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「南予史探訪」・「大洲地蔵ヶ嶽城を巡って」 2

今日は、”大洲地蔵ヶ嶽城”を巡る、権謀術策(けんぼうじゅっさく=人をあざむき陥れたり、逆にあざむかれて失墜すること)が駆け巡り激しい争奪戦が行われた戦国時代末期の様子をご紹介する、その”後編”です。

昨日は、九州から移ってきた”伊予宇都宮氏”の八代に渡っての”地蔵ヶ嶽城”を巡る様々な戦いをご紹介しました。

そして、戦国時代”の世相を表わす”下克上”(げこくじょう=家臣だった者が主君を倒して、自分が新しい主君にとって代わること)によって、”大野直之”(おおの なおゆき)が自分の主君であり、自分の妻の父(舅=しゅうと)であった”宇都宮豊綱”を無情にも”地蔵ヶ嶽城”から追放し、自分が”地蔵ヶ嶽城”の城主になった、というところまで書きました。

肱川と大洲城1
さて”宇都宮豊綱”を追い出し、自らが”地蔵ヶ嶽城”の城主になった”大野直之”(おおの なおゆき)は、その前は”菅田城”(すげたじょう)の城主でしたから”菅田直之”とも呼ばれ、宇都宮氏の家老職を務めていました。

しかも”直之”の兄は、敵対していた”河野家”の筆頭家老・”大野直昌”(おおの なおしげ)という複雑な関係を持っていました。

なお”河野家”の筆頭家老・”大野直昌”(おおの なおしげ)は、ワタシが今年2013年1月1日にアップした”「新年 大野ヶ原から」 1”で書きました。

大野ヶ原”と言う地名の由来になった武将です。(「新年 大野ヶ原から」 1

この「南予史探訪」というシリーズは、過去にワタシが”愛媛の歴史”にカテゴリー”してきた記事の数々の、いわば集大成。様々な部分で、過去にアップしてきた記事とクロスオーバーします。

それがこの本編7回、予告編1回、都合8回シリーズを書いた動機の一つでもあります。

さて”河野家”の筆頭家老・”大野直昌”(おおの なおしげ)の弟”大野直之”(おおの なおゆき)こそが、戦国時代を象徴するような生き方を我々に見せてくれます。

肱川から大洲城2
大野直之”は、それまでは敵対していて何度も戦火を交えた”長宗我部元親”と密かに通じました。

そして、それを背景に”大津”(後の大洲)近郊の城(宇都宮氏の家臣団の幹部達の城)を落城させ自分の支配下に組み込んでいきます。

それを知った”河野通直”(こうの みちなお=伊予国の戦国大名河野氏最後の当主)は、五千の軍勢で”地蔵ヶ嶽城”を取り囲み落城させます。

肱川から大洲城3
”大野直之”はその時、煙に紛れて城を逃げ出し”鴇が森城”(ときがもりじょう)に逃げ込みます。

河野通直”は、”大野直之”の息の根を完全に止めてしまおうと、”毛利氏”に一万の兵を借り”鴇が森城”(ときがもりじょう)を包囲して攻めました。

敗色濃厚になった大野軍からは投降するものが続出。しかし”大野直之”はここで潔く腹を切って果てるような男ではありません。

直之”は白旗を掲げて河野軍に下り、”河野通直”に、”河野氏”の筆頭家老である自分の兄の名前を出して”兄”直昌”(なおしげ)と力を合わせて、河野氏の力になりたいと懇願します。

石垣と大洲城4
河野通直”はそれを聞き、”直昌”(なおしげ)に免じて”直之”を許し、”直昌”の家来として働けと命じます。

伊予国中世期の守護大名として中予地区で名を馳せた”河野氏”の最後の当主となった”河野通直”は、人徳厚く多くの美談を持つことでも知られていますが、”戦国時代”を自分の智謀だけで駆け抜けた”大野直之”の前では、所詮(しょせん=結局は)は”お殿様”に過ぎなかったのかも知れません。

命拾いした”直之”(なおゆき)は、兄の”直昌”(なおしげ)が”河野家”の中でどういう立場になるかなど全くお構いなしに、翌年”直昌”のところから逃げ出し、土佐の”長宗我部元親”の元に走りました。そして長宗我部の力をバックに”菅田城”に舞い戻り、”地蔵ヶ嶽城”の奪還を様々に画策します。

その権謀術策は成功したり失敗したり、波乱万丈の生き方を辿る事になります。

石垣と大洲城5
そして、自分が劣勢に置かれておると見るや、兄”直昌”と和睦を図るといって、伊予と土佐の国境”笹ヶ峠”に誘い出し騙まし討ちを図ろうとします。直之にとっては親も兄もありません。しかしこれには失敗します。

