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「松山市の地名・町名由来」・ 「明神丘町・権現町・内宮町」 31

松山市の地名・町名由来」の第31回目は、”寺社”に因むという共通性を持っている「明神丘」(みょうじんがおか)と「権現町」(ごんげんちょう)、更には「内宮町」(うちみやちょう)等の町名由来をご紹介しましょう。


「明神丘」という町は、”新田学園”から”伊予鉄高浜線”を挟んで北東に方向にある””です。この町は実に不思議な町で、松山でもこの町だけの特徴を持っています。

<注>当初の記事では、”伊予鉄高浜線”のことを”予讃線”と間違って書いていました。ある方から、指摘を受けて訂正させていただきます。ご指摘していただいた方に、深甚なる謝意を表するものです。ありがとうございました。

大明神墓地表示1
それは「明神丘」という町の中には、民家が一軒もないということです。この町内に建っている建造物は、”地蔵堂”が1軒と、ある法人の建物が1軒あるだけで、人が居住している民家は1軒もありません。



この「明神丘」にあるのは、松山市営の”大明神墓地”だけです。ですから、この町には町名表示版がありません。(探してみましたが、私が見つけられなかっただけで、実際にはあるのかも知れませんが)

明神丘2
つまりここ「明神丘」は、お墓の町なんです。皆さん,ご存知でしたか?お近くにお住まいの方ならご存知だったでしょう。


この画像は、古三津5丁目にある”三葉幼稚園屋外遊ぎ場”から撮った画像です。


小高い丘が全て墓地です。

大明神墓地3
ここ”大明神墓地”は、古三津町の人たちの墓地を”十八年大明神”と呼んでいたことに由来して付いた墓地名です。


それが「明神丘」(みょうじんおか)の町名由来となりました。


ただし「明神丘」は、その下に”町”も”丁目”という表示も付いていない町で、郵便番号だけはあります。

権現町公園4
さてここは「権現町」(ごんげんちょう)の”権現公園”入り口です。


ここ「権現町」の由来は、この地にかつて”八坂権現”があったことに因みます。

権現町八坂熊野神社山門5
さて、上の画像は「権現町」に現在ある”八坂熊野神社”の山門です。


この”熊野神社”と、「権現町」の由来となった”八坂権現”との関係です。同じものなのか?


ワタシの想像では同じものだと思っています。その理由を以下に書きます。


熊野神社”は、和歌山県に”熊野三山”があることで有名です。

権現町八坂熊野神社本堂6
上の画像は、「権現町」にある”八坂熊野神社本殿”です。


さて”熊野三山”とは”熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社”の三社からなります。元々日本には”神道”しかなく”八百万の神”(やおよろずのかみ=全てに万物に神が宿っているという考え方)を祀っていました。


そこに”欽明天皇”(きんめいてんのう)の時代(6世紀)に”仏教”が伝来し浸透していきます。そこで、日本では「日本の八百万の神々は、実は様々な(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)である」という思想が出てきます。これを”本地垂迹説”(ほんちすいじゃくせつ)と言います。


注>上に書きました”天部”とは、インドのバラモン教の神々が仏教に採り入れられて、仏教の守護神となったものを言います。


そこで”熊野神社”も”権現神社”と呼んだり”熊野権現”と呼ぶようにもなったのです。つまり今の「権現町」の町名由来となったのは、画像の”八坂熊野神社”ではないかと考えたのです。

権現町熊野神社石柱
この画像が、上のように考えた根拠を示すものです。「権現町」にある”八坂熊野神社”の石の鳥居の裏側です。


そこには”権現氏子中”と掘り込んであります。つまり、この地域の方は”八坂熊野神社”のことを”権現”(ごんげん)さんと、親しみを込めて呼んでおられたのでしょう。

内宮町バス停表示
さて最後は「内宮町」(うちみやちょう)の由来です。画像は「内宮町」のバス停表示です。


この町の町名由来も、実は古い古い故事に由来しています。それは実在していたのか神話なのか、様々な議論があり真実は分からない時代のお話です。


「日本書紀」に載っている話で、”神功皇后”(じんぐうこうごう)が筑紫(今の福岡県)から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めたと書かれています。


その際、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したというのです。これを”三韓征伐”と言います。実存した話ではないと否定する学説が圧倒的に多い話で、ワタシもそう思います。

内宮内外神社画像
その”神功皇后”が朝鮮半島を攻めるときに、瀬戸内海を通って松山にも途中で滞在したとされています。


松山に滞在した時に、その戦勝祈願のために”内宮”(ないぐう)を建てられたことから、この地が「内宮」(うちみや)と呼ばれるようになったという由来です。


その”内宮”(ないぐう)は、現在は福角町の素鵞神社近くにある”内外神社”へ移したために、現在は「内宮町」にはありません。


上の画像が、”内宮”(ないぐう)を移した、福角町にある”内外神社”の本殿です。こんなところに、内宮町に関係した神社があっただなんて、このシリーズを書くまでは知りませんでした。


なお、”神功皇后”の朝鮮攻めにまつわる由来が地区名になったところが、松山にはもう一箇所あります。シリーズの34回目に出てきますので、記憶の端に止めておいて下さい。


次回の「松山市の地名・町名由来」32番目は、「浄瑠璃町」「畑寺町」「太山寺町」の由来をお届けします。








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No title

じゅん様

記念すべき第1600号の記事を拝見させていただきました~

讃岐地方とは違ったなんとも贅沢な5色鯛素麺に、そのような感動秘話があろうとは知りませんでした。

また、大事なスペシャル号をぴんくモッチーへの贈り物とされていたとは、なんて申し上げて良いか勿体無いような気持ちで感動しております。

今更ながら、感謝しています。ありがとうございました~
取り急ぎお礼まで。

こちらこそ恐縮

ぴんくモッチー様
早速読んでいただいたようで、嬉しいやら恐縮するやらです。

何か強制したようになりましたが、今日「たいめいけん」の「レシピ」という言葉で、前の記事のことを急に思い出したものですから。

それまでは、書いた当人も忘れていました。

ともかく、日曜日を除く毎日書いておりますので、前の記事は直ぐに忘れちゃうんです。^^

でも、何時か「鯛そうめん」のことを採り上げようと考えていて、偶然五色そうめんで「鯛そうめん」と出会いました。アッコレダ!って思いました。そこで、私の郷里の南予と、この辺りの中予の「鯛そうめん」の違いにも触れることができました。

私の方こそ、ありがとうございました。

確かに

匿名様
今日のご指摘、その通りでした。完全に勘違いしていました。

丁度、私が書きましたポイントの手前で、予讃線と伊予鉄高浜線が並行して走る区間があります。

そこで勘違いしていました。早速記事自身を訂正させていただきます。

地名由来で、その位置情報や、位置確認は大変重要なポイントです。決して些細な事ではありません。

よくぞ、ご指摘して頂きました。このシリーズも今年の12月、40号で終える予定ですが、後々まで間違った記述のままで残るところでした。

読んで下さっている皆様の情報のフォローで、この記事は成り立っていると言っても過言ではありません。

貴重なご指摘、深く深く感謝するものです。これからも、お気づきの点がございましたら、何なりとご指摘していただければ幸いです。出来るだけ正確な記事を書きたい。その一心は今後も変わることがありませんので。

ありがとうございました。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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