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「松山市の地名・町名由来」・ 「朝美・辻町」 11

松山市の地名・町名由来」の第11回目は、松山市中心部に近い西部にある「朝美」(あさみ)と「辻町」(つじまち)をご紹介しましょう。


この2つの町も松山が城下町であったために、その藩制の中でついた町名です。それぞれに説明しましょう。

朝美バス停1
こちらは「朝美」(あさみ)の町名を表わす伊予鉄バスバス停の標識です。

なお「朝美」(あさみ)は、町名の最後に””が付かない町で1丁目と2丁目があります。


伊予”松山藩”は、慶長5年(1600年)に豊臣秀吉のの重臣だった”加藤嘉昭”(かとうよしあき)が24万石で入封し”松山城”を築城をした城下町です。


ところが、”加藤嘉昭”は”松山城”の完成を待たず、寛永4年(1627年)陸奥国会津藩42万石に加転封(かてんぽう=石高を加増され、移転した)されます。

朝美町由来風景5
そして”加藤嘉昭”に代わって、伊予松山藩に入ったのが、出羽国上山藩より”蒲生忠知”(がもうただとも)(外様)が24万石で入封しました。

元々”蒲生忠知”は、陸奥国会津藩主・蒲生秀行(がもうひでゆき)の次男として生まれております。

次男でしたから本家の跡を継ぐ立場ではなかったので、寛永3年(1626年)、出羽国上山藩4万石の藩主となっていました。

そして兄の蒲生忠郷が跡継ぎが無いままに早世(そうせい=若くして亡くなること)したため、本来ならば蒲生家は断絶するところでしたが、蒲生忠知ら兄弟の母が、徳川家康の娘であったためにお家断絶を免れ、伊予”松山藩”に24万石で入封したという経過があります。

その”蒲生忠知”が松山城に入り、居城である”松山城”の完成に力を注ぎ、特に”二之丸”を整備したと伝えられています。

さて「朝美町」の町名由来ですが、上に書きました”蒲生忠知”が松山城から西の山を見ていましたら、西に日の照り返しがしい場所がある事に気が付きました。

そのことが「朝美」の町名由来だと伝えられています。画像は、辻町から西の方向、”西山”を望む風景です。

辻町標識1
さて上の画像は、「辻町」という町名を示す標識です。””はもともと道が交差する場所を示します。「辻町」の元の町名は「朝美町辻」でした。


それは朝美町道が交差する所を「朝美町辻」と言っていたのです。


それが、昭和37年(1962年)に制定された「住居表示に関する法律」の実施に伴い、住居表示が新しくなり「朝美町」から分かれて「辻町」となりました。従って「辻町」は時代的には新しい町名です。「朝美町」「朝美」に変わりました。

札の辻石碑1
さて、上で「」の話が出ましたので、松山の城下町の道路の話をしましょう。


松山城の西堀端にある、画像の”札の辻石碑”をご覧下さい。現在の本町3丁目の電停近くにあります。


松山から地方に延びる道路の基点が、ここ”札の辻”でした。”札の辻”というのは、藩が領民に知らせるための高札(こうさつ)を立てた場所を意味します。時代劇などでもしばしば”札の辻”の高札を見入る領民の姿が登場します。

江戸では日本橋や芝口御門などが有名です。

札の辻里程2
そして、松山の”札の辻”は五街道の出発点でもありました。ここ”札の辻”の石碑の横には、”五街道”の”里程”(りてい)を記した石碑も建っています。”一里”といえば、現在の約4キロメートルに相当します。

現在の”桑原町”のバス停に”一里木”(いちりき)がありますが、これは”札の辻”から一里の距離にあったことに由来する地名です。


さて松山の”五街道”とは”金比羅街道”、”土佐街道”、”大洲街道”、”今治街道”、そして”高浜街道”です。


当時の街道と言えば、幅が2mに満たない狭い道路で、ここからの道程は”札の辻”から何里と書かれていました。


次回の12回目の「松山市の地名・町名由来」は、「御幸」(みゆき)と、「御幸」にある”一草庵”(いっそうあん)をご紹介しましょう。




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おはようございます♪

今日の町名は知らないなぁ~なんて、記事を読み進めたら、
カワセミの居そうな水辺の写真・・・

何か見た事が有ると思ったら、お堀だった(笑)
一昨日この辺りでウロウロしてたのです。
お堀のカワセミ撮りさんさん達の仲間内では、北堀と言われています。
今ココには3羽居るそうです。
因みに、今回は県庁近くの東堀でカワセミを撮って来ました(^^)v

何でもカワセミに結びつけてしまいます(゚m゚*)プッ

確かにお堀の

ベル様
お堀の周辺の写真を見ただけで、カワセミが浮かんでくる!

