ワタシの原点であり日本の”ラーメンの原点”を、ここで再確認しておきたかったからです。

メニュー2
このお店は、場所が花園町にあった時代から通っていますから、30年以上も前から知っていて通っていたことになります。


ワタシが大学を卒業して、松山の企業に就職するために東京から帰ってきました。その時、学生時代に食べていた”東京ラーメン”、もしくは”東京醤油ラーメン”が松山でも頂けることを発見し、それ以降通っているお店です。


また、再訪記事でも書きましたが、このお店の移転に当たりまして、その移転事業計画書を作ったこともあるという、縁の深いお店でもあります。

店内3
このお店の接客について、店主の奥さんも、特に息子さんが極めて無愛想だ!っという多数の意見があることも知っています。


ワタシ自身は、このお店にとっても古い馴染客ですし、事業計画書などの関係もあってお店の3人は顔馴染みでしょう。ワタシがお伺いすると笑顔で迎えていただけますし、後に書きます”特別な配慮”もして頂いています。


ですから、ワタシにとっては無愛想ではないのですが、公平に見て、確かにサービス精神といいますか、心のこもった接客態度とは言えないかも知れません。でも、お客様に対する感謝の気持ちが薄いわけでは決してありません。


ただただ、お店の3人が不器用なだけなんです。なお、今日のお料理のメインは”餃子”です。後ほど。

玉子ラーメン4
この画像が注文した”玉子ラーメン”で、お値段は500円。


鶏ガラをじっくり煮込んでスープをとった”あっさり系”の代表格で、もちろん”醤油味”です。一時期は、この”醤油味”しか食べていなかった時代が続いていました。


ところが、今や”豚骨ラーメン”も”塩ラーメン”もなんのその!

闘牛ラーメン縮小
ところで上の画像はこのお店の”ラーメン”、お値段450円の画像です。この姿が、このお店の標準系です。


そして、更に一枚上の”玉子ラーメン”の画像と見比べてみてください。どこが違うか?


そうです、ワタシがこのお店で”ラーメン”や”玉子ラーメン”を注文すると、標準形には必ず入っている”カイワレ”を抜いて出していただく。黙っていても必ず。何年ぶりにお店に行っても、それは同じ。


その経過は、以下の記事でご紹介しています。(「サービス」の質


このお店が、常連になる前のお客さんに対しても、”細やかな気配りができる”ことをお示ししたかったために、上の古い記事を敢えてご紹介しました。


これが冒頭に書いたこのお店の、ワタシに対する”特別な配慮”です。(黙っていても、ワタシが嫌いなカイワレを除いて出していただくという)

玉子5
このお店の”玉子ラーメン”の”玉子”は、単なる”煮玉子”でしかありません。


最近流行りの”半熟玉子”でもありませんし、手の込んだお店などが出している”燻製玉子”でもありません。半分に切り分けてもいません。マルまま無造作にラーメンの中に入って出てきます。


個人的に言えば、”半熟玉子”が苦手なのでありがたい。でも、旧態然としたメニューを出しているだけではないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。


ただ、味覚というのは本来”保守的”なもの。そうでなければ”おふくろの味”などという言葉が生まれるはずがない。この”旧態然とした”と見える、この姿でワタシはいいのではないか、と思っています。

麺7
”は、典型的な”東京ラーメン”のそれで、このお店の場合”自家製麺”です。中太の縮れ麺で、カンスイが効いていて、見事に黄色に発色しています。


色だけではありません、もうプリップリの嬉しい弾力をしています。これがアッサリ醤油ラーメンによく合っているのです。


味を下品にする(と、ワタシは思っています)魚粉など、雑物は一切入っていません。十年一日の如くに作り続けてきたこのお店の味です。


ニューウェーブラーメンもいいけど、たまにはこういうキッチリした基本形をいただいて、自分の舌のチェックをしたくなります。

餃子8
さて、今日のテーマは”餃子”です。しかも”美味しい餃子”、”真っ当な餃子!”、”ジューシーな餃子”のお話です。

また、餃子を焼く鉄板の掃除がずさんながために、黒焦げになった”無残な姿の餃子”とは一線をした”餃子”のお話です。

先ず、このお店のこの”餃子”の姿をご覧になって頂きたい。これを”端正な姿”と言います。

元々中国北部が発祥の地の”餃子”です。この”餃子”の起源とも言える”餃子のミイラ”が発見されたのは1968年でした。

発見された所は、”トルファン”(中国内陸西部)にある7世紀初頭に誕生した”唐の時代”の古墳です。今から約1400年も前から、中国東北部から西北部で食べられていた古い”食品”なんです。

そして中国で一般的に食べられている餃子は”水餃子”と”蒸し餃子”、及び”揚げ餃子”で、日本のように焼いて食べる習慣は珍しい。ましてや”餃子”の餡にニンニクは入れない。(注:実は下線を引いた部分の記述が間違っていました。その間違いは、明日アップしますお店の記事で、その内容をお知らせします)

さらに中国では”餃子”は縁起のいい食べ物とされていて、日本人が正月に”お雑煮”を食べるように、中国ではお正月の5日間は”餃子”を食べる。

なお、上の画像は”餃子の断面”を撮影したいがために、店主さんに予め一個だけ包丁で断面が見えるように切ってもらって出して頂きました。

餃子アップ9
ところが、日本で中国東北部発の餃子が急速に普及したのは、戦後の焼け跡時代のこと。今の”焼き餃子”のスタイルが出来たのはその頃のこと。

当然餃子の皮も餡も手作り。餡に入るのは白菜(キャベツを入れるお店もある)中心の野菜たっぷり餃子で、肉は心持ち入っている程度。

皮は、小麦粉を水で練って、耳たぶ程度の硬さまで練り上げて棒状に伸ばして切り分ける。それを一個づつ捏ね棒で薄く平たく伸ばしていく。だから皮はモッチリと粘りがあって、皮自体も美味しい。

一枚ごとに餡を入れて、器用に指で皮に襞(ひだ)を作りながら餡を包み込んでいく。こうやって作った餃子は生きています。

熱く熱した鉄板に薄く油を引き、餃子を乗せて皮に焼き目を付ける。そして焼き目がついたら熱湯を注いで鉄板に蓋をして蒸焼にする。餃子を取り出す直前に油を軽く廻しかけて、餃子に照りをつけて取り出す。

そうすると、上の画像2枚のような端正な姿の”餃子”になります。黒く焦げた部分など微塵もないでしょう!

おまけに、皮全体にモッチリ感があります。これでなくっちゃ!餃子っていうのは。

餃子断面10
こちらが、わざわざ包丁で真横に切ってもらった”餃子の断面”です。


白菜とニラ等の野菜が中心ということが見て取れると思います。これが、パリっと焼かれた餃子を口に入れて歯を立てると、餡からジュワーーッと野菜とお肉のジュースが口中に広がる”餃子”の姿です。


もちろん、単にワタシ好みの”餃子”という前提でのお話です。大学に行くために初めて上京した時に口にした”餃子”がコレでした。これが、ワタシにとっての”三つ子の魂百まで”という味の”餃子”です。


薄い皮に包まれて、ジューシーさの全くない餃子とは、全く別の食品だと考えたほうがいいと思います。


関西に出回り北九州では主流になった、薄い皮に包まれた”一口餃子”の発祥はは、大阪北新地で1955年(昭和30年)創業の”天平”だと言われています。北新地のホステスさんたちに、”上品に食べられる”っと支持されて関西一円に広がった。


でもワタシの感覚では、”餃子”を上品にに食べることそのものが”邪道”のように思えるのです。


今日は、トコトン”味覚は保守的”というお話でした。




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「上海点心 豫園」・「愛媛グルメ紀行」 664

今日は朝生田町の、小野川の土手沿いにある”点心専門店”の”上海点心 豫園”(よえん)さんをご紹介しましょう。


このところ、本当に”餃子らしい餃子”を追い求めて、様々なお店でたて続けにいただいてきました。昨日アップした”本格的東京ラーメン”を出す”闘牛”さんで、やっとその味にたどり着きました。


