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伊予の豪族河野氏の歴史と善応寺 1

今日と明日と明後日の3日間は、旧北条市河野にある古刹”善応寺”の風景を見ながら、伊予国で中世以降に勃興し一時期中予一体を支配した豪族の”河野氏”の歴史を見ていきたいと思います。


これらの項は旧北条市が昭和56年3月に発刊した「北条市誌」の歴史編を参考にしながら、今まで書いてきた”愛媛の歴史”シリーズも振り返りながらお話いたします。


風早を象徴する霊峰”高縄山”と、風早平野の中から生い育った伊予国きっての豪族”河野氏”が、正史上に姿を現したのは、今から約830年前の治承5年(1181年)。


「吾妻鏡」(あずまかがみ)に「治承5年2月、伊予国住人”河野四郎越智通清”(みちきよ)が反平氏の兵をあげ伊予国を押領したという聞こえがあった」と記されています。


なお河野氏の「河野」という(うじ)は、名字地”河野郷”に由来していますが、これは全国に共通する氏(うじ)(今で言う姓名の「姓」に当たります)の成り立ちです。


さて在地領主として発展してきた新興の河野氏が、歴史の表舞台に登場し伊予国一の豪族としてのし上がっていったきっかけはどうだったのかはもう少し後で語ります。

山1
上の画像は今の”善応寺”が建っている、元の地域名で言いますと”河野郡土居”に見える山々の姿です。


さて河野氏が挙兵当初以来、河野氏の本拠の城として絶えずその名があげられていた”高縄山城”はどこにあったか。(河野氏が歴史の表舞台に登場するきっかけとなった挙兵は後に触れます)


海抜986mの高縄山山頂は、旗揚げなどで一時的軍用に使われたのかも知れませんが「楯籠(たてこ)もる」城には相応しいとは言えません。


農耕地が展開し、武士団の常住可能な条件を備えている場所が近くにある城は、河野郡内では、高縄山の西麓”雄甲城”(おんごう)・”雌甲城”(めんごう)と”高穴城”(たこな)の三城が相当しています。


この三城と背後にそびえる高縄山一帯を総称して”高縄山城”と言ったのではないかと、「北条市誌」には記載されています。

石碑2
善応寺の山門の前には、この寺が河野氏の発祥の地となったことを示す石碑が立てられています。


善応寺一帯は河野郡土居と呼ばれていましたが、河野氏はこの地を拠点に勢力を拡大していくことになります。


領地と領民を支配するために土居の中でも展望がきく高さ70mの高台(善応寺部落が立地する)に、壮大な居館をつくり、その周辺に一族郎党の屋敷を設けた上に、前三城を築き、典型的な中世城郭としたのです。

山門3
上の画像が、現在の”好成山善応寺”(こうじょうざん ぜんおうじ)の山門です。


河野通盛”(みちもり)は、建武年間(1334~6)に高縄山城から、交通至便で周辺に河野氏領が広く展開していて、その領地支配に好都合な松山平野の道後温泉に近接した”湯築城”(道後公園)にその本拠地を移しました。


そして、建武三年(1336年)、通盛(みちもり)は、本拠を”湯築城”に移した機会に永年居宅としていた土居館(どいのたち)を改築し、河野氏寺(こうのうじでら)として京の東福寺に擬した禅寺”好成山善応寺”を建て、通盛の恩師南山士雲の弟子正堂士顕を、周敷郡北条(元東予市)の長福寺から招いて開山しました。

河野氏墓石4
「善応寺縁起」によりますと、創建当時の寺は、伽藍仏殿・法堂(はっとう)・僧堂・方丈など七堂があったといいます。


更には、温玉庵(おんぎょくあん)・千手院(せんじゅいん)などの十三塔頭がならび、威容を呈していたと記されています。


現在の善応寺は江戸中期再建されたものです。


なお”善応寺”の開山にまで至る河野氏の歴史をもう少し詳しく見ておきましょう。


河野氏が正史に登場し、伊予国における中世の豪族にのし上がっていくきかっけとなったのが”源平の戦い”です。


治承4年冬、”源頼朝”(みなもと よりとも、有名な源義経の兄)の挙兵から数ヶ月しかたっていない源平両軍勢優劣が定めがたい時点で、しかも平氏の勢力圏である瀬戸内海のど真ん中の高縄城で、”河野通清”が頼朝に呼応して反平氏の兵を挙げたことは、まさに家運をかけた一大賭博でした。


