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「南予史探訪」・「大洲地蔵ヶ嶽城を巡って」 1

今日と明日は現在の”大洲城”、それ以前には”亀城”や”比志城”、そして長く”地蔵ヶ嶽城”と呼ばれていた”大洲地蔵ヶ嶽城”を巡る戦国時代の激しい攻防の歴史をご紹介しましょう。


今日はその”前編”です。今日と明日は、まだ”大洲城”と呼ばれるようになる前の時代の話なので”地蔵ヶ嶽城”(じぞうがたけじょう)という名前で通します。

なお”比志城”(ひしじょう)と呼ばれた由来は、宇都宮氏が城を築く時”おひじ”という娘を人柱に選んだことからその名前が残ったという言い伝えもあります。

また”比志”や””は川が大きく曲がっていることを意味する他、”ヒジ”がその由来と言われ、更には”ヒジ”はぬかるみや湿地帯を意味する言葉、上流から肥沃な土地が流されてきて泥地になり、その名がついたとも言われています。

なお”地蔵ヶ嶽城”の由来は、肱川の淵の上に石地蔵が安置されていたという伝承に因(ちな)みます。

肱川から大洲城1
さて中世期の大洲を長く支配した”宇都宮氏”は、元々は”下野”(しもつけ=今の栃木県宇都宮市周辺)の出身で、全国各地に散らばっている”大族”(分家が多い)で、伊予に来たのは九州”筑後”からの分家です。

ただし意味なく伊予に流れて来たと言うのではなく、正治2年(1200年)に源義経(みなもと よしつね)と対立した源氏の武将・梶原景時(かじわら かげとき)を倒した恩賞として、宇都宮氏は喜多郡の”地頭職”(じとうしょく)になり、更には”承久の乱”(じょうきゅうのらん=後鳥羽上皇と鎌倉幕府の戦い)(1221年)の後に、伊予国の”守護職”が与えられました。

そして元徳2年(1330年)、九州の宇都宮頼房(うつのみや よりふさ)の二男”宇都宮豊房”(うつのみや とよふさ)が伊予国喜多郡の分郡守護(ぶんぐんしゅご=郡の一部を支配する守護職)に任命され、伊予国喜多郡に入り治めることになりました。

肱川から大洲城2
つまり”宇都宮豊房”が”伊予宇都宮氏”の初代となります。

この”豊房”が、元弘元年(1331年)に”大津”(おおつ=後に大洲と変わりますが、それまではこう呼ばれていた)に入って”地蔵ヶ嶽城”を築きました。(なお現在の”大洲城”は、明日名前が出てくる”藤堂高虎”によって築かれたもの)

肱川と大洲城3
この”伊予宇都宮氏”は戦国時代の真っ只中に”大津”において”地蔵ヶ嶽城”を守ろうと奮戦しますが、北は中予の”河野氏”に、南は”宇和郡”の”西園寺氏”に挟まれ、八代に渡って続いた間、一貫して様々な戦いに明け暮れました。

宇都宮氏”を脅かした、中予を支配していた”河野氏”は、後に伊予国国主となる”小早川隆景”(こばやかわ たたかげ)を通じて”周防”(すおう=今の山口県)の”毛利氏”と同盟関係を結んでいました。

また”宇和郡”の”西園寺氏”は高知中村の”一条氏”、そして一条氏の背後を操る土佐の”長宗我部元親”の支配下に置かれていました。

なお”西園寺氏”も当初は”長宗我部元親”と争いますが、”西園寺公広”(さいおんじ きんひろ)の代で長宗我部氏に降伏しその配下に加わる事になりました。

三の丸石垣4
八代”宇都宮豊綱”(うつのみや とよつな)は、土佐中村の”一条兼定”(いちじょう かねさだ)に自分の娘を嫁がせ、一条家の攻撃から逃れようとまでしましたが、”一条兼定”は宇都宮氏の姫に二男一女をもうけさせた後で、他の女に目が移り情け容赦なく離縁し大津の宇都宮氏の元に送り返しています。

戦国時代の武将の娘は、”政略の道具でしかなかった”という時代を表わすエピソードだと思いましたので、敢えてご紹介しました。

弘治元年(1555年)宇都宮氏は、西園寺氏の枝城である”飛鳥城”を攻め、”西園寺実光”(さいおんじ さねみつ)の息子・公高(きみたか)を討ち取りましたが、これを聞いた”西園寺実光”は当然怒り心頭、早速報復に”地蔵ヶ嶽城”に迫り、宇都宮氏はあわや落城というところまで追い詰められます。

