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母の納骨と郷里の秋 2

今日も昨日に続いて11月3日に行った”母の納骨”と、それに伴って兄弟3人で郷里の野村町に帰って最後の遺品整理をしたとき、久しぶりに自然の風景を撮りましたので、母を偲ぶ文章に添える形で、それらをお届けします。


  母が、日本解剖学会の協力団体である“愛媛大学医学部白菊会”に“献体”の登録

  をし、会員になったのは昭和の終わりごろです。母、60代前半の時です。

  母が死後の自分の体を献体し、医学生の解剖実験に役立てたいと考え、自ら愛

  媛大学医学部に手続きをしていました。

  母は、それ以降、折に触れて自分の死について語るようになりました。

  また、若いときから愛媛新聞の「てかがみ」や朝日新聞の読者投稿欄に投稿を

  続けていました。

  県内では、主婦が新聞に定期的に投稿することの草分け的な存在ではなかった

  かと思います。

  そこで多くの知己を得た母は、次第に視野を広げることになります。

映り込み1
  そして、行き着いたのが「短詩」の世界です。

  和歌や俳句、そして最後に「川柳」という

  「17文字」に思いを凝縮して表現するという方法で、自分の生きる道を見出し

  ました。

  そういう生き様の中で、自分の死について明確な意思を持ち続けていました。


  それは、死に際して延命措置は採らぬこと。

  死後直ちに、愛媛大学白菊会に連絡をし、献体の手続きを行うこと。

  葬式など必要なく、愛大医学部から遺骨で帰ったとき、子と孫だけで墓石の下

  で眠らせて欲しいこと。

  宗教は無宗教であるので、戒名等は必要ないこと。

  「サヨナラを言いたい」と思ってくださる方がいたとしたら、手ぶらで来て

  いただき旅立ちを見送ってほしいこと。

イチョウ映り込み2
  そう言い続けてきた母が・・・・。

  目の前で人工呼吸器に喘ぎ

  何本もの点滴の管が体中に刺さって

  ベッドに横たわっていました。

映り込み3
  母が緊急入院した翌日です。午前9時50分でした。

  それまで何度声をかけても反応がなかった母が、微かに目を開けようと顔の表

  情を変えたのは。

  思わず母の耳元で呼びかけました。「バアチャン、聞こえる?○○ヨー!」

  「・・・」

  声は出ませんが明確にうなずきました。返事が初めて返ってきました

  それまで、ワタシは涙を出す余裕すらありませんでしたが、その母の反応を見

  て一気に声を上げて泣きました。

  「生きていたー」と思って。

  そして手を握りながら「バアチャン、気がついてよかったね」と耳元で何度も

  呼びかけました。

逆光イチョウ4
  そこからです、母の本当の意思の強さ を思い知らされたのは。

  ワタシが幾ら「ヨカッタネー」と呼びかけても「・・・・」母は頭を横に振

  るのです。

  「バアチャン、頑張ろうね。皆が助けてくれるからね」と呼びかけますと、頭

  を横に振るのです。


  「ええー?バアチャン、頑張らンのー?頑張るの嫌なン?」

  すると、明確に首を縦に振り“頑張りを拒絶する”という意思表示。

  そのとき、初めて母が常々言ってきた“母の死に方”がワタシの頭をよぎっ

  たのです。

  それから、延々と母との対話が始まりました。

イチョウ5
  母が倒れたとき、父は88歳。年が明けて89歳になりました。

  自宅近くの「グループホーム」に入所し、介護を受けながら生活しています。
 
  兄弟妹3人は郷里には住んでいません。

  つまり、86歳であった母は、自宅で”独居老人”の暮らしを続けていました。

  他県に嫁いでいる妹が年に何度か、1ヶ月前後、母と暮らしてくれるという生

  活が続いていました。

  母に「松山に来ないか?」とか、「ジーチャンと同じグループホームに入らな

  いか?」と幾ら提案しても、頑として聞き入れませんでした。

  「自分の面倒を自分が看ることが出来る間は自宅で頑張る」

  そして、「毎日届く郵便物の返事を、私が書かなければ誰が書くの?」という

  のが母の言い分です。

緑の紅葉6
  それと、「川柳」を通じた友人知人が「元気かナー?」と言って訪ねていた

  だいていました。

  また、ご近所の方が毎日様子を見に来ていただいていて、「今日はお寿司をつ

  けたから、食べてヤー」と色々なものを持ってきてくださるという生活でし

  た。

  子供たちの支えなど何一つ及びもしない、周囲の方々の手厚い”お助けとお気持

