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「新年 大野ヶ原 2」

今日はお正月の2日目です。


今日も、郷里野村町の「大野ヶ原」の風景をご紹介しましょう。

霜アップ1
これは11月下旬の朝の風景ですが、高原一体は霜に覆われていました。


この前日までは、この地に雪が降り積もっていたそうです。

霜アップ2
年間の平均気温は8.04度といいます。


この平均気温は、北海道の道南地方とほぼ同じといいますから、同じ愛媛県に住んでいてもこの地の厳冬期の厳しさはちょっと想像できないと思います。


霧も深く立ち込め、日照時間も短い地域です。

霜アップ3
父は、大野ヶ原小学校時代に『零下十三度』という詩を残しています。(抜粋は既に一度ご紹介しました)

その中で、大野ヶ原小学校に併設されていた教員住宅で単身赴任をしておりました。

父はこの地の寒さを以下のように表現しています。


1月19日 日曜日

  積雪 百八十センチ

  きょうで三日 大野ヶ原は全くの陸の孤島
  
  零下十三度

  大地も樹木も 学校も住宅も

  ガチガチに凍る

  上水道も下水道も

  完全に動脈硬化

霜柱4
  ストーブは終日赤々と燃える

  こたつもつけっ放し

  それでも窓ガラスの氷の壁は

  とけようともしない

  氷紋なんて生やさしいものではない

  テレビの線は切れた

  薄暗い氷壁の中で

  落ち着けぬ心の乱れが

  角瓶へと動く   

と。

結氷5
薄く張った水たまりの氷に、サイロの屋根がぼんやりと写っています。


この「大野ヶ原」に学校が出来たのは昭和27年のことです。


杉皮葺きの平屋のバラック校舎です。惣川村立小松小学校と惣川中学校の大野ヶ原分校として、四月に開校されたのです。

牧場6
生徒数、数名からのスタートでした。


学年も小学一年生から中学三年生までとびとびで始められました。


最初から先生一人が複数の学年の授業を一人で見るという”複式学級”でした。


まだ窓も入っていないバラック校舎で、教材も電気・電話もなく、ランプ生活での教育が始まったのです。


上の画像は、”源氏ヶ駄馬”から見た”寺山地区”の今の様子です。

獣舎9
上の画像には”獣舎”が牧場の奥に見えますが、大野ヶ原分校はそのすぐ傍に建てられました。


この学校は、住民の会合や研究会、レクリエーションの場となり、大野ヶ原文化の中心となって開拓にも大いに貢献しました。

一度は台風で校舎が半壊し、地区民の労力奉仕で補強と改築が行われたこともあります。

小学校10
こちらが、新しく建て替えられた校舎です。


この「大野ヶ原」は、開拓当時から苦闘の連続でしたが、最大の危機は昭和38年の大豪雪だったのではないでしょうか。


昭和37年の暮れから降り続いた大雪は、家屋も学校もすっぽり埋まるほどの豪雪となりました。


この当時は既に大野ヶ原の中心産業に育っていた酪農で、毎日出荷していた牛乳が出荷できない事態となりました。


最初の数日は、「カンジキ」を付けて男は60キロ、女は30キロの牛乳を背負い、6キロ下の”小屋”という地区まで運びました。

トラクター11
ところが、早朝から牛の世話と搾乳を済ませ、それから全員で牛乳を背負い雪道をカンジキ履いて上り下りする。数日しか体力が保たず中止となりました。


更に、完全に陸の孤島と化した大野ヶ原は食料にも事欠くようになり孤立してしまいました。


そんな時、県がヘリコプターを出して、食料などの救援物資を空から投下し餓死をまぬがれたのです。

古いトラクター12
しかし、毎日生産される牛乳の取り扱いに悩みました。毎日全員で牛乳風呂にも入りましたが、限界があります。


皆で、大雪の中を牛乳を捨てる表情をヘリコプターのテレビカメラが捉えました。


酪農農家の方々全員が大泣きに泣きながら雪の中に牛乳を捨てる姿を、中学1年生でした私は克明に覚えております。


郷里の一角にある「大野ヶ原」、ワタシも父がこの地で教員をしていなければ無縁の世界としてよそ事のように見ておらるのかも知れませんが、父が深く関わり、その後の人生を大きく変えることになった「大野ヶ原」は、ワタシにとっては他人ではないのです。


父を亡くした翌年の正月を、このような記事からスタートさせたのは、あの時代の苦悩の歴史を風化させては申し訳ないという思いでアップしました。


皆様にとって、今年が良いお年になりますことを心より祈念しております。





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56豪雪

はじめまして!
ひめぶろぐから訪問しました。
記事は、37豪雪について書かれていますね。
牛乳は、無念にも畑に・・・
食料もなくなり・・・・
-13℃でしたか。
大野ヶ原にヘリが飛びました。
当時、ニュースで知りました。


記事を読んでいて、56豪雪が蘇りましたので、コメントさせていただきました。昭和56年のことです。

昭和56年の1月も、長いあいだ孤立した大野ケ原・・・
こちら宇和でも平地2mの豪雪でした。
来る日も来る日も雪との闘いでした。


ボクは、まだ若き教師で宇和中に勤務していました。
何日も、始業時間を遅らせて、窓の近くまで雪に覆われた教室で、教鞭をとっていました。
その時に、大野ケ原の仲間に対して何ができたのかと・・・、今、自分自身を自問し、反省しています。
今、すでに、69歳です。
10数年前には、冬の教員住宅にも宿泊させていただいたことがあります水道は出ませんでした。(Jouko校長さん宅 彼が、校長さんの時に新しい住宅ができました。住宅は快適に過ごせるように窓が2重になっているようですね。)
今は、Shinoto校長さんが若さで頑張っていらっしゃいます。

お父様の誌、繰り返して読ませていただきました。
ありがとうございました。

大野ケ原には、夏になると訪れ、ブナ林散策をしたり大根をゲットしています。
冬には、天狗高原から五段高原まで雪道を歩いたりしています。

今年もお元気でお過ごしください。
素敵なブログですね。

退院と転院は

むらちん様

妻の退院と転院は、10月5日です。10月2日と言う日は、このところずっと毎日書き続けて来た「妻との闘病記」と言う名のブログ記事の最後の記事アップと言う意味です。
10月3日と4日は、ブログ記事アップをお休みして、10月5日に、退院と転院の報告とレギュラーブログ記事アップの再開(10月6日)の告知記事をアップします。
そして、いよいよ10月6日からはレギュラーブログ記事をアップします。
そう言う意味です。

なお、当然ですが、転院するリハビリ専門病院の転院承諾は得ておりますし、転院に際しての搬送の手配もしております。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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