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「南予史探訪」・「吉田 武左衛門一揆」 2

さて、今日が「南予史探訪」・「内子・大洲・宇和・吉田」と題した、”南予中世期外史”シリーズの最終回です。

昨日に続いて”吉田 武左衛門一揆”の後編をご紹介しましょう。

先ず、”武左衛門一揆”の経過と一揆の様子をご紹介しましょう。

安藤神社鳥居1
この画像は今日の話”武左衛門一揆”の主人公が日吉の農民”武左衛門”であるとするなら、そのもう一方の主役となった”吉田藩”の家老”安藤儀太夫継明”(あんどう ぎだいゆう つぐあき)を祀った”安藤神社”の今の様子です。吉田町にあります。

いよいよ”武左衛門一揆”が起こります。

吉田藩はこのころになってやっと、領内に不穏な空気が漂い始めていたことに気がつきます。それまでは、全く察知できていませんでした。

吉田藩は各地に密偵を放って情報を集めていましたが、寛政4年12月19日(1792年)「山奥郷に百姓ども騒動の企てあり」との情報をやっと入手。藩は慌てて役人を派遣し、庄屋に百姓を集めて「一揆はご法度。侵せば極刑に処す。願いあれば聞き届ける」と伝えます。

百姓たちは、年貢・賦役の減免・紙取引の改善など17ヶ条の嘆願書を提出。その結果は、「強訴によって政令を改めては悪例を残す。従って願いの筋相立たぬ」という全面拒否の回答。

この1ヶ月前、紙座役人の手下”提灯屋覚造”(ちょうちんや かくぞう)が山奥で何者かに射殺される事件が起きていました。下手人は藩の懸命の探査にも関わらず判明していなかった。

藩の全面拒否回答、無頼の徒・紙座役人の手下”提灯屋覚造”の射殺事件と、山奥筋の農民たちと藩との間に険悪な空気が一気に高まっていた。

安藤神社大祭2
上の画像は、吉田町にある”安藤神社”。ワタシが取材に行った当日は春の祭礼の日でした。

武左衛門”は、今こそ決起の時到来とばかり「藩が我々の嘆願を聞き容れないのであれば、我々を餓死寸前に追い込んだ”法華津屋”を予ねて用意した大綱で引き倒し、自活の道を切り開く他ない。心あるものは我等と共に立て!」と、各地に””(げき=人々に決起を促す言葉)を飛ばした。

この””に応じた村々は、予ねて用意していた大綱や、松明(たいまつ)・竹槍、鉄砲を手にして一斉に立ち上がった。当時山奥筋の農民は、狩猟の為に多数の鉄砲を持っていたと伝わっています。時に寛政5年(1793年)2月9日のこと。

一揆勢は法螺貝(ほらがい)を吹き鳴らし、旗を高らかになびかせ、時々威嚇(いかく=おどし)の為に銃声をたてながら広見川沿いに進んだ。人数は見る見る間に膨らんでいった。第一夜は上大野から下った延川(のぶかわ)で眠らず明かした。

10日、膨れ上がった農民たちは小倉・岩谷村を進み、役人たちの制止には農民が襲い掛かった。役人は農民が歯向かう事など夢にも考えたことがなかった。慌てて庄屋所に逃げ込んだ。第二夜は出目村(いずめむら)で過ごした。

武左衛門率いる農民は群集と化して、翌日は近永(ちかなが)そして予てより打ち合わせ済みの集合場所宮野下(みやのした)へと結集した。

そこには吉田町の浦方(うらかた=漁村)である立間(たちま)・喜佐方(きさかた)・法華津(ほけず)方面20ヶ所の村浦(むらうら=農村と漁村)の農民・漁民たちが続々押し寄せ、群集はたちまち数千人に達した。村中総出という状態。

安藤神社内部3
ここで武左衛門は各村の総代を集め「一揆の真の目的は、永年にわたる過酷な負担軽減にある。吉田藩ではなく吉田藩を監督する立場にある宇和島藩に訴える。これより、我等は宇和島を目指す!結集場所は八幡河原なり!」と宣した。

