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「南予史探訪」・「宇和郡 西園寺氏の始まりと終わり」

今日はワタシの郷里(今の西予市)の”宇和郡”において、中世期に勢力を持って君臨していた”西園寺氏”の歴史をご紹介しましょう。

なお、冒頭に書いておきます。市町村合併によって”宇和郡”という、645年の”大化の改新”以前からずっとあった由緒ある”地名を殺した”のはどこの何方(どなた)ですか!

なお、そういうお方の方便として①、”宇和町”という地名が残った。②、五町合併で、他の野村町、城川町、明浜町そして三瓶町の町民の心理をおもんぱかったっと言われることでしょう。

でも、そんな”矮小”な理屈など意味がないと、ワタシは個人的にですが考えます。考えても見てください。”宇和郡”は、元々伊予国の”伊予郡”と”温泉(ゆ)郡”から南一体を、全部”宇和郡”と言っていたのですよ!

さてこの地は、室町時代から戦国時代にかけて、京都の公家(くげ=朝廷に仕える貴族や上級官人)であった”西園寺氏”の一族が宇和郡まで流れてきて支配するようになりました。

流れ公家”が地方に居ついて武士化し、その地域を支配したのは全国で3人だけですが、その内の一人が”宇和郡”の”西園寺氏”で、もう一人は”土佐中村”の”一条氏”です。その2人が戦国末期互いに争うようになります。

さて最初に居付いたのは、鎌倉時代中期の”西園寺公経”(さいおんじし きんとう)で、宇和郡は西園寺家によってほとんど横領に近い形で所領とされます。

しかし、当初は西園寺氏は宇和郡を支配するといっても、代官に統治させ、宇和庄を領家として経営しておりました。

実際に現地に土着するようになるのは、西園寺氏の庶流”公良”からです。

宇和盆地を本拠に宇和郡内に広く影響を及ぼしました。その西園寺氏が本城としていたのが、”松葉城と黒瀬城”です。

松葉城がある山1
上の画像が、国道56号線から見た”松葉城”があった山です。城はこの山の山頂にありました。

松葉城は、西予市宇和町の卯之町(うのまち)の北、松葉地区にあります。一方黒瀬城は、そこから卯之町の市街を挟んで南へ約2キロの所にあり、JR卯之町駅の裏手真正面に見えます。

両城とも尾根を利用して、おおまかに3段の曲輪(くるわ=山頂の城を守るために削り、或は盛土した平らな部分)を中心に構成されていますが、松葉城は岩場の狭い尾根に造られていました。

西園寺氏”は当初”松葉城”を本拠としていたのを、戦国時代に”黒瀬城”に移ったといわれています。”西園寺氏”は、約170年間この”松葉城”を居城としていました。

西園寺氏は、宇和郡内に一族がいくつか分派し、立間・来村・竹林院などと呼ばれる一族が出ましたが、この松葉城を本拠とした家はその名を取って「松葉殿」と呼ばれていました。

本拠とした”松葉城”に拠って、宇和地方の在地豪族を傘下におさめ、守護大名的な活躍をするようになります。

松葉城城壁跡2
松葉城”があった山を、目を凝らせてよく見ますと、山頂付近に岩場が見え一種の”城壁”の役割りをしていたことがうかがえます。

天然の地形を活かした、いかにも攻められにくい”要塞”的な城だったことがうかがえますが、一方では京都の公家出身らしく、城で度々”能の宴”を催したという記録も残っています。

