「南予史探訪」・「大洲城 加藤氏の治世」

今日は”元和元年”(1614年)大阪夏の陣で戦功を上げ、その恩賞として伊予国大洲六万石へ移封して”大洲城城主”となり、明治期まで続いた”加藤氏”の治世(ちせい=政治)についてご紹介しましょう。

先ず”加藤氏”の出自からご説明しておきましょう。名字の下に””がつくのは、いずれも”藤原氏”をその祖としています。日本の名族の証(あかし)”源平藤橘”(げんぺいとうきつ)の中の一つ””です。(因みに残りの4姓の”源”は源氏、”平”は平氏、”橘”は橘氏です)

大洲藩主”加藤氏”は、藤原氏利仁(ふじわら としひと)の流れで、それから七代目の影通(かげみち)が加賀介(かがのすけ)となったことから、賀の原氏、つまり”加藤氏”と称するようになったのです。

その”加藤氏”の子孫である”加藤貞泰”(かとう さだやす)が、関が原の戦いの恩賞として”伯耆国”(ほうきのくに=今の鳥取県西部)米子六万石へ美濃の国から移封します。

その”貞泰”(さだやす)が、大阪夏の陣で戦功をあげ”大洲城”に入りました。

法眼寺1
加藤家は、初代藩主”貞泰”(さだやす)から十三代、約250年に渡って続きました。ただ、初代藩主”貞泰”が残した遺言が、後々の”内ノ子一揆”を引き起こした遠因となります。

初代藩主”貞泰”は、大洲六万石の内一万石を二男”直泰”(なおやす)に分地することを遺言していたのです。

これに異を唱えたのが貞泰の正室”法眼院”(ほうげんいん)です。長男の”泰興”(やすおき)と二男の”直泰”が半分づつの三万石づつを分地するよう主張したのです。”法眼院”は、二男の”直泰”を偏愛していたのです。

上の画像は、大洲市新谷(にいや)にある”法眼寺”(ほうげんじ)です。新谷藩初代藩主、”直泰”(なおやす)が自分の肩を持ってくれた母親の為に”新谷”に建てたお寺です。

新谷金比羅宮山門2
この問題の決着がついたのは、途中、この問題を拗(こじ)らせに拗らせた元凶”法眼院”が亡くなった後ですが、実に17年の不毛な時を要しました。

結局、江戸幕府が認めたのは、”大洲藩”を六万石並として扱い、軍役や普請の責任を負わせる。一方”新谷藩”は一万石の大名として扱うという折衷案。

上の画像は、難産の末に誕生した”新谷藩”領内に作られた”金比羅宮”です。”新谷藩”では、当時から"和算”が盛んで、この”金比羅宮”に奉納された”和算の算額”は、天明8年(1788年)別宮四郎兵衛が奉納したもので、県下では一番古く、全国でも九番目に古いものです。

隅櫓3
さて江戸幕府が降した兄弟喧嘩の裁定は、実際は六万石しかないのに七万石の負担を負わせようというものです。

母親”法眼院”の二男”直泰”への盲愛と、初代”貞泰”の藩財政の実態を考えない無邪気とも言える”遺言”が重なって、藩内の領民にだけ無用な負担を負わせるという結果を招きました。

この重なった要因が、”大洲藩”をして強(したた)かな”江戸幕府”の餌食(えじき)にならしめたのです。

元々六万石しかなかった小藩である”大洲藩”を二つに分地すること自体に問題があったと言わざるを得ません。

このことが、将来に渡って大洲藩を慢性的財政困難な状況に追い込んだことで、農民に対する過酷な年貢や使役の強制に結びつき、結果として”内ノ子一揆”を引き起こすことにつながったと思うからです。

実は、同じ状況が”宇和島藩”を分地して誕生した”吉田藩”においても発生しました。17日と18日にアップ予定の”武左衛門一揆”の時に、もう一度触れます。

画像は”大洲城”の”隅櫓”(すみやぐら)で、明和3年(1766年)に作られたものです。”大洲城”の三の丸にあって、現在は”大洲高校”のテニス部や野球部が使っている運動場の隅にあります。