何れの村の総代たちも全く異議なく、高らかな”鬨の声”(ときのこえ=士気を鼓舞(こぶ)するために、多数の人が一緒に叫ぶ声)で力強く応えた。

事の推移にすっかり慌てたのは吉田藩の重役たち。しかしなす術(すべ)を知らなかった。

宇和島に向けて歩く農民・漁民手段の群集に、北灘(きたなだ)・下波(したば)・蔣淵(こもぶち)の浦方(うらかた=漁村)3ヶ村の農漁民たちも次々と合流していった。

そして、結局吉田領内83ヶ村から宇和島領の”八幡河原”に結集した一揆勢は実に9,600人に上った。大群衆になっていた。

安藤神社手本石碑4
この画像は、”安藤神社”境内にある比較的新しい記念石碑で、「安藤様は私達の手本です」(村井保固氏の言葉)と刻まれています。今なお、吉田の人々が”安藤継明”(あんどう つぐあき)に感謝と敬意の念をもっていることが読み取れます。

さて一揆です。その日の天候は雨。9,600人の群衆の前に、さすがに宇和島藩も捨て置けず、八幡河原に仮小屋を立てたり、雨をしのぐ為の(とま=茅(かや)などを粗く編んだむしろで、雨露をしのぐもの)を集め、更に宇和島の豪商たちが大釜で粥の炊き出しを行った。

この宇和島藩の、一揆勢に対する、吉田藩への面当てともとれる対応に吉田藩の重役たちは顔色を失った。

吉田藩の主席家老飯渕庄左衛門(いいぶち しょうざえもん)は、頭を抱えて病気を理由に屋敷から出てこない。次席家老尾田隼人(おだ はやと)は、農民を買収しようと画策し失敗。一揆から6日が過ぎ、2月14日

万策尽きた吉田藩は、末席家老の”安藤儀太夫継明”を派遣することにした。安藤はかねてより領民と向き合おうとしない上席の家老たちに苦言を言い続けていた。しかしそれまでは「安藤氏は若いのー!」(あんどううじは、・・・)とばかりに安藤の建策をことごとく退けてきた先輩家老たちは安藤に委ねるしかなかったのです。

宇和島八幡神社鳥居5
画像は、今の宇和島市伊吹町にある”八幡神社”の大鳥居。”武左衛門一揆”の群集は神社前の”八幡河原”に結集した。

安藤継明”は、この時点で自分の命をもってしか事態を打開する方法はないと覚悟を決めます。

安藤は、妻子と水杯を交わし、”経帷子”(きょうかたびら=切腹する際の衣装(装束)死に装束で、白装束<しろしょうぞく>ともいった)を着て、一人従者を伴って宇和島の”八幡河原”に降り立った。

安藤継明は、予め用意していた”遺言”を宇和島藩の家老(桜田)に送り、群衆に向かって「私は吉田藩家老安藤儀太夫である。藩政に当を得なかったのは全て私の責任である。今ここでその責任をとる。皆のものは早く宇和島藩に訴状を出してご裁可を仰ぎ、村に帰ってそれぞれ家業に励むよう」と言った後に、その場で表情一つ変えぬまま腹を切った。安藤47歳

介錯(かいしゃく=腹を切った後、とどめに首を切り落とす)をしたのは、ただ一人伴った従者、若党千右衛門(わかとう せんえもん)。

安藤継明石碑6
この画像は、八幡神社境内横に立つ”安藤継明”の忠義を悼む石碑です。

安藤の見事な切腹の様子に、群集は一瞬にして静まり返った。江戸期を通じて、一揆の責任を家老が取って切腹した例は安藤がただ一人。

このとき一揆を指揮していた武左衛門は、たまたま一揆の指揮を副頭取に任せて三間(みま)に食糧調達に行っており居なかった。

急を聞いた武左衛門は慌てて八幡河原に駆けつけたが、時、既に遅し。武左衛門は「大切なお方を亡くしてしまった」と泣き崩れたという。武左衛門も、安藤の藩政に対する姿勢を知っていて、最後の砦になるお方だと分かっていた。

宇和島八幡河原7
この画像は、八幡神社前を流れる”須賀川”の”八幡河原の今の様子”。皆さん、水量が無くなった今の通常な状態であるこの画像をよく見た上で、次の画像も合わせてご覧になって下さい。

