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「吉田町の風景と歴史」 2

今日も、昨日に続いて宇和島市吉田町の風景をご紹介する中で、南予”宇和島藩”の歴史にその名を残す”一揆”のお話を紹介しましょう。


吉田町は、”宇和島伊達家”から分地して作られた三万石の”御陣屋”を中心に発展してきた町であることは昨日書きました。

その吉田町が発展してきた基盤である”陣屋町”を再現したものが、吉田町”吉田ふれあい 国安の郷”と名づけられ、当時の素朴な田舎町としての風情や、商家や武家の洗練された文化の香りが再現されています。

門1   その”吉田ふれあい 国安の郷”の正面入り口がこの”表門”です。


この中に、武家屋敷や商家や農家、更には漁家などが再現され、当時の調度品などとともに当時の活気に満ちた庶民の暮らしの一端に触れ合う事ができるようになっています。


さて、この”吉田ふれあい 国安の郷”の中心施設が、”吉田伊達家”の御用商人であった”法華津屋三引高月家の本店”が移築された施設です。


この”法華津屋三引高月家”が、これからお話する”武左衛門一揆”の一方の当事者になります。


一揆の背景は、新藩であった”吉田藩”の財政の窮乏にあります。


当時、「宇和島物持、吉田貧乏」という言葉がありました。新藩の吉田の百姓の暮らしの厳しさを表わしています。

全体図2   財政が窮乏していた吉田藩は、吉田でも”山奥筋”(現在の鬼北町辺り)という山村の山民たちに製紙のもとになる”楮(こうぞ)”を植えさせ、紙漉(かみすき)きもやらせました。


吉田藩は、出来た”泉貨紙”(せんかし)と呼ばれていた紙をまとめて大阪に送り現金を得て、厳しい財政を支えていました。


”泉貨紙”とは、2枚の生紙を合わせた厚手で強靱な楮紙(こうぞがみ)のことで、ワタシの郷里に昔から伝わる和紙のことです。


なお、この”泉貨紙”を考案したのは今の西予市野村町の”兵頭太郎左衛門”で、ワタシの実家の直ぐ傍の”安楽寺”に大きな墓所があります。


本題に戻ります。藩が”泉貨紙”を直接商売をするわけにはいきませんので、吉田の豪商であった”法華津屋”に専売品として取り仕切らせたのです。


ですから、紙を一手に握った”法華津家”の儲けは莫大になる一方、紙の作り手である農民はほどんどただ働きに近く、その窮迫と不満がたまりにたまっていき、遂には”一揆”の話が吉田の”山奥筋”と呼ばれていた地区で起こったのです。

法華津家屋敷3   この建物が”武左衛門一揆”の一方の当事者となった”法華津屋三引高月家の本店”を移設した建物です。


当時法華津屋が、栄耀栄華を誇った豪商であったことが偲ばれます。


「一揆をおこそう!」と、家々を廻る貧しい浄瑠璃(じょうるり)語り(チョンガリとかケタウチともいう)になりすまし三年間の間に領内を組織してまわったのは、山奥筋でももっとも奥の”大野村”(現在鬼北町の日吉)に住む”武左衛門”という百姓でした。


”武左衛門”たちが優れていたのは、この準備が巧みで秘密が最後まで漏れなかったこと、一揆の目標を””に直接向けないで、”法華津屋”に向けたことだと言われています。


藩や役人の面目を丸つぶしにすることにならないように、しかし藩と一体となっている”法華津屋”を攻撃することで、一揆の効果としては藩を直撃しようというものでした。


そして、一揆の行動形式は”法華津屋”の”建物を大綱で引き倒す”というものです。


日本の一揆とは、最近の中東のゲリラや自爆攻撃などとは全く様相が異なり、なんだか大らかさせ感じさせるではありませんか。

天井の梁4   この”法華津屋”の天井の大きな梁や棟木などに大綱を引っ掛けて、何百人もが大綱を引っ張り、声を合わせて建物を倒壊させようというものです。


一揆を起こし大綱で法華津屋を引き倒すというだけで、吉田藩という小藩は震え上がりました。


しかし、一揆の方向は吉田藩をつぶしてみても無駄で、むしろ宇和島に出て本藩をゆすぶろうというものに変わり、吉田藩の全ての領民がこぞって宇和島を目指しました。その数1万人に迫るものとなりました。