さすが、ベルさんらしくていいですねー!この辺りは「北堀」と呼ばれているところなんですね。

過去に、松山城のお堀が残った歴史を書いたことがありました。確か3回くらいに分けて。その取材に行った時に、その「北堀」辺りをウロチョロしていたら、突然目の前の小枝にカワセミがとまったんです。

アッ!っと思って、慌ててコンデジ取り出していたら飛んでいっちゃいました。やはり、最初からカメラをセットして待っていないと撮れない鳥だって言うことが分りました。

No title

今日の記事を呼んで、加藤氏、蒲生氏といった豊臣恩顧の有力大名に築城の労を取らせ、勢力を疲弊させた後に親藩を配するという、徳川政権のしたたかさのようなものを感じましたよ。高松の生駒氏も同様なのじゃないでしょうか。まあ結果オーライかもしれませんが。
その点、全盛期の秀吉と渡り合った、政宗の伊達家はやはりしたたかなんじゃないでしょうか。

以前に

ファットマン様
さすがに鋭いところを突きますね。

以前、ファットマンさんがある記事にコメントを寄せていただいた時に、「伊予国は多数の藩が乱立していたのは何故か?」という問いかけがありました。全国でも稀な県ですね。

その理由の一つに「伊予国」の「地政学的位置」が上げられると思っています。
秀吉までの日本の政権の中枢は、全て「京都」にありました。京都が政治の中心地であった訳ですが、それが東京に移ったのはご承知のように徳川家康からです。それまでの、関東以北は未開の地といってよく、中央政権にとっては、注意を払う必要がなかったのです。

京都中央政権にとって、最も注意を払わなければいけない地方とは、「九州」でした。九州には、絶えず中央政権を脅かす存在があった。私はそう捉えています。

そして、古代以降、京都中央政権と九州を結んでいたのは、大阪からの海路でした。長い間、陸伝いに、風待ちしながら大阪から九州に向かって海路が発達しました。

その海路を支えたのが「伊予国」でした。九州の喉仏を突き刺すように伸びた佐多岬。九州を睨みを利かせる為の戦略的地点が「伊予国」でした。

秀吉は、織田信長亡き後、日本を攻略する為に、その戦略拠点である四国を抑えました。四国侵攻です。その後で、仕上げとして九州攻めをする為に、「伊予国」に子飼いの武将を意識的に配しました。それが加藤嘉昭であり、蒲生忠知であり福島正則であり戸田勝隆などです。秀吉は子飼いの武将たちを伊予に配し、彼らの総力で九州を抑えました。

さて、関が原以降です。徳川家康も、四国(特に伊予国)と、九州の位置づけは秀吉と考えが同じでした。秀吉が配した伊予国の秀吉勢を一掃し、遠く東北まで転封させます。まるで「オセロゲーム」の様に、昨日までの白を一気に黒に変えるため、伊予国を親藩たちで固めたのです。伊予国の地政学的位置づけを読んでのことです。

なお、伊達政宗は、秀吉が天下を取った時に、庶子の伊達秀宗を秀吉に差し出します。秀宗は秀吉の実子「秀頼」の遊び相手として育てられました。

「秀頼」が生まれる前に、伊達政宗は、庶子「兵五郎」伴って秀吉に拝謁し、「秀吉」の一字「秀」を貰って「兵五郎」の名を「秀宗」とし元服させました。天下人や上位者名前の前の文字を貰うことを偏諱(へんき)と言います。

なぜ伊達政宗はそれほどに秀吉を恐れたのか?伊達政宗は、一時、秀吉に対抗しようと、秀吉の軍令を無視して、自分の兵を動かさなかったことがあります。それも2度あります。その度に、秀吉から死を賜り家名断絶の危機に立たされています。