「アッ!」っと驚かれた方は勘がいい方です。後でご説明します。

さて、安藤切腹の知らせを聞いた宇和島藩の主席家老”桜田監物”(さくらだ けんもつ)の行動と決断は早かった。

15日(安藤が切腹した翌日)吉田藩に出向いて協議し「この大騒動、幕府が知ることとなればどのようなお咎めを受けるか分からぬ。百姓共の嘆願は容認し、早期解決を図るが上策」と決定。

宇和島・吉田両藩の役人が八幡河原に出向き、百姓の代表者に改めて嘆願書を提出するよう指示した。

百姓たちは、11ヶ条の訴状を提出。両藩の重役たちは徹夜で評定を行い、要求の全てを裁可し、さらに一揆の指導者は処罰しないことも決定し百姓たちに伝えた。

江戸期を通じて、百姓側の要求が全て通った例は、僅かに隣の大洲藩の”内ノ子一揆”を除いては、恐らく例がないでしょう。(完全には調べきれていませんので、他に例があるかも知れませんが)

ここからはワタシの想像です。

宇和島藩筆頭家老”桜田監物”の頭には、この一揆を遡(さかのぼ)ること173年前、元和6年(1620年)6月29日に宇和島藩で起こった”和霊騒動”(われいそうどう)のことが頭をよぎったに違いない。

和霊騒動”のことは、2011年1月15日に記事として採り上げています。(「宇和島城」⑤(最後)

詳しくはそちらをご覧下さい。その時、仙台伊達家から借りていた借金を返さなければならないと主張したのは筆頭家老であった”山家清兵衛”(やんべ せいべい)。

「借金は貰った事にしておこう」と主張した”桜田玄蕃”を筆頭とする他の家老たちの意見を採り、主命(これを別名”上意打ち”と言い、追っ手は城主が裁可した”上意”と書かれた高札を手にして、白刃を振り下ろした)として”山家清兵衛一家皆殺し”を実行したのは、家老の一人であった”桜田玄蕃”(さくらだ げんば)。借金返済不要論を唱えた主要人物です。

犠牲となった”山家清兵衛一家惨殺”の様子は以下の如くでした。<刺殺団は、蚊帳の中に寝ている山家清兵衛一家を、蚊帳の四隅の吊手を切り落とし、蚊帳に押し込めてそのまま斬殺しました。3人の幼子ともどもです。一人の子が蚊帳から逃げましたが、直ぐに捉えられ、井戸に吊るされ、吊るし斬りにされたといいます。清兵衛42歳の時のことです。>(2011年1月15日記事より転用)

そうです、今回の当事者になった宇和島藩筆頭家老の”桜田監物”は上に書いた”和霊騒動”の一方の当事者であった”桜田玄蕃”の子孫。

彼は、家老が責任を取って切腹することの意味の大きさを一番よく知っていた人物。

宇和島八幡河原8
さて、話が少し反れました。元に戻します。上の画像を見て、一枚上の画像とよく見比べて下さい。

同じ須賀川の”八幡河原”の様子ですよ。こちらは草一本ないでしょう。そうなんです!安藤儀太夫継明が切腹した場所”です。

安藤が腹を切って果てた、その場所だけは今でも草木一本もないように清掃管理され続けているのです。

宇和島藩、あるいは今の宇和島市にとっても、須賀川のこの場所は”神聖にして侵すべからず”の土地なんです。(全国で、河川の一部だけがここまで清掃管理されている部分を持っている河川があるでしょうか?)

ただし、宇和島藩が吉田藩領民に約束した”一揆の指導者は処罰しない”という約束は破られます。

その結果は、昨日の前編で書いた通りです。

宇和島八幡河原9
八幡河原”の中央付近に、ちょっと土が盛ってある部分が見えますか?あの場所で”安藤儀太夫継明”は切腹し47年の生涯を終えました。

さて、約束を破られ捕縛されて斬殺された”武左衛門”です。日吉の農民と言うことになっていますが、それを明確に裏付けるものは残されていません。

本名のままで3年も一揆の準備を、藩に見つからないように遣り通すことが果たして可能だったのか。

”武左衛門”と共に捕縛された者の中に、大洲藩出身のものが2名居たといいます。それを綿密に研究なさった方がいます。その当時は他の藩に移動することなど出来なかった時代です。

それでも、大洲藩の出身者が一揆の指導者の中に入っていたという事実。これが、43年前に起こった大洲藩の”内ノ子一揆”とを結びつける鍵です。両藩を結ぶ連絡網があったと考えるほうが自然でしょう。