この”一揆の向け先”が”法華津屋”から”宇和島藩”になぜ変わったのか?その理由は分かりません。


この一揆の方向が変わったことを捉えて、”一揆”は宇和島藩自体が仕組んだのではないか?という疑念が当時からあったそうです。


仕組んだ理由は、”一揆”騒動の責任を吉田藩に問うて、一度分地した”吉田藩”を再度宇和島藩に併合してしまおうという企みです。でも、真相は闇の中です。

帳場5   ”宇和島藩”自体が仕組んだものかどうかは別として、この一揆は、吉田藩を乗り越えて”宇和島伊達家”を揺るがす大事件に発展したのです。


しかし、ここからです、昨日書いた”和霊騒動(山家事件)”と共通点のある収束をを迎えます。


その騒動の収束の仕方に、当時の宇和島伊達藩、あるいは南予地方に特有のポイントがあると、ワタシは考えています。

座敷6   この一揆は、結果的には大成功を収め、一揆側は宇和島の本藩を仲介役に選び、その要求をことごとく吉田藩に入れさせました。


この大事件を、一揆を弾圧して終わる結果とはさせず、百姓側の勝利に終わらせた一方の要因となったのが、吉田藩家老”安藤義太夫継明(つぐあき)”です。


安藤継明”は当時48歳、騒動を収束させるには犠牲がいると判断し、その犠牲の役を自ら担いました。


それは、本藩の宇和島伊達家にとっての吉田藩の責任を考えた時、また一揆に参加した吉田藩のほとんどの領民の犠牲を最小限に抑えるためには、際立った犠牲がいると考え、それに一番の適任であるのが自分だと悟ったのです。

米蔵7   安藤が決した朝(寛政5年2月14日、1793年)、安藤は一揆の衆が集まっている八幡河原に出向き、一人従者を伴って堤をのぼり、一揆の代表数人を呼んで、一揆の経過を詫び、堤の上に鋏箱を置き、その上に腰を下ろして、そのまま一気に腹を切りましたた。


その切腹の介錯は、一人連れて行った彼の従者が行いました。


切腹した”八幡河原”は、今の宇和島市伊吹町にある”八幡神社”前の須賀川の河原だといわれています。


一藩の家老が農民一揆に侘びて切腹するするというのは、江戸期を通じて例がなかったのではないかと作家の司馬遼太郎さんは書いています。


そして、司馬遼太郎さんは、宇和島”和霊騒動”の一方の当事者で犠牲となった”山家(やんべ)清兵衛”以来の農民に対する伝統的態度が、安藤にもなお生きていた、と書いておられます。


もし、”一揆”を宇和島藩が仕組んだものだったとしたら、吉田藩家老の”安藤継明”が自ら切腹を選んだことで宇和島藩は吉田藩自体の責任を問えなくなったことになります。


”安藤継明”は、自らの命という代償で宇和島藩の野望を挫いたことになったたのかも知れません。

安藤神社5   今、吉田町には、一揆の農民や町民達の命を一身で守った”安藤継明”を祭った”安藤神社”があります。


この”安藤神社”は、明治6年安藤屋敷跡に”継明神社”として建立された後、”安藤神社”と改称され今日に至っています。


この”安藤神社”建立に先立つ1854年に安藤継明を讃え信仰する人達によって海蔵寺には”安藤継明廟所”が作られ、長く吉田の人々の奉り敬うところとして慕われてきました。

奉納太鼓6   今も、この”安藤神社”では、毎朝”安藤継明”の威徳を偲んで”奉納の太鼓”が打ち続けられています。


安藤神社”と”安藤継明”は、宇和島の”山家清兵衛”における”和霊神社”の存在と同じような存在として、今も吉田町の人々の心の中で生き続けているのです。


なお、一揆を起こした側にも当然のこととして犠牲者はいました。一揆はどの藩にとってもご法度になっていますから。


結局、大野村(今の鬼北町日吉)の”武左衛門”一人が斬罪に処せられ、他に一緒に捕まった20名余りは永牢(終身刑)に処せられましたが、安藤継明の17回忌のときに大赦されて牢を出ることができました。


一揆を起こした側の責任者として処刑された”武左衛門”は、当然最初から自分の命が永らえることはできないと覚悟を定めていました。


旧日吉村”の人たちは彼の処刑後も、表立っては彼の功績や威徳を偲ぶことははばかられましたが、”いのこ歌”などに巧みに詠み込んで後世まで語り繋ぎ、明治になってやっと彼を偲ぶ””が作られました。


宇和島伊達家を揺るがし、吉田藩を震撼させた”武左衛門一揆”は、こうして当時の大事件としては異例の、犠牲者が家老と一揆の首謀者だけで終わると言う結末を迎えました。


当時の宇和島藩や、その分家である吉田藩には、庶民や農民の側に立ち、命をかける役人や農民が存在していたということです。


さて、現在ですが・・・・・・



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おはようございます♪

吉田町、興味深く拝見しています(*^^*)
バイク趣味のウチのチョビンが、今度行く予定にしている所です(*^^*)