この時は、”河野通宣”(こうの みちのぶ)の仲介で辛うじて和睦が成立し生きながらえます。

大洲城遠望5
永禄元年(1558年)には、”宇都宮豊綱”は河野氏のその当時の当主であった”河野通直”(こうの みちなお)と戦火を交えました。

この時の戦いでは、”河野通直”は”毛利輝元”の姪を妻にしていた関係で、中国地方の雄に成長していた”毛利家”に援軍を求めます。

一方”宇都宮豊綱”は、自分の娘を嫁に出していた土佐中村の”一条兼定”(いちじょう かねさだ)に援軍を依頼、毛利家のと一条家の代理戦争と化しました。

大洲城石垣6
この戦いは一条家の敗戦と、宇都宮氏の”河野家”従属という結果になり、愛媛の戦国地図が塗り替えられる結果となりました。

永禄10年(1567年)、遂に土佐の”長宗我部元親”が四国征服の最後の仕上げとばかりに立ち上がり、伊予に攻め込んできます。大津(今の大洲)にも長宗我部の大軍が襲い掛かりました。

宇都宮豊綱”は、先の戦いで従属さえられた”河野氏”に援軍を要請し、宇都宮軍に河野軍が加わりますが、強壮をもって知られる土佐”長宗我部軍”の前ではひとたまりもありませんでした。

”宇都宮豊綱”は長宗我部に降伏します。

”宇都宮豊綱”が滅び、”伊予宇都宮氏”が歴史の舞台から姿を消す一年前の出来事です。

大洲城石垣7
さて、”伊予宇都宮氏”が歴史の舞台から姿を消す年がやってきました。永禄11年(1568年)のことです。

”宇都宮氏”の長宗我部氏への降伏を聞いた”河野氏”は危機感を募らせます。このまま座していただけでは、”河野氏”の滅亡と自分の死を迎えることは必定という状況となったのです。

そこで河野氏は縁戚関係にあった”毛利氏”に援軍を求め、”小早川隆景”と”吉川元春”(きっかわ もとはる)の強力な援軍を得ます。

なお”吉川元春”(きっかわ もとはる)とは、毛利元就の次男で”小早川隆景”とは異母兄弟の兄です。この二人を”、毛利両川”(もうりりょうせん)と言って、戦国時代”毛利家”を西国の雄にまで押し上げた原動力になった二人の内の一人です。

大洲城石垣8
兵を増した河野軍は、地蔵ヶ嶽城周辺の山城を次から次へと落としていき、遂に毛利氏・河野氏連合軍は”鳥坂峠”(とさかとうげ=今の大洲市と西予市宇和町の境で、国道56号線が通っています)で長宗我部・一条軍と対峙します。

この戦いは、毛利・河野連合軍の勝利となりますが、その間に”地蔵ヶ嶽城”に家老の”大野直之”(おおの なおゆき)と共に篭城(ろうじょう=城にこもっていた)していた”宇都宮豊綱”は、結局土佐長宗我部軍に降伏してしまいます。

その降伏を怒った”小早川隆景”によって”宇都宮豊綱”は備後国(今の広島県福山辺り)に流されます。

ここに、”伊予宇都宮家”は実質的には終焉を迎えました。

暗い大洲城9
ただし、戦国時代は奥が深い。

備後に流された”宇都宮豊綱”は、許されて天正元年(1573年)に”地蔵ヶ嶽城”に戻ってきます。

ところがその時既に”地蔵ヶ嶽城”の主は、自分の家老であった”大野直之”(おおの なおゆき)に乗っ取られた後だったんです。いわゆる”下克上”の時代性を髣髴(ほうふつ=アリアリと想像できること)とさせる出来事です。

大洲城10
実権を失った豊綱は、元家老でしかも自分の娘を嫁がせた”大野直之”に城を奪われ追い出されました。

豊綱は、天正13年(1585年)三原市で、失意の中病没し”伊予宇都宮氏”は名実共に滅びます。

なお南予地域、特に大洲市・八幡浜市・西予市宇和町に”宇都宮”姓が多いのは、上に書いた”伊予宇都宮氏”の”地蔵ヶ嶽城”支配の影響です。ご自分の”宇都宮姓”が、実は今の栃木県宇都宮市に出自を持っていたことをご存知の方は多くいらっしゃったでしょうか。「宇都宮さん!