伊達政宗は、その二度とも、死に装束をまとい、秀吉に許しを請いました。そして二度とも家名断絶と自分の死を免れています。
それだけに、秀吉の機嫌を取る事に藩の存亡をかけて心砕きました。

さて伊達政宗は次の徳川家康が天下を取った時に、秀吉に預けた「秀宗」の救出大作戦を敢行します。それ故に、伊達政宗の長子(第一子)「秀宗」を、仙台伊達家の跡継ぎにすることが出来なかった。

以上長々と書きましたが、豊臣秀吉・伊達正宗・徳川家康の相関関係の「私見」を書きました。
コメントありがとうございました。

No title

私も同感ですね。
高千穂、日向といった地名を持ち出すまでもなく、古代から九州の中央部には大和朝廷が注意を払わざるを得ない勢力があって、伊予国はそれに深く関連していたのだ思います。邪馬台国の謎などといった言葉も思い浮かんだりします。
それと私は古代勢力におけるもうひとつのキーワードは出雲だと思っていますが。

秀吉と対峙した際の、政宗のいわゆる伊達者的な奇矯な振る舞いは、実は計算しつくされた外交手段ではないかとも思われ、長庶子秀宗及びその家臣団もその薫陶を受け継いでいたのではないかとも思います。

いずれにしても、ふと思いついたコメントに長文のお返事をいただき感謝に絶えません。ありがとうございました。

出雲

ファットマン様

実は、続きのコメントを頂いたので、それの返信コメントを書こうと思いながら、寝てしまっていました。私は夜は極めて弱いものですから。^^

さて「出雲」です。ファットマンさんらしい発想ですね。しかも、古代史に於ける「出雲国」は、大和朝廷にとっては、最大最強の敵対勢力でした。出雲大社の「千家」家は、天皇家に匹敵する連綿とした系譜を持っていることでも有名です。

このことを書き始めると、シリーズで4話か5話にはなってしまいますので、今回はこれで筆を置きます。

それにしても、何時もながら、ファットマンさんの着想の素晴らしさには驚嘆いたします。さすがですね^^

「松山市の地名・町名由来」・ 「朝美・辻町」

「松山市の地名・町名由来」・ 「朝美・辻町」に関しての私が調べた情報です。
『「辻町」は時代的には新しい町名です。』とありますが、実はかなり古い地名が復活したと言う方が正しいと思います。
明治年間に作成されたと思われる「松山市史誌」-「温泉郡地誌」-「伊予國地誌巻之四 第拾五篇」に「温泉郡北江戸村之内沢組(サハクミ)」、「伊予国地誌巻之四 第拾六篇」に「温泉郡北江戸村之内辻組(ツジクミ)」の説明があります。その中では「古時温泉郡味酒郷ニ属シ北江戸町卜称ス、寛文二年分レテ辻(ツジ)組沢(サハ)組トナル、明治九年合シテ北江戸ノ旧称ニ復シ内猶沢組辻組区別ヲ存ス」とあります。
明治9年作成の「畝順帳」では「伊豫國温泉郡北江戸村之内辻組」
明治22年町村制施行により旧温泉郡衣山村、沢村、辻村、味酒村の一部、南江戸村が合併し、温泉郡朝美村が発足
大正15年行政区画変更により松山市に編入し、松山市大字朝美村となる
昭和5年大字廃止で松山市朝美町となる
昭和17年朝美町1丁目
昭和45年住居表示開始、辻町と朝美1丁目に分離

ありがとうございました

akira 様
随分古い私の記事に目を留めて頂き、ありがとうございました。
そして、良く調べられていますね〜!敬意を表したいと思います。

私が「歴史物」を書くときの枕詞に、「私は歴史を学んだことがない素人です。単に歴史好き人間」と書いてきました。ですから、記述に間違いがある可能性は大いにあります。ただ、記事にする時点で必ず現地に立ち、調べられることは精一杯調べて、そして私の言葉で書いてきました。
akira 様のように、精緻に調べて書いている訳ではありません。お陰様で、随分勉強になりました。深く感謝いたします。

そうでしたか

skira様
再度のコメント、ありがとうございました。そうでしたか!そういうご経歴を。納得しますと同時に、郷里の歴史に興味があり、それをコツコツと調べられる。そこに、改めて敬意を評します。