この連休は混むと思うので、サンデー毎日な人間は平日にと思って居ます(笑)
昨日大きなバイク事故が有ったので、ちょっとビビッている爺ライダーです(*^▽^*)

ところで、田安の郷ですが、『吉田ふれあい 国安の郷』では無いかと、チョビンが言います。
宇和島で貰ったパンフレットにも、国安と書かれて有るのですが・・・
ご確認下さいませm(_ _)m

アレーー

ベル様
おはようございます。

吉田町の件、「吉田ふれあい 国安の郷」で間違いないですね。早速のご指摘ありがとうございました。

字が似ているので見間違ったのですね。アレ、慌てモノ目が。

早速訂正します。今ならまだ間に合う。アアーー、良かった、助かりました。

無知な自分

こんにちは!

勉強になります!!と同時に自分の無知さが恥ずかしいです。愛媛の歴史をもっと勉強しないといけないと思います。

いえいえ

M様
確かに愛媛に住んでいますので、愛媛の歴史に関心を持つという「理屈」は分かります。

でも、考えてみたら、どの県に住んでいようがその県や地方の歴史に興味を持っても、それを追求してみようなどという人はむしろ変人に属するでしょう。その意味ではワタシも変人の一人かも知れません。

でも、たまたま興味をもってそれらを調べる機会に恵まれたものが、そういう過去の様々なことを独り占めにしないで語り継いでいく、このことが大切ではないかと思いアップしました。

でも、大方の人にとってはただ退屈な話だけかも知れません。それが分かっていても、敢えて書きたかっただけです。

お忙しい中を、疲れておられる中を読んでいただいただけで感謝感謝です。どうもありがとうございました。

No title

私はかねてより江戸時代の伊予国が多くの小藩に分かれていたことに興味をいだいていました。
また、伊予松平家が家康の異父弟(異母弟は掃いて捨てるほどいそうですが)を、伊達家が政宗の庶子を藩祖とすることに因縁じみたものを感じたりもします。どちらも一筋縄ではいかない母系の情念と言うのでしょうか。
このレビューを読んでそんなことをチラッと思いました。連休のゆったりタイムにちょっと歴史に思いを馳せるのもわるくないですネ。

ほぉぉぉぉ!

吉田町の壮大なるドラマを初めて知り、ちょっぴり呆然。
和霊騒動なら存じておりましたが、そこともリンクしてたとは。
歴史って面白いですねー。
それぞれの出来事が独立してるんじゃなくて、ちゃんと関連してる。
まぁ、当然っちゃあ当然ですが。

ただ…頭が悪くて記憶に留めるコトができないんですよねーww

一揆がバッドエンドにならなかったのは、
武左衛門と継明という、二人の賢人がいたからなんですね。
自身の命をも顧みず、何かを成さんとする気概。
人として、男として、心に染みます。

明日のシリーズ最終話が楽しみです♪(*´∀`*)

おはようございます

ファットマン様
伊予と言う国は、日本の歴史の中で記録・記憶に残るほどの大きな騒動を起こさず今日まで至っており先ず。

歴史的に名の残る人物、特に権力闘争・抗争における際立った人物は出ておりません。
江戸期に入る以前から小国に分裂していて、小さな小競り合いしか経験しなかった国です。戦国後期には一時期、お隣の土佐の長宗我部に占領されていたくらいです。その時も際立った反攻はしていません。

なぜ、これほどに従順な国であったのか?それが謎です。松山松平家も、宇和島伊達家についても、分かる範囲で調べましたが、コレだというものはつかみきれませんでした。

まだまだ探求が足らないということでしょう。長い文を読んでいただいてありがとうございます。
なお、3日からの4日間は「しまなみ海道と村上水軍の歴史」をアップします。お時間がありましたら、目を通していただければありがたいです。

最終回は

ジンゴズンゴ様
おはようございます。早速読んでいただき、更にコメントいただきありがとうございます。

ジンゴズンゴさんも、和霊騒動のことは書いておられましたからよくご存知ですね。
それを、藩の財政事情とその運営に視点を当てて眺めてみると、一つのつながりが見えてきます。
それが、歴史の面白いところだと思います。
記憶が衰えない内に書いておきたかったものですから、欲張って長くなってしまいました。

ところで、お恥ずかしい話、今日の最終回は皆さんをアッと言わせるほどのオチはありません。やや尻切れトンボになってしまいました。精力のほとんどを昨日アップした分に集中したためです。お恥ずかしい。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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