スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

しまなみ海道と村上水軍の歴史 4

今日が”しまなみ海道と村上水軍の歴史”のミニシリーズの最終回です。


本来は、尾道まで足を伸ばして様々な風景を収めたかったのですが、カメラ片手に駆け回る体力に自信がなくなりました。


そこで、写真取材は広島県の”生口島”(いくちじま)までにしました。


今日の画像は、”生口島観光”のハイライトとなる”耕三寺”の風景です。

山門1
こちらが、”耕三寺”の入り口にあたる”山門”です。


「ここはどこ???日本??」っという雰囲気の山門です。


この”潮聲山 耕三寺”は、れっきとした浄土真宗本願寺派の寺院ですが、大阪で大口径特殊鋼管の製造会社を経営された方が個人で開山された寺院です。


寺院の境内では、絢爛豪華な堂塔が数多く配置されています。


それらの建物の特徴は、豪華絢爛と言えば言えなくもない、しかし派手派手しい装飾はちょっと異様な雰囲気すら漂っています。悪く言えば悪趣味。


でも、豊臣秀吉だって派手派手しい”聚楽第”を作ったし、徳川家康だって死後、日光に”東照宮”を造営させた。


こちらの5枚目と6枚目の”孝養門”は、あの”東照宮”の”陽明門”の度派手な装飾と瓜二つです。


功なり名を遂げた方の、世の常でしょう。

桜五重塔2
こちらは”五重塔”で、撮影した時は桜が満開でした。

   
さて、”村上水軍”の歴史です。


厳島の闘い”で”毛利・小早川連合軍”の主力部隊として活躍し一躍名を挙げた”村上水軍”は、瀬戸内海の制海権を完全に握ります。


時は、”織田信長”が京に上洛し、天下に号令しようと目指していた時期です。


この当時”織田信長”は、大阪の”西山本願寺”を攻めようとしていました。


西山本願寺”の法主(ほっす=最高指導者)”顕如”(けんにょ)は、並みの大名など比較にならないほどの権力と財力と兵力を持って”織田信長”に対峙していました。


西山本願寺の”顕如”は、西の”毛利・小早川連合軍”と、北の”上杉謙信軍”を味方に引き入れ、自ら指揮する”一向宗宗徒”で”織田信長”を挟み撃ちにする戦略を採ります。


その主戦場が、大阪湾に注ぐ”木津川”の河口で、毛利軍は”村上水軍”を立て、織田軍は伊勢の”九鬼水軍”を立てての大海戦が二度に渡って繰り広げられたのです。

僧宝蔵と桜3
結果は、”第一次木津川口の闘い”では”村上水軍”の大活躍で織田信長側の”九鬼水軍”を撃破しました。


”村上水軍”は、ますます”毛利・小早川連合軍”にはなくてはならない存在になったのです。


ところが、”第二次木津川口の闘い”では、織田信長の鉄砲・大筒・大砲で武装した”鉄甲船6隻”を率いる”九鬼水軍"の前に、これまで無敗を誇ってきた”村上水軍”は大敗をきしてしまいます。


勢いに乗った”織田信長”は、一気に中国地方の”毛利・小早川連合軍”を攻めようと”羽柴秀吉”(後の豊臣秀吉)を派遣します。


ところが、歴史に明らかなように、秀吉が中国攻めをしている最中に”織田信長”は”本能寺の変”で倒れるのです。


ここから後は、ご承知のように”豊臣秀吉”の時代になって行きます。


毛利家は、中国地方第一の大名として残り、毛利元就の第三子の”小早川隆景”も秀吉につきます。


後に、”小早川隆景”は、秀吉につき軍功を挙げたことで、”伊予一国”(今の愛媛県のほぼ全域)を与えられ支配することになるのです。


隆景は自分の根拠地を今の広島県三原市に置いたまま、”湯築城”(今の道後公園)に入城し、養子の”小早川秀包”を”大津”(今の大洲市)に配するなど伊予国を統治し、中世以降の伊予の一大豪族であった”河野通直”を道後に隠居させて旧河野家家臣などをその配下としました。


しかし、”小早川隆景”の伊予国支配は2年で終わります。


また、”豊臣秀吉”についたことから、秀吉の義理の甥(秀吉の正室”北の政所”の甥)である後の”小早川秀秋”を養子に受け入れることになります。

桜と法宝蔵4
歴史の皮肉でしょうか、自分も毛利家から養子に出され”小早川家”を継いだのですが、秀吉の義理の甥を養子に迎え入れたことが、後の日本の歴史を変えることにつながっていったのです。