大洲藩と吉田藩の共通性。両藩とも親の藩を分地して作られた極めて小さい規模の藩で、財政は何時も危機状態であった。それは、全て領民に押し付けるしか藩を維持する方法はなかった。

大洲藩と吉田藩で起こった一揆の共通性。大綱をもって豪商や役人宅を引き倒すと言う、一揆史上でも他に余り例のない特殊な方法を用いたという点。一揆を起こすまでは藩に情報が漏れなかったと言う領民同士の固い結びつき。

そして、実は農民でも文字の読み書きできるものが、両藩共に多かったことを指摘される方もいらっしゃいます。一揆を組織的にかつ整然と実行できた要因の一つに、南予の農民たちの教養の深さがあげられます。

両藩とも、一揆の指導者の処罰という犠牲だけで、領民の要求の全てを支配者である藩にのませたこと。両藩共に、一揆を起こした時、一揆を起こした側も藩側も、一人の血も流さなかったこと。

但し両方の一揆の指導者と、吉田藩の家老”安藤継明”を除いて。(なお、大洲藩の内ノ子一揆では、刑死したものはいなかった)

なお、何もかも全て似ていた訳ではありません。一番大きな違いは、”内ノ子一揆”では大綱を使って豪商や私腹を肥やす役人たちの家を何軒も引き倒すという実力行使を行っています。

それに対して”武左衛門一揆”では、現実の実力行使は一切行っていません。藩の財政の全てを操った”法華津屋”を大綱を使って引き倒すという目標は掲げましたが実行せず、一軒の引き倒しも行いませんでした。

では両藩のこの違いはどこから出てきたのか。それは、”武左衛門一揆”には”武左衛門”という強力な指導者がいて、彼が一揆について綿密に策を練り上げていたからだと考えられます。

さてワタシがこのシリーズをスタートさせて、その2回目”「南予史探訪」・「内ノ子一揆・(小田・内子・大洲蔵川)」をアップした日に、お互いコメントを交換し合っている:”せい爺”(気まぐれ爺さんの気ままな日々)さんから以下のようなコメントを頂きました。

「小田といい蔵川といい、一揆は役人の目の届きにくい、山村から起きるのでしょうか。 それと村の団結力でしょうか。」っと。実に的確な目の付け所です。

昨日と今日ご紹介している”武左衛門一揆”も、発端は書きましたように昔の”日吉村”でした。”せい爺”さんが指摘された2つの視点、山奥で役人の目が届きにくかった、山村の人は団結力が強かった。これは正解でしょう。

そしてそれ以外の共通点は、大洲藩、吉田藩共に財政状況が厳しいところに追い込まれ、当初はそれぞれの地区のその年の米の出来高に応じて年貢を決めていましたが、一揆が起こる前には更に藩の財政状態が悪化し、地域や出来高に関わらず年貢を一定額に決めて農・漁民に負担させました。

すると、生産力の低い山間部ほど負担が過酷になりました。山間部で始まった一揆の共通点のがここにあります。

安藤神社感謝10
ここに、今なお”安藤神社”の前で額(ぬか)ずく(=深く頭を垂れて祈ること)姿があります。

安藤儀太夫継明”は、今なお南予に、宇和島に、そしてどこよりも”吉田”に生き続けているという証(あかし)です。

安藤神社”の前で額(ぬか)ずく少年の左右の肩の上に見える”寺紋”は、仙台伊達家を代表する”家紋”でもある”竹に雀”。

仙台伊達家を創設した東北を代表する武将”伊達政宗”は、草葉の陰からこの子を見てどう思うのでしょうか。

これで「南予史探訪」・「「内子・大洲・宇和・吉田」と題した長い長いシリーズの筆を置くことに致します。

一本一本の記事自体が長い上に、それが8日間も続きました。長い間お付き合いしていただいた全ての方に感謝の意を表したいと思います。「本当にありがとうございました」





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おはようございます♪

愛媛南予の歴史、楽しく読ませて頂きました(*^_^*)
毎朝じゅんさんの記事を見ているベルさんに、チョビンが「何を毎日一生懸命に読んでるんだ?」って言うので、愛媛南予の歴史を読んでるのって言ったら、
「ふ~ん」って言ってたけど、南予は龍馬の脱藩の歴史も絡んで、記事にも出て来たのでそれを教えると、「う~んそれはまた、時間の有る時にゆっくり読んでみようか」なんて言ってましたよ(笑)

