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「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 2

今日は”日本歴史の夜明け・外史”の2回目です。


今日は、645年に起こった”乙巳のクーデター=大化の改新”の立役者である”中大兄皇子”(なかのおおえのおうじ)が”天智天皇”(てんじてんのう)に即位し、”中臣鎌足”(なかとみのかまたり)を参謀に”律令国家”の樹立を目指したことからご紹介しましょう。


世に言う「大化の改新」以降、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足とは、聖徳太子が目指した「律令制度」を基にした大君親政による国家運営を目指します。


ここで歴史上に忽然と姿を表し、以降”藤原氏の祖”となった”中臣鎌足”(なかとみの かまたり)とはどういう人物であったのかに触れておきます。

飛鳥観光マップ1
鎌足”は常陸(ひたち=今の茨城県)の鹿島の”藤原郡”にあった神官の子でしたが、神童の誉高い子でその評判が遠く飛鳥まで及んだのでしょう。


後の”藤原”という””(うじ)も、出身地を””(うじ)として、天皇から賜ったものとして出来た”氏”(うじ)で、日本の”名族中の名族”という””となりました。


この際、日本の名族と呼ばれる”源平藤橘”(げんぺいとうきつ)について、一度整理しておきましょう。先ず四姓の内、源=”源氏”と平=”平氏”は、天皇家の出身で”皇籍”(こうせき=皇室での戸籍を持つ)を離れ”臣籍”(しんせき=皇室の臣下としての戸籍を持つ)に下った氏族が名乗る姓です。


例えば”源氏”の元は”清和天皇”ですし、”平氏”の元は四姓ありますが、主流は”桓武天皇”がその祖です。


それに対して、”橘氏”は”元明天皇”から賜った”橘諸兄”(たちばなのもろえ)がその祖ですし、”藤原氏”は、壬申の乱で功績を上げて、それまでの”中臣氏”から”藤原氏”を天武天皇から賜った”藤原鎌足”が、その祖です。


つまり、源氏と平氏は天皇家の流れ(皇籍から下って臣籍になった)であり、藤原氏と橘氏は皇室に認められた臣籍の流れです。

なお現在の松山市”立花”は、上に書いた”源平藤橘”の中の”橘氏”の祖である”橘諸兄”(たちばなのもろえ”を、町名の由来を持つ町です。(「松山市の地名・町名由来」・ 「東雲町・立花」 13


この時は、藤原氏も橘氏も天皇家の流れを流れを組む”名族中の名族”と書きましたが、上に書きましたようにこれは誤りでした。ここに訂正させていただきます。


さて、”藤原氏”の祖となった”鎌足”(かまたり=当時の名は”鎌子”)は、飛鳥の地で大君(おおきみ=今の天皇)と神とを取り持つ神官であった”中臣家の養子”として迎えられます。


鎌足自身は、飛鳥の神官である”中臣家”(なかとみけ)の養子になった時から政治的野心を持っていました。それは、権力の絶頂にあった蘇我本宗家を倒し、自分が大君の側近として政治に大きく参画したいというもの。


そこで”中大兄皇子”(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)に目をつけ自ら近づいていき、中大兄皇子の絶大なる信任を得るのです。


乙巳のクーデター=大化の改新”の筋書きは全て”中臣鎌足”が描きましたが、鎌足自身は、完全に黒子に徹してクーデターを成功させました。

宮内庁お達し2
この宮内庁の掲示板は、この場所が”天武天皇”と”持統天皇”が合葬されている”檜隈大内陵”(ひのくま おおうちの みささぎ)であることを示しています。


明日と明後日の記事で登場し、その時代の主役を担う夫婦で、今の日本の基礎を築いた天皇たちでもあります。


さてクーデターに成功して以降は、”中大兄皇子”はしばらく大君には就かず皇子の身分のままで、”中臣鎌足”の広い学識と世の中を読み解く力を借りながら”律令制度国家樹立”に邁進します。


その間に、鎌足と組んで自分たちの”政敵”(せいてき=政治的敵対勢力)になる可能性のあるものは、例え大君家の者であっても有力な豪族であっても根こそぎ殺しつくしました。それだけの兵力を持っていたということで、この二人に異を唱えるものは誰もいなくなりました。


中大兄皇子”は668年に近江(おおみ=今の滋賀県)に都を移し”天智天皇”(てんじてんのう)となります。


なお、天智天皇がなぜ飛鳥を離れ近江に都を作ったのかというと、663年に朝鮮半島の百済に味方して兵を送りますが、唐と新羅の連合軍に大敗します。


これを世に”白村江”(はくすきのえ)の戦いと言います。


天智天皇”は、唐と新羅の連合軍が勢いを駆って、当時の倭国に攻めこむのではないかと恐れ、攻められにくく、いざとなれば日本海に出やすい”近江”を都に選んだのです。

天武天皇持統天皇稜3
この画像は、大化の改新以降聖徳太子が掲げた”律令制度”に基づく国家運営を目指しながらも、道半ばしてなくなった”天智天皇”の弟で、その”天智天皇”から命を狙われた”天武天皇”と”持統天皇”が合葬されている”檜隈大内陵”(ひのくま おおうちの みささぎ)の今の様子です。


