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「父を偲ぶ」 1

先週の土日は、11月3日に”母の納骨”を済ませたのを期に、”母の納骨と郷里の秋”と題する母を追悼する記事をアップしました。


今週の土日は、それに合わせて今年6月16日に亡くなり6月終わりに母に先立って”納骨”した父を偲んで追悼する記事とします。


今まで、このブログで様々に両親のことを書いてきましたが、今日と明日の記事で一区切りさせたいと思います。


なぜこういうブログで両親のことを採り上げるかと言いますと、文章による表現形式で人生を貫くことを身を持って教えてくれたのが両親に他ならないからです。でも、これで終わりにいたします。


なお、この文章は「父を送る会」で私と妹、弟の3人で30分程のDVDを作成しましたが、その中でワタシが書いた文章を元にしております。


また、今日の”大野ヶ原の風景”は、本文とは直接の関係はありませんので、画像の説明はいたしません。



今日の記事中で”大野ヶ原”は重要なシーンで登場しますので選んだものです。ただし、画像は再掲です。


大野ヶ原牧草縮小

父は、大正11年1月7日に野村町で生を受けました。


そして、自ら「教育の世界」に身を投じようと、松山市の「愛媛師範学校」に


入学しました。


愛媛師範学校時代の父は、小柄ではありましたが優れたスポーツマンでした。


野村町の伝統技であります相撲はもとより、ラグビーでは愛媛県を代表してラグビーのメッカ「花園ラグビー場」に進出するするほどの実力チームでレギュラーを張っていました。


ススキと大野ヶ原縮小

そういう父が、教育に情熱を注ぐべく小学校の教壇に立ったて、僅か一年で大きな運命の転換を迎えることになります。


そうです、戦況ますます厳しくなっていた太平洋戦争です。



嫌も応もなく、戦争にと駆り出されたのです。


父は、私たちに戦争のことは全く話すことはありませんでした。ところが最近になって、当時のことを述懐(じゅっかい)するようになったのです。


父は言いました。「よくもまあ、今日まで生きてこられたことか。戦争に行けと赤紙が来た時に、陸軍か海軍のどちらかを選べた。そこでの、トウチャンは歩くのは嫌じゃったけん海軍を選んだのよ」と、私に語り掛けました。そしてこう続けました。


「海軍に入ることになった時、多くの艦船の中でどれに乗るか選べるチャンスがあっての。そこでトウチャン、重巡洋艦『妙高』を選んだのよ、選んだ理由なんてなかった」と。



実は、『妙高』は終戦当時沈没せず生き残った数少ない軍艦でした。


父は続けます。「でものー、乗員数891名の中には、甲板にいて航空機で射撃を受け命を落とした者も多かった。ところがトウチャンのー、甲板の底で上に砲弾を揚げる役やったんで死なずに済んだ」と。


自分の運命の危うさと、そして運の強さに今更ながら感慨深かげに私に語りました。


それは父が亡くなる二カ月前のことです。この戦争での体験が、生涯に渡って「反戦」を掲げる生き方を選ぶ大きなポイントとなります。

大野ヶ原森と魚縮小

さて、戦史に残る激戦であったシンガポール沖のレイテ海戦で生き残り、昭和22年、シンガポール捕虜収容所から復員し、東宇和郡土居村(現在の西予市城川町)の窪野小学校に赴任を果たしました。



そして、父にとってその後の生き方のもう一つのポイントとなる母との結婚を迎えます。昭和23年5月のことです。


2人は、窪野の四畳半ひと間の新婚生活をスタートさせたのです。


厳しく貧しい生活の中で、私たち3人の兄妹弟が生まれました。父は、その間、教員生活に没頭していきます。


しかも、「教え子を二度と戦場に送らない」という教育的信念をもって。


タンポポ朝霧1縮小

その教育的信念が、父を教員組合の活動に駆り立てたのです。教え子達には教育実践の現場で、野外活動で、そして学芸会などの演劇活動で、子供達に生きることの大切さを身を持って示そうとしました。


