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村上水軍と河野氏・「家紋」を巡って 1

今年の5月3日から6日までの4回に分けて「しまなみ海道と村上水軍の歴史」という題で、「愛媛の歴史」の一端を書きました。(しまなみ海道と村上水軍の歴史 1

また、「伊予の豪族河野氏の歴史と善応寺」という題で9月15日から17日までの3回に分けて、「愛媛の歴史」シリーズに付け加える意味で書きました。(伊予の豪族河野氏の歴史と善応寺 1

本日からの3日間と、来週の土日(12月1日と2日)の2日間、合計5日間で、上2回のミニシリーズで書き残したことを補う形で、「伊予国中世史」の隙間を埋めてみたいと考えています。

「伊予国」の中世期を語る前に、それより以前の古墳時代から平安時代までの「伊予国」の状況をまとめておきましょう。

「伊予国」で一番古い記録に残っている豪族は”越智氏”です。つまり”越智氏”が伊予では最も早く勢力を成した一族で、”越智郷”(現在の今治市国分付近)が出自(自分の祖先)とされています。

また”越智氏”は、元々、「小千」「小市」「乎千」などとも記され”国造家”(くにのみやつこけ=古代日本における地方官)に端を発する、古代から続いて中世期までその影響力を誇った伊予の名族です。

越智氏”の出自とされる”小市国造”(おちの くにのみやつこ)は、実在性が濃厚な”天皇”の中では最古と言われる”応神天皇”の時代の記録に残っています。時代で言うと”古墳時代”のことです。

越智氏”の最盛期は奈良時代から平安時代で、当時の勢力範囲は、最近の研究では「伊予国」の東予地域から南予の宇和地域(ワタシの郷里)までと、今の愛媛県の広範囲を支配下に置いていました。

また”越智氏”は、奈良時代から平安時代にかけて、”平安京の宮廷”でも上位の役人を勤めたり、大宰府で国の外交を担い、文化の件でもその時代の中心勢力として活躍しました。

乎知手植え楠
こちらの大楠は”大山祗神社”にある”乎知命(おちのみこと)手植え楠”といわれ、御神木でもあります。樹齢は2600年。ここでも”乎知”の名前が出てきます。

また”越智氏”と同族だと言われる”新居氏”は、今の西条市近くで勢力を誇った名族で、平安期に全盛期を迎えた一族です。

その”新居氏”は、実は”相撲人”として世の中に出た一族です。”相撲”は、現在の”相撲”とは全く地位や役割りが違っていた時代です。”相撲”は、平安朝の宮廷で年に一度開かれた”神事”です。

ですから”相撲人”になるには、単に力が強いというだけでなく、各地の名族でないとなれない、神職に近い職でした。

新居氏”は、東西で1名ずつ合計2名いた、今で言う”横綱”の”西の横綱”を張っていた名族です。その”新居氏”は、当時「伊予国」第一の名族”越智氏”を名乗ることで、自分の出自を高め、越智氏も”新居氏”の宮廷での役割りを配慮し”越智氏”を名乗ることを許したのではないかと考えられています。

そして、越智氏や新居氏から後の、平安時代後期から室町時代まで伊予国第一の豪族になった”河野氏”も、古代からの伊予国随一の名族であった”越智氏”の一族を名乗って、自分の出自を越智氏にあやかった時代があったということでしょう。

以上のことを念頭に置きながら、「伊予国」の中世期を概観してみましょう。

「伊予国」の中世期を語る上で、見逃すことが出来ないのが”村上水軍”と”河野氏”、それと伊予古代以来の豪族”越智氏”で、それらの関係を語ることで5月と9月に書いた伊予国中世期の隙間が少しでも埋められるのではないか、というのが本稿の狙いです。

つまり、伊予古代以来の豪族”越智氏中世期に伊予国で一番の勢力を誇った”河野氏中世期に瀬戸内海の制海権を握って活躍した”村上水軍=村上氏”の関係を”家紋”をキーワードに見てみようということです。

