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「松山市の地名・町名由来」・ 「東雲町・立花」 13

松山市の地名・町名由来」の第13回目は、城山の東側にある「東雲町」(しののめちょう)と石手川の南側に沿っている「立花」(たちばな)との2つの町名由来をご紹介しましょう。


この2つの町名を同時に採り上げるのは、2つの町が共に”神社”を町名由来としているためです。


初めは「東雲町」(しののめちょう)からご紹介しましょう。

東雲町16
上の画像は「東雲町」の町名を示す標識です。


東雲町」は”松山城”の東側裾野(すその)一体に広がっている町で、古い家並みが多い町です。

東雲神社鳥居17
この画像が”松山城”の東側の山裾にある”東雲神社”(しののめじんじゃ)の鳥居です。


この”東雲神社”が「東雲町」の町名由来となりました。


東雲神社”は、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)・豊受大神(とようけのおおかみ)・天穂日命(あめのほひのみこと=久松松平家の家祖神)・菅原道真(すがわらのみちざね=天満大自在天神であり久松松平家の家祖)等の神々を祭っています。

東雲神社”の”祭神”の中に”菅原道真”(すがわらのみちざね)が入っていることを、ちょっとだけ覚えておいて下さい。次にご紹介する「立花」にも関係するからです。


東雲神社”は、江戸時代を通じてずっと”松山城”の城主であった”久松松平家”に関する”祭神”(さいしん)を祭っている神社です。

東雲神社本殿18
この画像は”東雲神社本殿”で、本殿の様式は”神名造”(しんみょうづくり)です。”神名造”で有名なのは”伊勢神宮”で、日本で最も古い神社建築様式とされています。

文政6年(1823年)、松山藩11代藩主松平定通が、藩祖である”松平定勝”の神霊を祀るため、京都の吉田家(神道における古代からの権威ある神官職)に神号授与を要請し認められ、仮宮を造営したのが”東雲神社”の元です。

その後、天保8年(1837年)、12代藩主松平勝善は、”松平定勝”の神号授与を再度依頼し、”東雲大明神”の神号が授与され松山城内の御社へ正式に勧請し、天保11年(1840年)、社殿が完成しております。

ですから「東雲町」(しののめちょう)は、今までご紹介した”松山市の地名・町名由来”の中では比較的新しい町名です。


続いて「立花」(たちばな)の町名由来をご紹介しましょう。この「立花」も、後でご紹介する”神社”を町名の由来とする町です。なお「立花」も町名の最後に””が付かない町になり、1丁目から6丁目まであります。

立花駅10
上の画像は、伊予鉄横河原線の”立花駅”のプレートです。


松山市中心部から、国道33号線を南に下って”石手川”を渡る”立花橋”を越えたところ一帯が「立花」です。


立花」はもともとは”橘樹郷”(たちばなのこおり)と呼ばれていました。


その「立花」という地名は、以下にご紹介する”松山の天神さん”で知られる”井出神社”が深く関係しているそうです。

井出神社11
上の画像は”井出神社”の鳥居の近くから本殿を臨んだ画像です。”井出神社”は石手川の北側、「北立花町」にあります。


井出神社”の主祭神(しゅさいしん)は、大山祇神(おおやまづみのかみ)・木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)・橘諸兄(たちばなのもろえ、橘氏の祖です)などです。


なお”橘諸兄”(たちばなのもろえ)とは、飛鳥時代終わりから奈良時代の人で、敏達天皇の5世(もしくは4世)子孫で、天皇家の流れを継ぐ名族の祖です。


日本の名族と言えば”源平藤橘”(げんぺいとうきつ)という4族を意味し、源(げん)は”源氏”、平(へい)は”平氏”、藤(とう)は”藤原氏”、そして橘(きつ)は”橘氏”のことです。何れも天皇家の流れを組む名族中の名族です。

井出神社本殿12
上の画像が”井出神社本殿”です。


橘諸兄(たちばなのもろえ、橘氏の祖)の孫である”橘清友”(たちばなのきよとも)が伊予国司になった時に、祖父の”橘諸兄”(たちばなのもろえ)の霊を祀(まつ)るために”井出神社”を造りました。


橘清友”がこの神社を勧請(かんじょう=神道の言葉で、本祀の社の祭神の分霊を迎えて、新たに設けた分祀の社殿にまつることを言います)したことから、橘氏の名前を採り「立花」という地名になったのではないかと言われています。

井出神社天満宮13
上の画像は”井出神社”の境内に祀(まつ)られた”橘天満宮”(たちばなてんまんぐう)です。

今では”井出神社”という神社名より”松山の天神さん”の名前の方がよく知られています。

ご承知の方も多いかと思いますが、全国にある”天満宮”は、”菅原道真”(すがわらのみちざね)を祀る神社で、通称”天神さん”という名で多くの方々か親しまれています。

なぜ”井出神社”の境内に”橘天満宮”(たちばなてんまんぐう)があるかと言いますと、初代松山城主”加藤嘉昭”、二代目松山城主”蒲生忠知”の後を受けて松山藩主となった”久松松平家”の先祖が”菅原道真”(すがわらのみちざね)だからです。