明日は、”地蔵ヶ嶽城”を下克上で乗っ取った”大野直之”の運命と、それ以降、江戸時代に入って明治まで続く城主”加藤氏”が大津(今の大洲)に入るまでの歴史をご紹介します。

細々とした、ことを書き連ねましたが、どうか嫌にならずに、伊予国戦国時代の動乱の行く末を見るべく、もう少し辛抱してお付き合い下さい。





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非公開コメント

おはようございます♪

もしかしたら、私の友達も宇都宮姓ですから、ルーツはソコでしょうか(笑)
私の嫁いだ先の姓は、福井から来てるそうです。

大野直之に嫁がせた娘は、その後どうなったのでしょうか(^^ゞ
仮にも義理の父を追い出した主人と、共に生涯を閉じたのかしら(・・?

政略結婚の多い時代なので、その時代の女性の歴史も知りたいななんて(^^ゞ
これで、じゅんさんの頭を悩ませてしまいそうです(笑)

弱い

ベル様
おはようございます。コメントしづらい分野にまでコメントいただきありがとうございます。

うーーーー、戦国時代の女性の歴史・・・・・・・弱い分野です。

これは私が弱いというだけではなく、戦国時代から封建時代を経て、ずっと男社会が続いていましたから、女性は単に「〇〇氏の娘」などと言う記録しか残っていない場合が多いのです。

戦国時代以前は、平安時代にしろ奈良時代にしろ、女性が表舞台に登場することも多かったので、逆にこの時代の方が女性の記録が多い。

頭悩ますテーマですねー。ウーーーーン・・・・・・

ただ、今日のベルさんのコメントで、7回のシリーズの中で挿話として入れる予定だった話を、入れ忘れていることに気がつきました。ある有名な女性に関するものです。
早速今から、書いている原稿の一部にその話を入れます。いいヒント頂きました。なお、有名な女性とは清少納言です。このシリーズのどこかで登場したら、「ああ、あれは私のコメントが生きた箇所だな!」っと思ってください。^^ありがとうございました。

大洲の歴史

おはようございます。

大洲の歴史については昭和47年に発行された「大洲市誌」に
詳しく掲載されていますが、わたしのような凡人には詳しすぎて
理解し難かったのですが、これで流れ的によく解りました。

それにしても、じゅん様の調査力、文章力はすごいですね。
敬服します。

私も

せい爺様

おはようございます。今は徳島からですか?

ところで、私も「大洲市誌」の一部を拝見しております。ただ、仰ったように分かりにくい。またそれ以外にも、多くの文献を参考にしています。
でも、それらの一部を丸写ししながらつないでしまうと、余計に分かりにくくなります。

やはり、一度自分の頭の中に入れ込んでグルグルかき混ぜ、現地に立って様々なイメージを膨らませて、自分の言葉がスラスラ出てくるまで時間をかけました。着想してから半年かかりました。

そうしますと、後は勝手に指がキーボードを飛び回ってくれます。頭で考えた文章ではありません。指が勝手に書きました。頭は、それを見ながら「ホッホーーー、そうやったんかー!」って見ているだけです。不思議に思われるかも知れませんが、これが実態です。

No title


じゅん様

   巻2も興味深く読ませていただきました。
  南浦 朗氏の「百姓一揆の風景」文政13年「伊方騒動」
  とゆう書籍で、伊方11浦の農民が決起した時の様子を読
  んだとき衝撃をうけましたが、久しぶりに探訪させていた
  だきます。

伊方騒動

匿名様

初めてのコメント、ありがとうございました。このような目だず地味な記事に目を通していただき、大変嬉しいです。

お書きになった南浦 朗氏の「百姓一揆の風景」という書籍は今まで知りませんでした。ネットで検索してみましたところ、アマゾンで手に入るようです。取り寄せてみたいと思います。

今回の記事を仕上げるに当っては、かなりの文献を当りました。そして、完全に自分のものとなるよう、暗記してしまうくらいに何度も何度も読み返しました。
そして、やっと自分の言葉で語ることが出来ると確信が持てた時点で原稿に取り掛かりました。

17日と18日の二日間は、吉田藩の「武左衛門一揆」を取り上げます。何かでお読みになった経験があるかも知れませんね。
私なりの「武左衛門一揆」を楽しんでいただければ嬉しいです。

