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「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 1

明けましておめでとうございます


今年は、お正月早々から”日本の歴史”をテーマにしたミニシリーズを連続してアップします。


これは昨年夏、京都と奈良に妹と弟との初めての”兄弟旅”をした時取材したものを、14回のシリーズにまとめたものです。


その内訳は、1回から6回まで”奈良”を旅した取材したものをまとめまして”日本歴史の夜明け・外史”と題しましたものを書きます。概ね”飛鳥・奈良時代”を中心とした歴史です。


日本の国号は、古くは”倭国”(わこく)と言い、天皇を”大君”(おおきみ)と言っていた時代から、国号を”日本”と呼び天皇を”天皇”と呼び表(あらわ)した初めての時代を中心に書いていきます。


残りの8回は”京都”での取材を元に、堅苦しい”歴史的記述”にはとらわれない気楽に読める”名所旧跡案内”といったものにまとめました。


正月早々から長いシリーズで、皆さんにとっては余り興味がないであろう”日本の歴史”がテーマです。中学・高校でも教科として習ってきましたね。でも、退屈だったのではないでしょうか。


少なくとも、私達の年代の者が習ってきた”歴史”は、その後の”古代史”研究や”古墳”等の発掘調査研究によって、その内容や事実が大きく変わってきています。それを見直す意味でも、改めて勉強し直して私なりにまとめてみました。


ただし、ワタシはあくまでも歴史の素人。素人のワタシが、様々に感じたことを書き連ねただけで、「これが歴史的事実だ!」などというものではありませんので、何時もどおり、ワタシが歴史物を書くときのスタンス”外史”(がいし=歴史家ではない素人が書いた歴史)としてまとめたものです。

石舞台古墳遠景1
この画像は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳です。1952年に”国特別史跡”に指定された”石舞台古墳”(いしぶたいこふん)です。


この古墳は、未だ日本が”倭国”と言っていた時代のもので、”蘇我馬子”(そがのうまこ)のものではないかと言われています。


さて6世紀前半の”倭国”(わこく=今の日本)の状況と言いますと、倭王権の列島支配が次第に構築されてきた時代でした。


ただしその”倭王権”は、”倭王権”の中心であった”大君”(おおきみ=今の天皇家につながった)が絶対的な権力を持っていたという訳ではなく、ヤマトを中心とした有力豪族たちのリーダーといった位置づけでした。ですから、豪族の君主の中でも飛び抜けた存在として”大君”(おおきみ=君主の中のリーダー)と呼ばれていたのです。


ただ、”倭王権の大君”の存在が大きくなってきた事により、倭王権に直接仕える中央の有力豪族のあり方も大きく変わってきました。それが”氏(ウジ)”と”姓(カバネ)”の成立です。


氏(ウジ)”と”姓(カバネ)”の制度の詳細は、昨年11月25日にアップした”「松山市の地名・町名由来」・ 「和気町・興居島」 36”で書いています。それをご参照下さい。(「松山市の地名・町名由来」・ 「和気町・興居島」 36


なお、時の”大君”(今の天皇)に“”(ウジ=今の””=苗字)がないのは、天皇自身は“氏”を与える立場で、その与える立場の天皇自身に“”(ウジ=今の苗字)があるのは自然ではないという考えに基づいているからです。


ですから、今でも”天皇家”は、我々が誰でも持っている姓名の””がありません。”今上天皇”(きんじょうてんのう=現在の天皇)のお名前は”明仁”(あきひと)様です。


最初に”氏と姓”の仕組みについて書きましたのは、これ以降お話する内容は、この古代の権力者集団の相互の立場を知っていたほうが分かりやすいと考えたからです。

石舞台古墳2
この”石舞台古墳”(いしぶたいこふん)の画像を初めに用意したのは、日本と名乗る前の古代史で活躍した”蘇我氏一族”のことを主にご紹介したかったからです。