それを考える上で外せない位置にいるのが大三島にある”大山祗神社”(おおやまずみじんじゃ)です。

何故なら、越智氏も河野氏も村上氏も共に”大山祗神社”を氏神とし、相互に影響を与え合い、更には自家の”家紋”に”大山祗神社の神紋”を用いているからです。

なお、大山祇神社の社家は”三島大祝家”と呼ばれ、伊予小市国造(いよ おちの くにのみやつこ)の越智氏の後裔であり、河野氏とは先祖を同じくする同族であるとも言われています。

ただし、村上水軍の村上氏の家紋は””を用いていますが、それは後で述べます。

大山祗神社折敷に縮三文字5
上の画像は、”大山祗神社の神紋”です。この”神紋”は”折敷に縮三文字”と呼ばれるものです。

折敷”(おしき)とは、四方に折り縁を付けた角盆・隅切盆のことで、神饌(しんせん=神社や神棚に供える供物の事)を盛る器のことです。

善応寺折敷家紋12
上の画像が”折敷”(おしき)です。この折敷は河野氏の氏寺”善応寺の折敷”です。

また”折敷”(正八角形)の中の「三」という文字の形の違いで、”折敷に波三文字”・”折敷に角三文字”・”折敷に縮三文字”と”角切三”の四種ありますが、大山祗神社の神紋は”折敷に縮三文字”と言って、「三」の文字の中央部分が上に盛り上がっているのが特徴です。

村上水軍船印22
上の画像は”村上水軍”の”船印”(ふなじるし)です。ここには”村上家”の家紋である””の文字が見えますが、その上部には四種の”三文字”の内の”角三文字”と呼ばれる文字が見られます。

村上水軍”の起源などは、5月に詳細を書いていますのでそちらを参照していただければありがたいです。

つまり”村上氏”は、地元の古来よりの豪族”越智氏”や、新興勢力的な”河野氏”とは姻戚関係や、時にはその配下に編入されたり、逆に叛いて争ったりと、中世の時代に伊予の地で深い影響力を持った一族です。

ですが、自らの出自(自分の祖先)は、天皇家を祖とする”源氏”の一族であるという系譜を作って、一族の氏神である”大山祗神社”の”神紋”を家紋とすることとは一線を画したいと考えたのかも知れません。

なお、この時代は勢力を得て豪族にのし上がる過程で、どの氏族も自分の出自(自分の先祖)を権威付けるために、ほぼ例外なく”源平藤橘”(げんぺいとうきつ)のどれかを自分の祖先だとして家系図を作ったものです。

”とは源氏のこと、””とは平氏のこと、””とは藤原氏のこと、そして””とは橘氏のことで、この四姓は日本における貴種名族の四つのことです。

ですから”村上氏”の出自も、系図自体の真偽ということになりますと、上の例に漏れないものでしょう。

また”大山祗神社”の神官の方にお話をお伺いしたところ、”村上氏”は船印としてを使っていましたが、同時に”折敷に縮三文字”の家紋も使っていたのではないかと推論されていました。

その根拠として、”村上氏”は豊臣秀吉の”海賊禁止令”によってその命脈を絶たれましたが、その後僅かに命脈を繋いだ周防(山口県)の”村上氏”の一族は今でも”折敷に縮三文字”の家紋を使っていると話されました。

善能寺家紋13
上の画像は、”河野氏”の氏寺である”善能寺”の”寺紋”です。この河野氏の氏寺である”善応寺”も”折敷に縮三文字”を使っています。

”善応寺”のことは9月に詳しく書いておりますので、そちらをご参照下さい。(伊予の豪族河野氏の歴史と善応寺 2

この中世期(平安時代末期)に伊予では一番の豪族にのし上った”河野氏”が正史上に姿を現したのは、今から約830年前の治承5年(1181年)。

それは「吾妻鏡」(あずまかがみ)に「治承5年2月、伊予国住人”河野四郎越智通清”(みちきよ)が反平氏の兵をあげ伊予国を押領したという聞こえがあった」と記されています。