ところが、ブログをリンクし合っている(ツイッターも互いにフォローし合っています):”みゆ”さん(気まま日記♪)からホット情報を頂きました。


そこで、その情報を頂いたその日のお昼には、”上海点心 豫園”(よえん)さんのカウンター席に座っていたという訳です。

玄関1
こちらがお店の玄関です。


場所は、南環状線の”ジョープラ”前の信号を南に下って、一つ目のT字路を西に向かい、次のT字路を小野川方向に南進すると小野川の土手前にあります。行き当たりの道です。


全く目立たない、知っている人しか来ないというお店です。しかも普通の”中華料理店”ではありません。”ラーメン”も”炒飯”もありません。ご飯物も麺類もありません。(注:ワタシが見たメニューには見当たりませんでしたが、別のメニューで麺料理やご飯料理があるのかも知れません)


ありますものは、”上海点心”だけです。”点心”というのは、中国の庶民には欠かせない料理で、街々の該当では盛んに”蒸し器”から湯気が上っている光景が見られます。

点心仕込み2
この画像は、お店の玄関脇で”点心”を作っている光景です。全て手作りです。”点心料理”のお店ではお馴染みの光景です。(もちろん、お店の方にお断りをして撮影したものです)


この目立たない、三流立地でお店を出されて17年が経過しました。店内におられる方は全員中国の方です。店内で飛び交う言葉は”上海語”。北京で使われてる”北京語”とは発音が全く違いますので、北京出身の中国の方でも言葉は通じません。


中国から来られた方が”中国料理店”を開かれる例は多いのですが、残念ながらある日突然”忽然とお店が無くなっている”ケースを良く見ます。


例えば、以下に揚げる3店です。(「刀削麺  溢香 (イーシャン) 」・「愛媛グルメ紀行」 438) ・ (「台湾料理 昇龍」・「愛媛グルメ紀行」 287) ・ (「中国料理居酒屋 永和」・「愛媛グルメ紀行」 273


お店の看板などもそのままでいなくなる。ワタシは不動産屋ですから、”賃貸借契約”には詳しい。上の何れの例も、”賃貸借契約違反”でしょう。賃貸借契約では、”原状回復責任”といって、借りた以前の状態に戻さなければならない。


恐らく、お店を突然閉めた彼らには”契約意識”など微塵もないに違いない。

メニュー3
そういう悲しい実例を吹き飛ばすかのように、劣勢な立地で、しかも日本人が好きな麺料理やご飯料理も一切出さず、妥協することなく”点心料理”にこだわり続けて、後3年で20年を迎える。


メニューをご覧になって下さい。照明が弱いので、ピンボケで申し訳ありませんが。愚直なまでの”点心料理”一辺倒です。何故、このお店が現在まで生き残れているか?それは”本物”を出し続けられているからでしょう。


点心には大きくいって2種類あります。それは、焼売・餃子・包来・餅・麺・飯、などの”鹹点心”(原音に近い発音で言えば=シェヌディエヌシン)と呼ばれる、塩味の点心・甘くない点心です。


もう一種は、団子・菓子・杏仁豆腐などの”甜点心”(こちらも原音に近い発音で言う=ティヌディエヌシン)と呼ばれるもので、甘味のある点心です。

小籠包4
ワタシは2種の”点心”を注文しました。


先ず出されたのが、画像の”小籠包”(日本式発音で言えば=しょうろんぽう)です。お値段は520円です。


この”小籠包”を初めて食べる人に共通する失敗談。「いきなりかじり付いて、口の中を火傷した!」、或いは「いきなりかじり付いて、中に閉じ込めてあったスープが飛び出し服を汚した!」っというもの。


小籠包”の薄い皮の中に、厳選素材を使った具とスープがたっぷりと入っています。この”スープ”をこぼさず食べることが出来たら、”点心料理”合格です。

小籠包アップ5
小籠包”の食べ方は、画像のように”レンゲ”に乗せて食べますと、スープをこぼさずに食べることが出来ます。


その、舌を火傷しかねない”熱々のスープ”を、薄い皮で包まれた”小籠包”にどうやって封じ込めたか?


コペルニクス的発想”が必要です。答えは、”熱々のスープを冷やしに冷やして、<ゼラチン状に固まらせて、薄い皮に具と一緒に包む>”でした。

小籠包肉汁6
ホラ!画像を覗きこんで見て下さい。”茶巾絞り”になっているトップの部分を切り取ると、中に”具とスープ”が詰まっているのが見えるでしょう。


これを「アフイ、ツツツ・・・アフイ・・・」っと言いながら、スープを逃がさないように大きく口を開いて食べます。そりゃあ、美味しいに決まっているでしょう!


この”小籠包”が、”上海料理”の代表格です。


その他で有名なのが”上海蟹”(しゃんはいがに)や、”生煎饅頭”(上海語に近い発音で言うと=サンジーモードゥ。一方北京語・普通語では=ションジエンマントウ)でしょう。


上海蟹”は、愛媛でいう川ガニの一種で”ツガニ”、標準語では”モクズガニ”の一種です。これが旨いのナンノって!


一方”生煎饅頭”と言えば、日本で一般的な肉まんよりも小ぶりな”包子”(パオズ)ですね。

餃子7
さて”餃子”です。昨日の”闘牛”さんで書いた記事の一部が間違っていました。何故、間違っていることが分かったのか?


お店の方に「中国では”焼き餃子”って一般的ではないのではないですか?」っと質問してみた。


するとこういう答えが返ってきた。「いえ、中語の南部では焼き餃子”は一般的で、家庭でもよく作って食べます。でも、中国でも北部では水餃子”が一般的です」っと。


そしてこう続けられました。「中国北部の家庭では、先ず”水餃子”を作って食べます。そして残った”餃子”は、次の日に”焼き餃子”として食べます」っと。


以上の記事をもって、昨日”闘牛”さんで書いた”中国では”焼き餃子”は一般的ではない”という記述を改めさせていただきます。

餃子8
それにしても、このパワフルな”餃子”、いかがですか?お値段は630円です。


この”餃子”を焼く過程を観察しました。先ず、餃子専用鉄板の熱し方です。驚くほど時間を掛けてじっくり熱します。


そしてそこに、小麦粉から練って手作りした皮に包まれた、大きめの”生の餃子”を並べていきます。それ以降も、じっくり皮に焼き色が付くまで焼いていきます。時間を掛けて。そして、昨日、この過程の後で”熱湯”を掛けて蒸焼にすると書きました。


これは、このお店の場合違っていました。”冷水”を廻しかけられました。そして蒸焼にします。焼きあがる直前に蓋を明けて、油を垂らしてテリをつけます。(最後の工程は合っていました。又冷水を掛けるか熱湯を掛けるか?これはお店によって様々なようです)


そうして丁寧に焼きあがったのがこの”餃子”です。これぞ正しく”本物の餃子!”であり”ザ・餃子!”だったのです。


餃子”の皮をコンガリと焦がしたモノの色、それに対して”餃子”を焼く鉄板を綺麗に掃除していない為に付いた、前の餃子の焦げが更に”黒く炭のように焦げた”モノの色を見比べてみてください。全く”焦げの色艶”が違うでしょう。


本物”を見分ける力は、我々食べる側にこそ求められるのです。


6個ある内の一個だけ、半分に切り分けられてるのは、例によって”餃子の餡”を撮りたいがために、お店の方にお願いしました。初めて来た客の我儘な要望に、嫌がることなく応じて頂きました。店主さんの””さん、ありがとうございました。

