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「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 5

今日は”日本歴史の夜明け・外史”の5回目です。

今日と明日は奈良時代の中心地であった”平城京跡”近くの、”東大寺”の中にある”南大門”や”大仏殿”など、更には”二月堂”などと共に、現在の”奈良公園”(鹿で有名な)近くにある及び”興福寺”などの史跡を中心にご案内しましょう。

なお、今日ご紹介する”東大寺”と”盧遮那仏”(るしゃなぶつ=大仏)を創建したのは、”平城京遷都”をも果たした”聖武天皇”(しょうむてんのう)です。

この”聖武天皇”(しょうむてんのう)という人は、昨日までに書きました”日本の歴史の夜明け”で大きな役割を果たした”持統天皇”の孫、”文武天皇”と、その当時朝廷最大の実力者になっていた”藤原不比等”(ふじわら ふひと)の娘、”宮子”の間に出来た子です。

文武天皇”の跡を中継ぎ的に継いだ”元明天皇”と次の”元正天皇”という2人の女帝の後、で満を持して即位した天皇です。

この”聖武天皇”の外祖父である”藤原不比等”(ふじわらふひと=藤原家の創始者・藤原鎌足の次男)は、3月にアップ予定の”出雲神話”や、更には”古事記”と”日本書紀”という、日本で最初の歴史書に大きく関わった人で、その件はその時改めてお話します。

この”東大寺”創建に大きな役割を果たしたのは、”聖武天皇”と、創建当時の”東大寺初代別当”を務めた”良弁僧正”(ろうべんそうじょう)、大仏の開眼導師を務めた”婆羅門僧正”(ばらもんそうじょう)、更には”東大寺”創建資金を集めるため多くの弟子とともに全国を飛び回り、民衆とともに大仏造立に尽力された”行基菩薩”です。

なお、この”東大寺”創建と”盧遮那仏”の造立という国家的事業がなければ、”僧行基”(そう ぎょうき)が四国に来ることもなかったでしょうし、「松山の地名・町名由来」で書きました様に、”浄瑠璃寺”・”繁多寺”・”石手寺・”太山寺”・”円明寺”などの寺は生まれていなかったかも知れません。

昨年40回に渡り、シリーズとして書きました「松山の地名・町名由来」の中で、上に書きました4つの寺院については触れています。「松山市の地名・町名由来」・「浄瑠璃町・畑寺町・太山寺町」 32

この四人を”四聖”(ししょう)とよび、”東大寺”を「四聖建立の寺」とも言います。

聖武天皇”は、言わば”東大寺”と”盧遮那仏”の創建に全生涯をかけ、749年(天平21年)に平城宮において”出家”しました。仏弟子になったのです。天皇の出家はこれが史上初でした。

東大寺航空写真
この画像は、”東大寺全景”を写した航空写真です。


画像の手前半分は、広大に広がる”奈良公園”の一角です。


そして、中央から一番奥に、巨大な”大仏殿(金堂)”の建物が見えています。


大仏殿の前庭を取り囲むように回廊が伸びています。その回廊の一番下部にある”中門”、そして一番手前の一際大きい”南大門”の姿も見えます。

南大門1
この画像は国宝に指定されている”南大門”の勇姿です。現在ワタシたちが目にしているものは、天平時代に創建されたものではありません。


創建された当時のものは、平安時代の大風で倒壊しました。


現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した”重源上人”(ちょうげんしょうにん)が再建したものです。この”重源上人”(ちょうげんしょうにん)は、”南大門”だけではなく、”大仏殿”と”大仏”さん自身も再建された方です。

東大寺南大門下から
752年(天平勝宝=てんぴょうしょうほう4年)に完成した”大仏殿”は、過去に2回戦火に焼け落ちています。


一回目は、1180年(治承=じしょう4年)の兵火の時。平清盛の息子の重衡(しげひら)が南都(奈良)を焼き討ちして、興福寺とともに焼け落ちました。


二回目は、室町時代の1567年(永禄10年)の三好三人衆と松永久秀の兵乱によって大仏殿が消失しました。


その一回目の消失の時に再建の大役をはたしたのが”重源上人”(ちょうげんしょうにん)で、今から800年も前の時代に61歳で再建に取り掛かり、83歳という高齢で”東大寺復興”という大事業を成し遂げられたのです。

仁王像2
この画像と下の画像の2枚は、”南大門”の”仁王像”です。


今の”仁王像”は、”重源上人”(ちょうげんしょうにん)が南大門の再建にあわせて、1203年(建仁3年)7月24日から、10月3日までの、わずか69日で造立したものです。


大仏殿から見て右側(上の画像)は口を開けた”阿形像”(あぎょうぞう)です。


像の高さは約7.8メートルありますので、実に巨大な像です。

仁王像3
こちらは、大仏殿から見て左側(上の画像)は口を閉じた”吽形像”(うんぎょうぞう)です。


これらの”仁王像”は、他の寺院の仁王像とは違っていて二体が互いに向き合って立っています。


二体の仁王像は、江戸時代に部分修理が行われた他、1988年(昭和63年)から本格修理が行われました。そして1993年(平成5年)に仁王尊像の落慶法要が行われました。


この”仁王尊像”を解体修理した時に、像の内部に”運慶”と”快慶”と”重源上人”の名前が書かれていたそうです。”運慶”と”快慶”は、鎌倉時代をというより日本を代表する”大 仏師”(だい ぶっし=世界に誇る大彫刻家で、仏像にかけては、世界の歴史にその名を残す)です。

