fc2ブログ

「松山市の地名・町名由来」・ 「衣山町・水泥町」 23

松山市の地名・町名由来」の第23回目は、前回の第22回と同じく”菅原道真”に因むという共通点を持っている「衣山」(きぬやま)と「水泥町」(みどろまち)の町名由来をご紹介しましょう。

菅原道真”に関しては前回詳しく書きましたので、今回は省略します。

”菅原道真”に因んだ地名や伝承が愛媛に数多く残っている理由は、大きく言って3点あります。

その第一が、道真が九州の大宰府に流された時、この地に立ち寄ったという伝承です。第二点は、父親が”伊予守”(いよのかみ)に、本人が”讃岐守”(さぬきのかみ)に任じられていたということです。

そして第三点は、江戸時代から明治維新後の廃藩置県が実施されるまで”松山藩”の藩主であった”久松松平家”が、菅原道真の子孫であったことが上げられます。

もちろん例えば”弘法大師”を筆頭に、古来著名であった人物の由来・伝承は全国各地に点在しています。

それの全部が本当だったとすれば、物理的に考えて、当時に自家用ジェット機を持っていたとしか考えられませんから、名前を借りたということに過ぎないことが大部分ではあります。

衣山駅表示1
さて、上の画像は伊予鉄高浜線の”西衣山駅”の駅名表示です。なお、今の「衣山」は人口が増え、町名の下に町がつかず1丁目から5丁目に分かれています。

この「衣山」(きぬやま)が、どう”菅原道真”と関係があったのか、これも数多くある著名人に因んだ伝承であったのかも知れません。

ここ「衣山」には、この地が大昔大旱魃(だいかんばつ)に見舞われた時のことが伝承として残っています。

金比羅宮入り口2
上の画像は、衣山4丁目にある”"金比羅宮”の入り口です。この”金比羅宮”が「衣山」という地名と関係しています。

その大旱魃に見舞われた時に、この地の住民は困窮しました。そこで、”道真公”に頼み、雨乞いの祈祷をしてもらったと伝えられています。

なぜその時、菅原道真がこの地に居合わせたのか?などという野暮な話は抜きという世界です。

その道真公の雨乞い祈祷は天に通じ、大雨が振り出しました。

霊験(れいげん)あらたかという世界です。”霊験”とは、超自然的存在が人間の求めに応じてその力を発揮し,ふしぎな現象を出現させることを意味します。キリスト教の世界ではこれを”奇跡”と言います。

金比羅宮3
さて突如振り出した大雨に、この地の住民は喜び踊りました。しかし、当然のこととして衣服はずぶ濡れになりました。

そこで大雨があがった後、濡れた衣(きぬ)をこの画像にある”金比羅宮”がある”金比羅山”に登って乾かしました。

その由来から、この地を””(きぬ)を干し乾かした””から「衣山」(きぬやま)と呼ぶようになったのです。

<注>最初に書いた記事では、「衣山」は1丁目から4丁目と書きましたが、5丁目までありました。記載ミスです。ご指摘頂いた読者様がいらっしゃいます。早速、上の記事に訂正させて頂きました。ご指摘に感謝いたします。

水泥町標識4
上の画像は「水泥」(みどろ)の表示がある、伊予鉄バス停の表示板です。

実はこの「水泥町」(みどろまち)も、”菅原道真”伝承をもっています。

「水泥」は、仁和2年(886年)菅原道真が”讃岐守”(さぬきのかみ)に任命された時、この地にもやって来たというというのです。

播磨塚5
上の画像は、今の”南梅本町”にある”播磨塚”(はりまづか)の森です。

松山市から県道松山川内線を重信町方面に向かうと、”自衛隊松山駐屯地”の手前、道路の右手にこの森が見えてきます。

この直ぐ近くに、松山市の埋蔵文化財センターが発掘調査を実施し”播磨塚天神山古墳”が確認された所です。

6世紀初頭から前半ころに造られた”前方後円墳”があったことが分かっています。

また”播磨塚”の森には”生目神社”(いきめじんじゃ)がありますが、その由来は調べても分かりませんでした。

水泥町播磨塚内6
菅原道真がこの地に来た時、”播磨塚”にある”徳威王楯”(とくいおうだて)の館に足を運び休憩しました。

その時、道真公が通った道を”御道路”(みどうろ)と名づけたことから、それが今の「水泥」になったというものです。

何か語呂合わせにも見えますが、そういう伝承がこの地に残っているということです。

なお、その道を通ったのは実は”聖徳太子”だったという別の伝承もあるそうです。

なお”徳威王楯”(とくいおうだて)とは一体どういうものだったのか、色々調べてみましたが分かりませんでした。

ただこの地がなぜ”播磨塚”の”播磨”と呼ばれたのかは、昭和13年に編集された”自治制50周年記念誌”として書かれた”北吉井村誌”の一部に記録が残っていました。

水泥町播磨塚由来8
昔この辺りは”久米郡 吉井郷”という地名で呼ばれていて、その”吉井郷”には”徳威原”という地名や、今も残る”牛渕村”や”田窪村”や”播磨塚”などを示す地図が残っています。

その”北吉井村誌”は、この地が”播磨”と呼ばれるようになった由来を、645年の”大化の改新”以前の国の制度に見える”国造”(くにのみやつこ)が存在していた時代に書かれたという”国造本”から引用されています。

その内容によれば、清寧天皇(せいねいてんのう=5世紀半ばの第22代天皇)の時代に久味国(今の久米)に”来目部の小楯”(くめぶのおだて)という者が、”播磨国”(はりまこく)の国司に任命されたことに因んで、この地域を”播磨”(はりま)の名前で呼んだことが由来とありました。

上の画像は、その”来目部の小楯”を顕彰する石碑です。

一度地名の由来を辿(たど)り始めますと、次から次へと時代が遡(さかのぼ)っていくものですね。

なお次回の”松山市の地名・町名由来”シリーズ第24回目は、「福角町」「湯山地区」をご紹介します。



にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 松山情報へ
にほんブログ村










スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

ありがとございました。

匿名様

よくぞ指摘していただきました。私の記載ミスでした。早速、記事の訂正をさせていただきました。
注意して書いているつもりでも、たまにこういうミスが発生します。
ご指摘がなければ、誤ったまま記載した記事が残るところでした。深く感謝いたします。

私の様々な分野での記事は、その記事を読んていただいている方々に支えられて、何とか書き続けることが出来ております。ありがたいと、何時も感謝しているところです。
これから先も、よろしくお願い致します。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード