しまなみ海道と村上水軍の歴史 3

今日は”しまなみ海道と村上水軍の歴史”のミニシリーズ3回目です。


今日は、大三島にある”大山祇神社”(おおやまづみじんじゃ)の画像を見ながら”村上水軍の歴史”をたどってみましょう。


この”大山祇神社”は、”日本総鎮守守”とあります。これは、平安時代に朝廷から「日本総鎮守」の号を下賜されていることに由来します。


全国津々浦々に広がっている”三島神”ともいう”大山祇神”を祭る総本社です。全国の分社は1万社余りを数えます。

山門1
大山祇神社”の歴史は古く、何と神話時代に遡ります。


大山祇大神”は”天照大神(あまてらすおおみかみ)”の兄神と伝えられ、”天孫降臨”(てんそんこうりん=神が地上に降り立った)に際して、女木花開耶姫命を皇妃として国を建てた建国の大神とされます。

雨乞い楠2
”大山祇神社”に入ると目に見えてくるのがこの”大楠”です。


雨乞いの楠”といわれ、天然記念物に指定されています。


何と、日本最古の楠木だそうで、樹齢3000年以上。

乎知命手植え楠3
こちらの大楠は”乎知命(おちのみこと)手植え楠”といわれ、御神木でもあります。樹齢は2600年。


なお”乎知(おち)”は、この当時、今の”越智”をこう表記していました。愛媛の東予地区で”越智姓”が多いのは、”乎知郡”という地名に由来するのだとワタシは考えています。


何れにせよ、もう気が遠くなりそうな時間的空間です。


この2本の大楠の他に、境内には大小約200本の楠木が植わっていて、これら”大山祇神社楠木群”は国指定の天然記念物に指定されています。その指定樹だけでも38本を数えます。

乎知命手植え楠4
もうとてつもない神社です、圧倒されます。


何しろ、歴代の天皇家、源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、国宝、重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっているそうですから、腰を抜かしそうになるのもムリはないでしょう。


また檜皮葺(ひわだぶき)・三間社流造りの”本殿””拝殿”などは、国の重要文化財となっています。


つい最近、4月21日付けの愛媛新聞で”大山祇神社”が所有する、鎌倉時代から江戸時代後期の「大山祇神社三島家文書」210点を重要文化財に指定するように、国の文化審議会が文部科学省に答申したと報じたことは記憶に新しいところです。


まさに”大三島”は”宝の島”なのです。

門裏5
さて”村上水軍の歴史”です。


村上水軍”が世に出たといいますか、一躍の日本中の注目を集めるきっかけとなったのは”周防の国”(今の山口県)の”毛利元就”(もうり もとなり)が西国の雄に上り詰めることになった”厳島の闘い”(いつくしまのたたかい=今の広島県厳島での戦い)です。


周防の”毛利元就”が、周防国の戦国大名大内氏の重臣であって下克上で主家の大内氏を滅ぼした”陶 晴賢”(すえ はるかた)を”厳島の闘い”において破った時のことです。


詳しいことは省略しますが、地方の一大名であった”毛利元就”(もうり もとなり)軍と、竹原(今の広島県竹原市)小早川家に養子にやって小早川家を継いだ自分の三男であった”小早川隆景”(こばやかわ たかかげ)との連合軍が、”陶 晴賢”軍を厳島に誘い込み、劣勢を跳ね返して殲滅したのです。

