スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「松山市の地名・町名由来」・ 「松末・久万ノ台」 20

松山市の地名・町名由来」の第20回目は、松山の中世期にそれぞれの地を支配していた人物の名前に因むという共通点を持っている「松末」(まつすえ)と「久万ノ台」(くまのだい)の町名由来をご紹介しましょう。

なお今日採り上げる「松末」に関する”基本資料”として使わせていただいたのは、「ふるさと桑原」と名づけられた”みんなでつくる住みよい桑原地区委員会”が資料を集め編集し、”松山市桑原公民館”から昭和56年3月30日に出版された小冊子です。

この資料は、久万高原町在住の”兒玉さんご夫妻”にご紹介され、そのコピーを頂いたものです。

これ以降も、古くは”温泉郡桑原郷”(ゆのこうり くわばらのさと)の一部であって、後に桑原村、正円寺村、樽味村、松末村、三町村、東野村、畑寺村、新百姓村(今の束本町)、小坂村、枝松村、中村の十一か村に区分された町名由来を書くときは、上に書きました「ふるさと桑原」と名づけられた小冊子を資料として使わせて頂きます。(ただし、既に正円寺はご紹介済です)

伊予国中予の戦国時代中期は、守護大名”河野氏”が道後の”湯月城”に居城して中予一体を支配していました。

その守護大名”河野氏”の戦国中期の”天文年間”(1532年~1555年)の河野氏の当主は”河野通道(こうのみちなお)”(弾正少弼)の時代でした。

なお、”河野通道”は河野氏家系の中で同じ名前が2人いて、もう一人の”河野通道”が河野家最後の当主です。同じ名前を名乗った人物が2人いたために、その当時の”官位名”で天文年間の当主であった”河野通道”を”弾正少弼”(だじょうしょうひつ)と呼び、河野家の最後の当主となった永禄年間の”河野通道”を”伊予守”(いよのかみ)と言います。

松末町表示板1
これが現在の「松末」の町名標識で、「松末」も町名に最後に””が付かない町になり、1丁目から2丁目まであります。

さて天文年間の”河野氏”の家臣団ですが、当時の資料によりますと”旗本衆”として、今回ご紹介する「松末町」の由来となった”松末筑前守”(まつすえ ちくぜんのかみ)を含めて12人の名前が残っております。(松末町の由来となったのは”松末美濃守”という説もあります)

”松末筑前守”の名前以外では、その”旗本12人衆”の中に”枝松由並”という「枝松」の由来となった名前も残されています。このことは、項を改めましてご紹介します。

松末神社跡1
さて上の画像は、松末1丁目にある”松末神社”です。

この神社は”松末美濃守通為”(まつすえ みののかみ みちため)の霊を祀っています。

松末美濃守通為”は、前回の18回でご紹介した「桑原」で、”桑原氏”が桑村郡壬生川の”鷺森城”に移った後”桑原城主”になった武将です。

”守護大名”であった”河野氏”の、当時の御侍大将十八家の一人に数えられていた重臣です。(河野氏一門三十二将の一人という言い方もあるようです)

その”松末美濃守通為”が地元に残した功績が大きかったので、この地の人々が崇敬して”松末神社”を造ったと言われています。

松末神社寺紋2
なお、この神社の”寺紋”は、”大山祗神社”の”寺紋”と同じ”折敷に縮三文字”です。

これは伊予最古の名族”越智氏”や、その”越智氏”の流れを組むと称した”河野氏”も”家紋”に使っています。

松末氏”は、河野氏氏から””の一字を貰って代々”通〇”という名を伝えていることからでも分るように、”河野氏”一門であったために家紋に”折敷に縮三文字”を使うことを許されていたのでしょう。

なお、主君など上位者の名前の一文字をもらうことを”偏諱”(へんき)と言います。”偏諱”は「偏諱(かたいみな)」を与えると表現したりします。

桑原公民館松末分館3
上の画像は、現在の”桑原公民館松末分館”です。ここには”清盛寺”がありました。

その”清盛寺”は”松末氏”の氏寺(うじでら)でしたが、現在は廃寺となっています。

記録によりますと”清盛寺”は、”繁多寺”の末寺であったそうです。何れにしても、この地に於ける”松末氏”の影響の大きさを物語るものでしょう。

松末館跡4
上の画像は、現在の”松山城東病院”です。元は”松末病院”という名前でした。

ここに”松末館”(まつすえのやかた)がありました。”松末館”は、上に書きました”松末美濃守通為”の屋敷でした。松末氏の本拠地であったところです。

それが前回19回で書きました様に、”桑原氏”が桑村郡壬生川の”鷺森城”に移った後”桑原城主”にもなりましたから、”松末美濃守通為”は”桑原城”と”松末館”を併せ持つ武将になったわけです。

なお河野氏の旗本衆の一人であった”松末氏”は、”松末筑前守”を名乗ったものや”松末美濃守”を名乗ったものなど、何代にも渡って続いています。

その中で”松末美濃守通為”の家臣”井出若狭守”が九ヶ年の歳月をかけて湯山から三町まで約四kmの”市乃井出水路”を建設したことでも名前が残っています。

なお”旗本衆”というのは、河野氏の一族か譜代衆を言いますが、松末氏は譜代衆でした。(河野氏勃興の時代から代々仕えていた古い家臣団)

久万ノ台表示板3
次には「久万ノ台」です。この「久万ノ台」も町名の最後に””という表示がない町です。丁目という区分もありません。久万ノ台という表示の後にいきなり地番が続きます。


松山の西部の小高い丘にあって、三津地区とを分けている境目の町です。

久万ノ台成願寺山門4
「久万ノ台」の町名由来は、この地区に河野氏の家臣団の中の御家人であった”久万高盛”(くまたかもり)と”久万永助”(くまながすけ)の館がこの地にあったことが町名由来となりました。


なお、上の画像は「久万ノ台」にある”願寺山”(じょうがんじ)の山門です。


恐らく”久万高盛”などの館があったかも知れない(未確認ですが)小高い丘の中ほどにあります。

久万ノ台成願寺本堂5
「久万ノ台」にある”願寺山”一帯は”久万ノ台公園”となっていて、松山市内を一望できます。


この”願寺山”自体の創立年代は不明ですが、奈良時代に”僧行基”が”虚空菩薩像”を安置したことが起源という伝承が残されています。


なお、現在も”願寺山”のご本尊は”虚空菩薩像”です。

久万ノ台成願寺扁額6
また、画像の”願寺山”の”扁額”は、”加藤嘉昭”が松山城築城に際して、この寺を松山城の乾方面(いぬいのほうめん=北西の方角)の守護神と定めて”満景山”の”山号”を贈ったことに由来します。


加藤氏が去った後に松山城主となった松平氏(久松家)の歴代の藩主もこの寺に帰依しました。


次回21回の「松山市の地名・町名由来」は、「恵原町」(えばらまち)をご紹介します。



にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。