「大洲炉端 油屋」・「愛媛グルメ紀行」 443
今日は大洲市のレトロな街で、装いも新たに再出発した”大洲炉端 油屋”さんをご紹介しましょう。
”油屋”の由来については、小説家の司馬良太郎氏が「街道を行く」というシリーズの中の14編(文庫版)「南伊予・西土佐の道」の文中で触れておられます。
それによりますと、”油屋”は旅館として江戸末期に油井久馬という人が始められたという。
その歴史ある”油屋旅館”は遂に閉館となり、昨年春、元の”油屋旅館”の蔵であったものを改装し和食料理から薬膳カレー料理のお店にリニューアルされたと聞きました。
それが今度は今年の9月3日に、東京で鉄板焼きなどを運営している”ラウンドテーブル”という会社が新しい大洲市の指定管理者となり、再度開店されたもの。
ですから、今では客席数80で、市内や県内産にこだわった野菜や魚介がメーンの炉端焼きを提供するお店となっています。
こちらが、元の”油屋旅館”の蔵を改装したという建物です。
ワタシのブログホームページにリンクしている”大洲のひでさん”も、9月に記事としてアップされています。
その”大洲のひで”さんのお薦めもあって、初めて訪問してみました。
こちらが、お店の玄関。
なるほど、蔵の雰囲気を残していて、中々に風情のある佇まいです。
お昼は5種の”ランチメニュー”から選ぶ事になっていて、早速”温かいさつま汁定食”900円(内税)と注文しました。
”さつま汁”は、その名前から九州の薩摩(鹿児島県)から伝わったという通説や、元々南宇和郡の漁村で自然発生したものと言う説などがあって、よくはわかりません。
鹿児島県に今伝わっている鹿児島県を代表する郷土料理”さつま汁”は、”さつま鶏”を使うことに由来していると伝えられています。
江戸時代に薩摩藩で武士の士気を高めるために催されていた闘鶏で、負けた鶏を野菜と一緒に煮込んで食べたのが始まりと言われています。
みそ味の濃厚な汁で鶏の骨付きぶつ切り肉を使うのが特徴ですから、南伊予に伝わっている”さつま汁”とは随分趣を事にします。
一方、ワタシが小学校時代に住んでいた西予市明浜町では”ひゅうが飯”という地元料理がありました。
この”ひゅうが飯”は、元々宇和島の沖にある”日振島”に伝わった料理で、火を一切使用せず、新鮮なアジなどを三枚におろして刺身にする。
それに炒った白ごまをすりつぶし、刻んだネギ、みじん切りにしたミカンの皮を、みりん、醤油、酒などを混ぜ合わせものに卵をときほぐし、調味料と混ぜ、味をなじませた後、炊き立てのご飯の上にかけて食べる料理です。
”さつま汁”も”ひゅうが飯”も何れも南予に伝わっている郷土料理で、ワタシは漁師料理の一種ではないかと想像しています。
店内からは、”藤堂高虎”が近世の城郭として整備したと伝えられる、4重4階という珍しい構造をもった天守閣を望むことが出来ます。
現在の天守は、2004年(平成16年)に復元されたもので、日本100名城に指定されています。
肱川の川面に映える”大洲城天守閣”は、大洲市民の誇りでもあります。
”さつま汁定食”は、さつま汁と煮もの、和もの、麦ごはん、御菜、汁ものからなっています。
”さつま汁”は、おろした魚をすりつぶし、軽く炙る。
ワタシが子供の時には、すり鉢におろした魚を入れてすりこ木ですりつぶしていたことを思い出しました。
味噌をそのすり鉢に塗りこんで、逆さまにして炭火で炙って焼き味噌を作り、すりつぶした魚を加え、さらに焼く。
そこにだし汁でのばし、味を付けたこんにゃくやキュウリを混ぜ、麦飯にぶっ掛けて食べていました。薬味として好みにより、ミカンの皮を干し乾かしたものを削ったものや刻みネギなどをかけました。
こちらが”麦ごはん”です。
でも、一般に食べられていた”麦飯”は、決してこのような白い色などはしていませんでした。これは、麦飯を使うという形だけなぞったもの、ワタシにはそう見えました。
”さつま汁”を掛けて食べる”麦飯”は、もっともっと黒々としていました。白米などは、申し訳程度にいれていました。でも、こちらは、麦を申し訳程度に入れたもので、南予で食べられていたものとは別物です。
しかもこの”さつま汁”には温州みかん(うんしゅう)の皮を干したもの(漢方では、ミカンの皮を干して粉末にしたものを”陳皮”=ちんぴ、という)が入れられていないのではないかと感じた。
貧しい南予地域では、ミカンを剥いて出た皮も決して捨てたりはしなかった。各家庭で天日に干し、乾燥させたものを薬味などに混ぜて使っていました。