餃子アップ9
この”餃子の皮”を見てください。”餃子の皮”は、底地は”熱々パリパリ”、上の皮はあくまで”モチモチモッチリ”でなければいけません。


お皿の上に”グッタリうなだれて、へばりついてる”薄々の”餃子”なんて、ワタシは好みません。北の新地のオネエサン方には好まれたかも知れませんが。


餃子”は6個です。でも、この6個で、お腹一杯になります。その位に、”皮と餡のボリューム”があるのです。


麺料理”の定義は色々ありますが、皆さん知っていましたか?”中国で”餃子と言えば麺料理”に分類されます。


何故かといえば、たっぷりの小麦粉から皮ができていますが、このしっかりした皮は、中国では””そのものなんです。

餃子断面10
さあて、本当の餃子の美味しい秘密のベールをめくってみましょう。


これが”所謂(いわゆる)餃子”の美味しさの秘密です。”餡に中身の主要なものは、”ニラ”と”生姜”と”ネギ”です。


日本で戦後広まった、露天で焼かれた餃子には”カサ増し”の為に、大量の”白菜”が入れられました。その”白菜”の水分がジューシーさを演出してくれました。


ところが本場中国の”餃子”には、”白菜”は入っていませんでした。でも、でも、とっても”ジューシー”でした。


さすがに、その”ジューシー”さの秘密を聞く度胸とアツカマシサはありませんでした。


本物の餃子”にやっと出会えました。その全ては、”みゆ”さんから頂いた情報でした。


「みゆさん、ありがとうございました!」


そして、「何時か、ご一緒して”ランチ”を頂きましょう!」言葉だけのお誘いではありませんよ。^^





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「愛媛グルメ紀行」を振り返る 92

今週の土曜日の”愛媛グルメ紀行を振り返る”シリーズは、一作年の春頃にアップした274号から276号までのお店です。

先ず最初”に振り返るお店は、一昨年4月25日にアップした274番目のお店、大街道の一本西に南北に通る通りの第二スズランビル1階にある”一天張”さんです。(「一天張」・「愛媛グルメ紀行」 274

大街道2丁目の伊予銀行大街道支店中央出張所(CDやATMだけの)の角を西に入って、一本目の角を北に折れたら通りの東側のビルの1階です。

玄関1
こちらがお店の玄関です。このお店は”坦々麺”をウリとするお店で、今から6年前にオープンしました。(2012年当時)

そもそも”坦々麺”とは中国四川省の成都で生まれた””です。

坦々麺”は、四川風の”花椒”(かしょう)と”豆板醤”(トウバンジャン)と少量の”芝麻醤”(チーマージャン)を利かせた少なめのタレに、ゆで麺を入れ、豚挽肉のそぼろとネギやザーサイなどを載せたスタイルの麺です。

この中の”花椒”(かしょう)が、この麺の最大の特徴でしょう。日本の”山椒”の仲間ですが、中国の”花椒”(かしょう)は日本のものとは同属異種で、とにかく”痺れる”辛さが特徴です。

ランチ4
と言うことで、本来の姿である”汁なしタンタン麺”を注文しました。

ただし、いきなり本場のものというわけにはいきませんので、このお店では””と呼ばれているラー油と山椒が半分に抑えられているものを注文しました。


単品のお値段は580円(内税)ですが、それに”自家製杏仁豆腐”をチョイスした”ランチサービス”がこの画像のものです。お値段は700円。

食べ進むうちに、口腔内の全体がジワーっと痺れてきます。どんどん、その痺れが強くなっていきます。口の中全体が痺れてしまいますから、最後は味が分からなくなるほどです。

でも、その痺れと辛さの中に、旨さが潜んでいるのです。ここまで痺れる旨さは初めての体験です。病み付きになる美味しさでした。

従って、既に再訪しました。これからも再訪するお店になるでしょう。


二番目に振り返る275番目のお店は、2012年4月26日にご紹介した””博多 一風堂”さんです。一天張”さんの7軒北側にあります。(「博多 一風堂」・「愛媛グルメ紀行」 275

この辺りは飲食店が密集している地域で、昼間のランチタイムを競うお店でひしめき合っています。

そして、その中にあってひと際(きわ)お客さんを集めている人気店がこのお店です。

博多一風堂”さんは、ラーメン業界では”豚骨ラーメン”を全国区にのし上げた”河原成美氏”が創業したお店として有名ですね。

玄関1
こちらがお店の玄関です。その河原氏が目指したのは、豚の臭みを除去したマイルドな味の豚骨ラーメン。

実はワタシは豚骨ラーメンを苦手としています。

苦手な理由は、”豚骨ラーメン”のスープから匂う、あの”獣臭”です。

ラーメン5
さて、こちらが注文した”白丸元味”です。お値段は800円。

スープをすすってみました。唸りました。なんとまろやかなスープなのでしょう。これまでの”豚骨スープ”の概念を一新する味です。

豚骨の持つ最大最高の味を抽出し切っている、そう感じさせられました。

まあ、”流石(さすが)”としか言いようがない上品な旨さです。今まで食べた豚骨ラーメンの中では、やはり群を抜いています。

従って既に再訪しました。既に”豚骨ラーメン”苦手意識は、”久留米ラーメン”を除いて克服出来ました。


最後にご紹介するのは、シリーズ276番目のお店として2012年4月27日にアップした、福音寺にあります”ダイキ”の前の信号を右折(南に)すると、伊予鉄横河原線の踏切がありますがその手前、道路の西側にある”お食事・中華 大扇”さんです。(「お食事・中華 大扇」・「愛媛グルメ紀行」 276

”中華”との表示がありますが、どう見てもその雰囲気はしておらず、せいぜい町外れの”一杯飲み屋”といった雰囲気のお店です。

玄関2
こちらがお店の玄関です。現在の料理人は若い息子さんがやっていますが、普段はお母さんとその料理人の二人でお店をやっておられます。

お店は、お父さんとお母さんが始められて、今年で22年か23年経ったでしょうか。

中華そば上4
そこで看板に唯一表記してあった、文字通りこのお店の”看板メニュー”である”中華そば”を注文しました。

画像がその”中華そば”で、決して”ラーメン”ではありません。お値段は450円です。嬉しいですね。

丁寧に”鶏がら”で出汁をとったことがうかがえます。

そして、「ちゃんぽん?」とみまごうばかりの野菜などの具沢山!キャベツ、ニンジン、豚肉などを中華鍋で炒めて、それを卵でとじています。

いい香りが鼻腔を刺激してくれます。

従ってこのお店も既に再訪しました。メニュー数が多くはないので、今後も何度もお伺いするということにはならないと思いますが。



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「過去記事を振り返る」 3

今週の日曜日も”過去記事再掲”です。


「冬支度」 (2009年11月10日掲載)

世界の国々の中で、僅か九州ほどの面積しかない国で、亜熱帯気候から寒帯ツンドラ気候までに属している国はどこでしょう?

