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「愛媛の歴史特別編」・「京都 京都御苑と平安神宮」 9

今日は”京都御所”と”平安神宮”をご紹介しましょう。


先ずは”京都御所”からです。

京都御苑1
この画像は”建礼門院”(けんれいもんいん)前です。


とにかく、やたら”広い”っといった印象です。


京都御所”は、、京都府京都市上京区にあります。鎌倉時代中期から明治時代初頭まで歴代天皇が住んでいた宮殿をいいます。

京都御苑2
この画像は、”京都御所”の西側の塀が延々と続いている様子を示しています。


明治維新によって、天皇が東京の皇居(旧江戸城)に移ったため、1877年年(明治10年)からこのような形で宮内庁によって管理保存されています。


広さは、広さは約20.2ヘクタールあります。広い面積を、よく”東京ドーム”何個分の広さと例えますが、それで言いますと”東京ドーム約4.3個分”の広さに当たります。

京都御苑建礼門3
正面に見えるのが”建礼門院”(けんれいもんいん)です。


建礼門院”は、御所正面入口の正門です。開門されるのは天皇や国賓の来場や一般公開など、特別な行事の時だけです。


この奥に”紫宸殿”(ししんでん=御所の正殿で、天皇の即位式、立太子礼などの最重要儀式が執り行われた最も格式の高い建物です)があります。

京都御苑宣秋門4
京都御所”は、鎌倉時代に鎌倉幕府が擁立した”光厳天皇”(これを南北朝時代の、北朝といいます)がここにお住まいになって以降、明治天皇の東京行幸に至るまで約550年間に渡って使用され続けた内裏(だいり=天皇の私的な在所)です。


なお鎌倉幕府が擁立した”光厳天皇”を”北朝”といいますが、一方”後醍醐天皇”が吉野に転居されたことにより、朝廷が分裂しました。”後醍醐天皇”側を”南朝”と言います。


この”南北朝時代”の影響は、ここ愛媛の地にも影響を及ぼしました。昨年「松山の地名・町名由来」を40号に渡って書きましたが、その中で”南北朝期”に天皇家が分裂していた影響を受けた地名を2つ書きました。


それは、「湯山地区」(「松山市の地名・町名由来」・ 「福角町・湯山地区」 24)と、「星岡町」(「松山市の地名・町名由来」・ 「星岡町・天山町」 18)です。


中央政権の行方と地方都市であった松山とは、無関係ではあり得なかったということです。



さて次は”平安神宮”をご紹介しましょう。

平安神宮鷹天門6
この画像は、”平安神宮”の正面にある門で”鷹天門”(おうてんもん)といいます。


平安神宮”の歴史は浅く、1895年(明治28年)4月1日に、平安遷都1100年を記念して京都で開催された”内国勧業博覧会”の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画されました。


ところが用地買収に失敗して、当時は郊外であった岡崎に実物の8分の5の規模で復元されたものです。博覧会に先立つ3月15日には、平安遷都を行った天皇であった第50代”桓武天皇”(かんむてんのう)を祀る神社として創祀されものです。


画像の”鷹天門”(おうてんもん)は、”平安京”の正庁”朝堂院”(ちょうどういん=朝廷の役人が詰めていた役所)の南面正門を、明治28年に平安遷都1100年を記念して、”平安神宮の神門”として再現されたものです。国の重要文化財です。

平安神宮大極殿7
さてこの画像が、”鷹天門”(おうてんもん)を入って真正面に建っている”平安神宮大極殿”です。


基本的にはこれらの建築様式は、平安時代後期(11~122世紀)のものをを再現したものです。


この”平安神宮大極殿”も、国の重要文化財です。

平安神宮左近の桜8
この画像は、”平安神宮左近の桜”です。


左近の桜”は、平安時代から”紫宸殿”の南階下の東方に””が植えられ、儀式の時には左近近衛府(さこんこのえふ)の官人たちが、その側に列したことから”左近の桜”と名付けられたものです。

平安神宮右近の橘9
一方この画像は、”平安神宮右近の橘”です。


平安時代以降、”紫宸殿”の南階下の西方に””が植えられ、儀式の時には右近近衛府(うこんこのえふ)の官人たちが、その側に列したことから”右近の橘”と名付けられたものです。