  ち”で生かせていただいていたというのが実態です。

  住んでいるところが田舎でなければ、とうの昔に命を枯らしていたことは間違

  いありません。

  母との会話を続けました。

  それは「母の死に方」に対する確認というより、「母の生き方」をも

  う一度なぞる会話でした。

紅葉橋7
  「バアチャン、今、どうして欲しいン?」

  と問いかけると、拘束されている手と指を懸命に動かし、点滴の管を抜こうと

  します。

  「点滴をやめて欲しいの?」とたずねると、首を縦に明確に振って「そうだ」

  と。

  「点滴を外すと、あちらの世界に行っちゃうよ、そうなったら、もう二度とこ

  ちらには帰レンノヨー、それでいいン?」

  「 イ イ ヨ 」

  「先生に治療してもろうて、元気になって」と呼びかけても、ただ首を横に振

  り続けるばかり。

  「約束が違うじゃないか」・・・と言わんばかりのしぐさが続きます。

  「周りの人が皆、バアチャンを助けようとして精一杯努力してくれよるンよ。

  そのことは感謝しとるンヤロ?」

  「ウン」

  これには母もうなずきました。

  「だったら、もう一回頑張ローヤー!」

  でも、首を明確に横に振ります。

渓谷
  「じゃあ、本当に治療はせんでイインヤネ?」と聞くと 「ウン」と力強くう

  なずく。

  「何時も言っていたように愛大に献体するンヤネ?」

  「ウン」

  「葬式はせず、戒名もいらんノヤネ?」

  「ウン」

  「墓碑銘は自分の名前と、前から聞いていた川柳を墓石に刻むことでエエン

  ヤネ?」

  「ウン、その通りでエエ」・・・明確にうなずくのです。

渓谷と谷間8

  それ以降、医者に特別な延命措置を断りました。

  ただ、本人に苦痛のないよう痛みのコントロールを完璧にしていただくことも

  併せて頼みました。

  それから18日後、年が明けて間もなく、子供たちや孫達、そして89歳の父との

  会話を終え母は眠るように旅立ちました。


  自分の”死に方”、”死んだ後の手配”を自分で決め、そしてその通りに母は逝き

  ました。

  私たち子供にとっては巨木のような存在でしたが、その巨木が徐々に枯れ

  て、最後は音もなく、スローモーションのようなスピードで地上に倒れるよう

  な、そんな逝き方でした。

  母が倒れて逝くまでの18日間


  家族にとって、その18日間という時間は、母の死を正面から受け入れるのに、

  必要で充分な時間だったように思います。

  ただし、母に感謝の言葉を送り続けるには余りにも短い時間でした。

  読経も遺体もないお別れ会も先日終えました。

  様々な形で弔慰を示していただいた全ての方々に深く感謝いたします。

  ありがとうございました。

  
  最後に、母の墓碑銘の川柳(うた)です。

  灯台のよう 

        ふるさとに

             母が居る





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おはようございます♪

いつもと同じ挨拶でおじゃまします。
今日は朝から、涙腺の大掃除をしました。
じゅんさんのお母様を思う気持ちが、読んで行くうちに胸にじわじわと・・・

昨日は母の声を聞いて一安心、耳が遠くなったので電話で話すのが
大変なので、ついつい億劫になって声をかけてませんでした。

近況報告をして電話を終えましたが、後何回こんな風に話が出来るのか、
多分数えられる程でしょうね、もう少し親孝行に精を出そうと反省しましたよ(*^_^*)

ありがとうございます

ベル様
私は高校は松山でしたから、中学を卒業して以来、郷里の野村町からはずっと離れて生活をしています。

家族と一緒に生活した時間は極めて短かったのです。

ですから、他の妹弟が県外に生活拠点を置いてからは、両親に一番近いところに住んでいる私の役割りが増しました。でも、そのことが嬉しかったんです。

入院して亡くなるまでの18日間は、兄弟3人が交互に母の寝息を聞き続けました。最後に立ち会えたこと、ありがたかったです。

コメントありがとうございました。

幸せだった母上様

わたしの母は自分の意思が伝えられなくなって、20数年
床に伏せっていました。
果たしてそれが幸せだったかどうか・・・・

じゅん様の母上様はきちんと自分の意思を伝えられて、
逝かれました。
またそれを、子供さんたちによって叶えられました。
そういったい意味で幸せだってのではないでしょうか。

