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「松山市の地名・町名由来」・ 「福角町・湯山地区」 24

松山市の地名・町名由来」の第24回目は、鎌倉時代から南北朝の時代にこの地で活躍した武将に因むという共通点を持っている「福角町」(ふくずみちょう)と「湯山地区」(ゆやまちく)の地区名・町名由来をご紹介しましょう。

まず「福角町」は、松山市内から北条へ向かう国道196号線の東西に分かれてあり、堀江町の東隣にあります。

福角町標識1
上の画像が、「福角町」を示す標識です。

この町は、鎌倉時代に”高野家定”(こうの いえさだ)という地方豪族がいて子孫繁栄を願って、現在の町制区分では「堀江町」にある(当時は「福角町」に含まれていた)”花見山”に城を構え、自分の名前も”福津見家定”(ふくずみ いえさだ)と改名しました。

この”福津見家定”(ふくずみ いえさだ)との改名が、現在の「福角町」の町名の由来です。

花見山2
上の画像が、現在の「堀江町」にある”新池”の中ほどまで伸びた展望台から北東方面に”花見山”を見た風景です。

「堀江町」の”なすび池”の北側にある小高い山です。城と言っても”館”に近い程度のものだったのでしょう。

福津見家定”が館を築きこの地域を支配しますが、時代が下って室町時代前期(1368年)になりますと中予地域の最大勢力となっていた”河野通堯”(こうの みちたか=河野氏29代当)が配下の武将”村上大蔵大夫”(むらかみ おおくらたいふ)に命じて”花見山”に”出城”を築かせました。

花見山祇園神社3
福津見家定”が改名までして子孫繁栄を願ったその願いは100年余り続いただけで、伊予国も守護大名河野氏を中心に、地方の豪族や地侍たちが激しく精力争いを繰り返す”戦国時代”に突入していきます。

現在の”花見山”には既に城郭の遺構なども見られず、”祇園神社”の古い社(やしろ)が残っているだけです。

河野通堯”(こうの みちたか)は、ここの”出城”を中心にお隣讃岐から勢力を伸ばしてきた”三好勢”等諸勢力を退け中予地区に安定を生み出した。

また”河野通堯”はその後、京の将軍”足利義満”に協力し、伊予国の守護に任ぜられました。

花見山から福角町4
この画像は、”花見山”頂上から南東の方角を見た風景です。この画像の奥にコンモリと茂った小高い山が見えると思いますが、そこには”正八幡神社”があります。


”河野通堯”は”花見山”の出城の城代に”西山氏”を据えました。

福角町正八幡神社山門5
その”西山氏”の第四代城代”西山通倫”(にしやま みちとも)と、第六代”西山五右衛門通周”(にしやま ごえもん みちちか)が、この地域の開発や村民救済に多大な貢献がありました。


その功績を讃え偲ぶ為に、画像の”正八幡神社本殿”左側に”周敷神社”に祀られました。

湯山駐在所表示6
さて、次は「湯山地区」(ゆやまちく)の由来をご紹介しましょう。

先ず「湯山地区」ですが、現在「湯山町」とう町名はありません。645年の”大化の改新”の時代に伊予国にあった”郡”は十三郡ありましたが、中予地区には”温泉郡”(ゆぐん)がありました。

ですから、当時から”温泉郡”(ゆぐん)の山手地域を”湯山”(ゆやま=ゆ郡の山手)と呼んでいたのでしょう。

その名残りが上の画像の様に、現在は「末町」にあるのに”湯山駐在所”の名前が使われ、「食場町」(じきばちょう)にあるのに”湯山小学校”と呼ばれています。

両新田神社鳥居7
この「湯山地区」にあった元の「日浦町」、現在は町名が変更されて「河中町」となっていますが、そこにある”両新田神社”には、”室町時代”の前期”南北朝時代”、南朝方についた”新田義宗”(にった よしむね)にまつわる”椿”が残っています。後でご説明します。

上の画像が、その”新田義宗”(にった よしむね)にまつわる”椿”が残っている”両新田神社”の鳥居です。

ここは「湯山地区」でも、かつては「日浦村」と呼ばれていました。今でも、小学校や中学校、それに駐在所やバス停などには「日浦」が残されています。

なぜこの地区を「日浦村」と言ったかといいますと、「日」は「日」のことです。

「日裏」は日当たりの悪い場所というと土地の特性が由来となった町名です。

両新田神社社殿8
上の画像は”両新田神社”の社殿です。

上の続きです。ではなぜ「日浦町」が今の町名の「河中町」に変わったのか?