その”蘇我氏”といえば古代史における最大の氏族です。6世紀初頭に”蘇我稲目”(そがのいなめ)が突然大臣(おおおみ)として歴史上に登場してきました。


まったく突然に勃興して、古代史一番のキーマンとも言うべき存在となったのです。


大臣(おおおみ)というのは臣(おみ)の中の最高位、連系(むらじけい)の最高位は大連(おおむらじ)で、のちの時代の左大臣と右大臣です。(左大臣の方が上位)


その蘇我氏は、自分の娘を大君(今の天皇)に入れて(后として嫁がす)大君の外戚となります。その蘇我氏の出自(しゅつじ=出身)には諸説ありますが、この蘇我氏ほど、渡来系(とらいけい=朝鮮半島からの人たち)の知識や技術を巧みに採り入れ利用した氏族はありませんでした。


この蘇我氏は理数というか、計算に長(た)けていた人たちで、財政にその才を発揮した氏族です。

石舞台古墳3
蘇我氏の基盤を築いたのが”蘇我稲目”(そがのいなめ)です。


時代は6世紀の前半から後半にかけて。この”蘇我稲目”は、それまでの倭国にはなかった中央集権政治の体制を敷きました。


また、”欽明朝”(きんめいちょう)の時代に、蘇我氏は”百済仏教”(くだらぶっきょう)を受け入れました。この仏教の受け入れが、蘇我氏が権力闘争の勝者になった大きな要因となりました。後でご説明します。


この蘇我氏が急浮上するまで、大君を支えていた最大の氏族は”大伴氏”(おおともし)と”物部氏”(もののべし)でした。


ともに大君家(おおきみけ=今の天皇家)の”軍事伴造”(軍事のとものみやつこ)の長で、”雄略天皇”(ゆうりゃくてんのう)が即位したときに両氏は共に大連(おおむらじ)となりました。


当時の”大君”は、”ヤマト地方”を中心とした有力豪族たちの中の”最有力者”という位置づけでした。


ヤマト地方”以外の地方で、例えば今の岡山県に大きな勢力を持っていた”吉備氏”(きびし)や、今の島根県で大きな勢力をもっていた”出雲国”(いずもこく)、関東では今の栃木県、当時は”下野国”(しもつけのくに)の有力氏族の”毛野氏”(けぬし)および”那須氏”(なすし)などがいましたが、今回のシリーズでは触れません。(但し、”出雲国”の歴史につきましては、3月に触れる予定です。なお”出雲国”に”出雲氏”がいたわけではありません)


その”大君”という豪族連合のリーダーを、他の有力豪族が支えるという権力構造の中では、ナンバーツーが二人いて、それが並列するということはあり得なかったのです。どちらかが一方を倒さなければならないという宿命を背負っていました。


先ず、”大伴氏”が”継体天皇”(けいたいてんのう)を擁立して勢力を一気に握ろうとし、それに対して”物部氏”は”蘇我氏”と組まざると得ない立場になりました。


しかし、大伴氏が擁立した継体天皇は直ぐに亡くなって大伴氏は失脚します。大伴氏は物部氏と蘇我氏連合との権力闘争に負けたことになります。

石舞台古墳入り口4
大伴氏の失脚後は、今度は物部氏と蘇我氏との争いになります。


蘇我氏”は、軍事氏族の”物部氏”の巨大な軍事力に対して、経済力と政治力で対抗していきます。蘇我氏が真っ先に仏教を採り入れたのは、物部氏を倒すための手段としたのです。


物部氏”は、大君家と同じく天から降りた氏族という伝承を持つ古い豪族で、”石上神宮”(いそのかみじんぐう)を握って”祭祀権”(さいしけん=神聖な祭りを主催する権利)も掌握していました。


つまり”物部氏”は、”神武東征”(じんむとうせい=神武天皇が日向からヤマトへと攻め上ったという神話)以前に、”ヤマト地方”を支配していた最大の氏族でした。


一方蘇我氏は新興勢力ですから祭祀権を持っていません。物部氏が有していたもう一つの権力の象徴である”神祇権”(じんぎけん=国津神・クニツカミをまつる権限)に対抗できる宗教がないと負けてしまいますので、熱心に”仏教”を採り入れました。