                           合掌

ありがとうございます

せい爺 様
二日間に渡り、コメントありがとうございました。

20数年、病に臥せっていらっしゃった、それはご本人とそのご家族にとって大変でしたね。
家族は、例え病に臥したといっても、何時までも生きていて欲しいと願うのが自然だと思います。でも、その傍らで本人の苦闘が続く。悩ましい問題です。

でも、仰っていただいたように、母は自分の意思を最期まで貫き通しました。自分の望む逝きかたであの世に旅立てる。これは本人にとっても家族にとってもありがたいし、幸せなことだと思います。

今頃、父と川柳三昧の毎日を送っていることでしょう。そう、自信を持って考えることが出来る、ありがたいと思います。
コメント、本当にありがとうございました。心に染みました。

こんばんわ

二日間きちんと読ませていただきました。
私の文章力では、短いコメント欄に過不足なく書込みすることができません。

なので、お母様の墓碑銘の歌についてのみ。
これは男性的な歌であって、母を持つ子の心境のように受けとれました。女性であるお母様がこの歌を詠まれたことを少し怪訝に思いました。
しばらく考えたのちに、これはおそらくお母様がじゅんさんたち息子さんに憑依して、息子の立場から詠まれた歌なのではないかと思い当りました。離れて暮らす息子さんたちをいつも思っておられたゆえの作品ではないかと思います。
あくまで他人の推測にすぎないのですが。


いつも思う(*^_^*)

11日朝見せて頂いていましたが
胸がいっぱいになってコメント出来ませんでした
何をどう書いていいのか
時間が過ぎました
間違っているかもしれませんが

ここに居た
思えばそばに
母は居る

私は物心がついた時母はいませんでしたので
いつも思っていました

次週お父様はもっと自分の父親と…
お空にいますが和歌山に帰りたくなります(*^_^*)

鋭い!

ファットマン様
母の墓碑銘の歌のついての解釈、驚きました、その鋭い感性に。

母からは、この歌の真意を、兄弟は誰も聞いていません。

そこで、ワタシはこの歌に出てくる「母」は母自身で、「私が、何時までも 郷里で灯台のように輝き続けているからね」そう言っているのでは、と妹に話しました。

すると、妹は、それは違うというのです。実は母は、母がまだ小学生の時に母を病で亡くしております。母の愛を受けた期間は僅かだったのです。

ですから、この歌の「母」は、北条の実家の母自身のお母さんを意味しているというのです。幼くして母を亡くし、母の愛を知らずに育った母。
でも、自分の郷里、北条の苞木には今も灯台を照らし続けてくれる母がいる、そう詠んだというのです。老境になって、顔も覚えていない母を慕い偲んだ歌だというのです。

鋭い指摘だと感心したのは、この歌でいう「母」は母自身ではないという指摘です。私たちに憑依して、子供の立場に立って詠んだ歌という視点が鋭いと思ったのです。

妹の視点は、この「母」は母自身ではなく、自分を子供の立場に置き換えて詠んだと。
妹の視点と実によく似ています。もう一度、墓碑銘の前に立って、母に問いかけてみたいと思います。

なお、以前に「何時までも死なない、年をとらない」という映画について、ワタシが過激に反応したことが合ったと思います。実はその下敷きに、自分の明確な意思で死を選んで死んでいった母の存在がありました。

コメントありがとうございました。

色々な思いを

ココヒロ様
二日間のコメント、ありがとうございました。
様々に御心を揺らせたことをお詫びいたします。

そうですか、ココヒロさんも幼くしてお母さんを亡くされた。うちの母も、母が小学生の時に自分の母親を亡くしております。
気丈な母でしたが、自分が辛かったり悲しかったりしたときは、幼くして亡くした母の面影を心の中で辿って、偲び、それらの苦しさに耐えてきたのだろうと思います。

二週に渡って、ココヒロさんの心を揺さぶるのは、ワタシの本位ではありませんが、来週はきっと和歌山の空をもっともっと近しいものとしてお感じになるかも知れません。
でも、そのことが、空で輝いているお父様の心を慰め安堵されることに繋がることを信じて止みません。

ワタシもその時は、心の中で寄り添ってお祈りさせていただきます。
コメント、本当にありがとうございました。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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