「愛媛の歴史特別編」・「滋賀 比叡山延暦寺」 14

今日が”愛媛の歴史特別編”の最終回です。最後は滋賀県の”比叡山延暦寺”をご紹介しましょう。


延暦寺”(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院です。


また”延暦寺”は、日本”天台宗”の本山寺院です。住職(貫主)は”天台座主”と呼ばれ、末寺を統括しています。


延暦寺”の開基は、よく知られている通り平安時代初期の名僧”最澄”(さいちょう)です。

比叡山から琵琶湖1
この画像は、”比叡山”から眼下の”琵琶湖”を臨んだものです。


愛媛の歴史特別編”の最終回は、”比叡山延暦寺”の諸施設を画像で見ながら、その時代が生んだ世界的な宗教家であった”最澄”と、その終生のライバルであった”空海”の辿(たど)った宗教上の歩みを対比しながら見ていくことで締めくくりとさせていただきます。


なお”空海”は、四国においては”弘法大師”、つまり”お大師さん”として親しまれていますが、日本における”真言宗”の開祖です。


また、”空海”の出身地は現在の香川県善通寺市であることも、四国内ではよく知らてれいることですね。”空海”の姓は”佐伯”で、幼名は”真魚”(まお)、つまり本名は”佐伯真魚”(さえきのまお)と言います。


また”弘法大師”という名前は、”空海”が亡くなった後921年に”後醍醐天皇”から贈られた”諡号”(しごう=主に帝王や大臣などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のこと。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味します)です。


そして”最澄”は、767年~822年の人であり、”空海”は774年~835年に生きた人です。

比叡山全景図2
さて、”最澄”と”空海”が生きていた時代はどうう時代であったのか。時の天皇は”桓武天皇”(かんむてんのう)でした。


桓武天皇”が望んだ、或いは期待した”仏教”とは”鎮護国家”(ちんごこっか=時の政権が内政の安定を図ろうと仏教を利用した政策)、を目的としたもので、具体的には仏教の護国の呪力(じゅりょく=まじないの力)でした。ですから、仏教の教義や論理は問わないというもの。


つまりその僧の、読経(どきょう=お経を唱える)の効験(こうげん=祈って、実際の効果を引き出す力)が高いことが宗教界に求められていました。


そういう時代に登場したのが”最澄”でした。既に比叡山に延暦寺を開き、そこで天台教学を講じていました。また”桓武天皇”の信任も篤く、天台教学の専門家として僧界の声望を集めていました。


その”最澄”は、中国の天台山国清寺に出向いて、最新の教学を学びたいと思い桓武天皇に入唐留学を願い出て認められました。


桓武天皇は、最澄自身が天台山で護国の呪力を増して帰国してほしいとの願いを持っていたのです。読経で国の危機を救うだけの呪力を磨いてきて欲しいと思ったのです。


ところが、最澄自身は純粋に最新の天台宗の教学を学びたい一心でしたから、桓武天皇の期待とは微妙に違っていたことに、最後になって最澄は悩まされることになります。

最澄業績絵巻3
さて”最澄”が唐に渡った遣唐使船に、実は”空海”も学問僧として乗船していたのです。


最澄”は請益僧(短期留学僧)としての乗船でした。ジックリ勉強研究する時間のない入唐だったことが、後の最澄の運命に大きく影響します。


一方”空海”は学問僧ですから、唐に滞在して研鑽を積むことが可能な立場でしたので、その立場を最大限生かしました。ここが”最澄”との明暗を大きく分けることになります。


最澄”とその弟子は、明州(寧波=ニンポー)に到着し、急ぎ天台山に向かいます。時間がないんです。そして天台山に入って天台宗の戒を受けます。(天台宗の僧としての資格を得ること)


そして帰国までの僅かな時間に、密教の教えも受けました。ただし、あくまで密教のさわりを少しだけ学んだにとどまりました。ここに”空海”との大きな差が生まれます。

最澄業績絵巻4
一方”空海”は入唐当時は31歳、若い頃に既に純蜜経典である「大日経」に触れ、四国の奥深い山中で厳しい修行をした時に得た神秘体験をきっかけに、真言密教の体系に到達したことを自覚していたのです。スタートラインが既に違っていました。


空海”は青龍寺で「大日経」と「金剛頂経」を中心とする密教を学び、その他の教義も学びました。


空海”の学識と能力と卓越した語学力(空海は、日本語・中国語・梵語の3ヶ国語ができた=トリリンガル)は直ちに、教えを受けた師である真言宗第七祖”恵果”から認められ、空海が滞在中に師の”恵果”が亡くなると、一挙に弟子の代表という立場に踊り出て、しばらくは”恵果”の代教(代わって講義する)を務めます。


そして教わることはもう無くなったとばかりに帰国の途につきました。

根本中堂5
画像は延暦寺の”根本中堂”です。国宝です。


さて唐から帰国した”最澄”と”空海”、以降ライバルとしてこの当時の宗教界を牽引していくことになります。


最澄”は”桓武天皇”の期待を一身に集めて、内裏(天皇の御所)に召されて密教の修法(しゅうほう=密教で行う加持祈祷<かじきとう>の法。よく映画やテレビで見る、壇を設けて護摩<ごま>を炊き、手に印を結び、口に真言を唱える祈祷の方法です)を行っています。


最澄”は、桓武天皇の期待が呪術力にあることに薄々気がついていて、入唐した際に、その期待に応えるためにには密教を身につけなければならない必要性に気づきます。


でも付け焼き刃的にしか触らなかった”最澄”の密教は、ジックリ修行を積み、遅れて帰国した”空海”の前では、色あせたものになることを、”最澄”はこの時まだ気づいていませんでした。