アメリカ合衆国のように赤道直下のグアム(アメリカ合衆国の準州)からアラスカにいたるまで、南北に長く伸びた領土を持った大国は別です。

それはチベット仏教を国教とする”ブータン王国”です。

この国は、海抜100mから海抜7,500m余りという標高差を持っていて、年中亜熱帯気候とツンドラ気候が同居しているのです。


ところで、愛媛県にはスキー場が5箇所もあるのをご存知でしょうか。

南国の四国・愛媛にです。愛媛は、ブータンには遠く及びませんが、標高0mから標高1982mという西日本最高峰の”石鎚山”を擁する縦に長い県なのです。(実は横にも長い)

石鎚山遠景1縮小
日本列島は南北に長く展開していますので、北国は既に冬の装いなのでしょうが、南国愛媛は、日中はまだ半そでで過ごすおしゃれも平地にはまだ見かけます。


そういう愛媛にも実は冬支度を急ぐ地域があります。

久万高原町”という町で、標高800mに位置します。四国の軽井沢と呼ばれていて、山々は楓やななかまどの紅葉が目に鮮やかです。

その久万高原町から、先日便りが届きました。

当社のお客様からです。「久万は、今冬篭り準備で大忙し、平地で不要になった木材があれば送って欲しい」との便りです。

冬場は暖房にもお風呂にも薪が必需品、街中では木材の切れ端などゴミにしかなりませんが、高原の町では宝物になるのです。

久万の雪
お客様の要望に応えようと、取引先の建築現場に早速手配しました。

不動産屋は何でも屋でもあるのです。どういう声でも、お声を掛けていただけるうちが華です。


なお、この「過去記事を振り返る」は、次回の4回目から”シリーズ化”しましょう。次回の4回は4月7日(月曜日)にアップし、以降、毎週月曜日にアップすることにします。


ワタシ自身が好きな過去記事だけを厳選加筆訂正して、画像を添えて週に一度アップして参ります。


なお、「過去記事を振り返る」の1回で「現在2人の方が、過去記事全読破に挑戦中です」と書きました。


その内のお一人からコメント頂き、既に”読破”を完了したそうです。頭が下がります。光栄に思います。ありがとうございました



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「愛媛の歴史特別編」・「京都 京都御苑と平安神宮」 9

今日は”京都御所”と”平安神宮”をご紹介しましょう。


先ずは”京都御所”からです。

京都御苑1
この画像は”建礼門院”(けんれいもんいん)前です。


とにかく、やたら”広い”っといった印象です。


京都御所”は、、京都府京都市上京区にあります。鎌倉時代中期から明治時代初頭まで歴代天皇が住んでいた宮殿をいいます。

京都御苑2
この画像は、”京都御所”の西側の塀が延々と続いている様子を示しています。


明治維新によって、天皇が東京の皇居(旧江戸城)に移ったため、1877年年(明治10年)からこのような形で宮内庁によって管理保存されています。


広さは、広さは約20.2ヘクタールあります。広い面積を、よく”東京ドーム”何個分の広さと例えますが、それで言いますと”東京ドーム約4.3個分”の広さに当たります。

京都御苑建礼門3
正面に見えるのが”建礼門院”(けんれいもんいん)です。


建礼門院”は、御所正面入口の正門です。開門されるのは天皇や国賓の来場や一般公開など、特別な行事の時だけです。


この奥に”紫宸殿”(ししんでん=御所の正殿で、天皇の即位式、立太子礼などの最重要儀式が執り行われた最も格式の高い建物です)があります。

京都御苑宣秋門4
京都御所”は、鎌倉時代に鎌倉幕府が擁立した”光厳天皇”(これを南北朝時代の、北朝といいます)がここにお住まいになって以降、明治天皇の東京行幸に至るまで約550年間に渡って使用され続けた内裏(だいり=天皇の私的な在所)です。


なお鎌倉幕府が擁立した”光厳天皇”を”北朝”といいますが、一方”後醍醐天皇”が吉野に転居されたことにより、朝廷が分裂しました。”後醍醐天皇”側を”南朝”と言います。


この”南北朝時代”の影響は、ここ愛媛の地にも影響を及ぼしました。昨年「松山の地名・町名由来」を40号に渡って書きましたが、その中で”南北朝期”に天皇家が分裂していた影響を受けた地名を2つ書きました。


それは、「湯山地区」(「松山市の地名・町名由来」・ 「福角町・湯山地区」 24)と、「星岡町」(「松山市の地名・町名由来」・ 「星岡町・天山町」 18)です。


中央政権の行方と地方都市であった松山とは、無関係ではあり得なかったということです。



さて次は”平安神宮”をご紹介しましょう。

平安神宮鷹天門6
この画像は、”平安神宮”の正面にある門で”鷹天門”(おうてんもん)といいます。


平安神宮”の歴史は浅く、1895年(明治28年)4月1日に、平安遷都1100年を記念して京都で開催された”内国勧業博覧会”の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画されました。


ところが用地買収に失敗して、当時は郊外であった岡崎に実物の8分の5の規模で復元されたものです。博覧会に先立つ3月15日には、平安遷都を行った天皇であった第50代”桓武天皇”(かんむてんのう)を祀る神社として創祀されものです。


画像の”鷹天門”(おうてんもん)は、”平安京”の正庁”朝堂院”(ちょうどういん=朝廷の役人が詰めていた役所)の南面正門を、明治28年に平安遷都1100年を記念して、”平安神宮の神門”として再現されたものです。国の重要文化財です。

平安神宮大極殿7
さてこの画像が、”鷹天門”(おうてんもん)を入って真正面に建っている”平安神宮大極殿”です。


基本的にはこれらの建築様式は、平安時代後期(11~122世紀)のものをを再現したものです。


この”平安神宮大極殿”も、国の重要文化財です。

平安神宮左近の桜8
この画像は、”平安神宮左近の桜”です。


左近の桜”は、平安時代から”紫宸殿”の南階下の東方に””が植えられ、儀式の時には左近近衛府(さこんこのえふ)の官人たちが、その側に列したことから”左近の桜”と名付けられたものです。

平安神宮右近の橘9
一方この画像は、”平安神宮右近の橘”です。


平安時代以降、”紫宸殿”の南階下の西方に””が植えられ、儀式の時には右近近衛府(うこんこのえふ)の官人たちが、その側に列したことから”右近の橘”と名付けられたものです。


なお””は蜜柑の一種で、唯一野生種です。その実は古くから”常世国”(とこよのくに=永遠に永続する命)の不老長寿の妙薬として珍重されてきたものです。

平安神宮泰平閣10
この画像は、”平安神宮神苑”(へいあんじんぐうしんえん)の中にある”泰平閣”(たいへいかく)です。


この”泰平閣”(たいへいかく)は、平安神宮神苑(へいあんじんぐうしんえん)にある南神苑、西神苑、中神苑、東神苑で構成されものの中の”東神苑”にあります。


京都御所”から移築されたものです。別名”橋殿”とよばれているものです。

日本最古の電車11
この画像は”日本最古の電車”です。明治28年1月31日に日本最初の交通輸送業電車として。京都電気鉄道が運行したものです。


当初は伏見線・木屋町線・鴨東線を開通、次いで明治33年に北野線を開通するなど、日本の電気鉄道の先駆としての役割を果たしました。


なお、主要路線は現在の広軌に取り替えられていったため、上の画像の電車は昭和36年7月に廃止されています。ここに展示されている電車は明治28年創業当時のもの。


なお愛媛の伊予鉄道が、松山~三津間で鉄道事業を開業いたのが明治21年10月28日。この当時はまだ電車ではありませんでしたが、愛媛が鉄道事業でいかに先進県であったかがお分かりと思います。

平安神宮東陣苑12
平安神宮神苑”(へいあんじんぐうしんえん)は、池泉回遊式の近代日本庭園。平安神宮の大極殿背後の周囲三方に配されています。


総面積はは33,000平方メートル。東京ドームの広さが47.000平方メートルですから、ドームの0.7個分の広さです。


画像は4つある神苑(しんえん)の中で”東神苑”(ひがししんえん)と呼ばれているもので、明治末期から大正初期にかけて作られました。上に、先にご紹介した”泰平閣”(たいへいかく)があるのがこの東神苑です。


平安神宮神苑”は、”東山”を借景(しゃっけい=庭園外の山や樹木、竹林などの自然物等を庭園内の風景に背景として取り込むこと)として造園されていて、明治時代を代表する名庭です。

