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「松山市の地名・町名由来」・ 「余戸・保免・市坪」 7

松山市の地名・町名由来」の第7回目は、松山市の西部と南部にある「余戸」(ようご)と「保免」(ほうめん)と「市坪」(いちつぼ)をご紹介しましょう。

この町名も、松山市にお住まいされている方以外には難解な読み方ではないでしょうか。また、この3つの町はそれぞれ関係する部分がありますので、同時に採り上げました。

この3つの町名は、何れも日本の”律令制度の成立”に関わることが由来となっています。

律令制度”の概要は、先週書きました「斉院町」(さやちょう)と「垣生町」(はぶまち)で詳しく書きましたから、今日は詳しくは書きません。

余戸駅1
この画像は、伊予鉄郡中線「余戸駅」の駅名表示です。

645年の”大化の改新”、その主役であった”中大兄皇子”(なかのおおえのおうじ)が”天智天皇”(てんちてんのう)として即位し、その後”壬申の乱”(じんしんのらん)を経て”天武天皇”(てんむてんのう)の時代に”律令制度”が生まれました。

今の日本の骨格が定まっていった時代です。”天武天皇”時代に作られた”大宝律令”(たいほうりつりょう)が”律令制度”の根幹をなしています。

この制度は6年に一度戸籍をつくり、一定の人口に応じて土地を一代限りと言う前提で貸して、貸した田からの収穫を朝廷に納めることにしたのです。田は”口分田”(くぶんでん)と言い、6歳以上の男女に貸して、彼らが死ねば田を没収しました。

余戸田園1
上の画像は「余戸地域」に広がる田園風景です。

律令時代の土地の制度では、土地は正方形の一片の長さを六町(ろくちょう)(約650m)をひとつの単位として規則正しく区切られました。

ルービックキューブの一面を想像してください。それぞれの列を””(じょう)といい、縦六条と横六条で区切られた六町四方の正方形の形をした区間を””(り)といいます。

縦一条と横一条で区切られたスペースを””といいます。つまり””(り)は三六の””から出来ていいるという制度です。

この””の一角(北西角)を起点とし”一の坪”、”二の坪”と呼びました。後で出てくる「市坪」はこの”一の坪”が町名の由来です。

そして律令時代の村落制度は、五0戸が一里(いちり)単位となっていました。更に村を作っていく時、六0戸以上になるとその内の一0戸以上を”余戸の里”としたのです。

これが「余戸」という地名の由来で、全国に同じ地名があります。読み方は”あまりべ”と呼んでいたのが、後世になって”ようご”と言われるようになりました。

つまり「余戸」(ようご)という地名は、古くから開けていて村落があったという証拠です。今の「余戸」は人口が増えて”東・中・西・南”の四町に分かれ、町名の最後に”町”が付かない町です。

保免邨1
この画像は、「保免西一丁目」にある”日招八幡大神社”の石碑に刻まれている「保免邨」(ほうめんむら)の文字です。

保免」という地名の由来も律令制度から生まれた”荘園制度”に由来した地名です、

4月22日に、「松山市の地名・町名由来」の第5回目で書きました「別府町」にも共通しています。

つまり、”律令制度”の根幹をなしてきた”班田収受法”(はんでんしゅうじゅのほう)が実質的に破綻し、人々が貸し与えられた”口分田”から逃げ出したのです。

薬師寺山門1
そこで、朝廷は一時的に土地の私有を認めざるを得なくなりました。口分田は荒れ果てて、朝廷に税収が届かなくなったからです。

こうなりますと、有力貴族や寺院、有力農民が”荘園”(しょうえん)の開墾に力を入れ始めます。

また開墾した”荘園”は、有力な貴族や寺院などに寄付し、寄付した貴族などに一定の年貢を納めて、朝廷への納税義務や兵役義務から免れるものが続出しました。

ここ「保免」は、鎌倉時代以前に上の画像の”薬師寺”を中心として寺院が点在していた地域でした。

薬師寺本堂2
つまり、この地域の人々は有力寺院であった”薬師寺”に、自分達が開墾して作った荘園を寄進(きしん=寄付すること)して、寺院に一定の年貢を納める変わりに、租税負担や雑役負担、更には兵役負担を免れたのです。

この画像は、「保免西一丁目」にある”薬師寺”ですが、皆がこぞって寄進した”薬師寺”に相当していたのかどうかは分りません。

いずれにせよ、有力寺院に荘園を寄進(=寄付)して租税を””(ま)ぬがれていて、租税免除の荘園があったことは間違いないでしょう。

それが「保免」の町名由来です。その後「保免」も人口増加に伴って「西・中・上」の三町に分かれ、町名の最後に”町”が付かない町になりました。

市坪町標識1
この画像は「市坪」の標識です。

石手川の南側に広がっている町です。

市坪町並4
こちらが「市坪」の町並みです。今では”坊ちゃんスタジアム”がある町として有名ですね。

市坪」の町名由来は、「余戸」の由来を書いたところで触れています。元々は「一の坪」から始まりました。

今でも、この地域の農家では「市坪」(いちつぼ)と言わず「いちのつぼ」と言っている方も多く残っています。「市坪」も人口増加に伴い、今では「西・南・北」の三町に分かれ、町名の最後に”町”が付かない町になっています。

予土中学校1
なお、上の画像は「予土中学校」(よどちゅうがっこう)の校門のプレートです。

「余戸東四丁目」に建っている中学校の校名、又「余戸東一丁目」に建っている小学校の校名が、なぜ何れも「予土中学校」であり「予土小学校」なのか?

それは今日、町名の由来をご紹介した「余戸」と「保免」と「市坪」を併せた地域は、昔は「予土村」(よどむら)であったことに由来しています。

なお「予土村」は、松山市の市制施行による合併で、昭和29年(1955年)に”温泉郡予土村”の村名が消えました。

この話は、余戸の農家の方にお伺いしました。その方は今でも「市坪」を「いちのつぼ」と言っていました。


来週の第8回目は、松山市近郊の市町村にも同じ町名がある「志津川町」(しつかわまち)と「松前町」(まさきまち)をご紹介しましょう。




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No title

東松山の地名由来拝読、勉強になりました。横見が吉見に、権力者が地名にまで支配権を持ち、人々を支配しようとした為でしょうか。
いい加減な地名説が多い中、大変、説得力のあるお説です。益々のご健筆を。頓首 埼玉県北本市土人85歳
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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