大洲高校”に学ぶ諸君は、この”隅櫓”を作った”加藤のお殿様”の創世記の事情を知ってか知らずや、額に玉の汗をかきながら部活に励んでいました。

大洲城遠景5縮小
さて大洲藩の財政は元禄年間(1688~1704)を過ぎた頃から逼迫(ひっぱく)しはじめます。幕府からの公役負担が大きかったことや、地震や旱魃、相次ぐ大火など自然災害、あるいはそれに近い要因があったことも事実です。

でも、元々六万石という”小藩”を二つに分け二つの政府を作った。行政の無駄を作った上に、体裁(ていさい=うわべ)だけは大名の格を維持したかった。その悲しき見得(みえ)が領民の負担を一層過酷なものにしたのです。

藩の財政を潤すために殖産政策も取られました。大洲藩は山間部の物産を活かして、特産品作りに励みます。

伊予の紙は江戸時代には質・量とも全国有数でした。また、(はぜ)の生産は収益が大きかったため、急速に普及し山間部の代表的作物になりました。さらしていない生蝋(なまろう=青蝋と言った)生産は元文3年(1738年)から大洲藩ではじまっています。

大洲城4
また、安永4年(1775年)には九代藩主・泰候が砥部において磁器生産を命じ、”砥部焼”は大きな産業に育ちました。

砥部町にお住まいの方々は、”砥部焼き”が大洲のお殿様の命令によって生まれた、更には砥部が大洲藩の領地であったことをご存知だったと思います。”砥部焼き”の誕生秘話や、失敗挫折と成功の話は、今回のテーマではありませんので書きません。

さて、その一方で藩は緊縮財政政策を採り、城郭修理などもせず無駄を省き、藩臣には借上米といい、藩に米を返還させる措置や、従来の石高より大幅に少ない手取りにする方法も採られたと言います。その減部率は八割カットにまで及びました。

藩士である武士の生活も貧窮していましたから、ましては農民の生活は”餓死”が現実問題として浮き上がってきます。

大洲城5
当然のごとく年貢の見直しも行われ、作柄を調べて年貢を決めるという検見法(けみほう)から一定の税率を定めた”定免制”(じょうめんせい)を導入。

つまり収穫の出来具合に関わらず一定の年貢米を納めなければいけないという、今で言う”消費税”と同じ考え方が採られました。また藩の財政が苦しくなると村の収穫高に応じた出銀という特別税も命じています。

政府や役人は何時の時代でも、取りやすいところから取りやすい方法で取るという、こういう無茶を平気で考えるものです。

大洲城6
また裕福になってきた商人たちに御用銀、御用米を巻き上げることもしました。ただし、農民に対する措置と決定的に違うのは、商人にはその見返りとして特権を与えました。

ただし特権の与える匙加減は藩の役人が負いましたから、そこに商人と藩の癒着(ゆちゃく)も生まれ、今で言う”贈賄”(ぞうわい=ワイロを贈る)が横行し、一部の商人はますます大きく太っていったのです。

如法寺階段7
なお、上の画像は大洲市柚木(おおずし ゆのき)にある”如法寺”(にょほうじ)の山門に至る石段です。

この”如法寺”は二代藩主泰興(やすおき)が、既にその当時全国的に有名であった名僧”盤珪”(ばんけい)の為に建てたお寺です。寛文10年(1670年)の創建です。

盤珪”(ばんけい)は、播磨国浜田村(今の姫路市)の生まれですが、全国各地を行脚して修行を積み24歳ののとき結核に冒されて苦しい闘病生活のかなで悟りを開いたといわれる”名僧”です。

”盤珪”は全国各地から求められ、多くの寺を開山していることでも有名で、その寺の数は200とも言われ、その弟子は400余名、俗家の信徒は五万余名とも言われています。

如法寺山門8
その名僧”盤珪”の為に建てたこの”如法寺”(にょほうじ)は、現在、”仏殿”が国指定重要文化財に指定されていて、寛文の建築様式を当時のままに残していることでも有名です。