天武天皇”への墓に合葬を選んだのは、妻で天武天皇の次の天皇に即位した”持統天皇”自身の意図、遺言です。その事情は明後日に説明します。


しかし、”近江遷都”以後の”天智天皇”の勢いはこれ以降次第に衰えていきます。


体調不良に悩まされるようになったのです。


衰える体力に鞭打って、聖徳太子が律令制度という理想を掲げ道半ばで亡くなりましたが、その後継者として”律令制度確立”に力を振り絞ります。


「冠位十二階制度」「庚午年籍」(こうごねんじゃく)によって、全国の戸籍調査にも乗り出しました。


後の「国司」となる「国宰」(くにのみこともち)などを任命しています。


ここに、律令制度の基礎部分まではたどり着いていたのです。しかし天智天皇の親政もここまでが限界でした。体力が衰弱してしまったのです。

天武天皇持統天皇稜4
さて、”天智天皇の後継者問題”です。


その当時は大君の弟が皇太子になって跡を継ぐのが通例でした。


ですから、弟の”大海人皇子”(おおあまのおうじ)が当然に”天智天皇”(てんじてんのう)の後継者になる予定でした。


ところが”天智天皇”には男の子があって成人にまで達しました。これが”大友皇子”(おおとものおおじ)です。


天智天皇は、我が子”大友皇子”を後継者にしたいと思うようになりました。


なおこの当時は、まだ時の大君自身が後継者を指名するという時代ではなく、多くの有力豪族の”錐体”(すいたい=すいせん)を受けたものが後継者になるという時代でした。


ですから、天智天皇にしてみれば”大海人皇子”を事前に殺しておかなければ、我が子の”大友皇子”を後継者には出来ないという時代です。


既にこれまでに天智天皇は、有間皇子(ありまのみこ)や古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)など、何人もの皇子を殺してきています。


なお、昨日の記事の最後に、”乙巳のクーデター”の時の”皇極天皇”が当時の中大兄皇子に譲位を意を示しましたが、中大兄皇子はこれを断り、叔父を推した、と書きました。


また、それが”皇極天皇”(こうぎょくてんのう=の次に即位した”孝徳天皇”(こうとくてんのう)であることも書いています。


この時に”譲位”という制度を確立していたなら、後の”壬申の乱”は起きていません。

天武天皇持統天皇稜説明5
ここで、”大海人皇子”は、自分の身に危険が迫っていることを察知します。


自分と后や子どもたちの命は、風前の灯火(ともしび)となったのです。


そこで、”吉野”に隠遁(いんとん=引退して世の中から隠れること)して僧侶になることを宣言し、僅かな部下と后(うののさらら后=この后が後の持統天皇となります)と草壁皇子(くさかべのおうじ)と忍壁皇子(おさかべのおうじ)の2人の幼子を連れて吉野に落ちていきます。


なお、この時、大海人皇子と行動を共にした”うののさらら后”は、大海人皇子の命を狙う天智天皇の娘でもありました。


つまり”うののさらら后”は自分の父親の弟(叔父)の妻になっていたのです。”うののさらら后”は、命を狙われている夫を捨てて父・天智天皇の元に残る選択肢もあったのです。

文武天皇陵の方向6
しかし”うののさらら后”は父親(天智天皇)を捨て、自分の夫である”大海人皇子”とともに吉野に落ちることを選択しました。


うののさらら后”は、何故父を捨て夫を選んだのか?


しかも父親である、天智天皇の過去のやり方を目の当たりに見て知っていた”うののさらら后”は、父の”天智天皇”が追手を差し向け、自分たちの命を奪いに来るということを覚悟していました。

文武天皇陵7
上の画像は、持統天皇の次に天皇に即位した”文武天皇”(もんむてんのう=持統天皇の孫)の陵墓だと言われているものです。


しかしその時、天智天皇は大海人皇子に追手を差し向けてとどめを刺しておくことをしませんでした。娘である”うののさらら后”や、自分の孫である”草壁皇子”(くさかべのおうじ)や”忍壁皇子”(おさかべのおうじ)をいとおしんだからでしょうか?歴史上の大きな謎です。


しかし、このことが、後に日本国最大の戦と言われる”「壬申の乱」”(じんしんのらん)を生むことになります。


天智天皇は671年に亡くなりました。大海人皇子が近江を発って吉野に逃げてから1ヶ月半後のことでした。


さて、”大海人皇子”や”うののさらら后”や連れ出せた子供2人と、数十人の”舎人”(とねり=親衛隊)たちの運命は?命の行方はどうなったのか?


それは明日、詳しくご説明します。




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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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