最初は硬い読み物になるのかな~なんて思っていましたが、書き手が良いので、すーっと入ってきましたねv-218

8日間お疲れ様でした、また新しいテーマを見つけてシリーズ物を読ませて下さい(^_-)-☆

ありがとうございました

元々活字が苦手なので、歴史物、郷土史などあまり興味がなかったのですが、今回初めてじっくりと読ませていただきました。
おかげさまで、わたしの知識が拡がりました。
上梓をされる予定はないと言うことなので、このシリーズはプリントアウトして保存しておきます。

それにしても、資料集め、現地調査のうえ、それを自分のものにして
文字に起こす、大変な作業にじゅん様の情熱を感じ敬意を表します。

また、わたしの幼稚なコメントまで紹介していただきありがとうございました。

読んでいただき

ベル様
こういう1本1本が長く、それが8日間も続くという長丁場を、毎日読んでいただいただけで感謝感激です。

余り一般的な話題ではありませんし、めったに目にしない言葉がドンドン出てきて分かりづらかったと思います。

でも前から書いておきたかったのでホッとしています。また新しいテーマを見つけたいと思っています。
何時もコメントありがとうございます。

後押しに感謝いたします

せい爺様
最後までコメントいただき、ありがとうございました。

もともと、せい爺様にポロッとコメントで書いたことがこのシリーズを書くきっかけとなりました。何気なく「その内、お住まいのある南予の歴史も書いてみたい」と書いたことを今でも覚えております。その時は、何も具体的なことなど頭にはありませんでした。

ところが一回口に出したことですから逃げるわけにもいかず、資料集めと資料の読み込みから取り掛かりました。そして5月の連休初めに都合3日間現地取材に飛び回って、連休の残り4日間で書き上げました。
その後何十回となく読み返し、覚えていないくらい書き直して今日に至りました。最後は頂いたコメントを記事に反映できる余裕が出来ました。

まあ、一仕事終えて、今はホッとしています。また新しい何かのテーマを見つけて、気力と体力の続く限り書き綴って参りたいともおっています。その際に、せい爺様の旺盛な行動力が私の支えになっています。何時も感謝の念を忘れたことはありません。ありがとうございました。

「南予史探訪」 、「吉田 武左衛門一揆」巻1、巻2


   じゅん 様

     おはようございます。
     
     このたびは、南予の歴史を詳しく教えていただき、誠にありがとうございました。

    なかでも17日、18日のところは、筆者のお気持ちがよくでていて、小生なんども

    読み返しました、「門付け」の風習のなかに自らの思いをみごとにとけこませた

    武左衛門の動き、日吉村のような辺境の地での一揆をたちあげるに至った過程など

    当時の風景が目にうかぶようでした。

     資料写真のなかで、武左衛門の位牌がありましたが、戒名はあったでしょうか。

     とても興味深く読ませていただきました。 感謝   

                                    釣人見習い 

読んでいただき

釣人見習い様
記事を読んでいただきありがとうございました。
特に17日と18日の「武左衛門一揆」のところは、気持ちを込めて書いたつもりです。

中でも、最終回の18日の記述は、頭はカラッポになっても、尚且つ「指」が勝手にキーボードの上を走っていて、我に帰ってみたら記事が仕上がっていたというのが現場の正直な状況でした。勝手に言葉が迸り出るのです。不思議な経験をしました。

まるで武左衛門と安藤継明の魂が、私に乗り移っていたかのようでした。ですから、武左衛門一揆の最後の様子は、ワタシが八幡河原の現地に立っていて、その実況中継をしているかの如くに、頭の中で生々しく蘇ったものが、指の動きを通じて文字になっていきました。

さて、お尋ねの「武左衛門」の戒名です。 

           「義山良忠居士」

と申します。享年37歳でした。ただただ冥福をお祈りするばかりです。私も武左衛門様のご位牌の前で静かに頭を垂れ、その勇気と胆力ある行動を、必ずや文章にして、再び世に送りださていただくことをお誓いしました。武左衛門様のご位牌にお誓い申し上げたことが多少なりとも実行できまししたこと、この上ない喜びでございます。