典型的な”山城”で、戦国時代に出来た城の多くは敵に攻められないことを念頭に城作りをしました。

なお通常の登山道の他に、上松葉側から辛うじて小型の車なら山頂近くまで行ける道を地元の方に教えていただきました。

ただし時速5キロ程度の、超ノロノロ運転でなければ車が転倒する恐れもあります。余りお勧めはできません。

松葉城登山道4
なおこの山は、標高409mで、急峻な山道を喘ぎながら上っていかないと辿り着けません。


この”登山道表示板”は、上に書いた小型の車なら辛うじて登れるという終点のところにあります。


この登山口から山頂までは歩いて約5分程度ですから楽ですが、滑らない足元準備をしていないと危険です。

松葉城址階段5
登山道を登っていくと、最後にはこの階段が用意されています。

木で組み立てられた階段を、細いロープをしっかり握って山頂を目指します。

でも幾ら”殿様”だからと言って、こんな山頂暮らし決して快適ではなかったのではないか?っと思いながら上りつめました。

松葉城址6
ここが山頂にある”松葉城跡”です。

平らにされた山頂は三段に別れ、その面積は約40アールです。1200坪余りの広さです。

松葉城は山塊から北西に張り出した尾根の頂部に築かれています。南東背後を大きく削って遮断し、北西に伸びた尾根に段々と曲輪を造成しています。

山頂には、地元の家族一組が後から上ってこられました。おじいちゃんと息子さんとお孫さんの3人で。

松葉城址7
その中のおじいちゃんに声を掛けられました。

「ここは昔城があったと聞いとるけど、一体ここのどこに城が建っとったんジャローー???」

「この山には、散歩がてら何度も登っとるけど、ちっともここに城があったとは思えんのヤケドー?」っと。

周囲を盛んにコンデジで写していたワタシを、郷土史家と錯覚なさったのかも知れません。

松葉城柱跡8
そこで、この岩場にご案内して「この岩の、この四角い窪み、これ人為的につけられたものでしょう」っとワタシ、足元を指差しながら説明しました。

するとそのおじいちゃん(ただしワタシもおじいちゃんではありますが)「アッ!ア・・・・・アッ!。ヤッ!ヤ・・・・ヤヤッ!」と奇声を発せられ、岩場にしゃがみ込まれた。

「この四角い角、これはここに柱が建っていたと考えられませんか?」っとワタシ。俄(にわ)か”郷土史家”に早代わり。

「ウンウン、ソーーージャ。間違いない、これは確かに柱の跡じゃナー!」っと目を輝かされた。

それからは、山頂のアチコチで「ここは、お城の庭園跡でしょう。そして、柱跡の間隔が開いていて、平らなこの辺りは、昔は能舞台があった場所かもしれませんよ」と、二人の空想合戦が始まった。

「この山には何度登ったか覚えとらんけど、こんな見方したことなかった。ウンウン、間違いなくここは城跡じゃな!うーーーん、楽しい!」っと目をランランと輝かせたおじいちゃん。男はワタシを含めて、幾つになっても子供なんです。

松葉城からの展望9
山頂から見れば、まさに難攻不落の城のように見えます。

どの角度から山頂を目指しても、城からは丸見えになります。

しかし、宇和地方で勢力を振るった”西園寺氏”は、戦国時代に入ると、伊予国東部の河野氏と土佐国の一条氏に挟み撃ちのように攻撃されます。

更には、九州の豊後国(今の大分県)の大友氏の侵攻に遭って次第に衰退していきます。

そして、致命傷を負ったのが1584年(天正12年)、土佐国”長宗我部元親”の四国統一を目指した侵攻でした。

当時の宇和郡の当主であった”西園寺公広”(さいおんじ きんひろ)は遂に長宗我部氏に降伏します。

松葉城からの展望10
天正13(1585年)年の”豊臣秀吉”による四国平定の後、伊予は”小早川隆景”の支配するところとなりますが、その時の当主公広(きんひろ)はまだある程度宇和郡での影響力を維持していました。


小早川隆景”は四国攻めにおいて最後まで抵抗した、宇摩・新居郡を支配する石川氏と、同氏家臣団の実力者である”金子元宅”(かねこ もといえ=元宅は東伊予の実質的な指導者であり、長宗我部氏とは同盟関係にあった)勢に対しては容赦することなく殲滅(せんめつ=皆殺し)させました。


それに対して、抵抗しなかった”河野通直”(こうの みちなお)と”西園寺公広”(さいおんじ きんひろ)に対しては寛大な扱いをし、客将扱いだったようです。

松葉城とりで石垣11
この画像は”松葉城”があった山の中腹にある”砦跡”の石積みです。今は、生い茂る”桧林”の中でヒッソリと息づいています。


いよいよ西園寺氏の最後です。


宇和には新領主として”戸田勝隆”(とだ かつたか=豊臣秀吉配下の武将であった)が封じられます。


1587年(天正15年)に”西園寺氏公広”は、「自邸に招待して歓待したい」という”戸田勝隆”の誘いにまんまと引っかかって殺害され、ここに”伊予西園寺氏”は滅亡しました。

なお本編とは直接の関係はありませんし、時代も違いますが今日の舞台となった”宇和荘”に関する話を一つご紹介しておきます。

それは”平安時代”末期に起こった”藤原純友”(ふじわら すみとも)の乱(一般的には乱の起こった元号をとって”天慶の乱”(てんぎょうのらん)と呼ばれます)に関してです。

純友の乱につきましては、2012年3月11日に(耕して天に至る「水ケ浦の段々畑」 4)でご紹介しております。詳しくはそちらをご覧下さい。

今日ご紹介する話は、藤原純友を捕らえて投獄したに伊予国警固使”橘遠保”(たちばなのとおやす)の後日談です。”橘遠保”は、この功績により伊予国”宇和荘”を与えられました。ところが、彼は何者かによって斬殺されます。

その後に伊予国”宇和荘”の領主になったのが”橘則光”(たちばなの のりみつ)です。この”橘則光”の妻が、有名な”清少納言”(せいしょうなごん)で、後に”枕草子”(まくらのそうし)を著しました。この”清少納言”は ”清原元輔”の娘なのですが、この一族が”清家”姓の始まりです。

つまり、今の宇和町や大洲市・八幡浜市に多い”清家”(せいけ)さんは、”清少納言”の子孫なのです。南予の”清家”さん、ご自分のご先祖をご存知でしたか?