根本中堂6
上の画像も、別の角度から見た”根本中堂”です。多くの参拝者でした。


さて、”最澄”は、それまで日本に3箇所(その一箇所は東大寺戒壇院)しかなかった”戒壇院”(かいだんいん=僧侶になる人が戒律を守る誓いをする神聖な儀式を行うところ)を”延暦寺”に作ることに奔走します。


そうしますと、それまでの宗教界を牛耳ってきた奈良仏教会(南都仏教)との激しい対立が生まれます。”最澄”は、それに愚直なまでに真っ向から対立していきます。


南都宗教界との激しい宗教論争に自ら乗り出し、宗教論争を延々と繰り広げました。その中で、それについていけない”延暦寺”の僧(最澄の弟子たち)は、一人去り、二人去り、最後は弟子が一人だけという状況に追い込まれます。


その一方、”空海”は自信がありますから、余裕を持って既存勢力である南都宗教界とは協調路線を採ります。


そして柔らかい方法で南都仏教会と友好関係を築いた上で、先ず宮中に密教を持ち込むことに成功します。


更に南都宗教界で唯一の戒壇院を持つ”東大寺”の中に、”灌頂道場”(かんじょうどうじょう=東大寺真言院)を設立することに成功します。


最澄”とは、決定的な格差がつき、更に拡大していきます。

文殊楼7
上の画像は、”文殊楼”です。 寛文8年(1668年)の火災後に再建されたものです。


二階建ての門で、階上に文殊菩薩が安置されています。根本中堂の真東に位置し、他の寺院における山門にあたるものです。


さて”最澄”です。最澄の最大の支持者で支援者でもあった”桓武天皇”が亡くなります。


それからも、”最澄”は正に孤軍奮闘の戦いを挑み続け、最後は”売り言葉に買い言葉”の世界にまで論争の次元が落ちてきて、もはや南都宗教界からも相手にされなくなります。


弘仁13年(822年)6月、皮肉なことに”最澄”が亡くなった7日後に、”延暦寺”に大乗戒壇を設立する勅許(ちょっきょ=天皇の許可)が降ります。


既に仏となった”最澄”は、その勅許をどう思ったのか?

鐘楼8
上の画像は、”鐘楼”です。


この間に、”空海”は”高野山金剛峰寺”を開いて、山中での修行による法力昂進の場を設定します。


他の教義とは柔軟に共存を図り、宮中行事にも深く根を張っていきます。当時の朝廷が期待していた護国修法を密教で行うという方法で。

大講堂10
ほとんど同時代に生まれ活躍した”最澄”と”空海”の全く対照的な生き方に焦点を当ててみました。

唐から帰国した当時から”最澄”は日本を代表する宗教家として著名人でした。一方、帰国した”空海”は、まだ全く無名の僧でした。

しかし、時は”密教”を求めていました。”密教”の奥義をとことん身につけていた”空海”と、ほとんど触っただけに終わった”最澄”との差が先ずここでついていました。

そして教義の進め方です。常に孤高を選んだ”最澄”と、柔軟な協調路線に徹した”空海”、この世の中での身の処し方でも差が出ました。

今、四国を廻っておられる”お遍路さん”たちの背中に書いてある言葉。「同行二人」(どうぎょうににん)とは、一人で廻っていると思っても、実は必ず”お大師さん”(空海)が、目には見えなくても一緒に付いて廻ってくれていることを意味します。

空海”は、実は民衆の心をも掴んでいたのです。

今年は、時あたかも「四国八十八ヶ所霊場開創1200年」に当たる年です。そういう大きな節目となった年に、この”愛媛の歴史特別編”で、”最澄”に事寄せて”空海”を採り上げることが出来ましたのも、何かの”ご縁”でしょう。

さて、これでお正月、1月1日から書き始めた”愛媛の歴史特別編”の14回シリーズの筆を置くことにします。最後の8回は、気軽に読める”名所旧跡案内”にしようと思っていましたが、自然にキーボードで指が走ってしまいました。

こんな長い長い、しかもほとんど馴染みのない歴史をテーマにしたこのシリーズ。最後まで目を通して頂いた全ての方に深甚なる感謝の意を表します。

ありがとうございました。っと、ここでこのシリーズを終えるつもりでした。

ところが、この後4回に渡って”出雲国の歴史”を書いてしまいました。正に「ゴメンナサイ!」の世界です。

ここまで書いてきまして、”古代出雲”の歴史に触れないと、日本国の成り立ちが説明しきれないことに気が付いたのです。

そして”古代出雲”の歴史を4回に分けて書いていまして、今まで1月1日から書き綴ってきた14回の”愛媛の歴史特別編”の内容と、大きく関係し重なることに気が付きました。

大変恐縮に思いますが、後4回だけ、この”歴史シリーズ”にお付き合いいただければ幸いです。但し、残り4回を持ちまして、ワタシが胸の内に温めてきました”日本の夜明け”に関しますことは全て書き切りました。

もう当面の間は、歴史をテーマに書くことはないでしょう。もう少しの辛抱です。お付き合い下さい。




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おめでとうございます

「愛媛の歴史特別編」の完結おめでとうございます。
学生時代に教科書で学んだ程度の知識しかない、
私には解りやすく、興味深く読ませていただきました。

「出雲国の歴史」も期待しています。

早速のコメント

せい爺様

早速のコメントありがとうございました。こんな長いシリーズを最後まで読んでいただきましたこと、深く感謝いたします。

日常生活とは何等つながらないテーマ、しかも馴染みが薄いテーマにもかかわらず、読んでいただいただけでありがたいです。

これで、後「出雲国の歴史」を4回書けば、当面歴史をテーマに書くことはないと思います。書きたかったテーマはほぼ書き尽くしますので。

次に何かを書きたくなるまでは、熟成期間を作りたいと考えております。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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