村上水軍と河野氏、そして土佐の長宗我部氏との関係 4

今日は、”「伊予国」の中世期”において、大きな影響を与えた「土佐国」の”長宗我部元親”のことを少し掘り下げてみましょう。


長宗我部元親””は、天文8年(1539年)岡豊城、長宗我部氏第20代当主・長宗我部国親の長男として生まれました。

高地側28
(この画像は四国山地、愛媛県と高知県の県境付近の山々です)

元親(もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した戦国武将ですが、この当時自国(彼の場合は土佐国)だけでなく、日本国全土を統一征服し、日本国に君臨するという野望を持っていた数少ない武将でした。


その当時、戦国時代の名のある武将の多くは、京に上り天皇を立てて室町幕府を倒し、天下に号令をかけたいという野心をもっていたことは事実です。


でも、それを具体的に戦略的に考えていたのは、私見ですが、”織田信長”と”長宗我部元親”、後は強いて挙げるとするなら”伊達正宗”の3人だけではなかったでしょうか。


長宗我部元親”が天下を狙っていたという証拠は、自分の正室(正妻)に、当時織田信長の有力家臣であった”明智光秀”の筆頭家老になった”斎藤利三”の娘”菜々”を迎えていることなどでうかがえます。


当時の地方豪族は、自国を守るために近隣の地方豪族の娘と政略結婚するのが普通でした。


ところが、元親はそれを敢えて避けて、将来自分の最大のライバルとなると見取った”織田信長”の有力家臣であった”明智光秀”とは縁続きの娘を正室に迎え入れたのです。(元親は信長の5歳年下)


しかし、このこのことが”明智光秀”が”本能寺”で謀反を起こし”織田信長”の野望を挫いた遠因となったことは、歴史の皮肉でしょうか。(この辺りの因縁・事情は、又触れる機会があれば書きます)

高地側27
(この画像は四国山地、愛媛県と高知県の県境付近の山々です)

また、”長宗我部元親”は自分の嫡子(長男)が元服するとき”織田信長”を烏帽子親(えぼしおや=元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親になってもらう、その仮親のこと)に選び、信長の一字””をもらって嫡子を”長宗我部信親”(ちょうそかべ のぶちか)と名乗らせています。


将来、自分が四国を統一した時に、美濃・尾張を本拠地としていた”織田信長”と同盟を結び、自分は西日本を、信長には東日本を切り取らせ、最終的には日本を統合して号令をかけるための戦略意識を、元親は20代の頃から持ていたのです。

高知側29
古来、日本では戦国時代に入るまでは、自国の領域を超えて他国に攻め入り支配しようという発想を持たなかった民族です。

ですから、当時自分が「日本人」だと思っている人など、まず一人もおりませんでした。仮にいたとしたらそれは例外に近いと言うことです。


ところが戦国時代に入り、自国の領域以外にも別の国があって、別の豪族が支配していることを知るに至ります。そしてそこに侵攻し自国の支配地としようという発想が生まれたのです。


ところが、自国の隣の国に行くにも、地図があるわけでなし、道路があるわけではりません。事前に間者(今で言う調査員)を放って、隣国の兵力や地形は情報として入手し兵を挙げても、隣国に辿りつくだけでも一大事業です。


しかも、他国に攻め入るには自国の通常兵力(伝統的な武士団)だけでは到底足りません。


そこで、”長宗我部元親”は彼の独創的発想で、土佐国に”一領具足”(いちりょうぐそく)という制度を作ったのです。この独創的な制度を作ったのは後にも先にも土佐の”長宗我部元親”ただ一人です。


一領具足”とは屯田兵(とんでんへい)のことで、平素は田畑を耕す。田には槍を突き立て槍の先には兵糧(兵糧=戦時の食糧)をつけておき、城から動員を知らせる法螺貝の音が聞こえた時は、農耕馬を乗り馬にして駆けつけ戦場を駆け巡りました。


後世、この階層が”郷士”になり、幕末この階層から土佐藩の勤皇の志士がほとんど出たのです。

韮ケ崎峠30
(上の画像は、坂本竜馬が土佐を脱藩して伊予に入るときに通った”韮ケ崎峠”です。なお別ルートであったという説もあります)

