「松山市の地名・町名由来」・ 「久米町・来住町」 1

今日は、「松山市の地名・町名由来」の第1回目です。


第1回目にどこを採り上げようか、考えました。そして、松山市の地名・町名の中で歴史的に一番古い町名を選びました。

それが「久米町」(くめまち)であり、「来住町」(きしまち)はその関連で採り上げます。

久米小学校1
これは、南久米町にある”久米小学校”の校門に刻んである校名です。

久米」(くめ)は松山最古の地名というより、愛媛県最古の地名でもあります。奈良の”藤原京跡”から「久米評」(くめこおり)と書いた木簡が出土しています。

藤原京”というのは、日本の時代区分から言えば縄文時代・弥生時代・古墳時代と続いて、その次の”飛鳥時代に築かれた都です。概ね6世紀末から7世紀という時代です。

日本国が、初めて国家として成り立ち、今まで”大君”(おおきみ)と呼ばれていた天皇が、初めて”天皇”と表記された記録が残っている天武天皇(てんむてんのう)の次の代の、持統天皇、文武天皇・元明天皇の三天皇が在位した時代です。

久米官衙全体1
この画像は”久米官衙遺跡群”(くめかんがいせきぐん)です。国道11号線から直ぐのところにあります。

”久米官衙遺跡群”は、”回廊状遺構”(かいろうじょういこう)を持つ遺跡で7世紀後半に作られたと言われています。

久米評石
これは平成元年1月に発見された”久米評”(くめこおり)と書かれた”須恵器”という土器の一種です。

この「」(こおり)という言葉は、7世紀後半だけに使用されていた地方区分で、その当時から来住台地周辺は「久米」(くめ)とよばれ、「」(こおり)という地方区分で治められていたことが分ったのです。

では、”くめ”という言葉の元々の意味はと言いますと、”くるめき”からきていて川が蛇行し、入り組んだところを意味する言葉だそうです。

愛媛県内でも、大洲市には「久米村」や「南久米」という地名がありますが、こちらも肱川が蛇行し入り組んだ土地を”久米郷”とよんでいたことが由来です。

なお現在の「久米町」は、人口の増加に伴い「南久米町」と「北久米町」とに分かれました。

久米官衙遺構群全体図2
この画像は、”久米官衙遺構群全体図”です。


この”久米官衙遺構群”の発掘調査によって、”久米官衙遺構群”が「久米評」を治める役所とその関連施設であったことが分りました。

なお、この地域は古代より”久米氏”という氏族が支配していましたが、久米氏の祖先は”日本書紀”にも出てくるほどの名族で、中央の”大伴氏”の支配を受けていたとも言われています。

回廊図3
久米官衙遺構群”の特徴は”回廊状遺構”を持つ遺跡であり、南辺中央には門が作られ、その門をくぐった正面には”正殿”(せいでん)とよばれる建物があったことが確認されています。


ここにあるような大規模な区画施設が、この頃地方官衙で造営される例はほとんどないことから、斉明天皇(さいめいてんのう)が筑紫(現在の福岡県)へ向かった際に立ち寄った”石湯行宮”(いわのゆかりみや)と関連づける説もあるそうです。

金堂基壇4
この画像は、”来住廃寺”(きしはいじ)の”金堂”(今でいう本堂)の基壇(建物の土台)跡で、”金堂基壇”(こんどうきだん)と呼ばれているものです。

金堂は真北方向に建てられていたことが分っています。

来住廃寺石碑7
この画像は、”国指定史跡”である”来住廃寺”を示す石碑です。

来住廃寺遺構図8
来住廃寺”は、7世紀末頃、回廊状遺構が取り壊された後に造営されました。

しかし、その規模や建物の配置など、その詳細はまだ分っていません。

来住廃寺から出土した瓦から、”奈良法隆寺”の系譜を引くお寺だったと考えられています。

つまり、仏教が伝来してから奈良で花開いた仏教文化が、いち早く伊予の松山でも伝えられていたことを物語るものです。

久米官衙遺構想像図7世紀
これは、7世紀中ごろの”久米官衙遺構”の想像図です。

官衙・国衙”(かんが・こくが)とは、奈良時代(7世紀初め)に、全国に律令制度を構築するために地方政治を遂行する”国司”(こくし)が居た役所のことです。

なお、厳密に言えば”官衙”と”国衙”は違うのでしょうから、”久米官衙”に国司が居たと言うわけではないかも知れません。

つまりこの時代の”伊予国”の政治の中心は、現在の今治地域にあったとされる”国府”(こくふ=現在も、その位置は特定されていません)でした。

ですからあくまでもイメージですが、この辺りを、国から派遣された国司や国博士・国医師・国師といった専門職員や雑徭(ぞうよう・ざつよう=国司の権限で集められた地元農民達の一時的労役夫)たちが普通に歩いていたのか、と想像するだけで楽しくなります。

その事を想像すると、日本の中世にタイムスリップしたような、不思議な感覚に見舞われるからです。

来住町標識1
この「来住」(きし)という地名の由来は諸説あるそうです。

かつてこの地は戦場となった歴史を持ち、戦いが終わると再び人々が帰ってむようになったという説や、中世の守護大名であった”河野氏”の家臣である”岸氏”の館があったことから「来住」となったという説などがあります。

「松山市の地名・町名由来」の第1回目から、いきなり歴史的単語が多数出てきて、やや読みづらい話になってしまいましたが、これは「久米」(くめ)という地名が愛媛では最古の地名であった為と、”久米官衙遺構”と言う史跡があったがためです。

次回以降は、軽くいきたいと思います。



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こんにちは

なるほど。
久米とは「川が蛇行し入り組んだところ」を指す言葉なんですね。
想像するに久米→久しく米のとれるところ→水の豊富なところ→川が蛇行したところといった感じかもしれませんね。
来住は斎院とならんで不思議な語感の場所ですが、その由来は諸説分かれているって感じなんですかね。

以前にじゅんさんのブログを見て「いんでいら」というカレー屋さんに行き、ついでに久米官衙遺構に立ち寄って案内板を読み、「奈良時代よりも古いのか」と大変な感銘を受けたのを思い出します。
地名とグルメ紀行を融合させたような記事がかけたら、それもまた面白いかもしれませんね。

川が

ファットマン様
なるほど、久米から「くるめき」までの流れは、ファットマンさんの解説に沿って考えれば自然ですね。久米の場合は小野川ですね。

元々、山間部を流れていた川が平野部に入る一帯は「扇状地」と言って、水捌けがよくて土地も肥沃なので、昔から農業が発達しました。
久米も小野川の扇状地で、土地が肥沃で早くから稲作が発達したのだと思います。そこが米どころとなるのは、ごく自然ですね。

久米官衙遺構は既に見られていらっしゃいましたか。インデイラのつながりで。私もファットマンさんと全く同じ行動をしました。その時から、今日書いたことを何時か、何かの形で書こうと思っていましたのでいいきっかけとなった分けです。

地名とグルメ、どんどんアイデアが出てきますね。なるほど、それが同時に書けたら、今まであまり見たことがないものになるでしょうね。
ただ、当分は地名探索と現地取材に追われています。まだ、そこまでの余裕と言いますか余力はないというのが実情ですね。でも、何時か挑戦してみたいと思います。コメントありがとうございます。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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