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村上水軍と河野氏・「家紋」を巡って 2

今日も村上水軍と河野氏との関係を語ることで、「伊予国中世期」の歴史の隙間を埋めてみたいと思います。


特に、今日はもう一度”村上水軍”の軌跡(きせき=村上水軍の行動等の発展の跡)を辿ることで、愛媛の中世期の姿を俯瞰(ふかん=高い所から見下ろすこと)してみましょう。


”村上水軍”の歴史は、今年の5月3日から4日間に渡って概観しました。(しまなみ海道と村上水軍の歴史 2


それを少し振り返りますと、”村上水軍”が歴史上姿を現し、瀬戸内海の制海権を握るに至った出始めは”後期村上氏”といわれ、それは能島・来島・因島の”三島村上(さんとうむらかみ)水軍”をいいます。その三家とも、いずれも”村上師清”よりはじまるといわれています。この師清の子三人から三家が分立したとされています。

村上水軍鬼瓦19
上の画像は、”村上家”が屋代島(山口県大島郡)和田村に移転した後の江戸時代中期、浜御殿約1500坪の間に設けられた道場の屋根の”鬼瓦”です。この鬼瓦に”村上氏”の家紋であるの文字が見えます。


なおの上下にある瓦には”巴紋”(ともえもん)が刻まれています。この水が渦を巻いているような巴紋は、水に関する模様であることから、平安末期の建物に葺かれた軒丸瓦などに火災除けとして、巴紋を施したことに始まる瓦の文様です。


この鬼瓦は平成12年に解体されたのを期に、村上三島(むらかみさんとう)水軍資料館に納められています。


さて、三島村上(さんとうむらかみ)の三家がいずれも同じ一族の兄弟に出自するというのは、あまりにもつじつまが合いません。こうしたことは、伊予の有力豪族”越智氏”を祖とするといわれる、河野氏・新居氏・別宮氏の三氏についても、同族を証明する資料はありません。


これら系図の真偽は別として、中世期から戦国期に活躍した伊予国中東予の有力豪族達は、伊予では最古の豪族”越智氏”の同族を名乗ることで、自分の出自(自分の祖先)に権威をつけようとしたことは間違いないでしょう。

村上水軍羽織20
こちらは”村上水軍羽織”です。室町時代に入り、瀬戸内海に群立していた海賊衆は、次第に”三島村上氏”によって組織化されていきます。(しまなみ海道と村上水軍の歴史 3


この頃から、伊予最大の豪族となって勢力を急速に拡大していった”河野氏”と、”村上氏”との関係に微妙な関係の変化があらわてきます。


室町時代に入って、当時の”河野氏”は、南北朝時代の守護大名であった”細川氏”の侵攻に悩まされていました。


この細川氏というのはは南朝に組していて破れ、細川氏の地盤である阿波へ逃れ、さらに讃岐へ移っっていた古い名門守護大名の流れです。


しかし河野氏は細川氏の讃岐勢の侵攻に悩まされつつも、鎌倉幕府勢力を背景に守護支配を展開する体制が確立した時期でもあります。

村上水軍旗21
上の画像は”村上水軍旗”です。村上氏の家紋である””と、”大山祗神社”の神紋、”越智氏”や”河野氏”の家紋の”縮三文字”の別の形、”角三文字”が印されています。


この頃の村上氏は、河野氏を主家と仰いで提携しつつ三島村上氏体制を整えていきます。


特に”来島村上氏”は、現在の今治市波止浜の来島に本拠を置いていて、本拠が伊予本土に接近していることもあって、伊予国沿岸部にも基盤を持っており、その関係で三氏の内では最も河野氏と密接な関係にあり、早くより河野家臣団に組み込まれていました。


なおこの”来島村上氏”は、後に他の二家の”村上氏”とは袂を分かち、”村上通康”、”通総”の時に全盛期を向かえました。しかし関が原の闘いの時は毛利氏の下で西軍に付いたので、伊予から海とは無縁な山の中、豊後森(大分県玖珠郡玖珠町)に転封され、のち姓を”久留島”と改めています。

海賊正業絵23
さて、”三島村上氏”の中で最も勢力を拡大し、事実上”海賊大将”の地位に上り詰めたのは”能島村上氏”で、海賊衆としての性格を最も色強く持ち、その実力も飛びぬけて優勢でした。


