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「南予史探訪」・「吉田 武左衛門一揆」 1

今日はいよいよ「南予史探訪」・「内子・大洲・宇和・吉田」の最終編の”吉田 武左衛門一揆”の前編をご紹介しましょう。

この長かったシリーズも明日の”吉田 武左衛門一揆”の後編で最終回です。

既に”吉田 武左衛門一揆”については、2012年4月29日にアップしました。(「吉田町の風景と歴史」 2

今回は、一揆の背景と大洲藩”内ノ子一揆”との関連など、より掘り下げてご紹介しましょう。

日吉風景1
画像は”吉田藩”の領地でも”山奥筋”と呼ばれた”上大野村”(現在の日吉上大野村)の現在の様子です。

武左衛門一揆”を指揮した首謀者ともいわれる”武左衛門”は、この”上大野村”の農民だったと言われています。ところが、後編でもう一度触れますが、今もって”武左衛門”の出自は明らかになっていません。謎の人物だともいえるのです。

さて”武左衛門一揆”を簡単にまとめると、首謀者の農民”武左衛門”が三年間にわたり”門付芸”(かどづけげい)の”桁打ち(けたうち=ちょんがり)”を行って村々(八三ヵ村)を廻って農民を組織し、一揆を成功させたというものです。

なお”門付芸”とは、日本の大道芸の一種で、家々の門口に立ち行い歌や念仏や踊りなど様々な芸をしてお金をもらう形式の芸能のこと、そしてそれを行う人をいいます。代表的なものは人形つかいや獅子舞、万歳(愛媛では伊予万歳が有名)、門説教、鉢叩など様々あります。

武左衛門たちが用いたのは”桁打ち”(けたうち)といって、扇子1本を手にし一軒一軒領民の家を訪ね、”一口浄瑠璃”(ちょんがり)を語り、半銭一椀(はんせんいちわん=一銭にも満たないお金と一椀のおかゆ)の”合力”(ごうりき=僅かなお金や食べ物を与えて助けること)を受けながら領内を3年間くまなく廻りました。

その目的は領内の実情を把握することと、力を合わせて領民を組織する仲間を得ることでした。

そこで、先ず村々を廻って領民を組織固めするという極めて強い意思を持った同士、リーダー24名を得ることに成功します。そして、その同士たちは一様に武左衛門の人柄や能力に感服し、頭領と仰ぐようになりました。

日吉風景2
さて吉田藩が出来て137年後、また天明2年(1783年)から寛政5年(1793年)に至る10年間に、6回に渡って大洪水が起こり甚大な被害が出ました。同時に幕府からは武蔵川や相模川の修復工事など様々な財政負担を強いられ、藩の財政は極めて厳しい状態に追い詰められていました。

江戸幕府”=徳川家の地方政策の基本は、全国に配したどの””に対しても、徹底的な財政負担を押し付け続けけるというものでした。

二度と中央政権(この場合は江戸幕府を意味する)に弓引く勢力は作らせないという、別の意味で、長く続いた戦乱の世を終わらせたいという趣旨は理解できます。

ただ戦国時代の様に、領民の生命と安全を直接的に脅かす脅威は少なくなった反面、徹底的な財政負担の全てを領民(その当時領民の圧倒的多数は農民でした)に負わせるという、別の意味での”圧制”(あっせい=有無を言わさぬ政治)が始まったのです。

そういう大きな意味では、”大洲藩”に於ける”内ノ子一揆”や”蔵川一揆”、更には今日と明日でご紹介する”吉田藩”に於ける”武左衛門一揆”は、藩側も領民側も共に犠牲者であったとも言えます。

さて、その窮乏した藩の財政負担を、吉田藩は領民(ほとんどは農民)に全て押し付けたのです。年貢は増加され、雑穀や茶・桑・こうぞ(和紙の原料)にまで課税されました。おまけに土木工事普請や藩役人接待費に至るまで負担させられました。

吉田藩の山奥筋(今の日吉)の村々では、こうぞを栽培し紙を漉くことを主要な副業にしていましたが、吉田藩は紙製について専売制をとり、藩が認めた商人にしか売れない制度としました。

その紙を一手に引き受けたのが吉田の”法華津屋”(ほけつや)という豪商です。”法華津屋”は農家に手元資本を高利で貸して製品の紙を安く買い取り莫大な利益をあげていました。

また吉田藩は、役人の手下に提灯屋栄造(ちょうちんや えいぞう)とか覚造(かくぞう)などという無頼の徒(ぶらいのと=地元やくざ)を雇い、彼らが農家から押収した紙の7割は役得料として黙認したので、彼ら無頼の徒(ぶらいのと=やくざ)が土足で農家に踏み込んで押入れや天井裏まで探し回り、根こそぎ紙を没収するという暴挙を許したのです。

これは映画やテレビの”時代劇”の話ではありません。歴史が示す事実です。

日吉明ケ丘案内板3
画像は、元の日吉村役場、今の鬼北町日吉支所近くにある”日吉明ケ丘”の案内板です。この”日吉明ケ丘”には”鬼北町歴史民族資料館”や”武左衛門供養堂”などがあります。

