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「松山市の地名・町名由来」・ 「小野町」 28

松山市の地名・町名由来」の第28回目は、古い伝説に因む「小野町」(おのまち)の町名由来をご紹介しましょう。

今の「小野町」(おのまち)>は、県道松山川内線沿いにある水泥町から北上して”小野川”沿いに”観音山”に向かって進む県道河中平井停車場線沿いに細く伸びた町です。

「小野町」(おのまち)の町名由来は、諸説あるようです。

例えば、この地を治めていた古代豪族の”来目部小楯”(くめべのおだて)が、材木を切る道具として””(おの)を大量に買い入れたと言います。

その”斧”を持っている人がこの地であったために、””(おの)から「小野」に変わったというのです。

なお、上に書きました”来目部小楯”(くめべのおだて)の件は、既に「松山市の地名・町名由来」の第23回目の「水泥町」 の項で、9月2日に触れています。「松山市の地名・町名由来」・ 「衣山町・水泥町」 23

小野小学校1
上の画像は、現在の”小野小学校”です。小野小学校の創立は明治7年1月で、来年創立140年を迎える大変古い歴史を持った小学校です。”小野中学校”も小学校と並ぶように建っています。

上の二つの学校が建っている地は「平井町」ですが、昭和36年に「小野村」が松山市と合併するまでは、この辺り一帯は「小野村」でした。その名残で、今でも”小野小学校”などの校名が残っています。

こういう例は、市内の各地であります。今まで書いてきました「松山市の地名・町名由来」でも、そのような例は幾つか採り上げています。

県道196号線
さて、県道松山川内線から「小野町」に行くには、「水泥町」から県道河中平井停車場線(県道196号線)に入っていきます。上の画像が、それを示しています。

この県道河中平井停車場線は、松山小野カントリークラブを経て現在の「河中町」(元日浦町)に至る厳しく細い山越の道です。普通車で行こうなどとは思わないことです。

また上に書いた「河中町」の町名由来は、「松山市の地名・町名由来」の第24回「湯山地区」の由来で、9月9日に採り上げています。「松山市の地名・町名由来」・ 「福角町・湯山地区」 24

梅元寺3
さて、「小野町」の由来です。それは、平安時代に歌人として活躍した”小野小町”(おののこまち)伝説がこの地に残っていることに由来します。

小野小町”は、”百人一首”にも和歌が載っている平安時代を代表する歌人(六歌仙の一人)ですが、その一方で”絶世の美女”だと伝えられていることでも有名な人です。

世界三大美女に「クレオパトラ、小野小町、楊貴妃」と、日本では言っていますが、これは世界各国でマチマチです。ただし、日本の歴史上で名を残す”美女”であったことは間違いないようです。

話が脇道の反れましたので戻します。

「小野町」の伝わる”小野小町伝説”とは、以下の様です。この”小野小町伝説”の舞台となったのが、画像の「小野町・小野谷地区」にある”梅元寺”(ばいげんじ)です。

この寺の名前を”うめもとでら”と言うものとばかりに思っておりましたが、現地の古老に笑われました。地元では”ばいげんじ”と言います。

梅元寺4
でも画像でも分かるように、”梅元寺”と思われる寺院はありません。今は”廃寺”になっていました。その事情は後ほど。

先ず「小野町」に伝わる”小野小町伝説”からご説明しましょう。”小野小町”は、夢に”観音様”が出てきて都を旅立ちました。

その旅の途中で、全身に吹き出物が出来て苦しみました。その病を直そうと”住吉神社”にお参りをすると「道後の湯に浸かり、梅元寺(ばいげんじ)の”薬師如来”に百日の願をかけ、梅元寺の前にある”鏡の池”で身を清めれば治る」というお告げが出ました。