つまり、”東雲神社”を説明した時、東雲神社も”菅原道真”を祭神として祀っていると書きましたことと同じ理由によるものです。

さて、”天神さん”は学問の神様でもあります。この写真を撮影に行った時は高校受験前でした。手を繋いだ中学生のカップルが”天神さん”をお参りしていました。

おそらく「同じ高校に受かろうね!」という熱い願いを込めてお参りしたのだと思いました。それが、今頃適っていることを願って止みません。

なお次回の14回目の「松山市の地名・町名由来」は、「祇園町」(ぎおんまち)と、”中村”(なかむら)をご紹介しましょう。




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非公開コメント

おはようございます(^^)

じゅんさん、おはようございます(^^)

東雲神社の存在は知っていても、参拝した事がなく(^^;;
また、井手神社に至っては初耳で(^^;;
生まれ育った松山の事を知らない事は多過ぎるなぁ、と拝読しつつ感じております。
こうしてじゅんさんのブログを拝読する事で新たに知る事。とても嬉しいです(^^)
私も時間見つけて参拝してみなくては(^^)

私も同じことです

みゆ様
おはようございます。
生まれは松山ではりませんが、人生のほとんどを松山で過ごしております。

それで、知らないことは山ほどあります。このシリーズを書き始めて、自分が何も知らなかったことに気が付きました。

そこで面白くなりました。元々好奇心旺盛なので、この際徹底的に調べて、現地に立って、知らなかったことを埋めていこうと考えているところです。

まだだ旅は始まったばかりです。お付き合いいただければ嬉しいです。

こんにちは

私も立花の井出神社なんて聞いたこともないですね。死んだ叔父の家は立花にあったりするんですけどねえ。

東雲神社の造営が18世紀も半ばの天保年間であることに興味をひかれます。迫りくる開国の足音に藩祖を神格化する必要性を感じたとでもいうことでしょうか。異父兄家康は幕府開設のみぎりから東照大権現であったわけですが。

知らないことばかり

ファットマン様
私自身も、井出神社の由来など知りませんでした。
でも、本文でも書きました様に、受験前の中学生カップルは、この神社に天神さんが祭られていて、学問の神様であることをちゃんと知っていて、二人で並んでお参りしていました。
地元では根付いているんですね。調べないと、知らないことだらけですね。

さて、東雲神社の造営が18世紀も半ばの天保11年に社殿が完成しています。初代久松松平である「松平定行」に神号を賜りたいと思ったのは11代藩主、松平定通。
つまり神格化するには、「松平定行」が桑名から松山に入府してから200年近い年月を要しています。そして京都「吉田家」より「東雲大明神」の神号が授与されたのは、12代藩主「松平勝善」の時。1837年でした。初代が松山に入府して200年が過ぎました。

大名でも「神様」になるには、自然の時の流れを要したということでしょう。「東雲大明神」の神号をもらって、僅か30年後には徳川の時代は終わります。

同じ地名が松山にも

じゅん様

お久しぶりにコメント欄にお邪魔いたします。
驚きました、東京都江東区に『東雲』という名の地名が存在します。
日本中には同じ名の地名が良くありますよねー。
歴史を紐解けば関連性があるのかもしれないです。

東京の一番初めが荒川区に住み始めました。
なぜ、荒川区かと申しますと母の唯一の友人が荒川区に住んでいて日展の主催者側の方だったそうですが、当初アパートを借りるときに保証人が必要という事でその方にお願いをしたいきさつがありました。

話は長くなりますが、次に住み始めた地が江東区でした。
その江東区はなぜという事ですが、当時20代の若さで自己資金もあまりかからない理由で兄が安い分譲マンションを見つけて購入してはどうかという事から同じ江東区では、三回ほど分譲マンションを買い替えしまして、流石に、もう集合住宅は卒業したいねーということで現在の地に移り住んだという事に。

ですから、我が家と江東区(東雲ではないのですが)は20年以上の歴史があるというお話をさせていただきました。

全く関係ないお話で申し訳ございませんでした。

江東区 東雲

ぴんくモッチー 様

東京都江東区に「東雲」という地名が。確かにありますね。
江東区は、江戸期には江戸城から言えば東南部にあって、隅田川の河口から中州にかけて出来た町ですね。
江東区の「東雲」は、元は豊洲五丁目の東南、海面埋立地に東雲(しののめ)一・二丁目を作ったのが始まりだそうです。昭和13年のこと。

つまり、都内中心部から言えば東の方角に当ります。従って「東雲」は、明け方にたなびく雲で、夜明け・あかつきを意味しますから、それで命名されたものでしょう。

一方松山の「東雲」も、松山城の東にあります。松山城から見れば、明け方にたなびく雲が見渡せます。
更には、江戸期を通じて長く松山藩主だった久松松平家は、元々は三重県は「桑名」から松山にやってきました。

松山から見れば桑名ははるか東にあります。久松松平家の本家の徳川は桑名より更に東にいますし、その元となった徳川家康は更に東の東照宮で眠っています。
松山城から東の空を見上げて、故郷のことを含めて様々なことを思ったことでしょう。

この様に、江東区の東雲も松山の東雲も、日の出前の東の空を眺めて物思いに耽った様々な「思い」という共通項があるのではないかと思います。

なお荒川区から江東区に移り、更に今の東京西部に移り住まれた歴史。戦後の復興期から高度成長期を経て現在に至る、日本の縮図をそこに見る思いがしました。貴重な住居の変遷史をお話しいただきありがとうございました。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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