河野通清が頼朝に組した理由は色々考えられますが、平安期には一地方官に過ぎなかった河野氏が、風早の里の一族一門束ねて、中予周辺の勢力を一気に独占しようという野望があったことは容易に想像できることです。

また、風早郡に隣接する越智郡を中心とし、東は周布・桑村の両郡から新居郡まで、西は浮穴・伊予の両郡まで勢力を伸ばしていた”新居氏”が河野氏の前に大きく立ちはだかっていました。


河野氏の最大のライバルであった新居氏は平氏に組していて、瀬戸内で勢力を一気に伸ばそうと企んでいましたから、河野氏は帰趨(きすう=どういう結果になるか)の行方定まらぬ時期とはいえ、源氏に組して立ち上がる他なかったのです。


そして一族の存亡を賭けた大博打に勝利し、源頼朝によって伊予国支配を認められ河野氏は伊予国支配の基礎を固めていきました。そのことが”風早郡から道後の”湯築城”への築城移転、”善応寺”の開山とつながったのです。


明日も明後日も、伊予国で中世に輝いた地方豪族”河野氏の歴史”を見ていきます。




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No title

じゅんさん こんにちは
昨日お書きになったうどんの雅さんからちょっと北に行って右折して
ゆるやかに上っていったら善応寺ですね。
古代の国庁跡を何箇所かたずねたことがあるのですが、やはりどの国の国庁もみんなちょっとした小高い場所にあって、周囲を望めるような
場所に設置されることが多かったのだなぁ、と思いました。この善応寺もそうですね。 前にこのお寺おまいりしました。静かで落ち着いたたたずまい、本当によかったです。今は臨済宗のお寺のようですね。

そうです

謙介様
そうです、「うどんの雅」さんから少し山手に入った小高い丘に建っています。

この善応寺が建てられているところに中世期を代表する城郭が建っていました。この辺り一体が、城郭を守る砦でもあったわけです。

ですから、敵の動静を見渡せる立地が必要でした。必然的にこの場所に建てられたのです。

河野氏が出た北条は母の出身地ですので、何時かは「河野氏」の外史(歴史家ではなく、一般の人が書いた歴史)を書いてみたいと思っていました。
あと2日間続きます。地味な話で人気あるテーマではありませんが、知っていることを書き残しておきたいと考えました。

じゅんさん、こんにちは~♪

ご無沙汰してしまって申し訳ありませんm(_ _)m
いつもマメにコメントしていただいてるのに
なんか身辺ざわついてまして、この体たらくです。
ごめんなさい…(´・ω・`)

善応寺、私からすると
「夢うららに行く途中にあるお寺」って認識ですが、
場所の認識方法は人それぞれですねw

一度だけ立ち寄って写真も撮ったりしたんですが
じゅんさんほど語れるモノが無くて
結局放置してますwww

河野氏の歴史、勉強させていただきますm(_ _)m

そうです

ジンズゴンズ様

そうです。「夢うらら」に行って取材兼食事をした帰りによって、画像だけは写しておいたものです。ですから、画像の稲がまだ小さい。

でもかつてより「河野氏」の歴史については触れておきたいと思っていましたので、やっと画像が使えました。あまり面白い話題ではありませんが、愛媛に住むものとして、せめて記録だけは残しておきたいと。

乱さんもなんだか急に切迫したみたいで、皆さんそれぞれに事情があって落ちついておられないこともあるでしょう。

そこにいくと、ワタシなどこんな平平凡凡な時間を過ごしてていいのだろうか?と、お二人に申し訳なく思います。

具体的なお手伝いができない以上、ブログアップはお二人に成り代わりワタシが相務めさせていただきます。及ばずながらも。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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