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「伊予国中世期・余話」 宇和海の日暮れを背景に

今年は「伊予国の歴史」をテーマに、数多くの記事を書きました。ブログを書き始めてやっと4年目に入りましたが、今までのどの年よりも多く書いたように思います。


11月23日からの3日間と12月1日からの2日間の計5日間で、「伊予国」が日本の歴史にきちんとして記録が残っている”古墳時代”に、愛媛最古の豪族”越智氏”が登場した頃から、豊臣秀吉の四国侵攻にによって四国内の既存勢力・豪族・守護大名たちが全て滅んだところまで書きました。(村上水軍と河野氏・「家紋」を巡って 1


古代から中世期までの愛媛の歴史を集中的に書いたのは、中世期が終わり近世期に入りますと、「伊予国」の歴史も中央においても地方においても多く記録が残されています。


ですから、ワタシが敢えて書かなくても、調べる気さえあればどなたでも「伊予国」の歴史に触れることができると考えたからです。


ところが書き終えてみて、ふと、自分の郷里である南予の中世期についてほとんど触れていないことに気がつきました。

宇和海小島1
そこで今日は、西予市三瓶町から明浜町高山の晩秋の日暮れの風景を背景に、愛媛南予地方、特にワタシの郷里の”宇和地方”の中世期の歴史について、ワタシが現時点で知っていることだけを”伊予国中世期・余話”として整理しておきたいと思います。


画像は今日書く事とは直接関係がありませんので、画像をアップするだけで内容には触れません。宇和海を臨む”西予市三瓶町”の晩秋の日暮れ前の風景です。


「伊予国」の”宇和地方”で、日本の歴史上始めて影響力を持ったのは、伊予国最古の豪族であった”越智氏”ではなかったかという説があります。


それは、”宇和郡”から越智氏に対して貢物(みつぎもの)を送ったという木簡(木の板に記された記録)が数点出土していることを根拠としています。

宇和海夕暮れ2
越智氏”は今までに書いてきましたように、今の東予地域(今治地域)から興った愛媛最古の豪族で、大和朝廷からも認められた名族です。


その東予地域の豪族がなぜ、南予地域の宇和郡から貢ぎ物を得ていたかというと、当時の交通手段は海上交易です。


燧灘(ひうちなだ)から伊予灘を通り、佐田の岬を回ればそこはもう”宇和海”です。


今、画像で示している当たりを、”このしろ”という小魚や”魚を干した海山物”を積んだ小船が、海岸線に沿って出港し、燧灘の今治の浜を目指したのでしょう。

岐路漁船3
しかし、越智氏が伊予国で勢力を保っていたのは平安末期までです。


次に伊予国の守護大名に伸し上がっていったのは、風早の里から出た”河野氏”で、東国鎌倉で兵を挙げた源頼朝の”源氏方”に味方して”治承・寿永の乱”(じしょう・じゅえいのらん=一般に言う源平の戦い)で活躍したことにより、鎌倉幕府を開いた源頼朝に認められ、伊予国の今で言う中予地域と東予地域の覇者になります。

日没漁船4
では南予はどうであったかというと、鎌倉時代から室町時代にかけては大きな支配者はいない状態が続いていました。


ところが、室町時代から戦国時代にかけて、京都の公家(くげ=朝廷に仕える貴族や上級官人)であった”西園寺氏”の一族が宇和郡まで流れてきて支配するようになりました。


最初に居付いたのは、鎌倉時代中期の”西園寺公経”(さいおんじし きんとう)で、宇和郡は西園寺家によってほとんど横領に近い形で所領とされます。

雲間光5
鎌倉時代から室町時代にかけて、京都の公家崩れが地方に流れていき、その地方を支配したのは伊予国宇和郡の”西園寺氏”と、土佐国幡多郡(現在の四万十市)に流れ支配者になった”土佐一条氏”です。


更には飛騨国に”姉小路氏”(あねがこうじし)が流れ着き支配者となりましたが、上に書いた2人を含めてこの3人(3地方)だけだったと、司馬遼太郎氏は”街道をゆく”の第14編で書かれています。


さて、”西園寺公経”(さいおんじ きんとう)は予てより狙いをつけていた伊予国宇和の庄の支配を鎌倉幕府に強く望み、公経の子である”常磐井入道実氏”(みちうじ)の時代に正式に宇和郡が西園寺氏の所領となりました。


しかし、当初は西園寺氏は宇和郡を支配するといっても、代官に統治させ、宇和庄を領家として経営しておりました。


実際に現地に土着するようになるのは、実氏の後裔で西園寺家の庶流”公良”からです。


南北朝時代から伊予の西園寺氏の活動が始り、本拠とした”松葉城”(現在の西予市宇和町にあった)に拠って、宇和地方の在地豪族を傘下におさめ、守護大名的な活躍をするようになります。


なお、宇和地方の北隣には、大洲を本領として喜多地域を支配した”伊予宇都宮氏”がいました。戦国時代のことです。


この”伊予宇都宮氏”は、元々は”下野宇都宮氏”(しもつけうつのみやし=今の栃木県宇都宮市を本領していた)という名族の流れで、筑後(今の福岡県南部)宇都宮氏の一部が伊予に流れてきたもの。