これまで瀬戸内海の制海権を握って”毛利軍”についていた”村上水軍”の命運は、この時代に一気に天下人に上り詰めた”豊臣秀吉”によって息の根を止められます。


秀吉は1588年”海賊停止令”を出し、”村上水軍”の解体にかかりました。


三島(さんとう)村上家”は完全に三家に分断され、それぞれ細々とその命脈を保つことになりました。


今でも、今治周辺には”村上水軍”の末裔が多く住んでいます。


通行料(帆別銭)という既得権益を守りたい”村上水軍”は、織田信長に叛旗を翻す立場を貫いたために、既得権益を破壊する側の豊臣秀吉に狙われたのです。


”木津川口の闘い”の第一回目で勝利したことが、皮肉にも”村上水軍”滅亡という歴史的シナリオにビルトインされたと昨日書いたのは、上の経過を指します。

孝養門5
さて、”豊臣秀吉”が天下を握った前後からは、いわゆる”太閤記”の世界です。


映画やテレビや小説など、あらゆる媒体で繰り返し巻き返し取り上げられていますので、今更ワタシがここで触れることはありません。


ただ、秀吉の死後”徳川家康”の時代に移る狭間の中で、1600年、ご承知の天下分け目の戦い”関が原の闘い”を迎えます。

孝養門6
この”関が原の闘い”で東軍の”徳川家康”に対し、西軍は”豊臣秀頼”の元に”石田光成”が控えますが、彼は基本的には文官です。


従って、主力部隊は”毛利軍”とならざるを得ず、”毛利輝元”は西軍の総大将として大坂城に入って布陣しました。


しかしご存知のように、この”関が原の闘い”の帰趨(きすう=ゆくえ)は、西軍に付いていた”小早川秀秋”の寝返りにより、一気に東軍の勝利となったのです。


先に皮肉なと書いたのは、”毛利家”の運命です。


毛利元就”が小早川家に養子に出した第三子である”小早川隆景”と連合軍を形成し、西方から天下をうかがう勢いを見せていた時代もありました。


しかし、その”小早川隆景”の養子である”小早川秀秋”の裏切りにより西軍は敗れ去り、”毛利軍”は周防に逃げ帰らざるを得なかったのです。


その後、江戸時代を通じて”毛利家”は、本州の西の果ての”周防”一国に追いやられて命脈を保ちます。

本堂9
ところが、江戸幕府も264年間の太平を保ちましたが、1867年に大政奉還をし江戸時代は終わりを告げました。


その江戸幕府を追い詰めたのが、実質的には”毛利家”の長州勢であったことは、これも歴史の皮肉と言えないでしょうか。


「江戸の敵は長崎で討て」という言葉がありますが、「関が原の敵は、江戸で討て」となったことはいかにも・・・・・しかし、歴史って面白いと思いませんか?


4日間に渡って、”しまなみ海道”の風景を眺めながら”村上水軍”の歴史を語りました。


独断と偏見に満ちた記述になったかも知れませんが、愛媛に住み、松山でこのブログを記しているワタシとしては、何時かは触れたいテーマでした。


連休の初めには”吉田町歴史”の一部にも触れました。


長々とした記事になりましたが、最後までお付き合い頂いた方に感謝して筆を置くことにしましょう。


ありがとうございました。





スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

No title

4日間にわたってとても楽しませていただきました。ありがとうございました。
村上水軍の盛衰。それと表裏一体をなす毛利氏の台頭、織豊政権下での挫折。とても分かりやすかったです。
それとほとんどスポットがあたらない小早川氏の伊予支配についても。小早川隆景、秀秋父子と村上水軍の関係を通して戦国時代を俯瞰するのも面白いかもしれませんね。

いいアドバイス

ファットマン様
長い文章をお読み頂きありがとうございます。

以前から、何時かは記録したいと思っていました。しかし、鎌倉時代から明治夜明けまでを駆け足で記述しますと、やはり長くなりました。
しかも、思いっきりはしょって駆け足になっていますので、つながりが分かりにくかったかも知れません。

ちょうど、アドバイスいただいたように、小早川の伊予支配と伊予の豪族「河野氏」についても調べたことがあり、何時かチャンスがあれば書きたいと考えていたところです。アドバイスありがとうございました。

ただ、この分野はこちらが思い入れている割に受けないテーマですね。

毎日楽しみに拝見させて頂きました。歴史シリーズ、解りやすくまとめられていて勉強になります!!ただどうコメント入れたらいいか悩んでました。学識がないのがばれそうで(^^ゞ
皆さん私と同じような感じじゃないのかなあ!?

確かに

M様

忙しい中コメントありがとうございました。
確かに、仰る通り、興味があってもその度合いはそれぞれに違いますね。ですから、読んでみて、ホーソーカと思っても、それ以上のものは浮かばないというのが現実かも知れません。

ワタシは逆に、異常に歴史に興味があって昔から歴史の記述があるとそちらに目を奪われるという時期がありましたから。そちらの方が、普通ではないですね。

でも、少なくとも愛媛に関する歴史については、覚えている間に一度は書いておきたい、そういう単純な気持ちで臨んでいます。お気軽な気持ちで、また他に書いたときは目を通していただければうれしいです。

こちらも遅レスになりましたが

4日間、更新を楽しみにしながら
ケータイの画面を舐めるように読破してました。
長期シリーズ、大変お疲れ様ですm(_ _)m
じゅんさんの深い見識を再確認させて頂くと同時に、
歴史が苦手な私は
「村上水軍って聞いたコトあるけどなんだべ~?」なレベルだったので
とーっても勉強になりました。ありがとうございます!!!

このジャンル、受けないんですかね?
私はスッゴイ楽しみで、
次回はどんな歴史を教えてもらえるのかワクワクしてます♪

余り

ジンゴズンゴ様
わざわざコメントいただき、恐縮です。

確かに余り受けないようですが、まあワタシとしては、このテーマは書きたいから書く分野なので。

愛媛でずっと暮らしていて、本などを読んだとき、愛媛の歴史に関することが出てくると書き留めておく習慣があります。

ブログを始めていなかったら、それらのストックはゴミの山。記憶も薄れます。ブログを書き始めたために、日の目を見る機会を得ました。
それだけで十分うれしいことなのです。
長い文を読んでいただき、本当にありがとうございました。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。