そのお告げ通り、”梅元寺”にお参りすること百日。でも一向に吹き出物は治りません。

治らない辛さを歌(和歌)に託して読み上げますと、その夜夢に薬師如来が現れて、「目が覚めたら自分の体を良く見てみなさい」と答えたそうです。

小野薬師如来像5
翌朝、目を覚ました”小野小町”は、自分の体をシゲシゲと眺めました。すると不思議、昨夜まで苦しめられた吹き出物はすっかり消えていました。

感謝した”小野小町”は三年間、”薬師如来像”を彫り続け、”梅元寺”(ばいげんじ)に奉納しました。

今では”廃寺”になっている”梅元寺”には山門も本堂も残っていませんが、平成21年に作られた真新しい”小野薬師如来像”だけは、形を残しています。

この”薬師如来”は”梅元寺”の、いや「小野町」の心のシンボルなのです。

梅元寺”の創建は古く、慶雲3年(706年)に僧”行基”(ぎょうき)によって開山されたとされ、以降伊予の守護大名となった”河野氏”や、松山城を築いた”加藤嘉明”なども信仰を寄せたと言われています。

僧”行基”(ぎょうき)の創建と伝えられる寺院は、松山でも多く残っています。何故、”行基”創建と伝えられるお寺が多く残っているかという理由については、今後の「松山市の地名・町名由来」で触れる予定です。名僧”行基”の名前だけは記憶に留めておいて頂きたい。

梅元寺前水田6
現在の”梅元寺”の前には”鏡の池”は残されていません。

かろうじて、”梅元寺”境内地の端にあるこの水田が、当時の面影を反映しているのかも知れません。

ここからは、遠く”皿が峰”を臨むことができます。

日本史上に残る絶世の美女”小野小町”は、この水田に写る田園風景の様に、自分の傷が癒えた体を写し見たのでしょうか。

梅元寺農水路7
さて、現在では”梅元寺”の殆どの諸施設が全く現存していない事情です。

「小野町」の北西の方向には”観音山”がありますが、その中腹ところに巨大な貯水池”逆瀬池”があります。

その貯水池”逆瀬池”から、山裾や尾根沿いに”農業用用水路”が流れています。画像では、手前に砂防フェンスが見えますが、その上の方に緑色の農業用水路のフェンスが見えると思います。

その山裾沿いを走っている農業用水路が、4年ほど前に決壊しました。この画像でも、当時の”土石流”の爪あとが生々しく残っていることが分かります。

地元の古老のお話では、”梅元寺”の裏山が大きな樹木毎に崩落して、”梅元寺”の本堂は跡形もなく流され押しつぶされたと言います。

梅元寺水没樹8
丁度南消防署の方たちが、防火水の栓の安全点検に来られていて当時の事をお聞きできました。

その中の責任者の方が、この樹木まで案内していただき「この木の高さ3m位のところまで樹皮に今でも泥の跡が残っていることを教えていただきました。

土石流”はこの高さまであって、”梅元寺”の”本堂”も立派だった”山門”も、大きな石碑なども根こそぎ流され倒壊したと言います。

梅元寺倒壊跡9
この画像は、倒壊した石碑や石仏や石塔などが無造作に転がっていることを示しています。

こういう状態の箇所が、この他にも何箇所もあって未だに手がつけられない様子をうかがわせています。

地元の古老は「山が動いた!ワシの孫が、もうちょっとで生き埋めになるところじゃった!」と語りました。

「”梅元寺”の再建話が地区で何度も起きとるけんど・・・・・なにせ、今の小野には僅か10軒余りしか人家がノーナッテのー。とてもその再建資金を集めることなどデキンノヨー!・・・」と、悔しそうにつぶやかれました。

小野集落10
この画像が、今の「小野町」の集落の一部。空き家が目だち、倒壊寸前の家さえあります。

所謂(いわゆる)”限界集落化”している様子がうかがえます。

「それでもナー、この上に久米の八幡さんを分祀した”一之宮神社”があってノーー、昔は祭りでも賑やかじゃったんヨーー。綺麗な絵馬も飾ってあってノー」っと、古老が目を細められた。

一之宮神社11
この画像が、「小野町」の集落の中ほどにある”一之宮神社”です。

画像の左端に見える”石の灯篭”には、”文化12年”の文字が刻印されています。

”文化12年”とは、江戸時代の幕末期で、この年から53年後に明治維新を迎えるという頃のことです。

なお、全国各地に”小野小町伝説”は残されていて、それに因む地名も多く残っています。その真贋は、今となっては誰にも分かりません。

でも、この地「小野町」に、その”小野小町伝説”が残り、今も地域で息づいていることは松山市民の一人として誇りに思います。


次回の”松山市の地名・町名由来”シリーズ第29回目は、「松江町」・「喜代町」・「道後姫塚」をご紹介します。




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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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