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村上水軍・河野氏・長宗我部氏と豊臣秀吉の四国攻め 5

今日が、村上水軍と河野氏等の「家紋」を巡って書き始めた”伊予国中世期”の歴史の最終回です。


最初の3日間で”村上水軍”と”河野氏”との関係を”家紋”をキーワードにして書いてきました。


そして、昨日は”伊予国中世期”に大きな影響を及ぼした、お隣「土佐国」の”長宗我部元親”のことを少し詳しく書きました。

石鎚山3
(上の画像は高知県と愛媛県の県境にまたがる四国山地です左端には石鎚山が写っています。本文とは直接の関係はありません)

さて、”長宗我部元親”は土佐の本山氏、一条氏、安芸氏との間の死闘を制して、土佐の豪族をことごとく降し土佐を統一したあと、いよいよ四国統一へと兵を進めます。


先ず阿波の”三好氏”を倒し阿波国を支配下に置き、次に阿波の三好氏の一党でもあった讃岐の”十河氏”を制し、讃岐もほぼ手中に収めました。

石鎚山4
(上の画像は高知県と愛媛県の県境にまたがる四国山地です。本文とは直接の関係はありませんが、元親率いる土佐兵は、この山地の道なき道を乗り越えて伊予に攻め込みました)

次は伊予国へは土佐幡多郡方面から攻め入りました。


伊予の南から攻め入ると同時に、雪に埋まっていた四国山脈を越え、土佐兵たちは、次々と伊予の城々を落とし始めたのです。


時に天正3年(1575年)、”長篠の戦い”が起こった年のことです、その年は、織田・徳川連合軍が武田軍を破り、天下にその名を轟かせた年でもあります。


織田信長”がいよいよ日本の歴史上で燦然とその名を輝かせ始めたころ、土佐の”長宗我部元親”は四国統一の野望をほぼ手中に収めていました。


長宗我部元親”に破れ、あるいは圧倒された阿波の”三好笑巌”(みよししょうがん)や讃岐の”十河存保”(そごうながやす)、更には伊予で微かに生き残っていた唯一の豪族”河野通直”(こうのみちなお)らは一斉に”織田信長”に泣き付き援助を乞いました。


織田信長”は四国征伐の絶好のチャンスとばかりに彼等の求めに応じて、”長宗我部元親”に対して土佐一国は安堵(領有を認めるという意味)する代わりに、手に入れた阿波と讃岐は元の当主に戻し、伊予からは兵を引けと命じました。


元親は、自分の生涯を通じて切り取った四国を手放し元の土佐一国に戻れというのは、承服できぬと徹底抗戦の腹を決めました。しかし、それは同時に自分を含めて土佐一国が全て織田軍に殲滅(せんめつ=せめほろぼされること)させられることを意味することも知っていました。


元親が死を覚悟し、徹底抗戦に立ち上がろうとしたその時、歴史の皮肉とでも言うべきか”明智光秀の本能寺の変”で織田信長が倒されたのです。


時に、天正10年(1582年、今から430年前)の6月21日のことです。信長が”四国討伐”の軍令を出したのが6月2日でした。


四国討伐の軍令を発してから僅か19日後に”織田信長”は、”長宗我部元親”の正妻とは縁続きの”明智光秀”によって倒されたのです。


元親が織田信長の四国侵攻を免れ、命拾いをしたとホッとしたのもホンの束の間のことでした。


元親が生き残れたと思った頃には、今度は電光石火の速さで”羽柴秀吉”が天下を統一し”豊臣秀吉”となります。

秀吉四国攻め絵31
(上の画像は、”秀吉四国攻め絵”と名づけられたもので、今治に秀吉勢が結集したことを書いています)

豊臣秀吉は、元親が勢力を回復しないうちに”四国征伐”を決め、1585年(天正13年)5月4日、黒田孝高に四国攻めの先鋒として淡路に出るよう命じました。


いよいよ秀吉の”四国攻め”が始まったのです。


長宗我部元親は、”関白”にまで昇りつめた”秀吉”の四国攻めに備えて、土佐勢6,000を含む2万から4万の軍勢を動員して秀吉を待ち構えました。


それに対し、”秀吉軍”は、讃岐には宇喜多秀家・蜂須賀正勝・黒田孝高らが率いる計2万3000(1万5000とも)の軍、また阿波には、羽柴秀長が率いる軍勢3万、羽柴秀次が率いる兵3万の両軍が、大小800余艘の船団で阿波の土佐泊へ上陸し、”長宗我部元親同盟軍”に襲い掛かったのです。元親同盟軍はひとたまりもありません。

来島海峡1
(上の画像は”来島海峡”の現在の画像です。本文とは直接は関係ありません。ただ、この海峡を秀吉の伊予攻めの命を受けた毛利輝元配下の中国8カ国の軍船が埋め尽くしました)


伊予の状況はと言うと、河野氏と同盟関係にあった毛利勢が秀吉側に廻ったため、元親同盟軍は最初から守勢にならざるを得ないところに追い詰められていました。


つまり、毛利輝元配下の中国8ヶ国の軍勢は、3万から4万(2万5,000とも)に達した他、6月27日に小早川隆景の第一軍が今治浦(現在の今治港)に上陸します。


そして宇摩・新居郡を実質支配していた東予の”金子元宅”に襲い掛かります。金子勢は奮戦したものの全滅します。


その後、小早川軍は周敷・桑村・越智・野間・風早郡を制圧して道後平野に達し、8月末には”河野通直”の湯築城が攻囲され、小早川隆景の薦めにより開城し、通直は道後の町に蟄居しました。ここに”河野氏”の守護大名としての地位は終わったのです。