質問おこたえ


  じゅん 様

   早速にお応えをありがとうございました。

   「義山良忠居士」と「居士」がつけてあるんですね、信士がつけてないと

  いうこと、興味深く思います。よほど後の世にお祀りしたものか、そっと祀っ

   てあったものなのかと少し気になります。農民、町人の戒名なら「信士」が 

  普通かなと………。不思議ですが、いろいろな宗派があるからでしょうね。

戒名につきまして

釣人見習い様
武左衛門の戒名について、分かっていることを付け加えさせていただきます。
武左衛門の墓は、斬首されたあと、武左衛門の死を悲しむ村人たちによって、上大野村瑞林寺(かみおおのむら ずいりんじ)に葬(ほおむ)られ小さな墓が作られました。(このことは17日に書いております)ところが吉田藩に見つかって墓は破壊されました。

以降、武左衛門を偲ぶものは、歌などに織り込んで後世に伝える他ありませんでした。

<亥の子歌(宇和島市高光)>

一つ 非道のお裁きあれば
二つ ふせ火が下から起きる
三つ 三間から騒動が起きた
四つ 吉田を恨みに思う
五つ 命にかけあう騒動
六つ 村の武左衛門さまが
七つ 何にも我身につけて
八つ 八幡河原に揃う
ここで九つ 紺屋の瀬戸で
十と 武左衛門首斬られ給う

武左衛門の顕彰碑が作られ、位牌などができたのは昭和2年のことで、日吉村の初代村長・井谷正命氏の子息・井谷正吉氏によって建立されたものです。信士ではなく居士となった経緯は分かりません。
また戒名は宗派によってもかなり異なりますが、それに関する知識がありませんので、分かりません。

おはようございます

南予の歴史シリーズ、お疲れ様でした。
知らないことばかりで、とても興味深く読ませていただきました。

ところで今日の愛媛新聞の読書欄に、「伊予吉田藩」(宇神幸男著、現代書館、1680円)という本が紹介されていました。武左衛門一揆や元禄赤穂事件、伊達宗孝をはじめとする歴代吉田藩主の行状など、とても面白そうな内容です。
じゅんさんのブログと時期を同じくして、この本の書評が新聞に出たことに因縁めいたものを感じたりして、とりあえずご報告させていただく次第です。

謝意


  じゅん様

   ご多忙のなか、誠にありがとうございました。

  井谷正吉 先生のかかわられた事であるならよく分かりました。

  愚問に丁寧にお応えいただき、ありがとうございました。
 
   かさねて、謝意をひょうします。
                         釣人見習い

謝意

  じゅん様

   ご多忙のなか、誠にありがとうございました。

  井谷正吉 先生のかかわられた事であるならよく分かりました。

  愚問に丁寧にお応えいただき、ありがとうございました。
 
   かさねて、謝意をひょうします。
                         釣人見習い

何時も

ファットマン様
おはようございます。

今回はかなり勉強して書きました。既存の知識だけで書ける内容ではりませんでしたので。
ホッと、肩の荷が降りて一息ついたところです。

そうですかー、今日の愛媛新聞に。今朝見たのですが、気がつきませんでした。ファットマンさんには、何時も貴重な情報を教えて頂き感謝しております。今回の「南予史探訪」でも、ファットマンさんに教えて頂いた事がきっかけで講演会を聞きに行きましたが、その時に購入した書籍も参考になりました。早速購入して読んでみたいと思います。

また新しい視点で歴史を見るきっかけになるかも知れません。何時も感謝しております。ありがとうございました。

お疲れ様です。

 南予の歴史、面白かったです。すごく、勉強になりました。
それにしても、正しい人はなぜ命を絶たれるのでしょうか。
それが世の常なんでしょうか。悲しいですよね。
 こういう歴史が延々と語り続けられること、そして知ることは、
人が間違ったことをしないように学ぶことなんだと歴史を学ぶ
大切さを知りました。ありがとうございました。

 またスープを飲み干すじゅんさんの記事を楽しみにしています。
矛盾していますが、お体に気をつけて、これからもお願いします。
いらぬこと言ったついでに、西予市は5町合併ですよ。

アッハーー!

a.k 様

コメントありがとうございます。

そして西予市は5町の合併ですねーーーー!完全に勘違いしていました。三瓶町を完全に忘れていました。
さっそく、原稿を直して置きます。貴重なご指摘ありがとうございました。

お恥ずかしい!