伊方騒動


 じゅん様

  早速にコメントをいただきありがとうございました。
 送信者名、忘れて失礼いたしました。「吉田一揆」の
 記述、南村氏の記述にもあったような気がします。
 定かではありません。なにせ、古稀の老人の言うこと
 です。

                    釣人見習い

拍手欄にコメントいただいた

釣人見習い様
匿名の件は納得です。
今日、初めて「拍手欄」にコメントいただきましたね。併せてお礼申し上げます。

南浦 朗氏が「百姓一揆の風景」という著作を出しておられるなら、南予史上でもっとも有名な「武左衛門一揆」のことは当然に触れられていると想像できます。この事件は、作家の「司馬遼太郎」氏も著作の中で触れられています。それも参考にさせて頂いております。

その他にも、今回参考にさせていただいた著作としては、小学校の先生で大洲市史談会の理事をなさっている「五藤孝人」先生の『「世直しの歌」の力』を参考にさせていただきました。

多くの諸先輩や先人様達のご労作に感謝するばかりです。諸先生方がお書きになります、論文や出版物ではございませんので、今回書きました記事に、全部の参考文献を書くことはしておりませんが、愛媛の地で地道に研究なさっておられる先生方に、改めまして敬意を表するものです。

No title

趣のある画像と大洲市の歴史の文章に引き込まれました。
端々で何んとなく聞いたことあるかな~といった内容が繋がっていき、なんだかスッキリした気持ちです。
私の周りに登場した姓が方々がいるのが、なんだか面白いですね。自分の姓も紐解いてみたいです。
つづきが、とてもとても楽しみです。

深夜にもかかわらず

大洲のひで様
深夜にも関わらず、コメントいただき恐縮です。

私が今回のシリーズを書いた動機の一つに、身の回り、身近なところに歴史と関わっていることが以外に多いということを知っていただきたかったというところがあります。

歴史は古臭くて馴染めないという方もいらっしゃいますが、人間誰でも突然この世に生を受けたのではありません。連綿とつながる様々な事情(それが歴史)の中で誕生してきたと思います。

そのところを、少しでも身近に自分のもにとして捉えていただければ、本稿の大きな目的は達せられます。

まだ全7編の内、始まったばかりです。これからも身近な出来事としてお楽しみいただければ幸いです。

お問い合わせの件

田中様

”宇都宮豊綱”の最後がどうなったのかのお問い合わせでした。そのお問い合わせの件は、メールさせて頂いた通りです。

この記事でも書いていますように、<実権を失った豊綱は、元家老でしかも自分の娘を嫁がせた”大野直之”に城を奪われ追い出されました。

豊綱は、天正13年(1585年)三原市で、失意の中病没し”伊予宇都宮氏”は名実共に滅びます。>っという記述以外の事は知りません。

ですから、”宇都宮豊綱”が、興居島の城主になっていたということは知りませんし、初めて聞いたお話です。

何れにしろ私は「歴史の素人」なので、ご満足でききる回答を書ける知識を持ちあわせておりません。悪しからずご理解ください。

伊予宇都宮氏の子孫です。

我が家に伝わる伝承によると、宇都宮一族は追放後、阿波に逃れ、徳島県徳島市多家良町、旧名宮井村にて、宮井の姓を創姓します。その後、和歌山県まで落ち延び、紀州藩士として、そこそこ栄えました。
現在でも、書店、新聞社、繊維屋、等に名を残し、和歌山では、かなりの名族として活躍中です。
私の祖先は明治維新時に和歌山から、徳島県の墨浦、現黒津地町に開拓移民してきました。
近所の家の家紋が葵の御紋であり、700メートル四方の小さな町でありながら、寺院が3、神社が5と集中して在り、近隣の町民にたいしてかなり排他的でしたね。

そう言うご縁が

通りすがりです様

そうですか‼️^_^
愛媛の、しかも私の郷里である南予の宇都宮氏の末裔だとは。
その由来をお聞きすると、ご先祖様は数奇な運命を辿られたんですね。
宇都宮氏は、全国に散らばっている名族-大族ですね。
伊予の宇都宮氏は大分からの分かれですが、それが阿波に。そして更に紀伊和歌山に流れられた。大族らしい、歴史をお持ちですね。
今は阿波に居られる様ですから、四国とは不思議なご縁があったのでしょう。

それにしても、私の古い記事に、よくたどり着かれましたね。歴史物を書いておりますと、全国各地の方からコメントをいただきます。ブロガー冥利につきます。貴重なコメント、ありがとうございました。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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