ここで少し話を戻し、”武左衛門一揆”の舞台となった”吉田藩”の成り立ちと、”武左衛門一揆”が起こった遠因などをお話しておきましょう。

更に”吉田藩”をご説明する前に、近世伊予国の状況からご説明しておきましょう。

江戸期から明治期の”廃藩置県”(はいはんちけん=明治4年7月14日・現在歴で言えば1871年8月29日に、明治政府が藩を廃止し府と県に一元化したこと)前まで伊予国は、松山今治西条小松大洲新谷宇和島吉田の八藩と幕府直轄領の天領の九つに細分化していた、全国でも稀な国でした。

四国の中でも、土佐藩=高知県、阿波藩=徳島県、讃岐藩=高松県・丸亀県という風でした。

各藩とも極めて小規模だったので、財政規模も小さく飢饉や凶作などに極めて弱かったという特徴を抱えていました。また江戸幕府に対する各藩主えの負担も大きかったことがいえます。

日吉民族資料館4
画像は、鬼北町日吉にある”日吉民族資料館”の威風堂々とした偉容です。

伊予国の各藩は、ただでさえ小国分立状態で、それぞれの藩の財政状況は極めて厳しいものがありました。

そういう中にあって”大洲藩”と”宇和島藩”だけが、それぞれの初代藩主の意思によって”分地”(ぶんち=藩を二つに分ける)されたのです。”大洲藩”の分地につきましては、このシリーズの5月15日「大洲城 加藤氏の治世」のところで詳しく書きましたので省略します。

今回の舞台となった”吉田藩”の成り立ちについて簡単にご説明しておきましょう。”吉田藩”は”宇和島藩”から分地された藩です。

その”宇和島藩”は、慶長19年(1614年)に、奥州の仙台”伊達正宗”(だて まさむね)の長子”秀宗”(ひでむね)に”宇和島藩10万石”を”徳川家康”から賜ったのが始まりです。”伊達正宗”は、なぜ長子を仙台伊達家の跡継ぎに選ばず宇和島にやったのかについては諸説あります。”秀宗”が嫡子(ちゃくし=正室の子)ではなく庶子(しょし=側室の子)であったこともその理由でしょう。

しかし本筋は、”秀宗”は、”豊臣秀吉”絶頂期に秀吉の跡継ぎとして生まれた初めての実子”秀頼”の遊び相手として大阪城に預けられ、秀吉から一字もらって”秀宗”と名乗った運命を背負っていました。父正宗は、仙台伊達家が徳川家康から将来睨まれることを嫌って、長子”秀宗”を宇和島にやったのでしょう。

話が脇道にそれました。元に戻します。その藩祖”秀宗”は、宇和島藩を開いた43年後に、四男の”宗純”(むねずみ)に三万石を分け与え、宇和島藩領の中から三間・川筋・山奥筋などを割り与えて”吉田藩”を作りました。

日吉民家跡5
画像は、”日吉明ケ丘”の中にある”明星草庵”と名づけられた大正時代の農村の生活を再現した茅葺の民家です。

さて上まで書きました経過で、”宇和島藩”と”大洲藩”に共通する地盤と言うか土台と言うか、経済的環境が見えてきたと思います。

つまり、ただでさえ小藩で財政的に苦しいにも関わらず、親の、子の中で一人だけ編愛した子に貧しい中で”分地”を行い、更に小規模の(名前や石高だけは大名、でもその実態は・・・?)という極小藩を作ってしまったのです。(ただしこれはあくまでワタシの想像です。事実は確認できません)

その財政的しわ寄せを一手に受けたのが、両藩の領民、取り分け年貢や使役の負担を一身に背負わされた”農民”たちだったのです。ここに、大洲藩の”内ノ子一揆”と吉田藩(その実は宇和島藩)に起こった”武左衛門一揆”に共通する”悲しい素地”が生まれたのです。

ここをしっかり抑えておかないと、二つの一揆の本質が理解できません。

日吉武左衛門顕彰碑6
画像は、”日吉明ケ丘”の中にある”武左衛門顕彰碑”です。明治になってやっと彼を偲ぶ”碑”が作られました。

さて、”武左衛門一揆”に話を戻しましょう。

武左衛門一揆”が起こった当時の”吉田藩”です。時の藩主は既に六代目、”村芳”の時代です。藩主”村芳”はまだ13歳で、しかも江戸で暮らしていました。当然、藩政のことなど分からず吉田の家老らに任せっきりです。

また吉田領内にいる家老達も代々の世襲ですから、生まれたときから武士であり家老の子が長じて家老職を継いでいます。

農民の生活に目を向けるという発想は全く持たない連中が藩政を牛耳っていた(ただし、その家老たちの中でただ一人例外がいました。明日登場します)のですから、そこに吉田藩の農民達に藩の財政負担の全てがしわ寄せされてたというのも頷(うなず)ける話です。