ただ傷みが激しく、現在は文化庁や愛媛県、大洲市が合同で修復工事を行っている最中でした。

ですから、”国指定重要文化財”の仏殿は被いに囲われ建物を見ることは出来ませんでした。大洲の”冨士山”(とみすやま)の真裏側にヒッソリと佇んでいます。

曹渓禅院山門9
この画像は、”曹渓禅院”(そうけいぜんいん)の山門です。”曹渓禅院”は、大洲藩主”加藤家”の菩提寺としてよく知られています。

ここ”曹渓禅院”には、一時期上に書いた”盤珪”もいたことがあります。

この寺には、大洲藩初代藩主の父の”光泰”(みつやす)の他、初代藩主の”貞泰”、八代”泰行”(やすゆき)、十代”泰済”(やすずみ)、十一代”泰幹”(やすもと)、十三代”泰秋”(やすあき)の墓があります。

一方”如法寺”には、二代”泰興”(やすおき)、三代”泰恒”(やすつね)、五代”泰温”(やすあつ)、七代”泰武”(やすたけ)、九代"泰候”(やすとき)、十二代”泰祉”(やすとみ)の墓があります。

加藤邸10
(上の画像は、旧大洲藩主であった”加藤家”が大正14年に建てた住宅で、国登録有形文化財です。旧大名家の住宅らしい格式の高さと、西洋風のモダンさを随所に備えています。映画「男はつらいよ」の撮影にも使われました。大洲では「殿様の家」と呼ばれ、市民に親しまれています)

初代”貞泰”の分地するという遺言が、後に”内ノ子一揆”を引き起こす遠因となりましたが、”大洲藩主加藤家”は英明(えいめい=優れた)な藩主を多く輩出しました。

明治維新前には土佐藩士”坂本龍馬”が土佐勤王党同士”沢村惣之丞”と共に土佐を脱藩する時に選んだのが、四国山地を伊予へ抜けるコースでした。

そして、土佐の梼原から伊予に入り大野ヶ原を越えて更に大洲領の水ヶ峠を越え、小田川から肱川を下って昼頃大洲に着き、その夜は長浜の冨屋金兵衛宅に泊まっています。

何故”坂本龍馬”が経由地に大洲藩を選んだのかと言うと、大洲藩内が勤皇派で占められていたという事情があったと言われています。

大洲藩は、その後の伏見の戦いでも長州藩を支援しており、小藩ながら全国に聞こえた藩であったのです。

明日は大洲の南にある”宇和郡”を、中世期において長く支配した”西園寺氏”の歴史をご紹介しましょう。




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No title

松山に住む私たちは、伊予イコール親藩のような考え方をしがちですが、南予は仙台の分家の伊達、豊臣恩顧の加藤とある意味外様の巣窟なんですね。
県民性とか気性などに与えた影響も、地方ごとにあらためて考えてみないといけないかもしれませんねえ。

繋がっています[i:63974]

じゅん様

毎日 ブログは私には知らない事ばかりで
見せて頂いております
振り仮名付きで勉強になっております
色々な事の繋がりで昨日は藤堂高虎の和歌山城と出まして
父とよく行き遊んだ所です暫く思い出に時間が過ぎました
今日も又見せて頂いて
日本の名族の証とありました
私の姓には藤が付いています 主人ですが~
南予の事も先祖の大変な生活色々思い
歴史はそしてじゅん様は凄いと思いました
和歌山も何かありそうですね・
明日も楽しみになりました(*^_^*)

愛媛の中心は

ファットマン様
江戸時代の伊予国には、小国分立し八藩ありました。
その内、西条、小松は江戸初期は外様の一柳兄弟が治めていましたが、西条藩は一柳氏は3代で途絶え、紀州徳川家から松平家が入り、明治まで親藩でした。

今治藩は、ご承知の様に今治城を築いた藤堂家の後に松山藩と同じ氏族の松平(久松)氏が明治期まで治めましたから、バリバリの親藩です。松山は松平(久松)氏ですから、親藩でも有力な親藩です。
その一方で、大洲と宇和島領藩は外様でしたから、やはり伊予国の主流は南予四藩を覗いて親藩がしめていました。
その辺りに、南予気質と中予・東予気質の違いがあるかも知れませんね。

なお明治維新後、廃藩置県が行われた時、中心藩の藩名がそのまま県名になったところが多いのですが、有力親藩で、明治維新の時に薩長軍に最後まで抵抗したと新政府から目された有力親藩は、中心藩の藩名を県名に出来なかったとも言われています。
松山県にならず、石鉄県から愛媛県になったのはその一例でしょう。

