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「松山市の地名・町名由来」・ 「今出地区・菅沢町」 22

松山市の地名・町名由来」の第22回目は、”菅原道真”(すがわら みちざね)に因(ちな)むという共通点を持っている「今出地区」(いまづちく)と「菅沢町」(すげわまち)の町名由来をご紹介しましょう。

実は次回第23回の松山市の地名・町名由来」でご紹介する「衣山町」「水泥町」も、”菅原道真”に因むという共通点を持っています。

ここで”菅原道真”とは一体どういう人だったのかを簡単にご紹介しておきましょう。”菅原道真”という人は平安時代の貴族で、代々家の職である”文章博士”(もんじょうはかせ=簡単に言えば今の大学院大学の教授に当たります)に25歳の若さでなっています。後年(こうねん=後の世に)”学問の神様”と呼ばれるようになりますが、若いときからその片鱗を見せていた一種の天才です。

家柄は決して高くはありませんでしたが、時の”宇多天皇”にその才能を見出され、周囲の貴族達の嫉妬を一身に集めるほど朝廷内で出世街道をばく進した人です。でもその満ち溢れんばかりの才能が、道真の不幸を招くことになりました。

天皇の外戚(がいせき=天皇家に娘を嫁に出し、次の天皇の義父になるという家系)であり、貴族筆頭に位置していた”藤原家”の嫉妬を道真は一身に負います。

時の左大臣藤原時平(ふじわらときひら)に”讒訴”(ざんそ=他人を落としいれようとして事実を曲げて言いつけること)され、九州の大宰府へ権帥(ごんのそつ=大宰府の副司令官)として左遷され、2年後に失意の中で58歳にして没しました。

”菅原道真”の没後、都では大きな被害を出した落雷などの大災害に見舞われ”菅原道真”の祟(たた)りと恐れられ、朝廷は京都の北野に”北野天満宮”を建立して道真の祟りを鎮めようとしました。

道真を”天神さん”と呼ぶようになったのは、落雷の事件から道真の怨霊を雷神と結びつけられたためです。

なお8月の上旬に妹と弟との3人で、4泊5日の京都・奈良への”兄弟旅”をしました。その時に、上に書きました”北野天満宮”へも行きましたので、そのことは”愛媛の歴史・特別編”としてまとめて後日記事アップします。

今出湊バス停標識1
この画像は、松山の西部の西垣生町にある”今出”(いまづ)という地域を示すバス停標識です。

なぜ”今出地区”が、”菅原道真”と関係するのか。

京都から今の九州福岡にある”大宰府”までの行程は、京都から淀川を下って大阪に行き、そこからは瀬戸内海を船旅です。当時の船旅は、大阪から一気に九州までは行けませんでした。

瀬戸内海の各地の港に立ち寄り、風待ち(出港に適した風をとらえる)しながら九州に向かいます。

今出港2
しかも”道真”は立ち寄った港で一度下船し、その土地土地の神社や仏閣に参拝しています。

”菅原道真”の、大宰府行きという左遷に対するせめてもの抵抗をそこに見ることができます。

朝廷からは、早く大宰府に赴(おもむ)くようにという督促の使者が遣(つか)わされたほど、ユックリユックリと進みました。

今出港3
道真は、大宰府に向かう途中で松山にも立ち寄っています。そして大宰府に向けて船出した場所が、ここ吉田浜の「今出」(いまづ)です。

道真を慕い、別れを惜しむ村人に、「私はこの地をて行きます。そして大宰府に向かいますが、もう皆さんには二度とお目にかかることはないでしょう」と別れを告げたと言い伝えられています。

その言い伝えから「今出」(いまづ)という名前で呼ばれるようになったと言う由来を持ちます。

菅沢バス停標識5
また”菅原道真”は父親が”伊予守”(いよのかみ)、本人が”讃岐守”(さぬきのあみ)に任じられていたことから、大宰府流罪以外にも、ここ松山では”道真”縁(ゆかり)の地名が多く残されています。

なお律令制において、役人は四等官制(しとうかんせい)が用いられていました。

特に地方官においては長官=かみ)・次官=すけ)・判官=じょう)・主典=さかん)の四等官(かみ・すけ・じょう・さかん)が定められていました。

つまり”菅原道真”は讃岐を治める長官(守)に任命されていました。(ただし本人が任地に常駐していた訳ではありません)

仏性寺山門6
上の画像は、松山市の東部山間地の「菅沢町」(すげざわまち)にある”佛性寺”(ぶっしょうじ)山門です。

この佛性寺が開かれたのは天長6年(829年) と大変古く、由緒あるお寺です。

”菅原道真”との関わりは、道真が天皇の使者として、十一面観音をここ”佛性寺”に遣わされたという伝承に因(ちな)むものです。

仏性寺本堂7
つまり、道真が天皇から遣わされたことから、”菅原”の””とこの地の””を合わせて「菅沢」(すげざわ)にしたというのが由来です。

上の画像は、”佛性寺”の本堂です。この本堂は明治29年に再建されたものです。

菅沢仏性寺公孫樹8
上の画像は、”佛性寺”のシンボルとなっている”公孫樹”と名づけられている大銀杏(おおいちょう)の大木です。

推定樹齢は大よそ130年とありました。

元々”公孫樹”とは銀杏(いちょう)の別名で、植樹した後、孫の代になって実が食べられるということかわ名づけられた名前です。

次回23回の「松山市の地名・町名由来」は、今回と同じく”菅原道真”が地名の由来となっている「衣山」「水泥町」をご紹介します。



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おはようございます

「今津」は全国の港湾地域に多い地名で、なぜこの地だけ今出と書くのか不思議に思っていました。もしかすると道真の故事に際して、今津から今出へと表記が変わっていったのかもしれませんね。
時節柄タコに絡めた記事にしてもらったら面白かったのになと思いました。もっともじゅんさんがタコ料理がお好きかどうか知りませんが(笑)。

菅沢はゴルフ場やキャンプ場のある山の遠国という印象で、菅沢の菅が道真に由来するとは意表をつかれた気がしましたよ。

蛸飯

ファットマン様
そういわれればそうですね。「今津」が先で、菅原道真公の故事にちなんで後から「今出」に変えたのかも分かりませんね。

実は「今出港」前にある「みはらの蛸飯」屋さん、昨年夏、会社で初めて行きました。その蛸尽くし料理は美味しかったです。特に蛸の天ぷらと蛸飯が美味しかったことを覚えております。でも、この記事に結びつけるアイデアが浮かびませんでした。

でも、ファットマンさんのアイデアをお借りした記事を9月20日にアップします。これで2度目のアイデア拝借となります。期待してお待ち下さい。

菅沢は、佛性寺を取材してみて初めて納得しました。現地に立ってみないと分からないことが多くありますね。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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