「南予史探訪」・「内ノ子一揆・(小田・内子・大洲蔵川)」

今日は、寛延3年1月16日(1750年)に”大洲藩”で起こった”内ノ子一揆”をご紹介します。

またこの”内ノ子一揆”は、それから43年後の寛政5年(1793年)に”吉田藩”で起こった”武左衛門一揆”に影響を与えたとされています。

吉田藩”で起こった”武左衛門一揆”のことは、既に2012年4月29日に「吉田町の風景と歴史 2」で一度ご紹介しています。(「吉田町の風景と歴史」

また今回のシリーズでも、”吉田藩武左衛門一揆”のことは5月17日と18日に詳しく触れます。今回は、”内ノ子一揆”と”武左衛門一揆”は、実はつながっていた(共通項が多い)ということを示唆するに留めます。

先ず今日は、現在の”喜多郡内子町”で起こった”内ノ子一揆”の発端や経過、そしてそれの結果についてご紹介しましょう。

その前に、”喜多郡”の成り立ちについてご説明しておきます。

645年に起こった”大化の改新”で、中世期の”日本の骨格”が定まりました。”大化の改新”によって全国を国と郡と里に区分し、国毎に”国府”、郡には”郡衙”(ぐんが)が置かれ地方政治をする体制が整ってきました。

その当時の”伊予国”は、”宇摩”(うま)・”神野”(かみの=後の”新居”<にい>)・周敷(すふ)・桑村(くわむら)・”越智”(おち)・”野間”(のま)・”風早”(かざはや)・”和気”(わけ)・”温泉”(ゆ)・”久米”(くめ)・”浮穴”(うけな)・”伊予”(いよ)・”宇和”(うわ)の、十三郡に分けられました。

大洲や内子は”宇和郡”の一部でしたが、人口増加を理由に貞観8年(866年)(この2年前、貞観6年に富士山の大噴火があった。この噴火は”貞観の大噴火”と呼ばれ、富士山噴火の文献記録に残る最大規模とも言われています)に、宇和郡から独立して”喜多郡”が出来ました。分かれた当初は、宇和の北にあるので”北郡”と言われていましたが、漢字の文字から受ける印象の良さで”喜多郡”に変わったのです。

さて、寛延3年1月16日(1750年)に”大洲藩で起こった”内ノ子一揆”です。

小田1
内ノ子一揆”は、喜多郡の”小田郷薄木村”(おだごう うすきむら)(現在の小田町臼杵地区)の農民が起こした一揆が発端となりました。

上の画像は、現在の”小田町臼杵地区”の山村の様子です。今は廃校になった”臼杵小学校”校庭から撮影しました。

この”小田郷薄木村”の農民が、年貢の重さと村役人の横暴に立ち上がったのです。

内子遠望3
この騒動は一揆に発展し、たちまち喜多・浮穴の農民一万八千人が内子・山中地区の庄屋・豊農・豊商を打ち壊して、一揆が起こった4日後の20日には、画像に見える”内ノ子河原”に集まったのです。”内ノ子”とは、現在の”内子”です。

毎年5月5日の”子供の日”に、”大凧合戦”が行われる河原のことです。

この時に農民たちは、村々の庄屋・組頭・特権商人宅などと”大綱”などを用いて次々と引き倒しながら大洲城下を目指しました。

なお、この一揆において使われた”大綱”と、”特権商人”宅を大綱で引き倒すという一揆の方法が、この43年後に起こった”吉田藩”における”武左衛門一揆”にも見ることができます。

この点を含めて、この”内ノ子一揆”は43年後の”武左衛門一揆”に大きな影響を与える事になります。

内子町並み5
上の画像は、現在の”内子の町並み”です。

農民たちは、年貢の4割免除、農民による公役の減免、年貢徴収時の計りの不正使用の廃止、悪質な村役人の排除など二十九ヶ条を要求して、大洲城下を目指して蜂起したのです。

大洲藩では、支藩”新谷藩”の調停を受け入れ、一揆が起こって8日目の24日には農民の要求をほとんど認めるという回答を、新谷藩を通じて農民に伝えます。

本芳我邸8
この画像は、内子町で木蝋生産で財をなした豪商の家”本芳我邸”の今の様子です。この画像の建物は、明治22年(1889年)に建てられ、国指定重要文化財です。

さて上に書いた”内ノ子一揆”は、発生から11日目の27日には一揆の指導者への処罰を不問にさせるという交渉をし、それを大洲藩に受け入れさせました。

このことからも”内ノ子一揆”が、一種の世直し一揆の性格をもった愛媛県最大規模の一揆となったと言えると思います。

ただし、一揆指導者の処分を不問にするという約束は一ヵ月後に破られ、一揆後、小田筋の村々で14~15人が召し捕られ、拷問の末に入牢や追放、閉居の刑に処せられたという記録が残っています。