幕末の英雄”坂本竜馬”もこの郷士でした。


なお”坂本竜馬”の家祖は、琵琶湖のほとりの”坂本城”に在城していた武士であった”明智左馬助光春”だと言われています。


明智光秀が本能寺の変を起こし滅亡したあと、明智光春の庶子太郎五郎が土佐に逃れて長岡郡才谷村に住み、長宗我部家の”一領具足”になりました。


坂本姓を名乗るようになったのは、家祖の”明智左馬助光春”が琵琶湖のほとり”坂本城”に在城していたことに因(ちな)んだものだといわれています。


坂本家”の家紋は、明智光秀と同じ”明智の桔梗”(水色の布地に白色)と言われるものです。


長宗我部元親”が明智光秀の筆頭家老の娘を正室に向かえ、”坂本竜馬”の家祖が明智光秀とは縁続きの”明智光春”であったことに、何か因縁めいたものを感じます。


さて、明日は5回シリーズの最終回です。


最終回では、土佐の”長宗我部元親”が、土佐を統一しその勢いを持っていよいよ四国統一の行動を起こしたことから筆を起こしましょう。


元親の四国統一はなった、と言う説と、統一はならなかったという説があります。


そのどちらが正しいのか、ワタシには分かりませんが、何れにせよ”長宗我部元親”の”四国統一という野望”の前に大きく立ちふさがり、遂にはその野望を完全に打つ砕くことになる”織田信長”と”豊臣秀吉”の”四国攻め”の様子は明日の最終回の話です。




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No title

なるほど!
そうすると元親と春日局は義理の兄弟ってことなんですかね。
信長と姻戚関係を結ぶなど、僻地にあってなかなか視野の広い戦国大名だったのですね。隣県でありながらほとんど馴染みのない長宗我部元親に興味が湧きました。

郷士(下士)については、大河ドラマの「龍馬伝」でも重要なファクターとしてとりあげられていましたね。
サカモトつながりで龍馬と明智左馬助の関係など、若干眉唾ものかなと思いつつも歴史のロマンを感じてしまいます。

そうです、その通りです

ファットマン様
そうです、その通りです。「春日局」は、美濃の名族斎藤家の一人で、明智光秀の筆頭家老になった「斎藤利三」の娘ですから。
元親の妻「菜々」と「春日局」である「斎藤福」は姉妹です。美人の誉れ高かったそうです。

元親が、織田信長の四国3カ国を戻し、伊予から兵を引けという命令に背いた時も、明智光秀の家老の斎藤家は元親の説得に全力を尽くしました。
しかし説得仕切れなかったことで、明智光秀の本能寺の変へと、歴史は流れていきました。

歴史は調べれば調べるほどロマンが広がっていきます。いよいいよ、明日で最終回です。

こんばんは★

歴史に弱いベルさんです、主人は歴史が好きですので、
分からない事は聞きながら読む癖がついてます(笑)
因みに音楽も強いのです、何時も中学生の問は主人の回答を
カンニングさせて貰ってました(笑)

今回の記事も、チンプンカンプンながらも、毎回読んでます(^_^)v
トンチンカンなコメントを入れるより、こんなコメントの方が
ベルさんらしいでしょ(^_-)-☆

同級生

ベル様
ベルさんのところは、同級生結婚ですか!それは素晴らしい。

では、中学校時代から周囲からは公認カップルだったのかな?だったら、同世代同士で、話題も合っていいですね。

うちは妻が高校1年生、ワタシが高校3年生の同窓生結婚。
その当時、高校の同窓生公認カップルでした。
妻が15歳の時知り合って、お互い社会人になるのを待って結婚。

たまにはこういう話題もいいですね^^

コメントあるがとうございました。

No title

おはようございます。

よく調べられていますね。
わたしは歴史のことは、よく解らないのですが、
1冊の本にして、上梓されてはどうでしょう。
ゆっくりと読みたいものです。

コメントありがとうございます

せい爺様
この様な、地味なテーマにコメントいただきありがとうございます。

今まで何度も「愛媛の歴史」については記事としてアップし続けてきました。でも、これまでは知っていることを忘れない内に書いておきたいとの思いで書いてきました。

でも今回の5回のシリーズを書くに当たっては、初めてまともに勉強し、現地取材も重ねた上で書きました。

ただ、あくまでも「歴史好き」と言うだけの素人でしかありません。とても本を書くという空恐ろしいことは考えたこともありません。
素人はあくまで素人でしかなく、本を上梓するレベルでは到底ないと思っています。

これからも、ワタシのブログの大切にしたい分野として、書き続けていきたいと思っているところです。

コメント本当にありがとうございました。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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