明日17日と明後日18日は、”吉田藩”で起こった”武左衛門一揆”の歴史をやや掘り下げてご紹介し、全8日間の締めくくりとします。





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おはようございます♪

ふふっ、補足文は今日の記事でしたね(^_-)-☆
毎日見てたらあっと言う間でしたね8日間(^^ゞ

もうあと2回でお終いなんですね。
もうひと頑張りですねp(´∇`)q ファイトォ~♪
今からお山へ行って来ます(^_^)/~

はい、その通りです

ベル様
おはようございます。

その通りです。あのコメントで、書く予定であった挿話を思い出し、慌てて原稿に付け加えました。

全体の流れから言えば、ちょっと時代区分も違うのですが、今回書いてみて、南予に多い「姓」にまつわる話が多かったので補足的に書きました。

今日は爽やかな「鳥撮り日和」ですね。成果を待っています。
行ってらっしゃーーーーい!

No title

朝生田という地名は町名表記的にはアソダと読むのだそうで、私はこれもお役人様の仕業ではないかとひそかに睨んでいます。
少し前に某人気ローカルテレビ番組がこの界隈を取り上げたことがあって、美人のアナウンサーさんが「ここはほんとはアソダなんよ、アソダ、アソダ」と土地の人々に連呼してました。古老の方などさぞかし腹立たしく思われたのじゃないかと、勝手に同情したりしてしまいましたが。

宇和郡がそのように由緒ある地名とは露知らず、消滅してしまったことをとても残念に思います。合併等で地名を決めるときには、土地の歴史に詳しい先生方の意見も取り上げるなどして、先人に恥ずかしくない名前にしていただきたいものですねえ。
あまり本文と関係のない書き込みですみません。

朝生田町

ファットマン様
コメントありがとうございます。

「朝生田町」につきましては「松山市の地区・町名の由来」で採り上げる予定です。詳しくはその時に。但し既に8月末の週まで(22回まで)予定原稿は書いておりますので、秋口過ぎになります。

宇和郡に生まれ住んでいて、先祖も宇和郡で生きてきた歴史の重みを考えますと、合併や町名の「合理化」(郵便物が配達し易いだとか、固定資産税が負荷しやすい)などという、行政側の都合だけで、生き続けていた地名や地区名が突如無くなるのは、悲しいです。

ファットマンさんが書いていただいたように、歴史ある地名をどうするかを議論する際は、歴史的経過などを理解している人を議論に加えるべきだと切実に思います。

No title

はじめまして、アイヌの人と琉球の人のルーツが同じかもしれないということに興味があり、自分の親戚も顔が濃ゆい人が多いので、どんなかなと調べておりましたら、こちらの記事にたどり着きました。

とても丁寧で詳しい記事で、西園寺家についての記事ではじめて真に迫っているなと感じ、たいへん興味深く拝見いたしました。

実は、私の祖父が西園寺姓から婿養子で祖母の家にはいり、保内町に住んでおりました(すでに他界しています)。ウィキペディアなどには末裔が。。。などとかかれていたり、母方の親戚からは西園寺の血を受け継いでいるときかされたりしていますが、いろんなところに滅亡したとかかれてあるかぎり、私自身、西園寺家の血のルーツにはあまり納得していません。

姓名だけその土地に根付くこともあるだろうし、なによりそのほかに知りたいのは西園寺姓名のわたしの親戚が外国人のような容姿ばかりなのはなぜかということです。

私の祖父や伯父たちもみなアラブやイスラエル、北アフリカ(アルジェリアなどです)の方のようなとても濃い顔立ちで体格もよく、母はそのような容姿でいじめにあったそうです。
私自身はたまにフィリピンやメキシコ、などと言われたりします。

知り合いの方で母と同じ南予出身の女性がいるのですが、実はフィリピンからの移民?がルーツだと最近になって聞かされたそうです。その方はおきれいだし、目鼻立ちがはっきりしているなという印象だったのでなるほどと思いました。