蘇我氏にとって仏教は政争の道具に過ぎませんでした。


後に”聖徳太子”と結びついて政治の表舞台に立つことになりますが、聖徳太子の「仏教を道具扱いにはしないという」姿勢との違いが、最後になって蘇我氏が滅びる遠因になったもの歴史の皮肉でしょう。

石室内5
蘇我稲目”は日本書紀によれば、570年に亡くなっています。


稲目の次に現れたのは稲目の息子である”蘇我馬子”(そがのうまこ)です。


この”蘇我馬子”が、同年代の”聖徳太子”と組んで、仏教を採り入れた政治を行うようになります。


そして、その過程で最大の政敵であった物部氏一族をことごとく殺し尽くして、物部氏最後の当主、”物部守屋”(もののべのもりや)を殺しました。


しかも馬子は物部守屋を殺すとき、後の”推古天皇”(すいこてんのう)を巻き込んで「守屋を誅殺せよ」という(みことのり=大君の命令)を出させることに成功しています。


それで、全豪族が一気に馬子の下に集まったのです。ここに蘇我氏の全盛時代のきっかけを作りました。


馬子は、情勢判断が正しく、強敵を全て抹殺していきます。最後には”崇峻天皇”(すしゅんてんのう)まで殺しています。


馬子が崇峻天皇を殺したことが分かっていても、馬子の勢力が余りに絶大になっていましたので、大君家も他の豪族たちも馬子を追求することが出来なかったのです。

高松塚古墳6
この画像は”高松塚古墳”(たかまつづかこふん)です。


この”高松塚古墳”は、奈良県高市郡明日香村にある古墳です。藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、1972年に”極彩色の壁画”が発見されたことで一躍注目されるようになりました。


今日のお話は、この古墳が築かれた前後が舞台となっていますので、その画像をご紹介しました。


さて”崇峻天皇”を殺して権力の絶頂期を迎えた”蘇我馬子”です。つまり馬子の時代には大君家といえども、それほどの力はまだなかったということです。


そして”聖徳太子”を後ろ盾に、実際の政治は”馬子”がやっていました。他の豪族の誰一人として、馬子に異を唱えることができる勢力はいなくなっていたのです。


この時が馬子の、そして蘇我氏の絶頂期でした。


しかし、蘇我氏が絶頂期を迎えたことで、後に蘇我氏崩壊の種が蒔かれました。馬子は聖徳太子を徹底的に利用し、政治の主導権を握りましたが・・・・・・。

高松塚古墳7
聖徳太子”と”蘇我馬子”、この二人を結びつけたのは、当初は”仏教”でした。


馬子は仏教を政治を司る道具として利用しのし上がってきました。


一方、”聖徳太子”は父、”用明天皇”(ようめいてんのう)が仏教徒でしたから、生まれながらの仏教徒でした。

しかも、”聖徳太子”は仏教や道教に学んで、”人間平等主義の思想”を打ち立てた歴史上初めての大君でした。


政治を牛耳る為に仏教を道具とした馬子と聖徳太子が合うはずがありません。聖徳太子は、馬子の政治力で政治の表舞台から遠ざけられ、622年に49歳で失意の中亡くなります。

高松塚古墳壁画8
絶頂期にあった馬子ですが、最高権力者ではあっても専制君主ではありません。


つまり大君家を滅ぼして自分が大君になることだけは出来ませんでした。日本に、この頃根付いた”血統意識”です。


この後、様々な政治権力が生まれますが、誰一人として大君家(今の天皇家)に取って代わることはできませんでした。そこが、この国の基幹となりました。


まず蘇我氏絶頂期を築いた馬子が死にます。馬子が死んだのは聖徳太子が亡くなった4年後、76歳で亡くなります。

その跡を継いだのが馬子の息子の”蘇我蝦夷”(そがのえみし)であり孫の”蘇我入鹿”(そがのいるか)です。


馬子の時代に築かれた蘇我本宗家の権威と権力が、蝦夷の時代には落ちてきます。

高松塚古墳構図9
蝦夷と入鹿の時代には、大君家の継承にまで口出しして、、自分が推す次代の大君を就けるために(推古女帝が亡くなった後に、田村皇子、後の舒明天皇)蘇我氏一族間で殺し合いをしなければ自分の意思が貫けなくなっていたのです。