年貢も米を量る””を次第に大きくしていって、農民達の負担は増すばかり。おまけに、藩の運営や庄屋の運営の経費負担も全て農民に負わせていました。

農民達はこのままでは”餓死”すると、吉田藩を直接監督する立場にあった宇和島藩に吉田藩の不正を度々訴えていますが、聞き届けられることは一度もありませんでした。

吉田藩の年貢米徴収の方法と言うのは、農民自身が米俵を担いで藩に出向いて直接納めなければいけませんでした。

そして驚くことに、米や大豆を農民自らが藩に納めに行った日、たまたま雨が降っていると、米や大豆を地面に下ろしては湿気を帯びるという理由で、背中に背負ったまま門の外で並んで待たされます。

武左衛門自身もこの経験をし、「これでは余りにもひどいではないか」と、一揆を起こす決意を固めたといわれます。

日吉武左衛門お堂7
”武左衛門一揆”の結果と特徴を先にご紹介しておきましょう。

この一揆は、”吉田藩”強いては”宇和島藩”に自分達の要求の尽(ことごと)くをのませ、成功裡に終わらせました。

一揆の詳しい経過や、成功裡に終わった要因は明日の最終回にご紹介します。

この時代、全国的にみてもこれほど見事に成功させた例はありません。ただ一点だけ類例をあげるとすれば、同じ伊予国で”武左衛門一揆”の43年前に”大洲藩”で起こった”内ノ子一揆”の例を上げるのみです。

これは偶然なのでしょうか?今日と明日に渡ってご紹介する内容は、決して偶然ではなかったということを皆さんにお示ししたいということです。(その内容は明日説明します)

日吉武左衛門位牌8
一揆は成功しましたが、「一揆の指導者を処罰しない」という宇和島藩の約束は破られ武左衛門は捕縛されました。

首謀者武左衛門(当時武左衛門は、まだ若干37歳でした。37歳の彼が、宇和島藩の農・漁民9800人を動かせたのです)は斬殺され、”反逆人武左衛門”という表札をつけて武左衛門の首は七日間晒されました。

武左衛門の処刑後、武左衛門の死を悲しむ村人たちは、上大野村瑞林寺(かみおおのむら ずいりんじ)に葬(ほおむ)り小さな墓を作りました。ところがそれを聞きつけた吉田藩役人は、武左衛門の石碑を粉々に打ち砕き川に捨てたのです。

そして「大反逆人を供養することは厳禁する」と農民を恫喝(どうかつ=おどす)したといいます。

ですから日吉の農民たちは、表立っては武左衛門を供養できず、村芝居の中にこっそり祈りを織り込んだり、子供達が歌う”猪子歌”に武左衛門を讃える歌詞を織り込んで後世に伝えたのです。

明治になってやっと彼を偲ぶ””が作られました。

日吉武左衛門木像9
さて、”武左衛門”とは一体何処(どこ)に生まれた””で、どういう方法で一揆のリーダー24人を養成し、そして3年間という長い期間、一切情報を藩に漏らすことなく農民を組織できたのか。

また、一揆に備えて大量の”大綱”や鎌や鉄砲まで秘密裏にどうやって用意できたのか。

これらの大事を、口伝(くでん=文字ではなく口から口へと伝える)だけで成し遂げることが果たして可能だったのか。

さらに43年前に大洲藩で起こった”内ノ子一揆”で使われ実施された”大綱で豪商や不正な役人達の屋敷を引き倒す”という方法をどこでどう知ったのか。両方の一揆の方法は驚くほどよく似てるのです。

内ノ子一揆”を経験した者と、”武左衛門一揆”を指導した武左衛門たち指導者との間に接点はなかったのか。

武左衛門一揆”には、様々な””があります。その謎を解く””は何なのか?ワタシは所詮(しょせん)素人なので、それらを解く術(すべ)がありません。

武左衛門一揆大綱10
この画像は、”武左衛門一揆”で農民達が”法華津屋”を引き倒す為に用意した”大綱”です。日吉村教育委員会が発行した「義農武左衛門物語」と題した小冊子に印刷された画像を借用しました。(ゴメンナサイ)

この”大綱”は、こうぞや麻を入れて丈夫なものにし、神社・寺院の護符や、怨念をこめた女の黒髪などをない込んだもので、一端を大きな節にし、他の一端を輪に作り、いざというときは簡単に必要な長さにつなぎ合わせることができるような工夫がなされています。

この一揆に先立つ43年前、大洲藩の”内ノ子一揆”で使われた”大綱”は、長さが約360mもある、とてつもなく長いものを用いています。

武左衛門一揆で用意された画像の大綱は、長さ約1.5mなので持ち運びも簡単で、一揆の道具としては実用的です。大洲藩での一揆の経験が生きていて、工夫されて吉田藩に伝承されたと考えるほうが自然ではないでしょうか。

明日は、長かった「南予史探訪」シリーズもいよいよ最終回。

武左衛門一揆”の経過と結果(それらの内容)をご紹介します。




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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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