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「松山市の地名・町名由来」・ 「枝松町・拓川町他」 30

松山市の地名・町名由来」の第30回目は、その地域で名を成したり功績があった人名に因むという共通性を持っている「枝松」(えだまつ)と「拓川町」(たくせんちょう)、その他同様の由来がある所をご紹介しましょう。

「枝松」(えだまつ)は町の表示がなくなり1丁目~6丁目まである町になりました。


「枝松」は、この地に用水路を作り水不足解消と農業振興に大きな功績を残した”枝松太郎光栄”(えだまつたろう みつえい)の名前から「枝松町」となりました。


枝松光栄”は、中世期の伊予国守護職であった”河野氏”の家臣です。


「枝松」が当時属していたのは”桑原郷”であり、その”桑原郷”は一面の桑畑でした。そして地域の百姓たちは”養蚕”を主要な業としていた他、麻や麦や野菜等を作っていました。


なお「桑原」についての地名由来は、今年の8月5日で採り上げています。(「松山市の地名・町名由来」・ 「桑原」 19


現在のように整然と田園が広がる風景ではなく、殆ど原野に近い状態で、その中で細々と”養蚕”を続けていたのです。

枝松町標識
この画像は、現在の「枝松」を示す町名標識です。さて、”桑原郷”が長い間原野の状態で放棄され続けてきた原因は、水不足です。当時の”桑原郷”には””がなかったのです。


近くに、昔は”井河”と呼ばれていた”石手川”があって、溝ノ辺の”岩堰”(いわぜき)までは満々と水を湛(たた)えていましたが、岩堰の大岩盤に行く手を阻まれ、当時の”井河”(現在の石手川)は石手寺前から流路を西にとり和気方面に流れていたのです。


毎年の決まったような”旱魃”(かんばつ)に長年泣かされ続けてきた”桑原郷”の人達は、”井河”までの約4kmの”井手”(いで=農水路)を掘削する悲願を立てました。


それからです、原野に未来を求めて、早朝から日没まで鋤鍬(すき・くわ)を渾身の力を込めて振るい続け、汗と涙と幾多の犠牲の上で”井手”の完成を見たのです。この井手を”草場井手”と呼びます。

井手若狭守石碑枝松由来2
農民たちの必死の努力が実を結び、”桑原郷”の今日の農業の繁栄を迎えることができました。


それらの記録に依りますと、草場井手は溝辺から枝松方面に河水を引くもので、”枝松太郎”と”枝松三郎”によって成し遂げられたとあります。


更に”枝松太郎”と共に実質的な差配を振るい活躍したのは、伊予国守護代”河野氏”の家臣”松末美濃守”の旗本組衆”井手若狭守”(いで わかさのかみ)でした。なお”松末”の町名由来や”井手若狭守”の事跡については8月12日に採り上げています。(「松山市の地名・町名由来」・ 「松末・久万ノ台」 20


「桑原」と「松末」の町名由来を書いた上の二編を併せて読んでいただくと、より具体的にご理解いただけると思います。


なお上の画像は、現在の”桑原保育園”の隣地に建てられている”井手若狭守奥城の碑”です。

井手若狭守石碑枝松由来3
この”井手若狭守奥城の碑”がある所には、元々”建速素盞嗚命”(たけはや すさのおのみこと)を祀る”井手神社”がありました。(建速素盞嗚命のことを書き始めると長くなるので省略しますが、日本神話に登場します)


その”井手神社”は明治42年4月25日に、現在の桑原5丁目にあります”須賀神社”に合祀されました。


その跡地に”井手若狭守奥城の碑”が建てられたという訳です。

須我神社4
なお上の画像が、桑原5丁目にあります”須賀神社”です。


現在桑原や枝松にお住まいの方でも、かなりのご長老の方でないとこの”須賀神社”の存在と、その場所のことは知らない方のほうが圧倒的に多いでしょう。


車で通りすがりに見ることができるというものではなく、探しに探して、細い道を迷いに迷った末にやっとたどり着きました。


このシリーズを書いています喜びは、こうして隠されたようにひっそりと潜んでいる”歴史的云われ”のある施設とか寺社を探しだして出会うところにもあります。

拓川町バス停5
上の画像が「拓川町」(たくせんちょう)を示す、伊予鉄バス停表示版です。


この「拓川町」は、正岡子規の叔父さんの”加藤拓川”氏がこの地に住んでいたことから付いた町名です。


加藤拓川”という人は、安政6年(1859年)に松山藩士”大原観山”の三男として生まれました。正岡子規との関係は、加藤拓川のお姉さんが子規の母です。


父の観山は貧しい中、江戸の昌平校に学び、松山藩に帰った後は藩校である”明教館”の教授をしました。(”明教館”は、今の松山東高等学校校庭に残されています)


その加藤拓川は、17歳で上京し現在の東大に入学しました。当初はジャーナリストを目指しましたが、総理大臣をしていた友人の”原敬”の勧めで外交官になりました。外務省を退職するまでは波瀾万丈の人生を送った人です。

相向寺山門6
外務省を退官した後、明治41年(1911年)勅選貴族院議員に、その後は松山出身の衆議院議員になりました。


しかしその後、請われて第五代松山市長になりました。大正11年(1922年)のことです。


拓川の松山市長時代の業績には、城山を陸軍省から払い下げを受け”市民公園”を作り、今の”松山大学”(当時は、松山高等商業学校)の創立に奔走したことが挙げられるでしょう。


大正12年、食道癌で亡くなりました。


上の画像は、石手川沿いにある”相向寺”です。

加藤拓川墓所7
この”相向寺”に拓川の墓が分骨されて出来ました。画像がそれです。


これは、松山発展に寄与した彼の偉業を顕彰する意味で、拓川町がここに分骨して墓所を設け、町名も今の「拓川町」に変更しました。



その他に人名のついた町名には「永木町」(ながきまち)があり、”永木善左衛門”という武将の屋敷があったことから名付けられました。

一方、江戸時代にはこの地に”材木置場”があり、そこから「永木町」となったという説もあります。

ただし、今年7月8日に「千舟町」(ちふねまち)の町名由来を書きました。(「千舟町由来 15」・「再訪 128 ラ・セーラ 」・「愛媛グルメ紀行」 554

ここで、「永木町」の西隣りの町である「湊町」「千舟町」には、三津港と結ぶ水運があったことに触れました。当然この水運を利用して材木の運送があったと考えるのは極自然のことで、”材木置場”から「永木町」となったという説のほうが説得力があるように思います。


更に、「神次郎町」(じんじろうまち)は、昔この町に住んでいた”吉金神次郎兵衛”に因んだと言われています。


なお次回の「松山市の地名・町名由来」の31回は、「明神丘町」「権現町」「内宮町」等を、ご紹介します。





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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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