”さつま汁”にそれを入れると、味に若干の”苦味”がはいり、味の奥行きが出る。味が立体的になる。
ところが、出された”さつま汁”にはその陳皮が入れられていない、もしくは入れられている量が極微量であるため、味が平面的に感じた、立体的深みが感じられない。
もちろん、これが間違っていると言うのではありません。これがこのお店の味なのでしょうから。
少なくとも900円を頂く料理に仕上げるために料理屋料理に仕上げられた。
こちらはミズナにジャコを混ぜたもの。
まあ、上品な付き出しの役割りを担っているのでしょうか。上品過ぎて、南予の香りがしませんでしたが。
こちらは、カボチャの煮ものと、キュウリの酢の物です。
キュウリには、魚を焼いて解したものが混ぜられています。これらも、板場料理でしょう。
少なくとも地元で元々伝えられた漁師料理の香りを抜いて、料理屋の料理にしたもの。
でも、多くのお客さんはこれが「アノ南予に伝えられた!”さつま汁”料理」だと満足しておられる。
ですから、それはそれでいいのでしょう。南予の漁村で育った私には懐かしさの欠けらもありませんでしたが。
でも、もう地元でも昔ながらの”さつま汁”を提供してくれるお店が一体何軒あるのでしょうか。
しかも”さつま汁”や”ひゅうが飯”を作るには、実に手間隙が掛かります。
昔でも、何かのお祝い事やお祭りなどでしか一般家庭では作っていなかったのですから、今ではこういうお店に来る他は、食べられない。ですから、これはこれでありがたいことです。
お店の前は、大洲観光の一つの目玉である”大洲赤煉瓦館”が立っています。
この建物は、明治34年に”大洲商業銀行”として建築されたもので、1922年(大正11年)まで使われていました。
その後は、警察庁舎や商工会議所などとして利用され、1991年(平成3年)に、”大洲赤煉瓦館”として再出発し、現在はお土産品や歴史書籍などが売られています。
今回の最大の収穫は、ここで愛媛の歴史に関して以前から探していた書籍を発見し買い求めたことです。
ワタシが書く”伊予の歴史”モノは、余り人気があるシリーズではありませんが、これで次に書くテーマが見つかりました。
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”油屋”の由来については、小説家の司馬良太郎氏が「街道を行く」というシリーズの中の14編(文庫版)「南伊予・西土佐の道」の文中で触れておられます。
それによりますと、”油屋”は旅館として江戸末期に油井久馬という人が始められたという。
その歴史ある”油屋旅館”は遂に閉館となり、昨年春、元の”油屋旅館”の蔵であったものを改装し和食料理から薬膳カレー料理のお店にリニューアルされたと聞きました。
それが今度は今年の9月3日に、東京で鉄板焼きなどを運営している”ラウンドテーブル”という会社が新しい大洲市の指定管理者となり、再度開店されたもの。
ですから、今では客席数80で、市内や県内産にこだわった野菜や魚介がメーンの炉端焼きを提供するお店となっています。
こちらが、元の”油屋旅館”の蔵を改装したという建物です。
ワタシのブログホームページにリンクしている”大洲のひでさん”も、9月に記事としてアップされています。
その”大洲のひで”さんのお薦めもあって、初めて訪問してみました。
こちらが、お店の玄関。
なるほど、蔵の雰囲気を残していて、中々に風情のある佇まいです。
お昼は5種の”ランチメニュー”から選ぶ事になっていて、早速”温かいさつま汁定食”900円(内税)と注文しました。
”さつま汁”は、その名前から九州の薩摩(鹿児島県)から伝わったという通説や、元々南宇和郡の漁村で自然発生したものと言う説などがあって、よくはわかりません。
鹿児島県に今伝わっている鹿児島県を代表する郷土料理”さつま汁”は、”さつま鶏”を使うことに由来していると伝えられています。
江戸時代に薩摩藩で武士の士気を高めるために催されていた闘鶏で、負けた鶏を野菜と一緒に煮込んで食べたのが始まりと言われています。
みそ味の濃厚な汁で鶏の骨付きぶつ切り肉を使うのが特徴ですから、南伊予に伝わっている”さつま汁”とは随分趣を事にします。
一方、ワタシが小学校時代に住んでいた西予市明浜町では”ひゅうが飯”という地元料理がありました。
この”ひゅうが飯”は、元々宇和島の沖にある”日振島”に伝わった料理で、火を一切使用せず、新鮮なアジなどを三枚におろして刺身にする。
