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「松山市の地名・町名由来」・ 「大可賀町・越智町」 25

松山市の地名・町名由来」の第25回目は、江戸時代の松山城主に因むという共通点を持っている「大可賀町」(おおかがちょう)と「越智町」(おちちょう)の町名由来をご紹介しましょう。

まず「大可賀」(おおかが)(現在は「大可賀町」という表示はなく、1丁目~3丁目に分かれています)の由来をご紹介しましょう。

江戸時代を通じて、松山藩は”新田開発”に力を注いでいます。それは幕末期においても同じでした。

大可賀2丁目1
上の画像は、現在の「大可賀」の住所を示す表示板です。

大可賀は松山市の西部、当時”吉田浜”と呼ばれていた海岸部にあります。幕末期に、吉田浜の北部にあった干潟に着目したのは”奥平貞幹”(おくだいら ていかん)という人物。

”奥平貞幹”(おくだいら ていかん)は、吉田浜北部干潟のの新田開発計画を藩に提出し、開発希望者を募りました。

奥平貞幹の開発案に呼応して、嘉永4年(1851年)西山村庄屋の”一色義十郎”が開発に着手し、安政5年(1858年)に50町余りの干拓地を完成させました。

大可賀記念石碑2
上の画像は、それらの”事跡”を記念して建てられた”記念石碑”と開発の契機や経緯等を詳しく記した”石碑”です。

この開拓の成功を、当時の藩主”松平勝成”(まつだいら かつしげ)は「いにし」(大変喜ばしく祝うべきことだ)称賛したことから「大可賀」という地名が生ました。

これが「大可賀」の町名由来です。

大可賀新田記3
その後、松山藩は開発途中で援助を開始し、更なる開発を奨励しています。

松山藩と”一色義十郎”は土地の折半や用水の工夫など、開発を進めるために力を合わせた事によって、現在の大可賀という干拓地が広がり、今の町並みにまで発展しました。

越智1丁目4
次は「越智町」(おちちょう)の由来です。画像は、現在の「越智」(おち)(現在は「越智町」という表示は無く1丁目~3丁目に分かれています)を示す表示板です。

5月20日に「松山市の地名・町名由来」の第8回目として採り上げた中で、「松前町」(まさきまち)の由来をご紹介しました。

つまり「松前町」は、”松山城”を築城した城主”加藤嘉昭”(かとう よしあき)が、今の伊予郡松前町から栗田・後藤・曾我部などの豪商を呼び寄せ、今の”古町”周辺の”商人町”に「松前町」を作ったのが由来です。

その”加藤嘉昭”は、。寛永4年(1627年)陸奥国会津藩42万石に加転封され、その後に松山藩に入府したのは出羽国上山藩から転封された”蒲生忠知”(がもう ただとも)(外様)で、蒲生忠知には寛永11年(1634年)嗣子に恵まれず蒲生氏は断絶しました。

そしてその後松山藩主には”久松松平家”の、"松平定行"(まつだいら さだゆきき)(親藩)が寛永12年(1635年)伊勢国桑名藩より15万石で入封し明治維新まで続きます。

なお”久松松平氏”は本姓菅原氏とされ、遠祖は”菅原道真”と伝えられています。元々は愛知県知多半島の出です。江戸時代に入って”徳川家康”が江戸幕府を開いた後、家康の異父弟の松平康元、勝俊、定勝の3人は、松平姓を与えられるともに大名に列せられます。

その中の”松平定勝”が””久松松平氏”の祖となり、定勝の次男”松平定行”が定勝のあとを継承して伊予松山藩15万石の祖となりました。

その”久松松平氏”も、前前代の松山藩城主”加藤嘉昭”(かとう よしあき)と同様に桑名から多く商人たちを移住させ、商人町であった「古町」に住まわせています。

大山祗神社5
そして第十二代藩主”松平勝善”(まつだいら かつよし)は、水利が未整備で痩せた土地であった今の「越智町」に、越智郡大三島の農業技術優秀な農民を30戸選別し松山のこの地に移住させました。

古来伊予国に於ける文化や農業などの先進地は、現在の東予地域でした。その先進地の中でも特に優良な大三島の農民を移住させたのです。

農民たちは、この地に井戸や泉を掘り、灌漑用水と利用できるように用水路の整備を図りました。

上の画像は、出身地の鎮り神である大三島の”大山祗神社”(おおやまずみじんじゃ)を心の拠り所とすべく勧請(かんじょう=本祀の社の祭神の分霊を迎えて新たに設けた分祀の社殿にまつること)したのです。

今はこの”大山祗神社”、越智地区の鎮守の神であり、更に伊予豆比古命神社の飛地境内神社となっています。

越智大山祗神社本殿6
越智郡大三島出身の農家30戸の努力が実り、荒廃していたこの地が優良農地に生まれ変わったのです。

以来、越智郡から来た人たちが開墾したことから、この地を「越智町」と呼ぶようになりました。

ただ、現在では松山市の一大ベッドタウンと化し、越智郡出身者が開墾した優良農地は地域内にほとんど残っておりません。

「越智町」は、国道33号線に沿ってある町で、昔は伊予鉄電車の森松線が通っていましたので、早くから住宅地としての開発が進んだ地域です。

越智大山祗神社石碑7
なお、この越智町にある”大山祗神社”境内にある、画像の左手前の”石灯篭”には、”安政3年4月吉日”の文字が刻印されています。

この”安政3年”(1856年)という年は既に幕末期で、アメリカの”ハリス”が伊豆の下田に入港し、時の江戸幕府に通商を迫った年でもあります。

と同時に、ここ「越智町」の町名由来を作った松山藩第十二代藩主”松平勝善”(まつだいら かつよし)が、江戸藩邸で亡くなった年でもあります。

この画像にある”石灯篭”が製作され、”大山祗神社”に奉納された4ヵ月後に”松平勝善”は39年の生涯を閉じました。

越智町農地8
最後上の画像は、現在数少なく残った「越智町」の灌漑用水が整備された農地の様子です。

30戸の越智郡大三島出身の農家の汗と涙の結晶が今僅かに残って、開墾された当時を偲ばせてくれます。


なお次回の”松山市の地名・町名由来”シリーズ第26回目は、「姫原」>をご紹介します。




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じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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