こういったこと(姓名のなりたちや外国からの移民など)を知るためにおすすめいただける資料が見られる場所がありましたら、ぜひ調べてみたいのですが。。

いまのところ、図書館のレファレンス室くらいしか思い当たりませんが、どうでしょうか。。



初めてのコメント

はんじろう様

初めてのコメント、ありがとうございました。西園寺氏との関係、西園寺氏のルーツ等へのお尋ねでした。私は歴史に付きまして素人でして、単に歴史好きなだけですので、細かい史実については分かりません。

ただ、伊予国の「西園寺」氏につきましては、記事で書いた通りで、それ以上の事は知りません。

なお、私の姓は、元々「土居」姓でしたが、中世期に宇和を支配した京都からの流れ公卿「西園寺氏」最後の当主「西園寺広」に仕えていたて、西園寺氏かから、今の私の姓をもらっらという謂れがあります。

そういう意味では「西園寺」氏とは濃厚な関係がありました。その「西園寺」氏は、京都の公家だったこともあって、一般庶民とは顔つきも違っていたのだろうと思います。その当時から、公家と庶民の顔立ちは全く異なっていて、鼻筋が通ってて、目が細くつり上がっていたと言われています。庶民は鼻が低く平べったい顔でした。

元々、日本人の成り立ちは、北方系の(アイヌ系)の血と、南方ポリネシア系の混血と言われています。西園寺氏の血統が北方系であるかどうかは知りませんが、京の貴族の顔立ちは、労働を担っていた庶民とは全く違った顔立ちをしていたようです。それが、より強く北方系の顔立ちに現れているのかも知れませんね。
なお、そういう参考文献がどこにどうあるか?も知りません。お役に立てず申し訳ありません。

伊予西園寺について

伊予西園寺さんについて、調べているものです。当時、3箇所、松葉西園寺、立間西園寺、来村西園寺に入った、とされていますが、其の場所、いったいどなたが入られたのかわかりません。系図も見つかっていません。また、京都の西園寺本家の系図に伊予西園寺氏の名前はみあたりません。彼らのうち、お墓があるのは、西園寺公俊氏、西園寺公広の墓とされるものしかない。しかし、公広氏の墓には遺体はありません。西園寺氏の350年の時間の流れのなかでお墓もない、となたがいらしていたかもわからないのは不思議でなりません。西園寺の家臣の人たちは江戸時代、荘屋職、代官、あるいは、子供は宇和島藩に召抱えられた人もあり、今日もその名前、系図が本になり残っています。明治期以降、自分たちは西園寺の血筋とか、家臣であるとか、のものしかでてきていません。教えてください。

古い記事に

上甲泰正様

随分古い記事に目を通して頂きありがとうございます。3年前に書いたものです。しかも初めてのコメントは、嬉しいです。

ただ、私は歴史に関しては素人ですし、郷土史家という立場でもありません。この記事を書いた当時は、様々な文献をあたり、現地取材を重ねた上で記事にまとめましたし、私の「歴史シリーズ」の集大成の気持ちで取り組みました。

しかも私の祖先は西園寺氏に仕え、元々は「土居」姓だったようですが、戦功あって現在の姓を西園寺公から賜ったとされています。ですからゆかりのある西園寺氏のようなのですが、詳しいことは知りません。

当時読んだ文献を紐解けば何か出てくるかも知れませんが、現在私はブログアップを休まざるを得ない環境になっています。ゆっくり文献を再チェックしている状況にありません。

お役にたてず申し訳ありません。私の個人的環境がブログを再開する程に改善しましたなら、この記事を書いた文献をもう一度読み直して、私に分かることがアレばお調べしてお知らせ致します。それまでしばしお時間を頂きたくお願いします。

そういうご縁でしたか

J様

私の古い記事、しかも地味な歴史分野の記事に目を止めて頂き光栄です。そういうご縁でしたか。流石に由緒ある旧家ですね。
ちゃんと故事来歴が、綿々とお家に伝わっておられるのですね。私が調べ記事に書いた事の奥には、そういう歴史が秘められていたのですね。コメントを読みなながら感無量になりました。

我が家の先祖も宇和島伊達藩の家来でした。あることをキッカケに現在の姓を賜ったと言われています。遠い昔にJ家ご一族様との交流が有ったかも知れませんね。

宇和町の歴史も、やはり「愛媛の歴史」のジャンルで書いており、オランダオイネにも触れた記憶があります。お目通し頂ければ幸いです。

私が書きました「愛媛の歴史」シリーズでは、シリーズで登場した人物を先祖に、或いは縁があった方から時折コメントを頂くことがあります。中世期に中予地区を支配した豪族の河野氏を先祖に持つ方からもメールを頂き、ソレが縁で遠い県から松山に来て頂きましたので、河野一族のゆかりの地をご案内したこともあります。ありがたいことだと感謝している次第です。

J家のますますのご反映を祈念し、お礼のメッセージとさせて頂きます。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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