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「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 3

今日は、”日本歴史の夜明け・外史”の3回目です。


特に、”天武天皇”と”持統天皇”が都と定め政治を行った”藤原京跡”の画像を中心にご紹介しながら、日本という国がどういう風に形作られてきたのかというテーマで考えてみました。


その前に、天智天皇に命を狙われて、吉野に落ちていった”大海人皇子”一家のその後と、古代期最大の戦いとなった”壬申の乱”を中心にご紹介します。


さて、”大海人皇子とその家族”、及び僅かな部下たちの運命はどうなったのか?

藤原京跡表示1
この画像は、”壬申の乱”の立役者となった”天武天皇”の妻であり、天武天皇の次に即位した”持統天皇”が飛鳥から遷都した”藤原京”の位置を示すもの。


日本で初めて国号を”日本”とし、”大君”と呼ばれていたものを”天皇”という称号を使った”天武天皇”と、その次の天皇である”持統天皇”(天武天皇の后)の治世を振り返ります。


今日ご紹介する画像、日本では初めてとなる都城があった”藤原京”の遺跡を見ながら、その時代を記述します。


時の大君(今の天皇)を巡る争いは、数限りなくありました。”大海人皇子”一家(その中には自分の娘”うののさらら妃”を含む)の命を狙った”天智天皇”自身も天皇家(その時はまだ”大君”といっていた)を巡る争いで生まれた天皇です。


つまり、645年の大化の改新(=乙巳のクーデター)で、事実上の政治権力を握っていた”蘇我入鹿”を刺殺して政治の実権を、中臣鎌足を参謀に使って握っています。


しかし、この大化の改新(=乙巳のクーデター)は、皇極天皇(後の斉明天皇)がいる板蓋宮(いたぶきのみや)という、皇居の密室で行われたもので、国内にそれを巡って内乱などは起こっていません。

藤原京跡地図2
今日詳しく書きます「壬申の乱」は、古代の中で最大の戦でした。


一番スケールが大きくて、その当時の倭国の三分の一ほどを動かした大変な戦でした。


さて”大海人皇子”一家が吉野に落ちていったのは、671年の冬です。


この時の正月には、天智天皇の子”大友皇子”は太政大臣になり、実質的な皇太子になっています。


それに比べて”大海人皇子”は、復活を心に誓いながらも、髪を剃って敢えてボロボロの布を身にまとって都落ちします。


その当時の都は天智天皇が遷都(せんと=都を移す)した近江でしたから、大海人皇子の近江朝に対する怒りと怨念は如何ばかりだったのでしょう。察するに余りあります。

耳成山3
この画像は、”藤原京”の周囲にある”大和三山”の一つである”耳成山”(みみなしやま)です。


そして、天智天皇から命を狙われていた大海人皇子が、命からがら吉野に逃げた、その年の12月3日に天智天皇は近江宮で亡くなります。


予てより近江に密偵を残してきた大海人皇子は、天智天皇崩御の知らせが届くと同時に、直ちに行動を起こしています。


綿密に計画を練っていた証です。先ずは、吉野の豪族たちを集めて味方につけます。


また吉野だけではなく、美濃(今の岐阜県)の豪族たちなどにも使いを出し、味方につけることに成功しています。


大海人皇子”の后であった”うののさらら妃”(後の持統天皇)も、その計画に密接に加わっていたのでしょう。


だからこそ、父天智天皇を捨てて、夫である”大海人皇子”と行動を共にしたのだと思います。


そして、大海人皇子は天智天皇が亡くなった半年後に、近江朝を倒す準備が整います。まだこの時点で、近江朝は大海人皇子の動きに気がついていません。油断していたのでしょう。

畝傍山4
この画像は、上の画像と同じく”藤原京”の周囲にある”大和三山”の一つである”畝傍山”(うねびやま)です。


天智天皇が亡くなった翌年、6月14日に”大海人皇子”は遂に吉野を発ちます、”打倒近江朝!”を掲げて。


そして25日には三重県の積殖山口(つむえやまぐち)というところに着いていました。


ここで、近江京に残してきた子である”高市皇子”(たけちのみこ)が出迎えました。


大海人皇子の子らは、近江朝側の厳重な監視の目を掻い潜って、近江京を脱出していたのです。このことも、大海人皇子の”打倒近江京朝”が、事前に綿密に計画されていたことを示しています。


6月26日には、大海人皇子一行は三重県北部に達しています。ここで大海人皇子は、遥か南にある”伊勢神宮”の方角を向いて戦勝を祈願するための祈りを捧げています。


そしてここで、やはり近江京にいた当時十歳の”大津皇子”(おおつのみこ)が、大海人皇子一行に合流します。大海人皇子の舎人(とねり=親衛隊たち)に守られての近江京脱出です。

天の香具山5
この画像は、上の画像と同じく”藤原京”の周囲にある”大和三山”の一つである”天の香具山”(あめのかぐやま)です。


松山市にある”天山”と同じ伝承を持つ山です。(「松山市の地名・町名由来」・ 「星岡町・天山町」 18


6月29日、”大海人皇子”はいよいよ近江朝討伐の総攻撃の命令を下します。全軍を二つに分けて編成していました。


近江京の大津を直撃する部隊と、近江京を遠回りして大和から近江京の脇腹を攻撃する部隊です。


大海人皇子軍と近江朝軍の最大の激戦は、7月7日でした。これ以降も激戦が続きますが、この戦いの最大の特徴は、大海人皇子軍の戦意の高さに比べたら、近江朝軍の戦意の低さです。


近隣諸豪族の寄せ集めの軍でしたが、彼らはこの戦いを全く予想していませんでしたから、何の戦略的・戦術的準備もなされていませんでした。


それに、大海人皇子の部下への接し方と大友皇子のそれとでは大きな隔たりがありました。大友皇子は天智天皇の御子として何一つ苦労なく現在の地位に就いています。


ところが大海人皇子は生命の危機にさらされて、自分と行動を共にしてくれる舎人などの部下をとことん大切にし、仲間付き合いを重ねてきました。


この差が出たのです。仲間の長である大海人皇子のためには一身を捧げる覚悟をした大海人皇子軍と、突然出撃命令を受けて急ごしらえで駆りだされた豪族たちの配下に大きな戦意の差があったのは当然でしょう。


大海人皇子の圧勝でした。大友皇子は自害し果てるしかなかったのです。ここに大君(今の天皇)自身を巻き込んだ、日本史上最大の戦い大海人皇子の勝利に終わります。圧勝でした。

大極殿院跡6
この画像は、藤原京の”大極殿院跡”です。大極殿とは、天皇が政治を執り行う宮殿のことです。


この大海人皇子が、史上初めて”天皇”という称号を使い、国号(こくごう=国の名を)”日本”とした初めての天皇です。


大海人皇子は、”天武天皇”として即位します。この時が「日本という国の夜明け」だったのか?


それは明日の”日本歴史の夜明け・外史”の4回目で明らかにします。


そこには、意外な結末が待ち受けていました。





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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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