ここで着目すべきは、”河野氏”はその勃興期において伊予の古代以来の豪族であった”越智氏”の姓を名乗っていることです。

”河野氏”も勢力を得ていく過程の一時期、伊予古来の名族である”越智氏”を名乗り、自分の出自に権威を付けたかったということでしょう。実際は、”越智氏”と”河野氏”の関係を証明する資料はありません。

宝巌寺賽銭箱家紋18
上の画像は、松山市道後湯月町にある”宝厳寺”の賽銭箱に示された”寺紋”です。この寺も”折敷に縮三文字”を使っています。(道後「宝厳寺」の春

それも当然です。この”宝厳寺”は”時宗”の開祖”一遍上人”の生誕地で知られています。

その”一遍上人”とは、伊予(今の愛媛)の中世の豪族”河野通広”の第2子です。

しかも”宝厳寺”を建てたのは、伊予の豪族である河野一族の”得能通網”であるというつながりがあるからです。

なお余談ながら、近代俳句を開いた伊予松山出身である”正岡子規”の家は家紋に「三つ引」を用いたとされています。

正岡家も河野氏の分れなので「折敷に三文字」が変形して「三つ引「になったものだといわれています。

大山祗神社瓦神紋 善応寺瓦寺紋
上の左側の画像は”大山祗神社山門鬼瓦”の神紋です。この神紋が全ての始まりです。今日触れてきた、越智氏、河野氏、村上氏の氏神(うじがみ)です。


上の画像の右側は、”河野氏”の氏寺(うじでら)である”善応寺の鬼瓦”です。両方とも大山祗神社の神紋である”折敷に縮三文字”を使っています。

宝巌寺瓦寺紋 三島神社寺紋
上の左側の画像は、河野氏の一族である”一遍上人”誕生の地に建てられた”宝願寺の鬼瓦”です。


上の画像の右側は、ワタシの郷里、西予市野村町にある”三島神社の鬼瓦”です。上の何れも、大山祗神社の神紋”折敷に縮三文字”を使っています。


全国津々浦々に広がっている”大山祗神社”の分社”三島神社”は1万社余りを数えます。


いま、「折敷に三文字」あるいは「三文字」を家紋としている家は、まず河野氏と関わりがあるものと思うことが妥当でしょう。

兵頭家家紋
と、ここまで原稿を書いた後、11月3日に母の納骨をしました。石材店に来てもらって納骨室を開けてもらって、納骨を済ませ兄弟やワタシの息子や甥や姪と墓の前に立ち、手を合わせたその時です。

上の画像が目に飛び込んできました。

この我が家の歴代墓の墓石は、生前に父が(平成7年3月)松山の石手寺霊園に立てたもの。

そして、父の納骨は今年の6月に済ませました。その時にもこの”家紋”は全く目に入らなかったのです。

我が家にも”家紋”があることなど想像もしていませんでしたし関心も全くなかったから、この家紋が目に入らなかったのです。

ところが、今回の記事を書くに当たって”河野氏”の家紋などを調べていて、母の納骨を終えた時突然この家紋が目に写りました。石材店に聞くと、石材店が勝手に家紋を墓石に彫りこむことなどありえないといいます。