なお””は蜜柑の一種で、唯一野生種です。その実は古くから”常世国”(とこよのくに=永遠に永続する命)の不老長寿の妙薬として珍重されてきたものです。

平安神宮泰平閣10
この画像は、”平安神宮神苑”(へいあんじんぐうしんえん)の中にある”泰平閣”(たいへいかく)です。


この”泰平閣”(たいへいかく)は、平安神宮神苑(へいあんじんぐうしんえん)にある南神苑、西神苑、中神苑、東神苑で構成されものの中の”東神苑”にあります。


京都御所”から移築されたものです。別名”橋殿”とよばれているものです。

日本最古の電車11
この画像は”日本最古の電車”です。明治28年1月31日に日本最初の交通輸送業電車として。京都電気鉄道が運行したものです。


当初は伏見線・木屋町線・鴨東線を開通、次いで明治33年に北野線を開通するなど、日本の電気鉄道の先駆としての役割を果たしました。


なお、主要路線は現在の広軌に取り替えられていったため、上の画像の電車は昭和36年7月に廃止されています。ここに展示されている電車は明治28年創業当時のもの。


なお愛媛の伊予鉄道が、松山~三津間で鉄道事業を開業いたのが明治21年10月28日。この当時はまだ電車ではありませんでしたが、愛媛が鉄道事業でいかに先進県であったかがお分かりと思います。

平安神宮東陣苑12
平安神宮神苑”(へいあんじんぐうしんえん)は、池泉回遊式の近代日本庭園。平安神宮の大極殿背後の周囲三方に配されています。


総面積はは33,000平方メートル。東京ドームの広さが47.000平方メートルですから、ドームの0.7個分の広さです。


画像は4つある神苑(しんえん)の中で”東神苑”(ひがししんえん)と呼ばれているもので、明治末期から大正初期にかけて作られました。上に、先にご紹介した”泰平閣”(たいへいかく)があるのがこの東神苑です。


平安神宮神苑”は、”東山”を借景(しゃっけい=庭園外の山や樹木、竹林などの自然物等を庭園内の風景に背景として取り込むこと)として造園されていて、明治時代を代表する名庭です。

平安神宮すっぽん13
その”東神苑”(ひがししんえん)を、しゃがみ込むようにして撮影していますと、”亀君”がスーーット近づいてきてワタシを見つめた。


「ん????ん・・??何かな?」っと怪訝な顔をして”亀君”を覗きこんだ。


すると亀君が言った。「アンタやったんやねー!松山の道後公園のお堀で、オレっちの仲間と話したというおっちゃんは!」っと。


「え・・・え?亀君、それって何のこと???」っと、訳がわからなくなった。


「しらばっくれてもダメだよー。おっちゃんはあの時、道後公園の敷地付近を””聖徳太子”が”中大兄皇子”(後の天智天皇)や”大海人皇子”(後の天武天皇)を伴って散策されたかもしれない!」って仲間の亀に話したヤロー!(「道後公園一回り」


「おっちゃんねーー!時代考証(じだいこうしょう=その話が史実に合っているかどうかを検証すること)って考えたことナイヤロー!3人が連れ立って歩けるわけないヤン!”聖徳太子”はんはヤネー、622年に49歳でお亡くなりになってるんやでー!」っと亀君、鼻息が荒い。


「”中大兄皇子”はんがお生まれになったのは626年ヤデーー!聖徳太子はんがお亡くなりになった時はまだ4歳やで!”大海人皇子”はんなんて、まだ生まれてへん。おっちゃんナーー、相手が亀やから、少々時代考証をアバウトにユーテモエエ!思たんか?」


「い、い・・・・や、そ・・・そっ・・・・ソレハ・・・・」言葉が続かない。


「オレっちの一族は何年前から、この国の歴史見てきたんか?考えてミ!」っと、ココまでいうと、すっと池の底に潜っていった。


真夏で暑くてフラフラになりそうになってたんで、夢をみてたんやろーか?・・・・


「兄貴ーーー!そこでボーーーッとしてて、何してんねん!モーーー   置いていくデー!!」っと、兄弟旅行中の弟から声がかかった。


そこで、ふっと我に返った。でも先の亀の・・・・・・???夢やったんやろうな?






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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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