次の大君(今の天皇)を決めるに当たって、自分の意中の大君候補を全豪族に丁寧に根回しして決めていた馬子とまったく違っていたのです。馬子ならあり得ないほど手際が悪く、大君後継者争いに蝦夷や入鹿自身が巻き込まれていきました。


しかし歴史は皮肉です。蘇我一族の血を血で争う闘いまでして即位させた”舒明天皇”(じょめいてんのう)の子供が、後に蘇我一族を滅ぼすことになる”中大兄皇子”(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)だったからです。


蝦夷が存命中に、蝦夷の息子”蘇我入鹿”(そがのいるか)が表舞台に登場してきます。この入鹿は、恐らく日本史上唯一無二で大君(おおきみ)を目指した人物でしょう。

発掘前の高松塚古墳10
実は、蘇我氏一族を憎み切っていた大君が”中大兄皇子”(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)でした。


そして”中大兄皇子”が尊敬してやまなかったのが後の”藤原氏”の祖となった”中臣鎌子”(なかとみのかまこ=後の中臣鎌足=後の藤原鎌足)です。

大君というのは中国の皇帝のように律令(法律)を作り、それを大臣にも一家臣として命令する立場でなければならないと考えました。それが正当な大君政治のあり方だと考え始めました。


これらの動きに危機感を持ったのが、その時の最大の権力者、”蘇我入鹿”です。


中国のような政治形態になると、つまり大君が完全な政治権力を握ってしまうと、蘇我本宗家の権威、権力が消えてしまうと考えたのです。


蘇我入鹿”としては、蘇我本宗家を守るには自分が大君になる以外はないと思いつめます。

卑弥呼の墓
上の画像は、”箸墓古墳”(はしはかこふん)で、奈良県桜井市にあります。”纒向遺跡”(むくまきいせき)群の中にある中心的な古墳です。


この”箸墓古墳”(はしはかこふん)は、一時期新聞などで”卑弥呼の墓”(ひみこのはか)ではないか?と騒がれました。個人的には違うと思います。その理由を書くと長くなるので書きません。


さて、興隆を極めた蘇我一族ですが、遂に滅亡の日がやってまいります。


それが、後に、と言うか教科書的に言えば”大化の改新”です。


厳密に言えば、蘇我氏を、”中大兄皇子”(なかのおおえのおおじ)と、”中臣鎌足”(なかとみのかまたり)たちが倒した、645年の”乙巳のクーデター”(いっしのクーデター)を言います。


このクーデターによって”蘇我入鹿”が、”皇極天皇”(こうぎょくてんのう=女帝で、後に斉明天皇に重祚<ちょうそ=一度退位いた天皇が、再び天皇に返り咲くこと>します)の目の前で刺殺されます。


それに続いて、蘇我入鹿の父である”蘇我蝦夷”も自邸を中大兄皇子軍に囲まれて、自邸に火を放ち、一族郎党全てがその場で果てました。ここに” 蘇我本宗家”は死に絶えます。


世に言う「大化の改新」以降、蘇我氏を滅ぼした”中大兄皇子”と”中臣鎌足”とは、聖徳太子が目指した「律令制度」を基にした”大君親政”による国家運営を目指します。


なお”乙巳のクーデター”の時の大君は”皇極天皇”(こうぎょくてんのう)でしたが、このクーデターが成功した翌日”中大兄皇子”を呼んで、大君を譲位したい旨を告げています。


中大兄皇子”は”中臣鎌足”と相談して、その”譲位”(じょうい=天皇を譲る)は中大兄皇子の叔父の”軽皇子”(かるのみこ)が受けるべきだと申し出て、その”軽皇子”が即位し”孝徳天皇”(こうとくてんのう)となります。