本殿6
この海戦の勝因は、”小早川隆景”が”村上武吉”率いる”村上水軍”を味方に引き入れたことだと言われています。


この海戦以降、”毛利元就”は、織田信長と天下の覇権(はけん)を争う”西国の雄”に躍り出ていきます。


また、”村上水軍”も、この闘い以降は”毛利水軍”の主力水軍に組み込まれていきます。


村上武吉”は、本拠地の野島から近い竹原の”小早川隆景”の誘いに乗ったということになっていますが、武吉(たけよし)は元々計算高い人。


どちらの味方についたほうが自分の利益になるかを十分に考え抜いた結果、小早川隆景の誘いに乗ったといいます。


その価値判断の元になったのは、昨日書いた、村上武吉が築いた”海の関所”であり”帆別銭(ほべちせん)”だと言われています。


”陶 晴賢”は村上の”帆別銭”を認めないという立場だった一方、”毛利元就”はそれを認めました。

本殿裏7
ここに、この先、”村上水軍”が滅ぶ”遠因”が歴史の中にビルトイン(組み込まれて)されていったのです。


帆別銭”という権益を守ってくれる”毛利・小早川水軍”の主力水軍として、この後”村上水軍”は大阪の”木津川口の闘い”を2度戦います。


この時の毛利家の当主は”毛利元就”(もとなり)から、その孫の”毛利輝元”(もうり てるもと)に移っています。


村上水軍”を主力部隊とした”毛利・小早川連合軍”の闘いの相手は、あの”織田信長”です。


織田信長”は、中学や高校の歴史で学んだとおり”楽市・楽座”といって、関所における通行税的な無駄を排して、自由に通行し交易することで富を生み出すことを考えた、いわば近代人のハシリのような人物です。


なお、日本の歴史において織田信長より早く”楽市楽座”を唱えたのは”美濃の国”(今の岐阜県)で覇権を取った”斎藤道三”(さいとう どうさん)ですが、ここでは詳しくは触れません。また別の機会に。


さて一方の、村上武吉(たけよし)は通行税(帆別銭)などの既得権益を徹底的に守りたい立場です。


互いが対立・激突するのは歴史の必然です。


明日は最終回です。


今日登場した人物の中で”小早川隆景”(こばやかわ たかかげ)の名前を覚えておいて下さい、少なくとも明日までは。

斎田10
なお最後の画像は、愛媛県の無形文化財に指定されている”一人相撲”の舞台の前にある”斎田(さいでん)”です。


この”斎田(さいでん)”では、大山祇神社の伝統的神事である”御田植祭”と”抜穂祭”とが行われます。




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No title

大山祇神社は本来は山の神さまなのですが、山の神さまのお社が、海の近くにある、というのもおもしろいですね。でもまぁこんぴらさんが海から離れた場所にお社があるのを考えたら、似たようなものかと思いますが。その大三島の反対側に私が大学のとき書を習った先生の美術館があります。出来のよくない学生で、、。(笑) 松山市役所の壁面に大きく市章とともに「松山市」と書いてある文字も村上先生の字なのですが、用事があって市役所に行く度に、もっとちゃんとした字を書かんか、と叱られているような気がして、、今も市役所に行くと、あの字を見ては、大学時代、書道製作の授業で作品を先生に見ていただいた日のことを思い出したりします。

村上三島先生

謙介 様
コメントありがとうございました。見ていただいたのですね。

それにしても、村上先生のお弟子さんだとは、大変なものですね。

今回は、「村上水軍」に焦点をあてていましたので、美術館にはお邪魔しませんでした。

先生の本名は正一(まさかず)さんと仰るそうですが、村上水軍の元となった「三島村上(さんとう むらかみ)」の三島(さんとう)を名乗られましたね。やはり何かの因縁があるのでしょうか。

悪筆であるワタシからすれば、書道を学ばれたというだけで恐れ多いと尊敬いたします。
いい休日をお過ごしください。ありがとうございました。

No title

村上先生の号には二つの意味があります。ひとつはもちろん、ご出身のこの大三島の「三島」です。もうひとつは大阪に出てこられてからのお住まいが大阪府三島郡だったのです。その「三島」とふたつつの意味を掛け合わせて、と伺っています。私の行った大学の書道実習室は2階にあったのですが、先生、足がお悪かったので、先生の授業だけ1階の別の教室で行っていたのを思い出しました。

なるほど

謙介様

村上先生の号のいわれ、お教え頂いてありがとうございました。
もちろん「大三島」の「三島」から来ていることは分かりますが、先生の大阪での出発点の地名にも由来していたとは、お弟子さんでないと知りえないことですね。

お蔭様で、愛媛が生んだ筆の偉人の根っこに少しだけ触れることができました。「村上水軍」を書いた甲斐があったというものです。改めて御礼申し上げます。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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