母も、父のそういう生き方を懸命に支えながらも、その一方で母は文芸活動に生きる道を見つけていきました。



父は教育現場と教員組合活動で、母は新聞投稿の世界で、それぞれ表現方法は違っていましたが、戦争で生き残ったものの責務を果たそうと奔走しました。


父が教員として一番輝いていた時代でしょう。


母も社会性に目覚めて、夫婦で遅めの青春真っ盛りという時代を生きてきました。もちろん、私たち3人を育てながら。

タンポポ朝霧縮小

ところが、そういう夫婦に大きな転機がやって参ります。


それは、父の教員組合活動に対する政治的圧力と、母に対する「女が世の中に物申す」ことへの誹謗中傷です。


二人の前には、世間と言う、又は世渡りという巨大な壁がのしかかってきたのです。


出世と言う選択肢を採るのか、あるいは信念を貫いて教育活動を続けるのかと言う、辟易(へきえき=嫌で堪らない)としたくなるような二者択一を強いられ続けました。


母は母で、夫の出世の妨げの最大の要因は母の新聞投稿だと世間から責められ続けました。


その中で、大野ヶ原への単身赴任などの厳しい人事政策に父と母は翻弄され続けました。


父が大野ヶ原小学校の時に詠んだ詩があります。ちょっと長いのですが、父の詩の一部をここでご紹介します。

大野ヶ原7縮小

詩の題名は『零下十三度』です。(抜粋)


  1月19日 日曜日


  積雪 百八十センチ


  きょうで三日 大野ヶ原は全くの陸の孤島


 
  別居は二週間目に入る



  零下十三度


  大地も樹木も 学校も住宅も


  ガチガチに凍る


  上水道も下水道も完全に動脈硬化
  
大野ヶ原牛舎縮小

 ストーブは終日赤々と燃える


  こたつもつけっ放し


  それでも窓ガラスの氷の壁はとけようともしない


  氷紋なんて生やさしいものではない


  テレビの線は切れた


  薄暗い氷壁の中で



  落ち着けぬ心の乱れが角瓶へと動く  

霧の大野ヶ原縮小

  直ぐそこの学校が見えない


  そこまで行けば電話がある



  誰かに話さなければ


  ひとりでじっと耐えることはできない


  背丈の雪を


  泳ぐように漕ぎこぎ


  たっと辿り着く  



  玄関のドアが凍りついて開かない


  障るとジッと音をたて


  指が吸い着く


  零下十三度


  隙間にバールを入れてこじ開ける


  やらねばならなぬ

大野ヶ原3縮小

 
  角瓶が転がる零下十三度


  耳たぶが凍てつく零下十三度



  零下十三度屋台の灯が恋し


  米と味噌まだある零下十三度


  零下十三度に耐えてひとりぼち


  零下十三度モシモシかあちゃんか


凍てつく大野ヶ原で、怯え苦しみ淋しがり、ひとりで詠んだ『零下十三度』です。


明日に続きます。明日で終わりにします。







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おはようございます

うちの父は明治の生まれだったので、もちろん戦争に行きました。
幼少の頃に亡くなった父ですが、やっぱり戦争を語りませんでしたね。

母に聞いて知った事ですが、父ちゃんは戦争が嫌いでドンパチはしたくないと、
友人(医師)の助手として、戦争に参加したと言ってました。

その医師とは無二の親友であり、戦後父が末期がんに侵された時には、
早く楽にしてやりたいと、今は禁じられている安楽死を施術していただきました。
自宅で父の寝ている隣室で、家族会議の後実行された事、これだけは覚えているんです。
父とは10年間しか生活できませんでしたから、じゅんさんの様に長くお父様との生活を、
送れた事が羨ましくもあります。

やはり

ベル様
やはり、私たち年代の両親は何等かの形で「戦争」というものに大きな影響を受け、その重い荷物を背負いながら生きてきたのですね。
子供達を抱えながら。
ベルさんは、お父さんを幼い時に亡くされたという事は、前回のコメントで知りました。

でもそこには、重い重い、しかも辛い状況があったのですね。お察しします。昔は皆、亡くなる時は自宅の座敷の間で亡くなったものです。今の様に病院で亡くなるということが、果たして本人や家族にとっていいことかどうか、時折疑問に感じます。