天正4年(1576年)、直之は高森城城主・梶谷景則(かじや かげのり)に年始の挨拶をしたいと言って、高森城に入り込みこれをアッサリ奪い取ります。

そして高森城を根拠地に変え、翌年遂に”地蔵ヶ嶽城”の奪還に成功し、”長宗我部元親”に献上します。

天正7年(1579年)には、小早川隆景を中心とする毛利軍が地蔵ヶ嶽城を攻め、直之は長宗我部の元に逃げ帰りました。

そして、その翌年再び長宗我部元親は直之を先頭に立てて五万の大軍で地蔵ヶ嶽城を奪還します。

石垣と大洲城6
そして長宗我部元親の命によって、”大野直之”は正式な”地蔵ヶ嶽城城主”になったのです。どんなに劣勢に追い込まれても決して諦めない”直之”、人生絶頂を迎えました。

しかし絶頂期に立った瞬間から、既に転落の道が待ち構えていたとは、さすがの”直之”も気がつかなかったに違いありません。

”地蔵ヶ嶽城”の天守閣から”大津”の町や村を睥睨(へいげい=勝ち誇って周囲を睨みまわすこと)したのは、そう長い時ではありませんでした。

”河野通直”は、今度こそ”直之”の首を取ると、直之討伐の厳命を河野軍に下します。

それを聞いた”直之”は震え上がり、戦っても勝ち目がないことを悟り・・・・切腹を・・・イヤイヤそんなヤワな男ではありません。再び”河野通直”の前に身を投げ出し、命乞いをします。

石垣と大洲城7
河野通直”は刀の束にまで手が及びましたが、そこで考えました。直之の背後にいる不気味で間違いなく自分を上回る勢力と戦力を持っている”長宗我部元親”の存在を。

そこで再び”直之”を許し命を奪うことは断念しました。”直之”は三度(みたび)”地蔵ヶ嶽城”の城主に返り咲きました。そして、光り輝いたよう見えました。

しかし、それは滅びる前に一瞬燃え上がる炎のようなはかない光だったのです。

いよいよ、四国の既存勢力を根こそぎ奪い燃やし尽くす”業火”(ごうか=激しい炎や大火)がそこまで迫っていたことに気がつきませんでした。

その”業火”とは、豊臣秀吉の”四国攻め”です。そうです、始まったのです。

石垣と大洲城8
豊臣秀吉”は、主君の”織田信長”が”明智光秀”に倒されるや否や、電光石火の速さで”織田信長”亡き後の主導権を一気に握ったのです。

そして、その勢いを更に加速させるかのように”四国征伐”を決め、1585年(天正13年)5月4日、黒田孝高に四国攻”めの先鋒として淡路に出るよう命じました。(今から428年前の、ほぼこの季節でした)

豊臣秀吉の勢力に加わった”毛利氏”の先頭にたったのは”小早川隆景”です。

その”小早川隆景”に、”四国征伐”の軍令が出たのは翌月の6月。

直ちに”隆景”は今治の浜から四国に上陸し、それから僅か3ヶ月後の9月には四国全土が豊臣秀吉の軍門に下ったのです。

得意絶頂にあった”地蔵ヶ嶽城城主”の”大野直之”は、篭城している自軍の兵の助命を条件に自刃したとか、女装して城を抜け出し、伝兵衛という武士の槍先に命を散らせたとか、様々な伝承が残っていますが、事実は不明です。

しかし、”大野直之”の最後を笑うことはできません。四国征服に一歩前まで行った戦国時代を代表する”長宗我部元親”でさえ、織田信長の四国征伐の時は、自分の命に代えても抵抗すると息巻いていていたにも関わらず、秀吉配下の四国討伐軍とは、結局一戦も交えることなく降伏し、土佐一国を安堵(所領をみとめられること)されています。

長宗我部元親”は、豊臣秀吉四国攻めに一戦も交えることなく降伏した後は、腑抜けのような別人に成り果てました。戦後大名と呼ばれていたころの覇気はすっかり失せました。

この後一種の夢遊病者のように、秀吉が命ずるままにズルズルと、秀吉の九州征服(この時大敗し、自分の嫡男を死亡させています)、朝鮮半島から中国明を目指した”文禄・慶長の役”にも参戦させられ、秀吉亡き後の”関が原の戦い”でも、世の中の流れがどう動いているかと言う考察をすることなく、歴史の舞台から消え去り、長宗我部の血脈は途絶えました。