No title

今回も、とても分かりやすい解説をありがとうございます。
私の中で、なんだかもやっとしていた大洲の歴史がスッキリと整理できたような気がします。

男はつらいよのロケは小学生の頃で、大洲が盛り上がったのを微かに覚えています。
坂本龍馬との関係も掘り下げれば面白いのでしょうね。大洲藩所有のいろは丸を龍馬に貸し出し、そして海難事故を起こしてしまって、日本で最初の損害賠償請求をしたらしいですが、詳細はよく知らなくて、大洲市民としてちょっと恥ずかしくなりました。
じゅんさんの記事を読んで、私も地元史をちょっと勉強しようという気になりました!ありがとうございます。

和歌山と愛媛は縁がある

ココヒロ様
コメントしにくい記事にまでコメントいただき、ありがとうございます。

歴史を「時間」という縦軸で見るより、地域と地域のつながりを横軸で眺めてみたいというのが、今回のテーマの一つです。
それぞれ、色々な所で、横に横につながっています。

今回は南予の歴史が中心ですから、和歌山とのつながりは記事には出てきませんが、実は和歌山と愛媛は濃密なつながりがあります。

それは、愛媛でも東予地域で繋がりがあります。江戸時代の「西条藩」は、江戸の初期に、紀州徳川家から藩主をいただいております。

紀伊国紀州藩初代藩主徳川頼宣の三男松平頼純が紀州藩の支藩として3万石で西条藩に来ました。それは、本家紀州徳川家の血筋が途絶えた時の用心のために、西条藩に紀州徳川家の支藩(今で言う、紀州本店に対する西条支店でした)を作りました。本店と支店の関係だったのです。

また、東予地域に多い「真鍋」さんも、紀州から東予にやって来た一族です。(真鍋一族の出は、兵庫県)真鍋氏が紀州にいた時に、東予地域支配の為に伊予国に来て、そのまま真鍋姓が残りました。和歌山にもまだ真鍋さんは多く残っていると思います。

考えて見ましたら、余り意識しなくても、実は和歌山と愛媛は大昔から深い繋がりがありました。^^

なお、最終日にはココヒロさんとも関係がある地名「蔣淵」(こもぶち)もちょこっと登場させます。ココヒロさんに懐かしんでいただきたいと思って。^^

坂本龍馬といろは丸

大洲のひで様
連日のコメント、ありがとうございます。とっても嬉しいです。

さて、坂本龍馬と「いろは丸」の事件のことも調べております。最初は、そのことも記事に盛り込もうと思ったのですが、余りに長くなりすぎる為に途中で断念しました。

龍馬と大洲藩のことをキチンと書こうと思いますと、最低2日分の原稿量になります。全7回の本編シリーズに、その2回を加えますと、余りに長くなり、読んでいただく方にも負担が重くなり過ぎると判断しました。

本当は、大洲南中学に記念碑がある「山本尚徳」の事跡にも触れたかったし、当然に大洲の方にはお馴染みの「中江藤樹」とか、大洲城に記念碑がある姜沆(ハンカン)のことにも触れたかったのです。

でも、やはり余りにも膨大な量になるので、調べた事の、あるいは書きたかった事の半分以上は採用しませんでした。

ただ、大筋では大洲地域の歴史の大きな流れはご紹介できたのではないかと思います。

なお、残り3日となりましたが、今まで書いてきたことと微妙に繋がってる3日間になります。

大洲の歴史をありがとう

おはようございます。

いつも興味深く読ませていただいています。

地元では 如法寺を「ねほうじ」(「にょほうじ」が正式でしょうが)
  曹渓禅院を「龍護山(りょうござん)」と呼んで親しんでいます。

また、第二代藩主 加藤泰興の法号 円明院殿月窓常信大居士から
     「月窓餅」
如法寺の開祖盤珪和尚の命日に「盤珪餅」を市内の和菓子屋さんで
作っておられます。

地元の

せい爺様
コメントありがとうございました。
ずっと前から書きたいと思いながら、なかなか書けなかった南予史も明日で終わります。

大洲市の歴史は駆け足になって、書きたかった全てを書けた訳ではありませんが、ちょっと肩の荷が下りた気持ちです。

地元では そのような形で過去を偲んでおられるのですね。素晴らしい事だと思います。地元の方でないと知らないお話し ありがとうございました。また、何時も読んでいただきありがとうございます。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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