中門4
この門が、南の”南大門”の北に位置する”大仏殿”とに挟まれるように建っている”中門”です。


この”中門”から”大仏殿”までは、大仏殿前の”前庭”を取り囲むように”回廊”が伸びています。


その回廊の中の大仏殿前の庭には、夏休み中であったこともあり、海外からの観光客で溢れていました。

八角塔灯籠5
この画像が、大仏殿の前に広がる”前庭”にある”金銅八角灯籠”です。


この”金銅八角灯籠”は、大仏殿の創建とほぼ同じ時代に作られたものです。”大仏殿”は、既に書きましたように治承(じしょう)4年(1180年)と永禄(えいろく)10年(1567年)に消失し、その都度再建されてきた歴史を持っています。


ところが、この”金銅八角灯籠”はその都度火災をくぐり抜け、創建当初の高度な鋳造技術を今に伝えてくれています。しかも、わが国で現存する最大で、なおかつ最古の銅製灯籠です。


そして、灯籠の竿の部分には4つの経典が彫り込まれています。

大仏殿6
さて、この画像は”中門”から伸びる回廊から見た”大仏殿(金堂)”の遠景です。


大仏殿”は、天平(てんぴょう)19年(747年)に起工され、5年後の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年(752年)に完成しました。


”大仏殿”の現在の大きさは、正面が約57メートル、奥行きが約50メートルあります。


なお、高さは”12丈6尺”(約38m)ありますが、創建当時の高さは”15丈”(約45m)でした。


因みに、3月にアップ予定の”出雲大社”を支えている柱は、かつて”16丈”(48m)もあったことが遺跡調査で分かっています。(現在の”出雲大社”は創建当時の高さの半分の高さです)


なぜ”出雲大社”が、現存する世界最大の木造建築物である”東大寺大仏殿”を遥かに上回る高さでそびえ立っていたのか?その謎は、3月にアップ予定の”出雲国の歴史”で触れます。

大仏殿7
こちらの画像が、”大仏殿”の真正面に立って撮ったものです。先ほども書いたように、正面は現在約57メートルです。


ところが創建当初は、奥行きは現在とほぼ同じですが、正面はなんと86メートルもあったのです。今の約1.5倍の大きさでした。


これより更に1.5倍あった横の広がりを想像してみて下さい。


”大仏殿”は現存する世界最大の木造建築物ですが、当初はそれよりはるかに大きかったということです。


しかも、こんなに大きな建造物を、鎌倉時代と江戸時代の2回再建したのですから、凄いものですね。鎌倉時代は”重源上人”(ちょうげんしょうにん)が、江戸時代には”公慶上人”(こうけいしょうにん)がその大役を果たされました。しかも二人は”大仏”そのものも再建されました。

大仏8
この画像が、大仏殿の中の”盧遮那仏”(るしゃなぶつ=大仏様)です。


この”盧遮那仏”は、「華厳経」の(けごんきょう)の教主として奈良時代に造立されたものです。


「華厳経」は、”釈尊”(しゃくそん=おしゃか様)が悟りを開かれて最初に説法せられたものといわれています。

大仏9
仏陀”(ぶっだ)の世界は、美しいいろいろな華の花園の様な世界であり、全宇宙のあらゆるものが、お互いに助けあって、”重々無尽”(じゅうじゅうむじん=華厳宗では、この世界は、相互に関係しあい無限に重なりあっていると考ます)に関係しあって生かされていると説いています。


なお”盧遮那仏”とは「太陽の光の仏陀」という意味です。「華厳経」の教えでは、この大仏が全宇宙を包括するとされています。


像の高さは14.868メートルあり、国宝です。この大仏本体は金銅、つまり青銅製で、3年8ヶ月に渡った当初の鋳造に用いられた銅は280トン。補修用に16トン、螺髪(らほつ=仏像の丸まった髪の毛のこと)鋳造用の銅も6.5トンを要しています。


大仏鋳造用の銅は、長門国(ながとこく=今の山口県西部)、秋吉台カルスト台地の東麓にある”長登銅山”(ながのぼりどうざん)で産出されたものです。

虚空菩薩10
この画像は、盧遮那仏の左に控えている”虚空菩薩”(こくうぼさつ)像です。


虚空菩薩”とは、広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味です。


そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰されています。

多聞天11
そしてこの画像は”多聞天”(たもんてん)僧です。”毘沙門天”(びしゃもんてん)ともいわれますが、仏教の守護神、”四天王”の中の一神です。


北方の世界を守護する神で、右手に宝棒,左手に宝塔をもつ姿であらわされ,七福神のひとつでもあります。

如意輪観音12
そしてこの画像が”如意輪観音”(にょいりんかんのん)像です。


如意輪観音”とは、仏教における信仰対象である菩薩の一尊で、”観音菩薩”(かんのんぼさつ)が姿を変えて現れたとされる、六観音の中の一尊です。

戒壇院13
さて、最後は東大寺大仏殿の西側にある”戒壇院”(かいだんいん)です。


天平勝宝5年(753年)に、有名な”鑑真和上”(がんじんわじょう)が来日します。


その翌年、和上は東大寺に入り大仏殿の前に受戒(じゅかい=僧侶になる人が戒律を守る誓いをする神聖な儀式をいいます)を受けるための戒壇を設けましたが、それが今の”戒壇院”の施設になります。(場所は後に、今の所に移された)


それまでは、日本では正式な戒律を授ける僧侶がいませんでした。”奈良時代は仏教の時代”でもありました。


なお”戒壇院”につきましては、来年3月3日にアップします”比叡山延暦寺”を創建しました、天台宗の開祖”最澄”が、その生涯を掛けて延暦寺に”戒壇院”を設けようとしました。


また、”東大寺戒壇院”といえば、内部に安置してある天平彫刻を代表するといわれている”四天王像”が有名です。


それは”持国天立像”、”増長天立像”、”広目天立像”、そして”多聞天立像”です。





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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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