この後は、四国討伐の戦功厚かった”小早川隆景”が伊予国国主になったことは、今までも様々な機会に書いてきました。

大津は、隆景の養子であった”小早川秀包”(こばやかわ ひでかね)が配置されました。

石垣と大洲城9
その後”小早川隆景”に代わって、天正15年(1587年)豊臣秀吉腹心の部下であった”戸田勝隆”(とだ かつたか)が南予に配されます。

ことろが南予の人々は、一種狂気とも言える”戸田勝隆”の暴政にトコトン苦しめられることになります。悪夢と言うか、絶望のドン底に南予の人々は押し込まれ、命を奪われ血の涙を求められました。

戸田の残虐さを、ワタシは知ってはいますがここで活字にするのが憚(はばか)られるほどの内容でした。”血の気もよだつ”という言葉があります。ゾッとする怖さです。その言葉が意味する通りの暴虐な政治を行った男です。

世界史の中で、”残虐な支配者”として常に名を出すのが”ローマ皇帝ネロ”でしょう。まあ、戸田と言う男は、”暴君ネロ”のやった歴史に残る残虐さに比べると遥か小型版ではありますが、”南予のネロ”と言ってもいい男でした。

普通の人々だけではありません、宇和郡の支配者であった”西園寺氏”もこの”戸田勝隆”によって騙まし討ちにあい謀殺され、西園寺家の血は途絶えました。明後日の”西園寺氏”の歴史編でもう一度触れます。

この”戸田勝隆”の死は南予の人にとっては朗報だったことでしょう。南予にとって最悪だった”戸田勝隆”は、秀吉の朝鮮出兵の時に病死しました。

戸田勝隆”の後は、小紛(こまぎ)れに”池田秀氏”(いけだ ひでうじ)とか、”藤堂高虎”(とうどう たかとら)だとか”脇坂安治”(わきさか やすはる)が大津を治めました。

石垣と大洲城10
その中では”藤堂高虎”は、有名な武将ですね。元々近江(おおみ)の出身で、浅井長政、織田信澄(おだ のぶすみ)、羽柴秀長(はしば ひでなが)などの使え、更に豊臣秀吉、そして徳川家康にも仕え、その後二代将軍秀忠や三代将軍家光まで仕えました。

この”藤堂高虎”という武将は、武力ではなく築城の名人としてその優れた土木建築の知識と才能、それに智謀戦略を活かしきった、戦国時代でも異能の武士でした。

藤堂高虎”が築城した城は、宇和島城大洲城今治城の愛媛三城を始めとして、甘崎城、伊賀上野城、津城、大和郡山城、大阪城和歌山城江戸城、篠山城、膳所城、再建伏見城、丹波亀山城、淀城など、日本の名城のことごとくを手がけています。私見では世界規模で見ても、この時代においては世界有数の建築家だったのではなかったのかと思います。

今日の最後に、”藤堂高虎”の後に大津に入った”脇坂安治”に触れて終わりにします。

脇坂安治”は慶長14年(1609年)に入府して”それまでの”大津”を”大洲”と改めました。ここで歴史上に初めて”大洲”の名前が出てきました。

というには、安治はもともと近江の人なので、郷里の大津の方が頭にあり、紛らわしいということで”大津”を”大洲”にしたのではないでしょうか。

ただし大津を大洲に改名したのは、脇坂安治の後に入府してきた”加藤貞泰”(かとう さだやす)だという説もあり、定かではありません。

私は近江出身の脇坂安治が、出身地の”大津”と紛らわしいから”大洲”に変えたと言う説の方が自然なように思います。

明日は、元和3年(1617年)”大洲”に入府し、明治期まで続いた”加藤家”の”大洲治世”(おおずちせい=大洲に於ける政治)をご紹介します。





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No title

今回も読み入ってしまいました。
とても勉強になります。
菅田城は、大野城ともいうのは小学校の頃に習ったような、かすかな記憶があります。
高森城は、平野町の山手にあったお城のことだと思いますが、お城の跡に行ったことがあり、その時にまだ復元されていない大洲城址を見ることができたのが、なんだか面白かったです。
淡路のことが少しだけ触れられておられますが、淡路島の洲本から大洲の洲をとったという説もあるようですね。

さぁ、続きが楽しみです!!!

その説

大洲のひで様
毎日のコメント、感謝感謝です。本当にありがとうございます。こういう記事は、読んでもコメントが書き辛いものでしょう。

さて、「淡路島の洲本から大洲の洲をとったという説」。これは不覚にも知りませんでした。一つ、ひでさんから教えていただきました。こちらも、感謝感謝です!

早速調べてみます。お陰さまで、知識に厚みがつきます。^^
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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