平安神宮すっぽん13
その”東神苑”(ひがししんえん)を、しゃがみ込むようにして撮影していますと、”亀君”がスーーット近づいてきてワタシを見つめた。


「ん????ん・・??何かな?」っと怪訝な顔をして”亀君”を覗きこんだ。


すると亀君が言った。「アンタやったんやねー!松山の道後公園のお堀で、オレっちの仲間と話したというおっちゃんは!」っと。


「え・・・え?亀君、それって何のこと???」っと、訳がわからなくなった。


「しらばっくれてもダメだよー。おっちゃんはあの時、道後公園の敷地付近を””聖徳太子”が”中大兄皇子”(後の天智天皇)や”大海人皇子”(後の天武天皇)を伴って散策されたかもしれない!」って仲間の亀に話したヤロー!(「道後公園一回り」


「おっちゃんねーー!時代考証(じだいこうしょう=その話が史実に合っているかどうかを検証すること)って考えたことナイヤロー!3人が連れ立って歩けるわけないヤン!”聖徳太子”はんはヤネー、622年に49歳でお亡くなりになってるんやでー!」っと亀君、鼻息が荒い。


「”中大兄皇子”はんがお生まれになったのは626年ヤデーー!聖徳太子はんがお亡くなりになった時はまだ4歳やで!”大海人皇子”はんなんて、まだ生まれてへん。おっちゃんナーー、相手が亀やから、少々時代考証をアバウトにユーテモエエ!思たんか?」


「い、い・・・・や、そ・・・そっ・・・・ソレハ・・・・」言葉が続かない。


「オレっちの一族は何年前から、この国の歴史見てきたんか?考えてミ!」っと、ココまでいうと、すっと池の底に潜っていった。


真夏で暑くてフラフラになりそうになってたんで、夢をみてたんやろーか?・・・・


「兄貴ーーー!そこでボーーーッとしてて、何してんねん!モーーー   置いていくデー!!」っと、兄弟旅行中の弟から声がかかった。


そこで、ふっと我に返った。でも先の亀の・・・・・・???夢やったんやろうな?






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「晩酌亭にお別れ」・「愛媛グルメ紀行」 665

今日は、ワタシが現在籍を置いている会社のお隣の一杯飲み屋”晩酌亭”さんが、23年の歴史を閉じられるというので、お隣付き合いの中で、”晩酌亭さん、ありがとう!”のお別れ会と言う意味を込めて社員一同で出向きました時の記録です。


南環状線沿いの枝松にありますが、土地の買収と立退きによって23年の営業の幕を閉じることになりました。


会社がいい時も悪い時も、営業を終えた後、お隣の”晩酌亭”さんで気炎を上げるのが、当社の習わしでした。

晩酌亭1
これが昼間の”晩酌亭”さんの光景です。


この光景は、近い時期になくなることになります。(今日現在では、この光景は残っていますが)


環状線の開通によって、道路沿いの環境は激変しました。中央から大型チェーン店が軒を並べる通りに一変したのです。


そういう地域環境の大きな変化によって、その界隈の企業や個人の置かれる環境も変わらざるを得なくなったということです。

提灯2
こちらの画像が、”晩酌亭”さんの夜の姿です。


夜の帳(とばり=幕)が下りる頃、ちっちゃな”提灯”に火が灯ります。


そうしますと、どこからともなく、この画像の提灯が”誘蛾灯”になります。


常連客が暖簾をくぐります。すると、女将は手慣れたもので、常連客が何時も決まって注文する”その人にとってのフルコース”を、遅滞なく準備し、飲み具合を推し量りながら”酒の肴”として出していくのです。


私達がこのお店の”お別れ会”をこのお店で催したのは1月23日。そしてこのお店の閉店日は1月25日です。

女将3
23年間、このお店を守り通して来られたのが画像の”女将”さんです。


ワタシが籍を置いている会社の社長の同郷の方で、年格好もほぼ同年代。サラリーマンなら、とっくに定年を迎えた年頃です。


ですが、今までこの商売で現役を貫いて来られました。このお店を開店する前にも同じようなお店をやられていたようですから、松山の夜の飲み屋の歴史の一端を担って来られました。


一人の社員が女将に向かって言いました。「ところで女将!このお店閉めた後ドウサレルーーン?」っと。


するとこのお店の女将、画像の笑顔でこう応えられました。「そりゃーアンタ、引退よ!もうこの年やケン。立退きに合うたけど、まあ”潮時”やなー!って思うたんよ!」っと。

アスパラゲソ4
さて、ここからは社員一同の好みのメニューを予め伝えてあった様で、次から次へと”毎度お決まり”のメニューがテンポよく供せられました。


その筆頭は、B社員が何時も決まって真っ先に注文する”アスパラゲソ”です。


アスパラとイカのゲソを軽く炒めて、マヨネーズを添えて出されました。ゲソが柔らかくて、おまけに弾力があって、ウフフ、B社員ならずとも美味しいんです。


でもこのお料理も今日で食べ納め。女将のお料理の腕の確かさは、折り紙付きです。ですからこそ、屋台に毛が生えた程度の、夜だけの営業のお店に客が絶えなかったのです。

牛バラいため5
こちらもこのお店の一種の名物料理”牛バラいため”です。若手社員の注文の様でした。


ワタシは”魚派”ではなく、徹底的な”肉派”なので、こういう注文は大歓迎です。(90歳で亡くなる前月まで”ヤキニク”を食べ続けた、父のDNAです)


愛媛グルメ紀行”では、ほとんどの場合、いただいたメニューのお値段を書きますが、会社の花見や夏のビアガーデンなど、今まで記事にしたものは全て会社持ち。値段は分かりません。

卵焼き6
これはワタシが何時も注文する”卵焼き”です。決して料亭の”だし巻き”などではなく、普通の卵焼きです。


喉ほって唸るほどのものではありません。


卵とニネギを焼いただけのものですが、こういう席では妙に美味しい。一流料理屋さんのそれではなく、”一杯飲み屋”さんのそれです。でも、存在感があるのです。

山芋ステーキ7
こちらは、”山芋”(長芋)を摩り下ろして、ヤマキの和風出汁の素を入れ、卵を大量に入れて鉄板で焼いたお料理。


山芋ステーキ”です。フワフワトロトロの独特の食感を味わいます。


特別お料理の技量が要求されるものではなく、高級な食材を使われている訳でもありません。


ですが、社員の誰かが注文する”定番メニュー”なんです。

手羽からあげ8
この”手羽からあげ”に至っては、同じものが二皿だ出されましたが、皆が奪い合うように食べてしまって、あっという間に姿を消してしまいました。(同じものが二皿だされたものは、多くあります)


その間、各社員の思い出話、失敗談、恥ずかしい思いをした経験などが止めどもなく話され、時間が経つのはアット言う間でした。


このお店の歴史を語り合っていると、ここに集った社員たちの時間の集積も同時に一気に吹き出した感があります。


それは、閉店に立ち会うという特殊な状況が生み出した濃密な時間への、各人各様の”思い”が色濃く反映された結果でしょう。

野菜ラーメン9
皆が、最後の〆に選んだメニューが、画像の”野菜ラーメン”と、画像にはありませんがこのお店のもう一方の代表メニューである”焼き飯”です。


その二種を、銘名が小皿にとってお料理の締めくくり、つまりこのお店での締めくくりとしました。


出されたお料理は、””を始めとしてこの他にも多数あったのですが、全部を紹介しきれません。

コップ酒10
「考えてみたら、いい人生じゃったな!って思うんよ!」っとは、”女将の独白”です。


「この年になってヨーー、こうやって沢山の人に送ってもらえるなんて、ソリャーうれしいよー!」っと。


画像の”コップ酒”は、一体何人の”愚痴”を聴き続けてきたことか?一体どれだけの”悲喜劇”を見続けてきたことかとか?


