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「松山城お壕の春」・と忘れられた歴史 1

今日から3回に分けて、”松山城のお壕の春”の写真を背景に、”「松山城お壕の春」と忘れられた歴史”をお届けします。


今日と明日と、20日(火曜日)にアップします。


先ず今日はその1回目です。

白梅逆光1   梅の花の盛りは、通年であれば2月でしょう。


ですが、今年は例年にないくらい寒い日々が続きました。


でも、”堀の内”のお壕のを歩いてみると、もう春の日差しを”白梅”越しにも感じることが出来て、春の到来を実感できます。

白梅と壕の波2   お壕の水面に揺らぐ西堀端のビルの陰を前に、”白梅”がその最後を飾ろうと咲き誇っています。


もう間もなく、主役を””に譲ることになりますが”ソメイヨシノ”の蕾はまだ固く、まだしばらくは紅梅と白梅が私たちの目を楽しませてくれることでしょう。

白梅中央アップ3   ”白梅”の雄蕊と雌蕊は、精一杯背伸びをしているように受粉をまっています。


梅の花々には、ミツバチたちが忙しなく飛び交い受粉のお手伝いです。

紅梅壕ツツジ4   今は、のんびりと春の陽光を受けて佇んでいる”お壕”ですが、この”お壕”が埋め立てられる運命にあったことを知っている方は少ないかも知れません。


第二次世界大戦の敗戦を受けて、堀の内には”米軍の司令部”が置かれていました。


その愛媛軍政部司令官シアルス中佐が、当時の安井松山市長に「お壕の埋め立て命令」を下したのは昭和23年秋のことです。


その表だった理由は「お濠が不潔だから埋立よ!」というもの。

紅梅と壕の波5   とことが、愛媛軍政部司令官”シアルス中佐”の本当に狙いは「お濠の埋立跡地に高層商店街を建設して後世に遺し、”米軍松山進駐記念”としたい」というものだったのです。


軍人の考えそうなことです。


世界中至る所に残っている様々な”戦勝記念”の類を”松山城のお壕”を埋め立てて残そうとしたのです。


当然、命令を受けたほうは驚愕しました。


松山城”は、1607年に、”加藤嘉明”が関が原の戦いの戦功により正木(今の松前)城主10万石から加増されて20万石の大名となったのを期に築城を始めました。


その時の普請奉行は、”重信川”にその名を残した”足立重信”です。


そういう歴史をもった”天下の名城”のお壕を、米軍司令官の功名心が押しつぶそうとしたのです。

紅梅6   当時の安井市長は、昭和24年11月に「南側を除く外濠全部の埋立工事費と跡地払下関係予算案」を市議会に提案しました。


当然のごとく、市議会は当初は強行にこれに反対しました。


しかし、「進駐軍司令官の命令」という錦の御旗を掲げた市長の説得に服し、遂に8月12日全会一致を以って予算案を可決してしまったのです。

噴水7   ここに、”松山城のお壕”の埋め立てが決定されました。


この時点で、”お壕”の運命は決まっていたのです。

幼稚園児と噴水8   今ではお壕の周りを、近隣の幼稚園児たちが保育士さんに手を引かれて巡っています。


壕の中の”噴水”は、何事も無かったかのように春の日差しの中で水を噴き上げています。



松山城お壕埋め立て事件”の結末は、明日に引き継ぐことにしましょう。




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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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