これが史上初めての、”皇位権の譲位”です。ただし、この時点で”譲位”という制度が確立された訳ではありません。


この”譲位”という制度がまだ確立していなかったことが、後に古代日本の最大の戦い”壬申の乱”(じんしんのらん)を引き起こすことになります。それは、明日以降のお話です。


今日は、古代史に忽然と姿を表し、古代政治の世界で大きな権力を握り、そして滅んでいった”蘇我氏一族”の歴史を中心に、日本と名乗る前の時代のお話をご紹介しました。


明日は、蘇我氏一族から権力を奪い返して、”天皇親政の中央集権国家”を目指し、”今の日本の基礎を築こうと模索した”時代のお話です。




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おめでとうございます!

明けましておめでとうございます!
じゅんさんの探求心と解析力、そして一番重要な情報発信力には、毎回脱帽でございます。
私は、画像メインで手抜き感が否めません。
じゅんさんのブログを参考にしながら、もう少し分かりやすい内容にしたなければ。
今年も、どうぞよろしくお願いいたします。

No title

あけましておめでとうございますv-308
新しい年に変わりましたが、正月からゴロゴロ・・・
何とかPCを開き、ご挨拶廻りを始めました。
じゅんさん所でいきなり歴史のお勉強、ちょっと賢くなって
今から巡回を始めます。

今年もどうぞよろしく、お願いいたしますm(_ _)m

素晴らしい画像

大洲のひで様
いえいえ、私の方こそ、大洲のひでさんの画像の見事さには、何時も唸らされています。

読者に訴える訴求力という点では、言葉を千語連ねても、一枚の画像には及びません。

これは、お互いが持っている訴求力に一層磨きをかけるほかないな~って思っています。

今年も、互いに刺激し合える部分を生かし合って、一層精進しようではありませんか。

おめでとうございます

ベル様
今日はやはり、鳥撮りはお休みのようですね。気温は比較的温暖で、撮影日和でしょうけどね。

いきなり「歴史物」で、後で読み返してみますと、自分でもうんざりするほどに長い!

これが、3月末まで、飛び飛びではありますが18回続くのですから、読み通せる方は余りいらっしゃらないと思います。

でも、書いてしまうんですねー。病気かも知れません。(笑)

その意味では退屈かも知れませんが、今年一年、またお付き合いをよろしくお願いします。

初めてのコメント

ぶるぱぱ様

大阪からの初めてのコメント、ありがとうございました。

そうですか!小野のご出身ですか。今まで小野をテーマに採り上げたことはありませんが、何か考えてみたいと思います。

大阪であれば、京都にも奈良にも近江にも近いので、歴史探索には持ってこいの地理的条件ですね。

難波(今の浪速は、かつては難波と表記されていました)も、藤原京が開かれる以前は、一時期都として機能していた時代もありました。

従って、難波(今の大阪)には、多くの歴史的遺跡がありますね。

難波は、倭から日本と国号を変える以前も、特にそれ以降は、日本が世界に向けて開いていた物と文化の受入口でした。難波京に大きな古墳を築いたのも、瀬戸内海を航海してきた中国や朝鮮半島の人々に、日本文化の大いなる姿を見せつけるための装置でした。

歴史シリーズは、以降毎週月曜日に書き続け、3月31日をもって書き終える予定です。

それ以降の予定は未定ですが、時期が空けば、またウズウズと心が疼いてくると思います。そうなれば、又何かテーマを探して書くと思います。

初めてのコメント嬉しく受け取りました。今後もよろしくお願い致します。

追記

ぶるぱぱ様

<追記>です。

「小野」の件ですが、昨年40回に渡って「松山の地名・町名由来」というシリーズを書いております。

その中で、2013年9月30日に、シリーズの28番目として「松山市の地名・町名由来」・ 「小野町」 28
を採り上げております。(http://2103center.blog112.fc2.com/blog-entry-1574.html

その他にも「水泥町」や「梅本町」も採り上げています。一度お目通し頂ければ、郷里の今の風景に触れることが出来るかもしれません。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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