皆さんが出された重い決断を、お父様は感謝しながら旅立たれたと思います。改めてお父様のご冥福をお祈り申し上げます。

茶がゆ(*^_^*)

じゅん様

私の父も戦争に行きました
戦争から帰って38歳の時私が生まれ
73歳の時食道癌にてお空に行きました

母の代わりに何でもする人で今の私がいます
毎朝の茶がゆ(和歌山の朝食)作りしていました

主人は暫く単身赴任をしていて
角瓶が… 淋しいです
同じでしたが主人はまだいいですよ
零下十三度大変です
だけど大野ヶ原の子供達はお父様がいて幸せだったと
思います(*^_^*)
今日は久しぶりに茶がゆを作り皆に零下十三度の
お話ししたいです

それからリンクにありがとうございました(*^_^*)
恥ずかしくないように頑張ます(*^_^*)

No title

ココヒロ様
ココヒロさんも、やはりお父様が戦争に。私たち年代の親で、戦争とは無関係だった人なんて誰もいません。酷いものです。

そして、73さ歳で旅立たれた。余りにも若い。ココヒロさんのことを、逆に案じられながら去り難く、旅立たれたのではないかと思います。
でもココヒロさんが、手先が器用で何事にも面倒がらないお父様の血を引き継がれた。ちゃんとお父さんは、ココヒロさんの心と体に跡を残されたのです。

戦争で生き残っても、その後の人生に大きな影を落としました。誰もぬぐいきれない影です。心の傷も負いました。
同時に、それは私たちの世代にも様々に影響を及ぼしました。ですから、私は父の「非戦」の誓いを胸にしていきたいと思います。

郷里の茶粥、美味しい季節になりましたね。和歌山は梅の名産地でもありますが、蜜柑は愛媛と似ていますね。皆さんで暖かい茶粥をお囲みされながら、在りし日のお父様をお偲びください。ご主人様には角瓶をお忘れなく。

リンクのお許し、ありがとうございました。それと、今日フォンターナさんをお尋ねし、初めて「多肉植物」というものを目にしました。今までも何度も目にしていたのですが、そういう認識がありませんでした。まあ、可愛いですね。



初めまして!

じゅんさんのご両親、大変苦労されたんですね。私の両親、祖父母、またその当時を生きられたかたには、様々な苦労がそれぞれにあったんだと思います。
ご両親のお話し、もっと聞きたいです。明日で一区切りなんてしなくていいと思います。じゅんさんが辛くなるなら仕方ないですが…今の戦争を知らないかたには貴重なお話しだと思います。出来たらシリーズ化をお願いしますm(__)m

初コメント

ユッキー様
初めてのコメントありがとうございます。

自分の両親のことを書くのは、こういうブログという表現形式に馴染むものなのか、随分悩んだ結果の追悼記事でした。

ただコメントを頂いた方の、それぞれのコメント内容を拝見しますと、どういう方でも肉親との永久の別れを経験せざるを得ないという、当たり前のことに気が付きました。

ワタシの経験が、何等かの形でお役に立てるなら、表現の方法は考えるとして、語り継いでいくことも無駄ではないかもしれないと思っているところでした。

その意味で、ワタシの背中を押していただいたユッキー様の言葉、今噛み締めているところです。アドバイス、どうもありがとうございました。

大野ヶ原は、まだ行った事がないです。四国カルストがある所ですよね。
じゅんさんのお父様の文章を読んでいたら浮かんで来ました。
山高し 雪深し 氷に閉じ込められたような この部屋で
僕の心を暖めてくれるのは 遠く離れた 君の声
受話器の向こう 君の声
零下十三度 されど零下十三度

零下十三度

わたうさぎ様

わたうさぎさんの心の中に浮かんできた心象、そのままの「零下十三度」でした。

たった一本の線で繋がる「零下十三度」でした。

繋がったその線の向こうに「もしもし かあちゃんか」って言葉が漏れる「零下十三度」でした。

これ以降、この夫婦の生き方を大きく変える「零下十三度」でした。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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