この”一杯のコップ酒”に、今まで23年間見続け聞き続けてきたシーンを語らせたとしたら、それはそれで一遍のドラマになるに違いありません。

カラオケ11
このお店のすぐ近くに、規模の大きい”カラオケ屋”さんがあります。


お別れ会”に参加した面々は、文字通り”晩酌亭”さんに最後のお別れれを告げました後、一気に”カラオケ地獄コース”に突入しました。


ワタシは”カラオケ”なるものが大の苦手、一種の地獄でしかありません。でも決まってトップバッターに指名されるワタシ。


それはワタシの持ち歌が、”森山良子”さんの”さとうきび畑の唄”だからです。そうです「ザワワ  ザワワ ザワワ~~・・・」で始まる、あの長い長い曲なんです。


何故(なぜ)ワタシが何時もその歌でトップバッターを務めるかと言えば、ワタシが下手な歌を延々と歌い続けている間に、皆さん自分が歌う歌をじっくり選んで予約セットするためです。誰もワタシの歌など聞いておりません。


かくして、南環状線界隈の夜は、今日も更(ふ)けていきました。


「晩酌亭さん、長い間ありがとう!」




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「鮨・割烹 一心」・「愛媛グルメ紀行」 666

今日は高砂店3丁目の、市内電車環状線”高砂町電停”近くにある鮨・割烹の老舗”鮨・割烹 一心”さんをご紹介しましょう。


このお店は以前から知っていて、お店の店主兼板長さんとは、地域の商工会などの会合で時々お会いしましたが、実際にお店に行ったのは初めてです。


このお店は、”のしうめ”さん(割烹 「一心」さん。 漸く出会えた 美味な店♪)からの情報でもありました。

玄関1
護国神社の通りと、市内電車環状線が交差する踏切近くにあります。


ここにお店を開いて28年が経過しました。


和食”が、”ユネスコ無形文化遺産”に昨年12月登録されたことは記憶に新しいところです。


このお店は、地方に於いても”和食”の伝統を深め更に普及していこうと、意欲的に取り組んでおられるお店の一つです。

外メニュー2
主な営業は、夕方以降の””と”割烹料理”です。


但し、お昼は3種類の”ランチ”を用意されています。


ランチ”とは言っても、サラリーマンが気軽にお昼を!っというお店ではないでしょう。

カウンター3
例えば、本社は県外にあって支店や営業所が松山市のこの近辺にある。


その支店や営業所に、本社の”エライさん”が視察兼激励にやってきたとしましょう。


すると、支店長や営業所長は考える。「どこでお昼を食べていただこうか?」っと。牛丼屋やハンバーガショップや地域の食堂など、普段自分たちが食べているお店にお連れすると、自分の勤務評価はたちまち下がってしまうに違いない、っと、フツーは考える。


そこで、仕事が出来る支店長なり営業所長の頭に浮かぶのが”このお店!”っという訳です。


かくして、このお店にお昼をご案内した支店長さんや営業所長さん、「カレは、中々頑張っているようだったよ!」っと、本社の”エライさん”に評価されることになる。

ランチ梅膳4
私は3種用意されている”ランチメニュー”の中で(松・竹・梅とある)、当然に一番安い”梅膳”を注文した。お値段は消費税別で1200円。そう、再々訪れることが出来る価格ではない。


一番安いメニューではありますが、和食の膳としては基本形を整えられています。


つまり”ご飯”以下、”小鉢”、”お造り(二種盛)”、皿鉢”、”油物”、””、”漬物”です。

刺し身5
先ずこちらの画像が”お造り(二種盛)”でしょう。お造り2種は、”マグロ”(右側)と””(ぶり=左側)です。


特に””(ぶり)は、今正に”寒鰤”(かんぶり)の季節、脂が乗ってきて一番美味しい季節””(しゅん)なんです。


魚に師」と書いて””(ぶり)ですね。つまり漢字の「」は「「師走」(12月)に脂が乗って旨くなる魚ですから、その漢字を当てたのです。(実際にこのお店をお訪ねしたのは、師走12月でした)


ワタシは”お刺身”を食べませんが、さすがに本物の調理人が”引いたお造り”です。切り口が違います。


魚の肉の繊維が潰れないよう、日本刀とほぼ同じ構造で出来ている”和包丁”で、スパッと引かれていますので、そりゃあ美味しいに決まっているでしょう。


ええ、全部いただきました。やはり油の乗った””(ぶり)が特別に旨かった。

ステーキ6
こちらは”皿鉢”と呼ばれてる(恐らくそうだと思うのですが)、”フィレステーキ”です。


炙り加減(焼き具合)は、当然に”レア”でしょう。肉の表面だけを軽く焼いてありますが、ほとんどが””です。


ところでこのお店、ワタシが好きな伊予市の割烹”味芳”さん(「再訪 136 伊予 味芳」・「愛媛グルメ紀行」 564)の息子さんが修行に来ておられます。(のしうめさんの情報です)


伊予市の”味芳”さんは、ワタシが書いていますこの”愛媛グルメ紀行”(今回で666号)の中でも、数少ない”4回ご紹介のお店”です。


店主兼板長さんの”岡さん”に「どの方が、”味芳”さんの息子さんですか?」っとお伺いして「それはこの子です!」っと紹介されたのが、厨房にいる店主さんを含めて3人いる中の一番若い青年でした。


確か名札には”わき板”と書かれたネームが。”味芳”さんの5人兄弟(男ばかり)の4男さんです。

天ぷら7
この画像は”油物”と呼ばれている”天ぷら”です。


内容は、カボチャ、人参、サツマイモ、大葉のカルテット(4種)に後はイカとタコでした。


店主兼板長さんにお聞きしました。「普通、板前さん修行って、何年くらいすれば一人前になれるんですか?」っと。

茶碗蒸し8
画像は”小鉢”と呼ばれているにではないかと思った”茶碗蒸し”です。生姜がちょっと入っていて、極めて新鮮で美味しかった。


茶碗蒸し”にお約束の”鶏肉”と”銀杏”(ぎんなん)それに”海老”まで入っていて、”葛粉”(くずこ)と玉子で綴じられている餡も結構でした。(葛粉ではないかも知れません。間違っていたらゴメンナサイです)


さて、先ほどの話の続きです。「ええ、””で勉強する人なら3、4年でお店に立てるでしょう」っと。不思議な言い方をなさいました。


「エッ?””で勉強とは?」っとワタシ。


「ええ、沢山の料理本が出ていますし、インターネットで調べればありとあらゆる料理のレシピが出てきます。でもアレは”数字”で料理を掴もうとする方法です」っと”岡さん”。

味噌汁9
これは””と示された”味噌汁”です。割烹の腕の善し悪しは、すべからく””で知ることができます。いい出汁をとっているかどうか?です。もちろん、このお店の”味噌汁”、すこぶる旨い!


「”数字”で勉強するとは、汁を作るのに、一人前”小さじ一杯”(約5グラム)とかで覚えようとすることです」っと”岡さん”。


「でも我々”和食の職人”は、”数字”で料理を覚えるのではなく””で覚えるものです」っと続けられます。


「そうすると、そうですねー、一人前になるには少なくとも14~15年はかかるでしょうね」っと。

漬物10
ここの店主兼板長さんの”岡さん”は、”愛媛 包友会”を主催されています。


このお店に修業に来ている、伊予市の”味芳”さんの4男さんのお父さんも”愛媛 包友会”のメンバーです。


あの、15歳から板前の修業をなさってきた”味芳”の店主さんが、安心して自分の息子(同じく15歳から板前修業に入った)さんを預けようというのですから、その信頼度は自ずと分かろうというものです。


そして、ワタシが通算記事”1000号”で採り上げた、ロープウェイ街にある”たきざわ”さんもそのメンバーで、”岡さん”のお弟子さんに当たられるそうです。(今日 1,000号 「たきざわ」・「愛媛グルメ紀行」 234


