東宇和郡明浜町狩江から

今日は、ワタシが小学4年生の春から中学2年生を終える5年間過ごした”東宇和郡明浜町狩江”の風景をお届けします。

突堤1
ところが現在は、市町村の合併によって”西予市明浜町狩江”になっています。


しかし、昨日「伊予中世期・余話」でも書きましたように、日本の歴史上で初めて登場するこの地域の地名が”宇和”であったことは、発掘されている木簡(もっかん=木の板に記された記録)によっても明らかです。


ですから、市町村の合併によってこの地域の地域名が(宇和町は一行政単位としてその名前が残ったに過ぎず、広い地域名としての”宇和”は消滅した)が消え去ったことは、実に愚かなことをしたものだと思い、呆然とします。

枝浦1
その”宇和”地域の中で、ここ”狩江”は、宇和島伊達藩の”狩場”であったため、その名が残っています。


ここ狩江の両隣は、”俵津”(たわらず)と”高山”地区がありますが、その”俵津”は、リアス式海岸線と海に落ち込む山との間にわずかに残った田に稲を植え、収穫された米をこそぎ取るように集めて俵に詰め、伊達藩への年貢米として送り出した場所であったことに由来した地名です。


また”高山”は、背後に高い山並みを持っていることに因(ちな)んだ地名でしょう。

本浦2
だた、いずれにしろ小さな貧しい漁村でした。主な産業は”漁業”で、後に”真珠の養殖業”が生まれますが、それも今は産業としては生き残ってはいません。

本裏3
ワタシがまだ小学生のころは、大きな網元がこの地区でも幾つかあって、地域の大半の人たちはその網元に雇われ、船団を組んで”鰯漁”に従事していました。


鰯漁”の最盛期は春から初夏にかけてですが、その頃は地域にある平地と言う平地には”鰯”を浜茹でされた”イリコ”が天日で干すために所狭しと並べられていました。

お伊勢山3
村全体が貧しくテレビなど、村の郵便局長さんや、校長先生の家にあるくらい。


ですから夕刻の7時が過ぎて、各家庭で夕食を早めに済ませて、地域の人たちはテレビがある家庭に出かけて行って、2時間以上もテレビを楽しみ、9時過ぎにはそれぞれの家族で自宅に帰るという日々でした。


そういうテレビがある家庭では、多くのご近所さんが押しかけますから、広い座敷を開放してお茶などを出して皆で見ていた、そういう時代をここで過ごしました。


まるで”ALWAYS三丁目の夕日”そのものの時代でした。

狩江小学校5
そういう時代の小学4年生の春に行った”狩江小学校”です。

狩江小学校4
ワタシがこの学校に登校した初めは木造の校舎で、廊下と教室を遮る窓は”障子紙”でした。


紙ですから、すぐに破けます。ですから、窓の障子紙は補修した穴だらけ。

虹6
でも、その当時は”いじめ”などという問題はありませんでした。

島虹7
皆が仲良く、元気に屋外を走り回って、上級生が下級生の面倒を見るのは当たり前の時代です。


この小学4年生から、狩江を離れる中学2年生までの5年間同じクラスだった子(2クラスしかありませんでしたが)は、今でも”親友”です。

海虹8
もうお互い還暦をとうに過ぎましたが、今でもメールの交換が続いています。


中学3年生で野村中学校に転校してからは、ずっと”手紙”での文通が続きました。

浜虹8
ここ”狩江”で過ごした5年間、ワタシはずっと毎日”日記”を書き綴りました。一日も休んだことはありません。


毎日日記に書くことが多くて、一日分のページに埋まりきらず、裏にも欄外にもはみ出して日記を綴り続けました。

浅野家9
それが、ワタシの一日終わりの日課でした。


ちっとも苦に思ったことなどありません。親から言われて書いたのでもありません。

浅野家6
書きたいことが多すぎて、自然と文章がほとばしり出るように書き続けました。手紙も何百通書いたのか数え切れません。

浅野家玄関5
そして、還暦を過ぎたころから、このブログを毎朝7時にアップし続けています。


このブログと出会ったお陰で、あの頃の自分が取り戻せました。ありがたいと思う日々を送っています。





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こんばんは★

子供の頃(神戸時代)私の家は貧乏でしたが、年の離れた義理の兄が4人いて、その働き盛りの兄達がお金を出し合い、今から50年余前ご近所で一番にテレビを買いました。
力道山絶頂の頃でした、試合は喫茶店で臨時の椅子を出して見てた頃です。
毎日兄が帰るまでの時間帯、テストパターンと白黒の漫画を見てましたね(^_^;)
もちろんご近所さんも座布団を持って、見に来てましたよ(^^)

ブログ運営するようになってからと言うもの、何とか文章を考え出していますが、
子供の頃は作文や感想文は大の苦手、日記の類は何時も三日坊主でした。
PCを始めた頃、九州の娘に「webで日記を書きなさいそうすれば、文字を打つのが早くなるよ」と言われました。
それから12年、いろんな形でネットに文章を発信し続けています(^o^)v



ネットと出会って

ベル様
同じ年代なんですね、力道山とテレビだなんて。

そうですよ、皆さんが群がって力道山が活躍するのを固唾をのんで見守ったものでしたね。

その子供の頃から文章を書くのが好きで、日記を書き続けたものです。

ところが社会人になって、日常生活にかまけて何時しか文章を書くのを忘れていました。

ネットと出会わなかったらあのままで終わっていたと思うとぞっとしますね。ブログを毎日アップするようになって、やっと小学生の頃の習慣が蘇ってきました。

お互いに、ネットに出会えてよかったですね。生きていることを実感できますものね。^^

Re: お尋ね

O様

お尋ねの件、私は小学校4年から中学2年まで狩浜の本浦に住んでいました。でもお尋ねの方は知りません。まだ子供でしたので。
狩浜は本浦(ほむら)と枝浦に分かれていました。子供の行動半径は狭いので、分かりません。

お役に立てなくて申し訳ありませんでした。

じゅん

懐かしい

増田様

随分と古い、そして私にとっては懐かしい記事にコメント頂きありがとうございました。

私は「愛媛の歴史」を記事として数多く書いていますが、その時必ずお断りするのは、「私は歴史の素人」だということです。

ですから、昔の明浜町にある各地区の地名由来の正確な知識はありません。ただ、私は小学校4年生から中学2年生まで「狩江」の「狩浜」に住んでいました。

地域の地名の由来は、地元の古老や地域で言い伝えられた事を元に書いたものです。ですから、増田様の解釈と私が記述したことの正否は判断出来ません。

なお私は南予出身者として、愛媛の歴史、取り分け南予の歴史を覚えている間に書き残しておきたいと記事にアップしております。例えば吉田町の「武左衛門一揆」のことや「和霊神社」の謂れなど様々です。

お時間があります時、それらに目を通して頂ければ幸いです。今日はコメントありがとうございました。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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