ということは、父が指示して掘らせたものとしか考えられません。

この家紋は、”折敷に角三文字”と呼ばれる家紋です。

なぜ、”我が家の家紋”に、”河野氏”の系列の家紋を使っていたのかは、我が一族の最長老であった父が亡き後は、誰もその事情が分かりません。

想像するに、単に野村町の”三島神社”の氏子だったからか?。

越智氏も河野氏も”大山祗神社”の氏子でしたから、大山祗神社の神紋を自家の家紋としたように。

でも、そうすると西予市野村町の”三島神社”(大山祗神社の分社です)の神紋は”折敷に縮三文字”ですから、我が家の家紋”折敷に角三文字”はやや違います。

謎が残りました。


この、ちょっと「ややこしい話」は明日と明後日、更には来週の土日と続きます。




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No title

じゅんさん こんにちは
実は10月の終わりに東京に行く用事がありました。 2日目の晩は神奈川県の藤沢で宿泊したのです。ちょっと予定より早く藤沢に到着したので、前から行きたかった、藤沢の遊行寺へ行きました。ご存知のように時宗の総本山です。
入り口のところに、じゅんさんのところと同じ家紋がどーんと。
そりゃまぁ一遍さんゆかりのお寺ですから、この紋所があるのは当然、
といえば当然です。松山市民にとってみれば、道後の宝厳寺と同じですし、、。でも、見慣れたはずのこの紋が、愛媛から遠く離れた神奈川の藤沢で、ひときわ大きく掲げられていた、というのにはちょっと感動しました。

Re: 藤沢に

謙介様
この歴史シリーズ5話には、コメントは先ず来ないと自信を持って書いたのですが(笑)、健介さんがいらっしゃって頂き、感無量と言うところです。

そうですか、神奈川県藤沢市の「遊行寺」に行かれましたか。そうですね、時宗の総本山ですから寺紋は「折敷に角三文字」で、コメントで書いていただいたとおり我が家の家紋と同じです。
愛媛では見慣れている「折敷に縮三文字」を、他県、しかも関東で見ると意外な感じをいだくでしょう。

藤沢市の市名の由来が「遊行寺」の「山号」に由来しているということなので、一遍上人は全国にその足跡を残していることがうかがえますね。

その一遍上人が河野氏の一族ですから、愛媛は全国的には知名度の低い県だと思うのですが、捨てたものではありませんね。

こんばんは

越智氏は奈良時代はおろか古墳時代までさかのぼれる名族なのですね。私たちの郷土愛媛が古代から開けた土地柄であることにプライドめいたものを感じます。越智という難読固有名詞も興味深かったのですが、「小千」「小市」「乎千」などという漢字から変化していったのですね。
村上水軍は郷土の支配を意識しての愛媛の名族である越智氏の流れと、中央を意識しての源氏の流れを巧みに使い分けていたということでしょうか。やはりこの時代の武家にとって清和源氏の流れを汲むということは特別なことなのでしょうか。
徳川家康も将軍宣下に際して新田姓を名乗ったと聞きます。征夷大将軍は源氏の棟梁を名乗らなければならなかったということでしょう。対照的に、源平藤橘以外の摂関家をいとも簡単に創設してしまった秀吉の野放図さもとても面白く思います。
じゅんさんの家系の家紋の由来も判明すると面白いですね。どなたかご存命の親戚とかおられないのでしょうか。
まったくとりとめのない感想の羅列ですみません。とりあえず思いついたことを書きました。来週末も楽しみにしております。

最初の部分

ファットマン様
1回目の冒頭に、越智氏と新居氏の出自、起源を書きました。あの部分は、ファットマンさんから頂いた情報で、講演会に参加した成果です。

講演会後に書き加えました。そのお陰で、全体としての構成に奥行きを持たせることができました。改めて御礼申し上げます。

ワタシのこの5回のシリーズの狙いは、伊予国が日本の歴史上でどう登場してきて、どう関わってきたかと言うことを書きたいということです。
当初の構想では、平安末期から書いていましたが、それが古墳時代まで遡れたことは大きな意味があります。

また、このシリーズを書くに当たり、時間軸を縦糸に、地域の広がりを横糸に、それらの縄をなう様に書こうということに気を配りました。

そして、伊予国が日本の歴史に登場し、中世期の終わりまでを俯瞰したかったのです。なぜ中世期までなのかと言いますと、それ以降は記録がたくさん残されていて、愛媛の方も比較的よく知っている、あるいは知りえる立場にあると思い、記録が少なくて分かりにくい中世期以前に焦点を絞りました。