しかも私よりお年が上だったのですね。私は来月67歳になりますが、このことろは、「歴史」をテーマに記事を書けておりません。
私の「じゅんのつぶやき」というブログには、「愛媛の歴史」というジャンルで148編を書いて来ましたが、私が記憶している間に書いておきたいと考えた「愛媛の歴史」分野は、ほぼ網羅したと思っています。

akira 様と同じで、郷里の歴史をキチンと理解しておきたい、そしてそれを記事として残しておきたいという一心で書いてきました。

私は南予出身なので、2013年5月11の「南予史探訪」(プロローグ)から筆を起こし、2013年5月18日でエンディングを迎えた全8編の「南予史探訪」が、私が愛媛の歴史を書いてきた集大成として書いたものです。

お目通し頂ければ光栄に存じます。再度のコメントありがとうございました。

苗字が朝美です

私、苗字が朝美です。漢字も珍しく、自分のこの苗字も謎でした。苗字が地名ルーツなことが多いので調べてみたら、このサイトに繋がりました。現在、この苗字が は私たち一族だけだとは思うのですが、父親は宮崎県出身で、本家は大阪に移り、ルーツがどこから、私たち家族もわかりません。松山から宮崎県に移った可能性はあるのですが、そちらには、苗字に地名をした方は、やはりいらっしゃらないですかね?ずっとルーツはわからない、この漢字です。現在宮崎には、朝美はいません。私たちも大分県に移住しています。こちらには、朝見神社という由緒正しい別府のお寺があるのですが、私は、松山市の方にルーツがあるのでは?と思っています。何かご存知でしたら、教えてください!

古い記事に

あさみん様

古い記事に目を通して頂きありがとうございました。「朝美町」の由来に定説なるものはないと思います。

ただ松山城から朝、西の地区を見ますとそれは美しく輝いてみえますから、俗説だとも言い切れないと思います。

松山には「朝美」姓の方がいらっしゃいますが、皆さんが同じルーツを盛った方たちかどうかは調べておりません。

お役に立てなくて恐縮ですが、今の処この程度しか書けないことをお許し下さい。これからの猛暑、ご自愛ください。

ずいぶんお返事が遅くなり、大変失礼しました。うち以外にも朝美さんがいらっしゃるのには、驚きました!ご存知の範囲でも教えていただき感謝です!
ありがとうございます!

おひさしぶり

お久しぶりです
あさみん様

ご丁寧に返信いただき恐縮しております。ご報告すべき内容を持っていませんでしたのに。

松山を中心とした中予地区と、今治市を中心とした東予地区には「朝美」さんは、実は多くいらしゃいます・ところが、愛媛県の残り三分の一を占めます南予地区には「朝美」姓は見当たりません。 なお愛媛には「浅見」という性も多くあります。その関係は分かりませんが。

ということは、「朝美」(あるいは「浅見」)姓のルーツは、やはり愛媛県の中予地区だと考えるのが自然だろうと思います。

愛媛県(旧伊予国)は、大阪京都の旧「都」と、九州を結ぶ地政学的には重要な国でした。
昔は、大阪(難波)から、別府の臼杵や福岡の門司まで一気に走り通せる船はなく、皆島伝いで航行していました。四国の港港に寄港し、帆にいい風を受ける為の「風待ち」をしながら九州を目指しました。

ですから京阪神と九州の途中にある旧伊予国において、物資の往来だけではなく、各家(姓)の交流もあったのではないかと思われます。

中世期、伊予国の守護大名として名を馳せた「河野氏」の子孫も、多く九州大分地方に渡っています。 九州から福岡に渡った「河野氏」のご子孫と松山でお会いして、「河野氏」発祥・ゆかりの地をご案内した経験もあります。


逆に岡山県の「真鍋島」を出処とする「真鍋氏」は、後に今の和歌山県に移り勢力を持ちましたが、更にその後に旧紀伊国と旧伊予国の交流の中で、今の愛媛県の東部(東予地区)には、今でも「真鍋」姓の方が多くいます。岡山から和歌山を経て愛媛に至った姓が「真鍋」姓です。

このように、大きな歴史のうねりの中で、我々の先祖は各地を流れながら、それぞれの地に定着していったのではないでしょうか?

そういう歴史の移ろいに心を寄せて考えるのも、また楽しいですよ。

プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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