「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 6

今日は”日本歴史の夜明け・外史”の6回目です。


そして”日本歴史の夜明け・外史”(奈良編)の最終回です。


昨日は、主に”東大寺”の”大仏殿”を中心とした説明をしました。今日は、”東大寺”の周辺の施設や様子をご紹介しましょう。

二月堂へ通じる道縦1
この小さな石段は、”大仏殿(金銅)”の北側にあって、普段は観光客が足を伸ばさない場所でしょう。


この石段は、通称”ねこ段”とよばれているもので、この坂を東に登って行くと、”鐘楼”(しょうろう)や、”お水取り”で有名な”二月堂”などがあります。


坂の中央に上方にチラッと姿を見せているのが”二月堂”です。

二月堂2
この画像が、東大寺でも最も重要な行事”修二会”(しゅにえ)を行う”二月堂”の姿です。国宝です。


旧暦の二月に行われ(今は毎年2月20日から3月15日まで)る行事の中で、3月12日の深夜に行われる行事を特に”お水取り”と呼びます。


テレビなどでも”春を告げる行事”として、この”お水取り”の行事を報道することが季節の風物詩になっています。


なお、”二月堂”の前に見える”杉の木”は、”良弁杉”といわれるもので、東大寺創建に力を尽くし初代東大寺別当となった”良弁僧正”の誕生伝説に出てくる””です。


今の”良弁杉”は、実は三代目です。

二月堂3
お水取り”の行事が始まったのは奈良時代半ばの752年(天平勝宝4年)のことです。


つまり”東大寺大仏”さんが完成した年です。今から1260年以上も前のことです。そして、今日まで一度も途切れることなく続いている行事です。


しかし、その長い歴史の中で、その行事が途切れるかも知れないという危機は3回あったそうです。その一回目は、1180年(治承4年年)、平清盛の息子重衡(しげひら)の南都焼き討ちによって東大寺や興福寺などが焼け落ちた時です。


二回目の危機は、室町時代の1567年(永禄10年)三好三人衆と松永久秀の兵乱です。この時も大仏殿が消失しました。三回目の危機は、江戸時代の1667年(寛文7年)、ここ二月堂から出火し焼け落ちた時です。


そして実はもう1回あったといいます。それは”第二次世界大戦”(太平洋戦争)末期、大阪を含めて近隣が太空襲で焼けました。その時に灯火管制が敷かれ、二月堂の戸を全て閉めきって、ロウソクの煙で目をしょぼつかせながら何とか乗り切ったそうです。


何れの時も、東大寺の僧侶たちやそれを支えていた多くの方の努力で、奇跡的に一度も途絶えることなく今日まで続いています。

四月堂4
この画像は、”四月堂”です。


四月堂”という名称は、四月にここで”普賢三昧会”という行事が行われていたことから名付けられました。


現在の建物は江戸時代、1681年(延宝9年)ころに改築されたものです、鎌倉時代や室町時代の古材が使われていて、国の重要文化財です。

法華堂5
この画像は、”法華堂”です。この”法華堂”は、東大寺の諸堂のなかで最も古いお堂です。”三月堂”ともいいます。


旧暦3月に”法華会”(ほっけえ)が行われるようになり、”法華堂”、または”三月堂”ともよばれています。国宝です。


法華堂はもともと大和国(今の奈良県)の国分寺である”金鐘寺”(きんしょうじ)の中の、一院として建てられていたものを、東大寺が創建されてされてからは、東大寺の一院に含まれるようになったものです。

法華堂6
この”法華堂”、左側の本堂(奈良時代)と右側の礼堂(鎌倉時代)との2棟を合体させたものです。(屋根の色が左右で違って見えると思います)


元々右側の礼堂(らいどう)は檜皮葺き(ひわだぶき)でしたが、鎌倉時代になって”重源上人”さんが改修して、屋根を本堂と同じ瓦葺きにし、更に二つの建物の間にも屋根を葺きましたので、南北に長い一棟の建物のようになったのです。

東大寺木の根1
この辺りは、”四月堂”から西に下っていって、”中門”の前にある”鏡池=八幡池”に向かう道筋にあたります。


さて、2日に渡って”東大寺”のことをご説明してきましたが、”東大寺”は”鎮護国家の祈願寺”なので、今でも東大寺では葬式は一切行いません


お墓もありません。東大寺の最高位”別当”を務められた方も、例外なくお墓は別の所にあります。

東大寺木の根2
東大寺は、明治までは”八宗兼学”(はっそうけんがく)といって、”三論”(さんろん)、”成実”(じょうじつ)、”法相”(ほっそう)、”倶舎”(くしゃ)、”華厳”(けごん)、そして”律”(りつ)の南都六宗に、”天台宗”と”真言宗”を加えた八宗を学ぶ”学問寺”でした。


また、他宗との兼学や他寺に行って学ぶことも自由でした。今の大学院のような存在でした。


元々日本という国は”八百万神”(やおよろずの神)を認め、それに仏教も柔軟に受け入れてきた融通性のある国民性を持った民族だと思います。


一つの考え方、思想しか認めないという時代も経験しましたが、その結果は無残なものでした。その時代は、そう遠い昔のことではありません。一つの価値観しか認めないという時代の悲惨さを、私達は決して忘れてはなりません。


このところ、その悲惨で無慈悲な時代に戻らせたいという策謀が、品を変え形を変えて表面化しているように思えてなりません。


声猛々(こえたけだけ)に言い募(つのら)れれている(例えば”積極的○○主義”などという美辞麗句)裏には何が隠されているか?