この会に属するメンバーのお店は、共通して月曜日が定休日。その定休日には、時々集まってお料理の研鑽を今でも続けておられるとか。


今日このお店で、また新しい”ご縁”が繋がりました。これがワタシのブログの目指すところです。


さあ明日は、新たな角度で縁が繋がった、大街道ロープウェイ街の”たきざわ”さんをお訪ねすることにいたしましょう。3回目の訪問となります。




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「再訪 198 たきざわ」・「愛媛グルメ紀行」 667

今日は、大街道3丁目ロープウェー街に2012年11月にオープンした和食のお店”たきざわ”さんの3度目のご紹介です。


このお店を初めてご紹介したのは、2012年2月27日のことでした。ワタシが書いてきたブログの丁度”1000号”に当たるときに「1,000号は、1,000回の出会い」と題してご紹介しました。(今日 1,000号 「たきざわ」・「愛媛グルメ紀行」 234)。


2回目にご紹介しましたのは、2013年4月10日でした。(「再訪 103 たきざわ」・「愛媛グルメ紀行」 508


そしてこのタイミングでご紹介したのは、昨日ご紹介したばかりの高砂町電停近くにある鮨・割烹の老舗”鮨・割烹 一心”さんとの繋がりです。

玄関1
こちらがロープウェイ街にあるお店の”玄関”です。


何時もお店をお訪ねする時刻を過ぎ、丁度正午頃にお訪ねしました。


すると、店内にはカウンター席に一人の男性客が、椅子席には2組の女性客が入っていました。開業後、1年余り経過し、概ね順調に推移されてるようでした。

外メニュー2
メニューは、こうやってロープウェイ街の歩道に掲げられています。


ワタシは”まかないランチ”と名付けられた、お値段850円のメニューを注文しました。


当日の”メインディッシュ”は、”ハモフライ”でした。

店内3
店内には、店主さん兼板長さんの”たきざわ”さんと、昨年入ったという若い板前修行中の方の2人体制です。


昨日ご紹介した”鮨・割烹 一心”さんとの繋がりは、”たきざわ”さんが松山に帰られて4年間、”一心”さんの店主兼板長さんである””さんの下で修行を積まれたという御縁だそうです。


もちろん、伊予市の名割烹”味芳”さんとも旧知の間柄で、”岡”さんが主催されている”包友会”のメンバーであり、常日頃お互いに”研鑽”を積み重ねておられるそうです。

まかないランチ4
こちらが、当日の”まかないランチ”です。メインは、冬には珍しい””(はも)料理でした。


鱧(はも)料理”で有名なのは、ご承知のように夏に好んで食される”京都”です。


真夏の”祇園祭”の頃に、”湯引き”された鱧を”梅肉”などで食べると精がつくと言われ、季節の風物詩的な”食材”です。


鱧はウナギの仲間ですが、ウナギの様に外洋を回遊せず、沿岸部に生息していますから、”底引き網”で年中捕れる魚です。


最大消費地の”京都”はよく知らてていますが、案外知られていないのが水揚げ高です。”愛媛”、特に”八幡浜”は日本で第三位の””水揚げ漁港なんです。つまり、鱧は地元食材なんです。

ハモフライ5
鱧は小骨が多いため、食べるには”骨切り”という職人技を要する食材です。昨日”一心の岡”さんが仰った”本・数字”で学んだ職人さんでは、到底調理は無理です。


日本食の職人さんで、その技量を推し量るときに”鱧の骨切り”技術を評して、「一寸(約3cm)の間に、26筋の包丁の刃を入れられるかどうか」でその技量を表現するという見方があります。


この”ハモフライ”、鱧のあの小骨を微塵も感じさせない手際でした。お見事という他ありません。


”自体はどちらかと言うと淡白な味です。ですからフライの衣にしっかり味が付いています。何もつけずに、そのまま食べて美味しいように調理されています。


「いやーーHさん、Hさんさんが初めてウチのお店をブログでご紹介いただいた時、夫婦で写真に収まってでしょう。あの画像をみて、このお店に来たというお客さんが結構いらっしゃるんですよ」っとは”たきざわ”さん。


「そうですか!現在では1700号を超えていますから、そういう方がいらっしゃるかも知れませんね」っとワタシ。

ニンジン6
これが”職人技”の”和包丁”の切れ味です。どうです?和食の修行を積まれた職人さんにしか出来ない”包丁さばき”です。


「えええーー!、ウチを初めてブログで採り上げて頂いたには、確か”1000号”の時でしたよね!それがもう1700号ですか!」っと”たきざわ”さん。


「そう言えば、二人お子さんがいらっしゃいますが、もう何歳におなりですか?」っとワタシ。


「ええ、上の子は、もう今年小学生ですよ!」っと。その子が、奥様のお腹にいるときに出会いました。歳月を重ねたものです。


初めての出会いと言っても、ホンの数回物件をご紹介したというだけの縁です。時間にすれば僅か数時間にに過ぎませんでした。ところが、”人と人の出会い”は回数でも延時間でもないという証の様な出会いでした。

お刺身7
そしてこちらが”お刺身”です。お刺身は、”カツオ”と”サワラ”でした。


カツオの””は、日本近海では年に2回あります。高知沖で5月から6月に捕れる”初鰹”と、9月から10月にかけて捕れる”戻りカツオ”です。


また”サワラ”は漢字は魚偏に春で””と書きますが、春に産卵のために沿岸へ寄るため人目に付きやいので”春を告げる魚”という意味の漢字が当てられています。


ところが、”鰆(サワラ)”の旬は、実は冬なのです。冬は脂が乗り”寒鰆”と呼ばれて、一番美味しい季節なのですが、漁獲量も少なく、所謂(いわゆる)”冬の高級魚”なのです。


しかも、生の食材をただ切っただけで提供するということはありません。ちゃんと炙ったり湯引きしたりの下処理をされて、一番美味しい食し方が出来るように仕事をなされて供せられます。プロの手業の奥深さに唸らざるを得ません。


なお、やや””を外れた”カツオ”と、まさに””を迎えた”サワラ”を今の時期に、何故(なぜ)組合されたのか?という問いを話しかけるタイミングはありませんでした。お昼の一番忙しい時間帯だっからです。


幾ら旧知の仲とは言え、ランチタイムの繁忙時間帯に板長さんに話しかけるには”マナー違反”だと考えるからです。

小鉢8
こちらは”小鉢”と呼ばれるお料理で、蕪(かぶ)と烏賊(いか)と蛸(たこ)の酢の物仕立てになっています。


それも、それぞれ3種の食材を薄く薄く切って、それぞれの食材の旨味と個性を殺さない程度の薄い酢味にまとめられています。一品一品、手を抜かず丁寧に仕事がなされています。


和食」が、”ユネスコ無形文化遺産”に昨年12月登録されたことは、まさに当を得たものだと思います。一種の芸術作品を見る思いです。

吸い物9
何時も「和食」をテーマに書くときに、そのお店のお料理の水準を測るバロメーターは””だと書いてきました。


特に、味噌汁ではなく、純粋に出汁の良し悪しを味わうには”お吸い物”に限ります。


「出汁をとる」という意味で「出汁を引く」という同義語があります。


普通に「出汁をとる」という場合は、乾物(昆布・干し椎茸)や魚介類(両生類・貝類を含む)から出る灰汁(あく)を取る作業が中心です。


ところが「出汁を引く」とは、一部の食材(鰹節ゃ煮干し等)では灰汁(あく)取りだけでは使用出来ません。


その後「漉す」(こす)作業が必要となります。灰汁をとる作業と濾す作業の流れを、「出汁を引く」と総称して言うのだということを、ある和食の職人さんに教わったことがあります。


このお店の”お吸い物”は、まさに「出汁を引いて」作ってあります。同じ出汁でも出汁の味の奥が深い。

ご飯10
そして最後にこの”ご飯”のテリ、輝きをご覧になって下さい。一粒一粒が光り輝いているでしょう。


日本人はお米を食べる民族で良かった!って思える瞬間ですよね。しかも”ジャポニカ米”でないとこうはなりません。


これなら、塩を少し振っただけで茶碗一杯くらいなら軽くイケますね。ご飯もお料理の大切な要素です。ただたんに空腹を満たせばそれでいいという世界とはまた別の世界ですね。