同時に南予の西園寺公広・大野直昌は小早川隆景の元に赴いて降伏し、大野直之・曾根宣高らは捕らえられ、伊予全域の制圧が完了しました。

法華津湾日没9
(上の画像が宇和島市吉田町の法華津湾の夕日です。本文とは直接は関係ありません)

それらの結果を受け、遂に長宗我部元親は秀吉軍に降伏し、土佐一国に押し込められます。ここに、秀吉の四国攻めが完了した事になります。


その結果の伊予国への影響は、9月17日の「伊予の豪族河野氏の歴史と善応寺 3」で詳しいことは書きました。伊予古来の豪族、他国から入ってきて伊予の豪族となっていたものたちは全て滅んだのです。


駆け足で、伊予国の中世期の隙間を埋めてきました。この作業は、言わば”歴史のパッチワーク”、あるいは”歴史のジグソーパズル”に似ています。


断片的な資料や知識を、伊予という国に関連させながら継ぎ合わせていく。もちろん、十分なものには仕上がりませんでした。


仮に最後まで目を通していただいた方がいらっしゃったとしたら、感謝いたします。


最後に、この稿を書くに当たり様々な情報提供を頂いた、ブログ友:ファットマンさんに深甚なる謝意を表して本稿を終えることにします。


ありがとうございました。




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こんばんは

大したお手伝いもできていないのにブログに名前を出していただきまして恐縮です。なんだか面はゆい気持ちです。

織豊政権の仕上げとも言うべき四国攻め、関東攻めに関しては、いずれも秀吉の数で圧倒する勝ち方ばかりがクローズアップされていて、長曾我部にしろ北条にしろ、なぜこのような勝ち目のない戦に突き進んだのか疑問に思っていました。やはり、臣従の例を取るタイミングを逸したというよりは、それぞれの矜持、プライドの問題だったんだろうなと考えさせられました。
河野氏は征服された長宗我部氏に従って豊臣軍と戦い、敗れて滅んだということなのですね。しかしその豊臣氏も秀吉の朝鮮出兵、秀頼への溺愛などから疲弊してわずか2代で滅んでいく。まさに盛者必衰の理というかもののあわれを感じます。

5日間力作のブログでとても楽しませていただきました。大変ためになりました。次回のシリーズも楽しみにしております。

確かに、矜持

ファットマン様
長宗我部元親は、仰るように戦国武将の習いとも言うべき矜持によって、後世から見れば無謀ともいえる戦いに挑みました。
秀吉側の兵員数などを、具体的詳細に書いたのは、戦略的に見ても戦術的に見ても勝てるはずが無いということは誰の目にも明らかだったことを示したかったからです。
現に元親の妻の実家、斎藤家は降伏するよう説得に努めていますし、家臣団も命を掛けて降伏するよう元親に進言しています。しかし、彼は滅びることを覚悟して抵抗を選びました。

河野氏は、長宗我部元親に散々に攻め続けられ、倒れる寸前の状態で秀吉の四国攻めを迎えましたから、長宗我部に従ったというより、何も出来ない状況で呆然と立ち尽くしている間に小早川軍に包囲され、何の抵抗も出来ないまま武装解除されています。
既に長宗我部元親によって、徹底的に叩かれていて、もはや河野氏は誰の味方でも敵でもなかったところまでに追い込まれていたのです。ですから小早川の説得に唯々諾々と応じて無血開城しました。

また、長宗我部元親のその後は痴れ者のような放心状態に陥り、秀吉が命ずるまま、その後の九州攻めに参戦し嫡男を戦死させています。また、朝鮮戦争にも何の心もなく参戦して何の働きも出来ないまま朝鮮から引き上げています。更に関が原の戦いでも自己防防御の戦略など一切取らず、枯れ木が倒れるように滅びました。
長宗我部元親は、秀吉の四国攻めの時に、既に事実上は死んでいたのです。

こんな長いシリーズを最後まで読了していただき、本当にありがとうございました。感謝の念に耐えません。

参考になりました

じゅん様

昨夜、NHKで長宗我部元親の番組をしているのを見て、この記事を思い出しました。
番組は途中までしか見れなかったのでこちらで補完をと思い読み返しましたが、こちらの方が詳しく、また見知った地名や写真などもあり分かりやすく、ストンと理解できました。

私は歴史好きというよりは歴史のお話好きなので全然詳しくありませんが、またこういった記事の登場を楽しみにしています。

コメントありがとうございました

百蔵様
私の歴史物へのコメントありがとうございました。

皆さんには余り馴染みが無いテーマかも知れないのですが、私の好きな分野の一つです。ですから、とりあえずは既存の知識で書いてきました。でもこれからは、新たに勉強しないと書けません。

でもまだまだ書きたいテーマはあります。取りあえずは、3月の終わりごろから「松山の地名・町名の由来」というテーマで、週に1回づつシリーズ化したものを書いていく予定で準備しているところです。
おなじみの地名の由来が意外だった、ということが出てくると思います。

それ以外にも南伊予の歴史も書いてみたいと考えています。ただ、私の歴史ものは必ず現地取材してから書きますので、時間が掛かります。

それでもコツコツと書いていきたいと考えていますので、今後ともよろしくお願いいたします。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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