過去にたどった過ちを、恬(てん)として恥じない人がいるという現実を直視しなければ、私達の子や孫に過酷な運命を背負わせることになるのではないでしょうか?歴史を少しでも学んだ人間の責任が問われる時代になりました。


映画会の”宮﨑駿監督”さんなど有為な方々が、勇気を振り絞って声を上げられました。深く賛同するものです。


さて、この”奈良時代”の人々の”融通無碍”(ゆうずうむげ=一つの考え方や形にとらわれず、自由に考え行動すること)に学びたいものです。


元々、日本という国は”一つのイデオロギー”で固めてしまうという国では、歴史的伝統文化的にはなかったのです。

興福寺東金堂7
最後は駆け足で走り抜けます。この画像は、東大寺近くにある”法相宗大本山”である”興福寺”(こうふくじ)の”東金銅”(とうこんどう)です。国宝です。


興福寺”は、天智天皇の時代に山背国に建てられた”山階寺”が起源という大変古い寺です。


平安時代には摂関家(せっかんけ=摂政や関白を出す家柄)藤原北家の帰依を受け栄えました。

興福寺五重塔8
この画像が、五重塔の中でも有名な”興福寺の五重塔”です。

古都奈良を象徴する塔です。”藤原不比等”の娘”光明皇后”の創建です。もちろん国宝です。

なおここで”藤原不比等”(ふじわらふひと=藤原氏の祖、藤原鎌足の次男)の名前が出てきましたので、書いておきましょう。

恐らく、過去から現代に至るまでに出た”日本最大の政治家”でしょう。もうこの人以上の政治家は出ないのではないでしょうか。

藤原不比等”は”持統天皇”に重用され政治の表舞台に立った人です。

そして”持統天皇”の孫”文武天皇”の後を継いだ、元明天皇(女帝)”、元正天皇(女帝)”という2人の女帝に支えますが、既に”文武天皇”の時代から政治の実権を握っていました。

そして自分の娘”宮子”を”文武天皇”の妃に入れ、”文武天皇”と”宮子”の間に生まれた子を”元明天皇”の次の天皇に就けます。それが”東大寺”の創建に全精力を掛けた”聖武天皇”です。また”聖武天皇”の皇后に自分の娘を入れますが、それが”光明皇后”です。

そして”天皇”を政治の表舞台(実権を持たせない)から遠ざけ、政治の実権を”藤原家”でおおよそ1000年もの間、独占する体制を作った政治家です。

この仕組が現代にまで続いてますから、その意味では日本の国家像を組み立て上げた”大政治家”です。知謀知略の天才でした。

この”藤原不比等”が、「古事記」「日本書紀」編纂、”大宝律令”や”養老律令”の成立に大きな力を発揮します。この事は、後に改めて採り上げることがあるかも知れません。

東大寺南大門の鹿
さて、正月の1日から書いてきました「日本歴史の夜明け・外史」も、この6号をもって終了しましょう。


正月から立て続けに、余り馴染みのない世界を書いてまいりました。


東大寺南大門にいた”鹿くん”に、お別れの挨拶をしようと思って近づきました。


すると、「余り”鹿爪らしい”顔して、難しいこというオッチャン、嫌い!」って言われてしまいました。


「え?エ??”鹿爪らしい”って、それどういう意味?」って問いかけても”シカと”されてしました。慌てて意味を調べてみたという訳です。((まじめくさっていて堅苦しいという意味でした・・・・・・)


この”鹿くん”のように、皆さんには嫌われないよう、分かりやすい記事を目指していきたいと考えていますので、「今年も、この”ブログ”よろしくお願い致します」




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No title

こんにちは

1日からの「日本歴史の夜明け」一気に読ませていただきました。
前回同様、歴史ものをわかりやすく、書いていただいているので
興味深く読みました。

偶然にも、年末年始に放映された「世界不思議発見」とか、NHKの伊勢神宮と出雲大社の関係(何という番組か忘れましたが)を見て纏向遺跡などの名称があったのを思い出しました。

勉強になりました。
ありがとうございました。

こちらこそ

せい爺様

こちらこそ、読んでいただいただけでありがたいのに、コメントまで頂いて、恐縮です。

身近な歴史ではありませんし、日本に文字が伝わってきて、初めて歴史を記録できるようになった時代のお話です。

ですから、やはり馴染みがない事には違いないと思いましたが、たまたま旅先がそういう所だったので、一から勉強し直すにはいい機会だと思いました。

やはり、幾つになっても好奇心を失いたくない、学ぶ姿勢を無くしたくないとの思いが強いですね。年を重ねて余計そう思うようになりました。

このシリーズの最後に「出雲国の歴史」を書いて締めくくるつもりです。

コメント、本当に嬉しく思いました。ありがとうございました。

コメント

y・・・・様

お早うございます。丁寧なコメントありがとうございました。

コメントでも書いたかも知れませんが、出会いの浅さ、深さは関係なく、人知の知れない部分で偶然出会った。

私は、そういう「ご縁」を大切だと思っています。どこかに共通項がなければ、そういう出会いってないと思うんです。

さあ、その「ご縁」が今年どうなりますか^^どうかよろしくお願いします。

創造性をご存分にご発揮下さいますよう、祈っております。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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