伊予宇都宮氏”は宇都宮豊房を初代とし、八代目の宇都宮豊綱の代に、毛利氏・河野氏連合軍との”鳥坂峠の戦い”(翌永禄11年=1568年)で、反毛利・河野連合軍であった土佐の長宗我部・一条軍に加担していたため破れ滅亡しています。

雲間光
さて、宇和地方で勢力を振るった”西園寺氏”は、戦国時代に入ると、伊予国東部の河野氏と土佐国の一条氏に挟み撃ちのように攻撃されます。


更には、九州の豊後国(今の大分県)の大友氏の侵攻に遭って次第に衰退していきます。


そして、致命傷を負ったのが1584年(天正12年)、土佐国”長宗我部元親”の四国統一を目指した侵攻でした。


当時の宇和郡の当主であった”西園寺公広”は長宗我部氏に降伏します。

虹6
ところが西園寺氏を下した長宗我部元親も、1585年(天正13年)豊臣秀吉の四国侵攻に遭って本国土佐を除く3国を没収されると、西園寺氏は今度は豊臣秀吉氏に降伏します。


いよいよ西園寺氏の最後です。


宇和には新領主として”戸田勝隆”(豊臣秀吉配下の武将であった)が封じられ、1587年(天正15年)に公広が戸田勝隆に殺害されるに及んで伊予西園寺氏は滅亡しました。


宇和島を本拠とし南予地方に君臨した戸田勝隆は、言わば狂気の人でした。領民の首をはねることなど日常茶飯事のこと、最後には妊婦の腹を割いて、中の嬰児まで殺害した男です。


南予地方の安泰は、慶長19年(1614年)伊達政宗の庶長子”伊達秀宗”が宇和島に10万石で入封し、南予地域に善政を治めるまで待たなくてはなりませんでした。(「宇和島城」①



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こんばんは

歴史はものすごく疎くて、
とっても苦手な分野なのですが、
遠足で子どもたちと行ったところが出てきて
何となくコメントしたくなりました(笑)

じゅんさんのおっしゃりたいこととズレるかもしれませんが‥。
「宇和島」って、手話では片目を手で覆うんです。
独眼竜政宗からきているんだそうで。
伊達家が関係しているらしいのですが、
よくわからないまま過ごしたので、
もしかしたら明日の記事でわかるのかなぁと、
自分の知識・理解力を棚に上げて楽しみにしています。

宇和島が

くく様
おはようございます。
まず、「くく」さんがこの歴史物にコメントいただいたこと自体、正直に言って驚きでした。私が書く「愛媛の歴史」しかも、皆さんがほとんど接した事がない「中世期」までの歴史、教科書などでもまったく触れられない分野です。
ですから、皆さんからの反応がないことを承知の上で書いています。
それは、愛媛に生まれ愛媛に住んで、そして愛媛の地で終焉を迎えるものとして、一度は触れておきたかったからです。

そして宇和島が手話の世界では片目を手で覆うことで表すとは、全く知りませんでした。それをお聞きして、なるほどなあ~、って感心しました。「伊達政宗」なんですね。納得です。残念ながら、今日24日にはそのことには触れません。

ただ、宇和島と伊達政宗の件は、2011年1月11日から15日までの5日間、五話の話としてまとめてご紹介しております。私のブログでは、画面の右のほうに記載した年と月が載っていますから、そこで2011年の1月をクリックしますと出てまいります。

宇和島藩には「伊達政宗」の第一子である「伊達秀宗」が初代城主として着ています。そして本家の「仙台伊達家」は第二子が正宗の後を継ぎました。
なぜ伊達政宗は仙台から遠く離れた宇和島に第一子「伊達秀宗」を派遣したのか?謎です。

ただ周囲の状況から推測することは出来ます。まず第一に「秀宗」は庶子(正室が生んだ子ではない)だったことも、宇和島に派遣された原因の一つではないかと想像されています。
本家仙台伊達家は、「伊達政宗」の第二子が後を継いでいますが、この第二子は嫡子(正室の生んだ子)です。

二つ目の原因は、伊達政宗の第一子「伊達秀宗」は、豊臣秀吉の世継ぎとなる「豊臣秀頼」の遊び友達として栄華に囲まれて贅沢に育てられていました。「時の天下人「豊臣秀吉」に可愛がられ、秀吉の名の一字をもらって「秀宗」と名乗ります。そういう育ち方をした長男の秀宗です。

父親の「伊達政宗」は、豊臣秀吉に可愛がられた長男の「伊達秀宗」が、秀吉の後に天下人になった「徳川家康」に睨まれるのではないかと恐れました。徳川家康に睨まれてお家断絶に追い込まれたら、天下の「伊達家」は滅んでしまうことを恐れたと言うのです。

ですから、宇和島に派遣された長男の「伊達秀宗」は、一種の「伊達家を守る捨石」だったとも考えられいます。

一度2011年1月11日からの五話に目を通していただければ幸いです。













プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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