それに炒った白ごまをすりつぶし、刻んだネギ、みじん切りにしたミカンの皮を、みりん、醤油、酒などを混ぜ合わせものに卵をときほぐし、調味料と混ぜ、味をなじませた後、炊き立てのご飯の上にかけて食べる料理です。
”さつま汁”も”ひゅうが飯”も何れも南予に伝わっている郷土料理で、ワタシは漁師料理の一種ではないかと想像しています。
店内からは、”藤堂高虎”が近世の城郭として整備したと伝えられる、4重4階という珍しい構造をもった天守閣を望むことが出来ます。
現在の天守は、2004年(平成16年)に復元されたもので、日本100名城に指定されています。
肱川の川面に映える”大洲城天守閣”は、大洲市民の誇りでもあります。
”さつま汁定食”は、さつま汁と煮もの、和もの、麦ごはん、御菜、汁ものからなっています。
”さつま汁”は、おろした魚をすりつぶし、軽く炙る。
ワタシが子供の時には、すり鉢におろした魚を入れてすりこ木ですりつぶしていたことを思い出しました。
味噌をそのすり鉢に塗りこんで、逆さまにして炭火で炙って焼き味噌を作り、すりつぶした魚を加え、さらに焼く。
そこにだし汁でのばし、味を付けたこんにゃくやキュウリを混ぜ、麦飯にぶっ掛けて食べていました。薬味として好みにより、ミカンの皮を干し乾かしたものを削ったものや刻みネギなどをかけました。
こちらが”麦ごはん”です。
でも、一般に食べられていた”麦飯”は、決してこのような白い色などはしていませんでした。これは、麦飯を使うという形だけなぞったもの、ワタシにはそう見えました。
”さつま汁”を掛けて食べる”麦飯”は、もっともっと黒々としていました。白米などは、申し訳程度にいれていました。でも、こちらは、麦を申し訳程度に入れたもので、南予で食べられていたものとは別物です。
しかもこの”さつま汁”には温州みかん(うんしゅう)の皮を干したもの(漢方では、ミカンの皮を干して粉末にしたものを”陳皮”=ちんぴ、という)が入れられていないのではないかと感じた。
貧しい南予地域では、ミカンを剥いて出た皮も決して捨てたりはしなかった。各家庭で天日に干し、乾燥させたものを薬味などに混ぜて使っていました。
”さつま汁”にそれを入れると、味に若干の”苦味”がはいり、味の奥行きが出る。味が立体的になる。
ところが、出された”さつま汁”にはその陳皮が入れられていない、もしくは入れられている量が極微量であるため、味が平面的に感じた、立体的深みが感じられない。
もちろん、これが間違っていると言うのではありません。これがこのお店の味なのでしょうから。
少なくとも900円を頂く料理に仕上げるために料理屋料理に仕上げられた。
こちらはミズナにジャコを混ぜたもの。
まあ、上品な付き出しの役割りを担っているのでしょうか。上品過ぎて、南予の香りがしませんでしたが。
こちらは、カボチャの煮ものと、キュウリの酢の物です。
キュウリには、魚を焼いて解したものが混ぜられています。これらも、板場料理でしょう。
少なくとも地元で元々伝えられた漁師料理の香りを抜いて、料理屋の料理にしたもの。
でも、多くのお客さんはこれが「アノ南予に伝えられた!”さつま汁”料理」だと満足しておられる。
ですから、それはそれでいいのでしょう。南予の漁村で育った私には懐かしさの欠けらもありませんでしたが。
でも、もう地元でも昔ながらの”さつま汁”を提供してくれるお店が一体何軒あるのでしょうか。
しかも”さつま汁”や”ひゅうが飯”を作るには、実に手間隙が掛かります。
昔でも、何かのお祝い事やお祭りなどでしか一般家庭では作っていなかったのですから、今ではこういうお店に来る他は、食べられない。ですから、これはこれでありがたいことです。
お店の前は、大洲観光の一つの目玉である”大洲赤煉瓦館”が立っています。
この建物は、明治34年に”大洲商業銀行”として建築されたもので、1922年(大正11年)まで使われていました。
その後は、警察庁舎や商工会議所などとして利用され、1991年(平成3年)に、”大洲赤煉瓦館”として再出発し、現在はお土産品や歴史書籍などが売られています。
今回の最大の収穫は、ここで愛媛の歴史に関して以前から探していた書籍を発見し買い求めたことです。
ワタシが書く”伊予の歴史”モノは、余り人気があるシリーズではありませんが、これで次に書くテーマが見つかりました。
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