それは「」が「」に繋がることから火事を連想する言葉として避けられ、石手川と福見川の合流地点にあることから「河中村」に変更されたのです。それは、江戸時代後期の話です。でも、今でも地域の方は「ウチの日浦ではノー!」っと、「日浦」が生きています。

さて、画像の”両新田神社”の来歴です。

鎌倉時代”と”室町時代”の狭間(はざま=すき間)に、”建武の新政”と呼ばれた2年間という短い時代がありました。

その時代に活躍したのが”新田義貞”(にった よしさだ)ですが、彼の息子が”新田義宗”(にった よしむね)です。

この”義宗”は南朝方(足利尊氏に京都から追い出された”後醍醐天皇”に味方した勢力を南朝方という)について、”室町幕府”を立てた”足利尊氏”(あしかが たかうじ)を相手に戦い、そしてそれに破れ室町幕府から追われる身になります。

お杖椿9
その時の南朝方の”新田義貞”や”楠木正成”(くすのき まさしげ)は戦死し、”後醍醐天皇”もお亡くなりになって、”義宗”は逃亡の生活を、僅かに残った共の者とたった一人生き残った家来の”脇屋義治”(わきや よしはる)と共に続けていて、ついに伊予のこの地まで落ち延びてきました。

疲れた足を引きずって、山道を上がって行く義宗を労(いたわ)しく思ったお供の者が、山の中に生えていた”椿”を切って””を作って義宗に渡しました。

その時義宗が使った杖を大地に立てたところ、芽が出て大きく育ったといういわれがあるのが、画像の”大椿”です。

これを”お杖椿”あるいは、”新田椿”と言います。

二人の武将はそこで生涯を終えましたが、村人やこの地の領主・得能家(とくいけ=伊予国守護大名であった河野氏の一族)が二人の死を哀れんで、新田義宗を”上新田神社”、脇屋義治を”下新田神社”に祀りました。

明治3年になってこの二つの”新田神社”を合わせて、ここに”両新田神社”としました。

お津w椿10
この椿は、松山市指定天然記念物で、昭和48年8月19日に指定されています。

根のまわり5.1メートル、高さ10メートル、枝張り東西15メートル,南北14.5メートルもあり、椿の中では県内第一です。

室町時代のお話が、今になってもこの地に残り、そしてこの大椿に残ったということに心動かされます。

なお最近になって、松山の本屋さんに「軍神の血脈」という書籍が一斉に並びました。著者は「高田崇史」氏、出版元は「講談社」です。

その書籍のサブタイトルは「楠木正成(くすのきまさしげ)秘伝」とあります。

この著作の中に、今日書きました”楠木正成”や”新田義貞”や”後醍醐天皇”が登場します。結論から言いますと”歴史SF”だと見たら、単純に見て面白いかも知れません。”

この著作は”SF”にカテゴリーするべき著作だと思いました。ところが天下の「講談社」は、これを歴史本にカテゴリーした。??????です。

多くは語りません。職業作家の方が書いた本で、既に出版されています。でも個人的・素人的には”???”だと思いました。


なお次回の”松山市の地名・町名由来”シリーズ第25回目は、「大可賀町」「越智町」をご紹介します。




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おはようございます♪

聞いた事もない地名と思って読んでたら、出て来た写真は
見覚えのある池、なすび池って言うんですねぇ(^^♪

この池にはカワセミが居るので、一昨年の冬行ったんです。
猛吹雪の日でしたが、その吹雪のせいでご婦人が大きな事故を起こし、
救助活動したと言う、曰く付きの池だったんです。
お散歩の人が多く、手入れの行き届いた綺麗な池でした(*^_^*)

なすび池に

ベル様
ほーー、「なすび池」でそういうことがあっとは!綺麗に整備された公園ですよ。そこでねー。

しかもあの池にカワセミがいたとは、意外な感じですね。カワセミって、文字通り川に、或いは川岸にいるとばっかり思っていました。

アレレ、そう言えば湯築城跡にも、お○にもいますねー。なるほど、生息範囲は意外と広いんですね。

今でも「なすび池」の首位をジョギングしている人は多いですね。いい環境だと思いました。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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