ですから”能島村上氏”は、河野氏を主家とは仰いでいましたが、そのつながりは余り強いものではありませんでした。


そして、”能島村上氏”から”村上武吉”(たけよし)が出るに至って、”能島村上氏”は瀬戸内海の覇権を握るに至ります。(しまなみ海道と村上水軍の歴史 4


更に、周防(山口県)の”毛利元就”が中国地方の雄として史上に登場する契機となった、陶晴賢(すえはるかた)との”厳島合戦”で毛利元就の要請を受けて船団を派遣した”村上武吉”は、毛利氏の軍団に組み込まれていきます。それらの経過は5月3日からの4日間で詳しく書きました。


しかし村上武吉の活躍によって、河野氏は中国の雄となりつつあった”毛利氏”との提携関係が生まれます。

この具体的成果は、永禄10年(1567年)早速現れます。この年”河野通宣”は、”喜多郡の宇都宮氏”と”土佐国幡多郡一条氏”の連合軍と戦っており苦戦していました。(この内喜多郡の宇都宮氏とは、元は下野国・今の栃木県宇都宮市を出自とする大族で、その氏族は全国に散らばっています。伊予の宇都宮氏は九州豊前国から来た一族です)

上の”喜多郡の宇都宮氏”と”土佐国幡多郡一条氏”の背後に控え彼等を操っていたのは、伊予国を狙っていた土佐の”長宗我部元親”(ちょうそかべ もとちか)です。このことは明日以降に触れます。

そこで、河野氏は毛利氏に援軍の要請をし、毛利氏も支援の出兵を決定し、翌永禄11年”鳥坂峠での合戦”で河野・毛利連合軍は大勝利をおさめました。”鳥坂峠”(とさかとうげ)は、西予市宇和町と大洲市を挟む峠です。

能島近影25
上の画像は、”能島村上氏”の本拠地であった”能島”の現在の姿です。


現在は、島の上を通る”しまなみ海道”の橋梁の下でひっそりと息を潜めているかのようです。


でも、この小島に”村上武吉”が君臨し、瀬戸内海全体に睨みを効かせていた”能島城”が建っていました。


しかし、この頃”能島村上氏”の総帥である”村上武吉”からその子息である”元吉”への家督相続問題などが発生し、次第に勢力を弱めていきます。

能島城絵26
上の画像は”能島城”の推定復元図です。


更に”三島村上氏”相互の間に、様々な争いが起こります。


その中には、河野氏と村上氏(来島村上氏である村上通総)との間で、河野通直の後継者問題を巡る離反劇などもあり、疎遠になっていきました。


しかし、そういう同族間の争いや、狭い四国島内の勢力争いなど何の意味も意義も持たなくなる、日本の歴史上でも大きな転換期を迎えます。


それは”織田信長政権の誕生”と、”本能寺の変”、更には”豊臣秀吉の日本国統一”という大事業が進展するなど、四国島内のチマチマとした勢力争いなど何の意味もなくなる歴史の大変動(中世期の終焉近世期の始まり)です。


河野氏も村上氏も、その他伊予の各地でお山の大将的部族長(一応、城や砦の主だった)だった者たちも、”豊臣秀吉の四国攻め”で、あっという間に崩壊、倒壊していきます。


四国が秀吉によって制圧されていく過程は、隣の国、土佐の”長宗我部元親”(ちょうそかべ もとちか)のことに触れつつ明日以降の3回で書きます。




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おはようございます♪

ウチのチョビンはこの記念館で、甲冑を試着させて貰いました。

丁度その時のブログが見つかったので、URL載せときましょうね(^_-)-☆
http://blog.goo.ne.jp/amebike/e/fe18b1c53182b6831358226a841dc33e

この時は、兄夫婦と母が来たので、案内しました(^^♪
こんな事でもないと中々行けません、5年前でした。
最近のしまなみは、小さなバイクで一人散策の主人です。

拝見しました

ベル様
おはようございます。まあ、歴史モノにまで目を通していただき恐縮です。
鎧姿も拝見しましたよ、凛々しいお姿を^^

ここの博物館には、このシリーズを書くために取材に行きました。今度のシリーズ位、いろいろなところに取材に行ったことはありませんでした。こんなこと試みなければ行けませんね。

でも、私個人にとっては好きな分野なので楽しかったです。まだ3日間アップします。^^
今日はコメント、特に嬉しかったです^^
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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