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「愛媛の歴史特別編」・「京都 金閣寺」 11

今日は、京都の”金閣寺”をご紹介しましょう。正式な名前は”鹿苑寺”(ろくおんじ)と言います。


鹿苑寺”は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺です。


建物の内外に金箔を貼った三層の楼閣建築である舎利殿は金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は”金閣寺”(きんかくじ)として有名ですね。


この日も、夏休み期間中だったこともあって、海外からの観光客が全体の6割り程度を占めていたのでは?と思うほどでした。

金閣寺配置図1
鹿苑寺”という寺の名前の由来は、この寺の開基(創設者)である室町幕府3代将軍”足利義満”の法号・鹿苑院殿に因んだものです。


この地は、元々、鎌倉時代の1224年(元仁元年)に”西園寺公経”(さいおんじし きんとう=藤原公経ともいいます)が”西園寺”を建立し、併せて山荘を建てていたところです。


この”西園寺公経”(さいおんじし きんとう)は、愛媛の南予に大変関係の深い貴族で、ワタシが昨年6回のシリーズで書いた「南予史探訪」の中でも採り上げています。(「南予史探訪」・「宇和郡 西園寺氏の始まりと終わり」


西園寺家は、その後の謀反計画に関係し処刑され、その後に1397年(応永4年)、”足利義満”が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新したのが、この”鹿苑寺”です。

金閣寺山門2
しかし、この”鹿苑寺”、つまり”金閣寺”は1950年(昭和25年)に放火により焼失し、世間を騒がせました。


この放火事件は、その放火犯の動機や様々な背景が話題を呼び、後にその複雑な背景を解き明かすべく多くの作家により文学作品が生み出されています。よく知られている作品では”三島由紀夫”の「金閣寺」や、”水上勉”の「五番町夕霧楼」があります。


その後、1955年年(昭和30年)に再建されました。更には1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されています。

金閣寺3
さて、この画像が”鏡湖池と金閣寺”です。


正確に言えば”舎利殿”(しゃりでん=仏陀のお骨を祀っている)と言います。この”舎利殿”は、漆地に金箔を押した三層宝形造の建物です。


建物形式は”一層は寝殿造風で作られ、二層は書院造風(武家造)となっています。また、三層は禅宗様の仏殿風で”仏舎利”を安置してあります。

金閣寺4
この”金閣寺”を思うとき、ふと”マルコポーロ”が書いた”東方見聞録”のことが思い返されてなりません。


マルコポーロ”は、その”東方見聞録”の中で、日本のことを”ジパング”とよび、”黄金の国”と紹介しました。


その事の西洋社会への影響を考えます時、中世期のヨーロッパに於いて”地動説”(ちどうせつ=地球自体が回転しているという説)を唱えた”コペルニクス”やローマの”ガリレオ・ガリレイ”の影響も同時に考えざるをえないと思っています。


天道説”(地球が動いているのではなく、動かない地球の周りを天体が動いているという、地球は平たい平面であるというのがその当時の常識)を採っていたローマ教会は”地動説”を唱えた”ガリレオ・ガリレイ”をある種の宗教裁判にかけますが、その裁判の時に「それでも地球は回っている」と呟いたという逸話は余りにも有名です。

金閣寺5
さて”マルコポーロ”の、日本=”ジパング”は”黄金の国”と書いたことの影響と、”ガリレオ・ガリレイ”の”地動説”の影響が、西洋の中でもポルトガルとスペインの大航海家たちを動かせました。


「ひょっとしたら、地球は丸いのではないか?海を渡って行けば、”黄金の国・ジパング”に辿り着けるのではないか?」っという好奇心を強く持ち始めます。


それが、15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人による”大航海時代”です。


その中で、遂にスペイン王の命と援助をを受け西回り航路開拓に出た”マゼラン”が、1519年8月、セビリャから5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発したのです。


その航海中にマゼラン自身は船員に殺されますが、その一行は1522年にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が丸いということを実証しました。帰ってきたのは18名だったそうです。

金閣寺6
ワタシが、この”金閣寺”をご紹介する時に、なぜ上の事を書いたのか?


実は”マルコポーロ”が東方見聞録で書いた”ジパングは黄金の国”という記述は、岩手県西磐井郡平泉町にある”中尊寺金色堂”のことを中国で聞き及んで書いたもので、”金閣寺”とは直接の関係はありません。時代も違います。


ただ”中尊寺金色堂”は平安時代の建物ですが、当時東北地方は日本一の金の産出地で、飛鳥時代から藤原京、そして平城京と続く時代の寺院の”本堂”に当たるものは、当時は”金堂”と呼んでいました。


このことは、当時豊富に算出していた””から”金箔”を作る時術が既にできあがっており、”金堂”の中に安置されていた南都六宗など古い仏教の仏像には金箔が張られていた。それらの中には、金堂の柱などにも金箔が張られていたのかも知れません。


その伝統と金の文化が、”中尊寺金色堂”を産み、時代が下っても”金閣寺”となって現れたものではないかと思います。


マルコポーロ”の”黄金の国伝説”は、”中尊寺金色堂”だけを意味するのではなく、当時の日本に”金にまつわる文化”がその底流にあって、それも影響して”大航海時代”にまでつながった、そう考えました。

金閣寺鳳凰7
この画像は、”金閣寺=舎利殿”の頂上で輝いてる”鳳凰”です。


この”金閣寺=舎利殿”の屋根は、椹(さわら)の薄い板を重ねた”こけら葺”といいます。


また、頂上に飾られている”鳳凰”は金銅製です。

厳下水8
最後にご紹介するのは、”厳下水”(がんかすい)と呼ばれるもので、室町幕府の第三代将軍”足利義満”がお茶の水に使ったと伝えられる泉です。


この”足利義満”時代に花開いたのが”北山文化”と呼ばれるもので、茶の湯や連歌、能の舞など、室町幕府の文化が生まれて盛んになった時代です。


しかし、その”室町文化”が栄えた時期は、歴史的に言えば僅かの期間で、この後直ぐに戦乱の世、”戦国時代”に突入していきます。貴族社会の崩壊と、武家社会の台頭と定着は目の前まで迫っていたのです。




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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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