大洲蔵川村
また、大洲藩では明和7年(1770年)に”蔵川一揆”(くらかわいっき)が起こっています。

上の画像は、現在の大洲市”蔵川”の様子です。

蔵川一揆”は蔵川の農民160人が、租税の軽減を願い出て認められなかったので、全員で”宇和島領”に”逃散”(ちょうさん)したというもの。

逃散”とは、他国領に逃げることで、言わば”一村夜逃げ”です。

大洲蔵川田植え
今は何事もなかったかのように、地域の農民が一人で田植えをされていました。

蔵川一揆”の結末は、説得されて全員で帰農したことになっていますが、それを示す資料は残されていません。

ただ”蔵川村”にある”正願寺”の過去帳や石仏などから、蔵川村の庄屋と組頭が投獄され、首謀者(頭取)の2人が斬首されたとあります。

上に書いた2つの一揆の中で”大綱”を使ったり、厳しい一揆の責任追及を逃れて、地続きの”宇和島藩”の領内などに逃げ込んだ農民が、後の”吉田藩”の”武左衛門一揆”にどう関係したのか?それらは、このシリーズの最後にご紹介することにしましょう。




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No title

なるほど~。
なぜ喜多郡と言うのかを、初めて知りました!大洲市に住んでおりながら恥ずかしい・・・

蔵川は、地名からも察することが出来るように米どころ。
特別栽培米のコシヒカリの生産と環境保全型農業を実践されておられます。
その昔、このようなことがあったことも知りませんでした。勉強になります!

一揆

おはようございます。

小田といい蔵川といい、一揆は役人の目の届きにくい、
山村から起きるのでしょうか。
それと村の団結力でしょうか。

喜多郡

大洲のひで様
私も今回、南予史を書きたいと様々な文献に当って、喜多郡が生まれた由来を初めて知りました。それまでは知らなかったのですから、ひでさんと同じですよ。

蔵川は、大洲市の久米から野村の白髭を通って帰るときに、傍を通っていましたが、今回取材で初めて蔵川に入りました。

成るほど、自然環境は素晴らしいのですが平地が少なく、ここで平野部を同じ年貢負担を強いられたら堪らないな、と実感した次第です。そこで今、米栽培で努力されていると知り感無量になりました。

やはり現地に立ってみないと、当時のことが明確に浮かんでこないと感じ、現地取材の大切さを改めて思い知りました。

日曜日にも関わらず、コメント、どうもありがとうございました。

いいところを

せい爺様
日曜日にもかかわらす、コメントありがとうございました。

今回のコメントで、一揆が起こったところが何れも「山村」であった(吉田藩の武左衛門一揆も、一揆の始まりは、今の日吉でやはり山村です)ことに触れられました。

「一揆は役人の目の届きにくい、 山村から起きるのでしょうか。 それと村の団結力でしょうか。」と。

これは実に鋭いポイントを突かれました。いいところに目をつけられましたね。

実は仰った通りなんです。先ずは一揆の計画が発覚しなかったのは、山奥で役人の目が届きにくかった。それと、山村の住民の団結力が決め手でした。もう一点あるのですが、それは最終回の日にまとめて書いていますのでご覧になって下さい。

でも、驚くほど素晴らしい着想ですよ。さすがです。

No title

わ~。歴史って。ドラマチックですね♥♥
こののどかな、田舎の風景の中に、色々な歴史が、
塗りこめられているのですね!!
辛抱強いまじめな農民も。心に強い闘志を秘めているのですね。
私もいろいろな困難に負けぞ。良いお仕事を続けて、
あまり無理をいう上の者にはちゃんと自己主張をしてゆこうと思います。
じゅんさんのアドバイスのおかげ様でずいぶんするべきことが
はっきりと見えるようになりました!!じゅんさんは私の太陽です♥
ありがとうございます。

こんにちは。
うちの家族は市町村合併で喜多郡の名がなくなるのを
大変残念がっていました。
由来ははじめて知りました。
今度話題に出してみようと思います。

蔵川はいとこが住んでいました。
今でも叔母達が住んでいます。
年賀状を書くときに毎年書く地名でした。

馴染みが深い地が続いて嬉しかったですo(^▽^)o

歴史は正にドラマ

りんじー様
コメントありがとうございました。

そうなんです、歴史は正にドラマそのものです。歴史のどの部分をどう見るかによって、幾つもの違ったドラマになることが面白いですね。

だから、私のような素人でも歴史のことを書けるのです。事実に反したことは書けませんが、歴史とか記録をどう読むか?は自由です。

今回のシリーズは、歴史上で起こったことを年代をそって並べるのではなく、人間の様々な面を読み解くドラマとしての視点で書いておりますので、今後の展開にも期待して下さい。特に最終回は、今日書いたドラマとつながり、元に帰るように書いております。

それから、私のアドバイスなどたかが知れています。問題に立ち向かうりんじーさご自身で、既に糸口を見つけておられるし、絡まった糸を解す術もご存知です。りんじーさんだから可能なことが一杯あります。自分を信じて、りんじー流でおやりになればいいのです。^^

そうでしたか

くく様
確かに、市町村合併を繰り返す毎に、1500年から1200年前という気が遠くなるような歴史を持った地名が消えて行く事はとても残念でなりません。
由来ある地名が消えてしまったら、消えてしまった後で生まれた子たちは、地元の歴史を振り返るきっかけやチャンスさえ無くなるような気がします。
蔵川は、今回2度目の訪問ですが、一揆を起こさざるを得なかった背景が理解できたように思います。そうでしたか、叔母さんがいまでもいらっしゃる。

今回の7回のシリーズでは、くくさん馴染みの地名が一杯登場しますよ。特に最後の3回は、くくさんに関係がある地名のオンパレードになります。^^
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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