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「松山市の地名・町名由来」・ 「斉院町・垣生町」 6

松山市の地名・町名由来」の第6回目は、松山市の西部にある「斉院町」(さやちょう)と「垣生町」(はぶまち)をご紹介しましょう。


両方の地名とも、松山にお住まいの方以外は町名の読み方が難解だと思います。

南斉院集会所1
上の画像は「斉院町」(さやちょう)の町名が表記されている”南斉院集会所”です。元々は「斉院町」でしたが、人口が増えたことで「南斉院町」と「北斉院町」に別れました。

斉院町」の””は、本来は””(いつき)の文字を宛てますが、今は画数の少ない””を用いています。

実は、もっと言えば”斎藤”さんという名字に使われている””は、日本の名族”源平藤橘”(げんぺいとうきつ)の内の”藤原氏”の流れで、伊勢神宮と賀茂神社の斎宮・斎院の系譜に属する藤原氏を”斎藤”氏と呼んだのです。

ところが明治期になって一斉に戸籍を作った時、多くの人は日本の名族の一つである”斎藤”を名乗りたくて多くの人が役場の戸籍係りに届け出た。

ところが、その当時ににわかになった役場の戸籍係は”斎藤”を読み切れず”斉藤”で登録してしまった。かくして、この時代に初めて世の中に”斉藤”さんが存在するようになった。(ただし、このことはあくまでもワタシの個人的想像に過ぎません。決して学術的な見解を書いているのではありません)

斎藤”と”斉藤”の違いをパソコンで調べると、その回答のほとんどが”旧字”と”新字=略字”の違いだという説明が出てきます。それをそのまま、パソコンの辞書レベルに出てくるかと信じると間違います。

余談が長くなりました。本筋に戻しましょう。さて、実はこの””の文字が「斉院町」の町名由来を解くヒントなのです。

元の”斎院”(さいいん)は、前回ご紹介した「別府町」と同じで飛鳥時代から奈良時代にかけて”律令制度”が整備され、更にはその”律令制度”の根幹をなす”班田収受法”(はんでんしゅうじゅのほう)が破綻して、土地の私有が認められるようになった時に、全国に広まった”荘園”(しょうえん=朝廷の直接支配から離脱した私有地)に由来する地名・町名の一つです。

高家八幡神社鳥居1
斎院”は、この地域が、もともとは皇族の領地であり、”上賀茂神社斎院”(かみかもじんじゃさいいん)の”勅旨田”(ちょくしでん=朝廷から贈られた田)となったことを示しています。

上の画像は、「北斉院町」にある”高家八幡神社”(こうけはちまんじんじゃ)の鳥居です。


この地に残る伝承では、天暦元年(947年)に、山城国上賀茂神社の”斎院”(さいいん)に勤めていた”一色式部大輔氏勝”(いっしき   しきぶのたいふ   うじかつ)が、この地に”賀茂神社”と”八幡神社”を勧請(かんじょう=本祀の社の祭神の分霊を迎えて新たに設けた分祀の社殿にまつること)したことから”斎院”となったということです。

なお”斎院”(さいいん)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した”斎王”(さいおう)のことを言いいます。

更に”斎王”(さいおう)または”斎皇女”(いつきのみこ)というのは、伊勢神宮または賀茂神社に巫女(みこ)として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)のことを言います。

特に、伊勢神宮の斎王を”斎宮”、賀茂神社の斎王を”斎院”といって、斎宮は古代(天武朝)から南北朝時代まで、斎院は平安時代から鎌倉時代まで継続したとされています。

高家八幡神社社殿2
この画像は”高家八幡神社本殿”です。

”高家八幡神社”は上にも書きましたように、山城国上賀茂神社の”斎院”(さいいん)に勤めていた”一色式部大輔氏勝”(いっしき しきぶのたいふ うじかつ)が、この地の高家山に”賀茂神社”と”八幡神社”を建てたことから”斎院”(朝廷から贈られた田で、租税等の負担が免除された土地)となったということです。

なお余談ですが、この「斉院町」に”一色”という姓が多いのは、上に書いた”一色式部大輔氏勝”がこの地に来た影響かも知れませんね。

この時期以降、地名の三院を”斎院”の文字を用したという言い伝えが残っています。

垣生小学校
この画像は、”垣生小学校”の後門横に張られているプレートで”垣生”(はぶ)の文字が見えます。次は「垣生町」(はぶまち)の由来です。なお「垣生町」も人口増加によって「西垣生町」と「東垣生町」に分けられました。

もともと”垣生”(はぶ)は、”はに”や”埴生”(はにゅう)と同じく粘土質の土地という意味です。

また、一部を削り取るという意味の”省り”(はぶり)や、放ち捨てるという意味の”放り”(はふり)が語源で、崖や崩れた土地を意味するとも言われています。

ですからもともと”埴生”(はにゅう)だった地名が転記した時に間違えられて「垣生」(はぶ)の町名になったといわれているそうです。

垣生山4
ところで、上の画像は”垣生山”の今の姿です。松山の西部には北から”弁天山”、”津田山”、それに”垣生山”と、三つの山が南北に並んであることをご存知でしょうか。

今では県道松山空港線(新空港通り)の西の端に”弁天山トンネル”が出来ましたから、”弁天山”の名前を聞いたことがある方は増えたかも知れません。

その”弁天山”トンネルを空港方面に出たところで更に南方向を見上げますと、画像の”垣生山”が見えます。

この”垣生山”山頂には”垣生城”があって、中世期には中予の守護大名”河野氏”の”河野一門三十二衆”の一人である”垣生加賀守盛周”(はぶ かがのかみ もりちか)がこの地域を支配していました。

それが「垣生町」の町名由来となったと言う説もありますが、”在地姓”(ざいちせい=出身地の地名から姓を採った)という考え方に立てば、”垣生地域”を支配していたから”垣生加賀守盛周”を名乗ったと考えるほうが自然かも知れません。

元々は、”垣生”(はぶ)は、”はに”や”埴生”(はにゅう)と同じく粘土質の土地にあった広い地域を指した地域名であったのでしょう。

ところが、伊予の中世期に”垣生加賀守盛周”がこの辺り一体を広く支配していた歴史があり、”垣生山”ある一体を含めて更に西の地域(現在の垣生町)をも含む一体を”垣生”という地名で呼んだのでしょう。




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おはようございます♪

地名や、人の名前にふりがなが振って有るので、分り易くて良いですね(*^_^*)
弁天山の付近かなぁ~、春が来ると桜が綺麗に見える所があります(^_^;)
松山中央公園の川の土手から見ると、その方向に桜の密集した
お山が有るんです。
凄く綺麗なんですよ、白く浮き上がってます(^O^)

弁天山付近

ベル様
おはようございます。お引越し完了、おめでとうございます。

松山市内と、松山の西部の海岸線沿いの町の間に続いてあるのが、弁天山と津田山、それに垣生山の三連山ですね。

低い山々ですが、綺麗に並んで東部と西部を遮っています。今は多くは蜜柑山になっていますが、かつては雑木林が広がっていて、四季折々で様々な色合いに変化していたのでしょうね。山桜も終わって、ツツジが盛りですね。

No title

なるほど。
斉院も律令制度の時代からの流れをくむ古式ゆかしい地名なんですね。京都の上賀茂神社とのつながりなど、やはりこの地域の歴史の深さを感じさせられますし、なんだか雅やかな感じがしますね。
それにしてもなんで「斉院」をさやと読ませるのでしょうか。優しい語感の不思議な読みだと思いますね。

垣生にについては、愛媛県に限らず全国の漁港に「ハブ」という地名が残っているように思います。埴生から垣生への誤植についても、その影響もあってのことかなと想像してみたりもします。

確かに

ファットマン様
もともと、「斉院町」って不思議な町名ですね。松山にだけある町名でしょうか?という趣旨のヒントから書き始めた「松山の地名・町名由来」シリーズでした。言わば生みの親です。

確かに「斎宮」(いつきみや)が、誤植によって「斉院」になったというのはあり得る話だと思いますが、読み方が「さいいん」から「さや」に変わった謎は分かりません。優しい語感がしますね。

全国にある「垣生」は、ハブの語源tなった意味と同じ立地にあるところにそういう地区名がの残ったのでしょうね。

古い記事に

paul様
松山市内の地名由来を連続してアップしていたのは、随分昔のことです。
そう言う古い記事にも、目を通して頂きありがとうございます。
好奇心が強く、「アレ?この地名の漢字は何と読むのだろう?こう言う地名はどう言う由来、経過でついたのだろう?」そう思ったのが、調べ始めた理由です。
全部で40話迄書いていますので、時間がある時に見て頂ければ嬉しいです。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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