感想の中で、豊臣という姓を作ってしまった秀吉らしい天衣無縫振りを指摘なさっていますね。鋭い指摘です。その他の大名は、将軍家さえも自分の出自を源平藤橘に求まなければならなかった。特に清和現時はよく利用されています。
ところが秀吉は、自分の出自を皆が分かりすぎるほど分かっていることなので、源平藤橘は使えない。それならイッソ自分で作っちゃえ!と。

来週の土日で、一気に四国の状況が一変する様子をお楽しみ下さい。

ご縁が

Konos 様

初めてのコメント、ありがとうございました。しかも、私の古い記事、「愛媛の歴史」ジャンルの記事でした。

同じ「折敷角三文字」という家紋、どこかで何かのご縁がたったのだと思います。

私の「じゅんのつぶやき」と言うブログは、「愛媛グルメ紀行」という記事がメインですが、もう一つの柱が「愛媛の歴史」というジャンルです。

「家紋」というキーワードを考えた時、「折敷角三文字」をはじめとする”大山祗神社の神紋”は、伊予国・愛媛を考える上で外せない言葉でした。

このことろ、歴史分野の記事が書けていませんが、仕事を卒業した後の、ブログのテーマとして再びチャレンジしたいと考えています。

取り敢えずは、歴史に関する過去記事をお楽しみください。初めてのコメント、ありがとうございました。

三島水軍のことは

河童工房 様

古い記事に、しかも初めてのコメントありがとうございます。そうですか!貴方の家の家紋は「折敷に三」ですか。
我が家の家紋は「折敷に角三文字」のようなので、遠い昔、どこかで繋がりがあったのかも知れませんね。

なお、私は「三島水軍」に関する知識はありません。瀬戸内海には、「村上水軍」を筆頭に「三島水軍」とか「忽那水軍」などがあったことは承知しております。

その中で、「三島水軍」と「忽那水軍とは伊予の豪族であった「河野氏」の影響を受けたという認識を持っております。

その三水軍の収入の得方の違いに目をつけられた。なる程!と思いました。何れにせよ、中世期の歴史に思いを馳せるのは楽しいし、ロマンを感じますね。

改めてコメントありがとうございました。

No title

北九州市若松区 小竹 在 自分の旧姓篠原の先祖代々の墓にはじゅんさんと同じ家紋があります。
在所の篠原姓 は親戚 で 下がり藤に橘 の家紋
ゲージツ家 篠原勝之 氏 と同じものも。
三好 氏 も折敷に三 を使っていたこともあるとか。
篠原姓は滋賀県篠原 が発祥だと言われていますが いずれにせよ
枝別れの過程で三好系 と越智系と判れているようです。
北九州市の越智性はほぼ折敷に三の系列のようですね

歴史ロマン

河童工房様
私がブログで「歴史」をテーマに書いてきましたのは、例えば自分の姓名の「姓」はどう言う経過を経て決まったのか?
我が家の「家紋」はなぜ「折敷に角三文字」なのだろう?(家紋に関して調べる様になって、初めて我が家にも家紋があると言うことを知りました)
更には、松山市内の町名や地名はなぜ今の様に呼ばれる様になったのか?

そういう素朴な好奇心がスタートです。何故?って思うと、居ても立っても居られなくなって、文献を読み漁り、現地を訪ねトコトン考えると言う性格です。ですが、歴史については徹底的に素人です。過去に歴史を学んだ経歴はありません。でも、調べ考える事が楽しいのです。そしてその裏打ちには、好奇心と行動力が求められます。
河童工房さんには、その好奇心と行動力が備わっている様で、同志的な思いがしています。

ところが、このところ歴史をテーマにしたブログ記事は書けておりません。家庭的事情と行動力の衰えが原因です。河童工房さんにはおかれては、ますます好奇心を磨かれて、様々な疑問点を解き明かして頂きたいと思います。

なお、それぞれの「姓」は、基本的には「在地姓」が多いですね。ですから、「姓」の由来を調べていると、必然的に「地名」の由来を調べる事に通じます。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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