たきざわ”さんとは、忙しい合間を縫ってお料理談義に花が咲きましたが、詳細は書ききれません。お城山の真下、ロープウェイ街の中ほどにあって、行きやすいお店なので、私のお薦め”和食”のお店としてご紹介しました。


なお店主兼板長さんの”たきざわ”さん、お客様がお店を出られる時、必ず玄関の外まで出て見送られます。私が今年に入って1月8日に採り上げた、久万高原町の”キッチン スプーン”さんのお見送りと同じです。(「再訪 193 キッチン・スプーン」・「愛媛グルメ紀行」 654


つまり、真の職人さんの本当の”おもてなし”とは、お料理の素晴らしさに加えてこれを言うのです。ぜひ、プロの心こもった”おもてなし”を心ゆくまで味わって見て下さい。




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「和風レストラン よしだ屋」・「愛媛グルメ紀行」 668

今日は北条まで遠出して、旧北条市では屈指の老舗”和風レストラン よしだ屋”さんをご紹介します。


このお店を訪問するきっかけになったのは、何時も情報を頂いている”のしうめ”さんの以下の記事です。(北条 よしだ屋さんへ 飛び込む♪


国道196号線沿いの北条でも北部、中西外にあります。

玄関1
このお店は、元々旧北条市の中心部である””にあって、今の女将のお父さんが終戦直後にお店を開かれました。


ですから、通算業歴では70年近くになります。旧北条市では、屈指の”割烹料亭”でした。


そして、ある事情で今のこの場所に移られました。移られてからでも、既に17年が経過しました。

店内2
今から3年前、2011年1月5日に””は86歳の生涯を閉じました。


その母の故郷が”旧北条市”です。具体的には、母の母(ワタシにとってはおばあちゃん)の生まれ故郷が、”旧北条市八反地”です。


母の母は、母が小学生の頃亡くなりましたからワタシは顔を知りません。母は、母親の愛情を受けることなく育っています。


灯台のよう   ふるさとに    母が居る」、これが母の”墓碑銘”です。


ワタシは、旧北条市に来る度に、この””が頭に浮かびます。旧北条市は、ワタシにとっては、一種の聖地です。

メニュー3
さて、お話を元に戻しましょう。実は、このお店が””にあった頃の”割烹”には何度もお訪ねしていました。


と言いますのは、地元のある有力企業の”忘年会”に毎年決まって招待され出席していました。もう、20年以上前のことです。


でも、その企業は今はもうありませんし、呼んでいただいた社長さんも亡くなりました。時間というものは、時には残酷です。


さて、注文したのはこのお店の看板メニューである”鯛めし膳”です。お値段980円、内税です。

鯛めし膳4
この画像が、注文した”鯛めし膳”です。これで980円はお値打ちだと思いました。


このお店を含めて、今週はここまで”和食”のお店を3軒ご紹介しました。それぞれのお料理とお値段設定を見比べてみるのも面白いかも知れませんね。


鯛めし膳”の内容は、”鯛めし”をメインに、”天ぷら”、”茶碗蒸し”、”煮物”、”味噌汁”、”漬物”です。


通常の和定食系には付き物の”お造り”が含まれていませんが、これで十分な内容だと思いました。

鯛めしアップ
これがこのお店の、と言うより”旧北条市”の、いえいえ、”愛媛を代表する郷土料理”である”鯛めし”です。

どうです!この御飯の色と照り。米が照り輝いています。”鯛めし”の色が、思いの外白いのは、普通の醤油は使わず”白醤油”を使っておられるからではないかと思いました。但し、素人の観測です。

愛媛の人なら先刻ご承知でしょうが、愛媛には2種類の”鯛めし”があります。

このお店の”鯛めし”のように、一尾丸ごと焼いた鯛を、醤油や塩で味付けした半炊き状態の炊き込みご飯の上に載せ、さらに加熱して完成させる”炊き込ご飯”方式のもの。これは、東予と中予地方で見られる料理です。

一方南予で(但し、南予一帯と言うわけではなく、宇和島市で昭和の後期、或いは平成に入ってに開発されたものではないでしょうか?)言われる”鯛めし”は、鯛の刺身をご飯に載せ、特製のタレと生卵、ゴマやきざみねぎなどの薬味を混ぜたものを言います。

但しワタシは南予人ですが、南予でも上に書いた、鯛の刺身を乗せる料理法なんてありませんでした。平成に年号が変わる前に、”観光用”に考案されたものが、現在”愛媛の郷土料理”と呼ばせる”南予鯛めし”ではないか?という認識を持っています。

それ以前は、鯵(あじ)を材料に使う”日向飯”(ひゅうがめし)が、ほんとうの意味での、そして歴史的経過を伝える”南予郷土料理”だと、南予人であるワタシは思っています。

茶碗蒸し6
さて、こちらは”茶碗蒸し”です。


この”茶碗蒸し”、三つ葉と柚子が効いています。柚子片を入れることで、香りを高めることはもちろん、今の季節感を表しています。


そして、”茶碗蒸し”お約束の、鶏肉・銀杏がちゃんと入れられています。


この”お約束の”という言葉の意味です。それぞれのお料理には、原則としてこの食材は欠かせないというものがあります。簡単なようで、この”お約束の”という姿勢を維持するのは容易ではありません。

天ぷら7
こちらはお料理の華、”天ぷら”です。


中身は、”ししとう”、”ナス”、”カボチャ”、”海老”、”蓮根”、そして”椎茸と海老の間に詰め物をした”ものです。


海老は”サイマキ”クラス(サイマキとは、体長5~6cmの幼エビ)でしたが、シッカリ”えび天”でした。


最近”食材偽装”問題で揺れる飲食業界で、”芝海老”の代わりに”バナメイエビ”を使っている事が話題を賑わしました。


その”バナメイエビ”の天ぷらも、実際に食べてみました。


これが、”見事に美味しい”のです。騙されるのは訳ないことです。でもこの”食材偽装”問題は、”和食の職人”を愚弄した話です。


職人が、食材を間違えて使った」などという、経営陣の話は”欺瞞”に過ぎません。職人が、”芝海老”と”バナメイエビ”を間違えるなんてあり得ません。


食材偽装事件”を、”厨房の和食職人”の無知なるが故、と言い逃れようとする経営陣の”人品骨柄の卑しさ”を目の当たりにしました。


全て「自分は知らなかった!現場の職人教育が間違っていた」などという、恥ずかしい”責任逃れ”をしようとする”経営陣”の”恥知らずな浅知恵”を、同じ日本人として恥ずかしくなります。

煮物8
こちらは”煮物”です。


”揚げの巻物”、”クワイ”、”タケノコ”、”カボチャ”の面々です。


これが、惚れ惚れする”お出汁”で””煮含め”られているのです。


それぞれの食材の持ち味を最大限に引き出した”お出汁”。見事です。

味噌汁9
和食で””は、味の土台です。”煮物”においても然りです。


鰹や昆布から、どれだけ贅沢に(フンダンに)”お出汁”を取っているか?


それで、全体のお料理の格が決まります。もちろんこの”味噌汁”、文句ありません。


ただ、我儘を言わせていただくとしたら、”汁”は”吸い物”に限ります。

漬物10
最後は”香の物”(漬物)です。中身は大根と白菜。


どうです、この瑞瑞(みずみず)しさ。塩辛過ぎず、野菜の旨味が熟成されています。


出された日本茶のお茶請けにもなります。


全てにバランスが取れていて、コンパクトにまとめられたお料理、やはり”和食職人”の腕の冴えは凄い!


ワタシの、一方の”故郷”の味を堪能させて頂きました。


「ご馳走様でした!」





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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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