最後に、人間はやはり歴史を直視すべきだと思いました。今の時代でも過去の歴史を無かったかの如く語る人がいますが、疑問に思います。

ありがとうございました

じゅん様

毎日楽しみにして見せて頂いていました
昔先祖が体験した事知らない事ばかりで色々気持ちが入り
祖父や祖母を思い出してちょっと涙が出ました
じゅん様本当に凄いブログです
現地調査など本当に大変だったと思いました
知らない色々な事が分かりました
安藤神社の男の子の後ろ姿に大きくなった孫(はーくん)に見えて
何時か一緒に行きたいと思いました
本当にありがとうございました(*^_^*)
中々コメント書けませんでした
これからもお身体に気を付けてください
又明日からのブログ楽しみにしています(*^_^*)

そうですね^^

ココヒロ様
中々コメントが書きづらい記事にまでコメントいただきありがとうございました。

今回の3日間の現地取材で、何百枚と言う写真を撮りました。そして、それら膨大な数の写真の中から、どれをどの日に使おうかと考えた中で、男の子が安藤神社の前で、自然な形で祈っている写真を一目見て、これをシリーズの最後の最後に使おうと決めました。

その心の中には、ひょっとしてこの子に「はーくん」を重ね合わせて見ていただけるかも知れないと、ちょっと思ったからです。ドンピシャリとなり、嬉しく思います。

それと同時に、武左衛門や安藤継明などを、現代もなお敬い尊ぶ精神が、あの子に宿っていて、それは南予全体を象徴していると実感しました。
ですから、この8日間の長丁場のシリーズは、あの子の写真を最後に使うということを意識して、そこにきちんと辿り着けるように逆算して書いていきました。

書き終えた今、様々な方から様々にお声を頂いたことで、「書いて良かった!」っと思えたことは、ブロガーとしてとても幸せなことです。
毎日お読み頂いた上に、コメントまで頂きましたこと、大変感謝しております。ありがとうございました。

おはようございます

今日、午前9時から「秀吉と海賊大名」の著者の藤田達生氏の講演の模様が、愛媛ケーブルテレビで放送されるそうです。
くわしくは愛媛新聞のテレビ欄を見てみてください。再放送もあるみたいです、とりあえずお知らせまで。

お知らせ

ファットマン様
テレビの情報をお教えいただき、ありがとうございます。

ただ、残念ながら家庭でも会社でも愛媛ケーブルテレビの視聴ができません。どちらも、線をつないでいないというか、契約をしていません。

残念です。あの本には教えられることが多くて、少なくとも5回は熟読しました。いまシリーズで週一回書いています「松山の地名・町名の由来」シリーズでも、大いに参考にさせてもらっています。

先生の視点は今までの既成事実と思っていたこととは違っていて、新鮮に思えます。しかもさすが学者さんで、資料の当り方なども半端ではありませんものね。

何れにせよ、何時も希少情報提供には感謝しております。

No title

読ませていただき感動しました。ありがとうございました。\(^o^)/

初めてのコメント

松本様

初めてのコメントありがとうございました。

私は、この8回のシリーズを書くまでに、このブログで既に様々な愛媛の歴史を書いてきました。(もちろん、歴史は素人ですが)

そしてこの「南予史探訪」全8回は、それまで書いてきたことの集大成の積りで書きました。

ですから、資料読み、現地踏査、構想練り、そして文字起こしという全過程に半年間を費やしました。特に最後の2回(吉田藩 武左衛門一揆)につきましては、情熱を込めて書いた積りです。

ですから、コメントのようなお言葉を頂けることは光栄に思いますし、大変嬉しく思いました。ありがとうございました。

教えて

私の地に安藤講成るものがあり、明治以前から継明翁の戒名掛け軸を拝み石碑を祀る講が有ります。 先日、吉田に行き 安藤神社宮司さんに会い、また、海蔵寺に墓参しました。
さて、海蔵寺、左上手 中央部に安藤家の墓地(宮司談)の左手の
大きな墓標の戒名「真労雲院月濡寿清○霊」はどなたのお墓ですか?  当地との関係も分かりません
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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