「松山市の地名・町名由来」・「生石町・生石地区」 34

今日の「松山市の地名・町名由来」34回目は、「生石町」(いくしまち)と「生石地区」(しょうせき ちく)のそれぞれの由来をご紹介しましょう。

この2つの町名と地区名、同じ漢字を使います。ところが”読み方”も、何処にあるかも違います。

このことに気が付いたのは、ワタシが週に1回は行っているスパゲティ専門店”フォンターナ”の店長さんとの会話からでした。

店長さんが何気なく「じゅんさん<生石町><生石地区>は、その呼び方も場所も違うのですが、由来はどうなんですか?」っと。

その時、ワタシは「生石町」(いくしまち)の由来は知っていましたので「そりゃあ、両方に共通するのは””なんで、その””が共通した由来よ!同じ由来なんよ!」っと答えました。

でもフォンターナからの帰り道「アレ?同じ由来って答えたけど、あれ間違いじゃなかったかな?」っと疑問が広がってきました。

そこで、もう一度調べ直しました。店長さんに対する説明、「両方共”石”が共通の由来」っと、ここまでは合っていましたが、その””が全く別物であることが分かりました。以下に説明します。

生石町表示1
これは”フライブルク通り”の陸橋に掛かっている「生石町」の標識。町名の呼び方もちゃんと書いてあって「いくしちょう」と書いてあります。ワタシが調べた呼び方は「いくしまち」でしたが。


そしてこの「生石町」(いくしまち)の由来は以下の通りです。なお「生石町」の由来に関しましては、その町を所管する”新王公民館”(あらたまこうみんかん)が発行なさった「遊ゆうあらたま・ふるさとの文化」という小冊子を頂きました。


そして「「松山市の地名・町名由来」において、資料として使わせていただく許しを得ました。(新王公民館の担当者様に感謝の意を捧げます)

生石町阿弥陀院2
画像は、「生石町」にある”阿弥陀堂”です。後で説明します。

その資料に書いてある内容は、予めワタシは知っておりましたが、問題の””の所在が分からなかったのでお尋ねしに行って、資料も頂いたということです。

「生石町」の由来はこうです。今から350年から360年前に、今の「生石町」のあるお百姓さんが田を耕していたところ、鍬の先にカチンと当たるものがあったので掘り起こしてみたそうです。

すると田の中から、幅約24cm,高さ約48cm,厚さ約20cm位の仏像を刻んだ””が出てきたのです。それは”阿弥陀如来像”を刻んだ””だということが分かりました。

この村は古来”伊櫛”(いくし)と呼んでいましたが、この”阿弥陀如来像”の”石”が出てからは”石を生む”村ということで「生石」(いくし)と言うようになったという言い伝えが残っています。

生石町生石大権現3
さて、ワタシが”新王公民館”をお訪ねする前に調べた段階では、この”石”は今でも「生石町」で祀られているとありました。ところが、その場所が分からなかったのです。


新王公民館の方にその場所を教えていただき、やっとたどり着いたのが上の”阿弥陀堂”だったという訳です。場所は、旧空港通り沿いにあります。


しかも、その”阿弥陀如来像”を刻んだ””は、この画像の”生石大権現”と書かれた社(やしろ)に祀ってあるに違いないと、見当を付けました。カンです。

生石町阿弥陀院阿弥石像4
そこで”生石大権現”の社の扉を、ソーーーーット開いて、中を覗いてみました。


ありました!”阿弥陀如来像が!」慌てて画像を撮って、周囲を見渡して、ソーーーット扉を元通りに閉めました。


ちょっと冷や汗が出ましたが、「生石町」の町名由来となった””にたどり着きました。好奇心はまだ衰えていないようです。いたずら小僧になっていました。

生石小学校プレート5
さて、こちらは「高岡町」にある”生石小学校”(しょうせき しょうがっこう)の校門のプレートです。


そうです!こちらは「生石」を”(しょうせき)と読むのです。「生石町」(しょうせきまち)という町はありません。


ここからは、”生石公民館”の館長さんに電話で教えていただいた話です。


明治22年(1889年)に、旧温泉郡高岡村、富久村、久保田村、南吉田村、北吉田村の5つの村が合併し”温泉郡生石村”として発足したのが「生石地区」(しょうせき ちく)の始まりです。


そして昭和19年(1944年)に松山市に編入され、「生石村」(しょうせきむら)という村名はなくなりました。


ただし「余戸」の時にも書きましたように、旧村名の「余土小学校」や「余土中学校」があるのと同じ理由で、「生石小学校」や「生石公民館」があるのです。

生石八幡神社6
では、何故明治22年に5カ村が合併したときに「生石村」(しょうせきむら)と名付けられたのでしょう?


その理由が上の画像です。「生石地区」(しょうせきちく)の鎮守の杜(ちんじゅのもり=地域の守り神)である”生石八幡神社”(しょうせきはちまんじんじゃ)から、その村名が採られたました。


この”生石八幡神社”の由来は次のように推察されます。事の起こりは、10月21日に書いた「松山市の地名・町名由来」シリーズの31回目で書きました”神功皇后”(じんぐうこうごう)の”三韓征伐”といういわれです。(「松山市の地名・町名由来」・ 「明神丘町・権現町・内宮町」 31


もう一度ご説明します。「日本書紀」に載っている話で、”神功皇后”が筑紫(今の福岡県)から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めたと書かれています。


その際、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したというのです。これを”三韓征伐”と言います。実存した話ではない(=神話)と否定する学説が多い話で、ワタシもそう考えます。


その”神功皇后”が朝鮮半島を攻めるときに、瀬戸内海を通って松山にも途中で滞在したとされています。その時、この地にも”神功皇后”が滞在されたとされます。

生石八幡神社本堂7
さて、その”神功皇后”と””との関係です。


神功皇后”は、筑紫(今の福岡県)から玄界灘を渡って”新羅”を攻めようとした時、お腹に御子(みこ=胎児)を宿していたと”日本書紀”は記しています。そのお腹の中の御子が、後に”応神天皇”(おおじんてんのう)となります。


この”応神天皇”が、実在した最初の”大君”(おおきみ)でなないかと言われています。それ以前は神話だと。なおこの当時は”天皇”という称号はありませんでした。その当時は”大君”(おおきみ)と呼ばれていたのです。


更に”日本”という”国号”(こくごう=国名)もありませんでした。この当時は”倭国”(わこく)という国号を使っていました。その辺りの”日本の夜明け”に関しては、正月特集としてアップする予定でです。


また”応神天皇”というのは、後に(奈良時代後半)に作られた中国風”諡号”(しごう=おくりな)で、当然に和名があるのですが現代では一般的ではないので、これ以降も”天皇”の名前を示す時は現在使われている”諡号”を使います。


さて”神功皇后”の渡海の際は、お腹に”月延石”や”鎮懐石”と呼ばれる””を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされます。月延石は3つあったとされ、長崎や福岡や京都の神社に奉納されたそうです。


そして朝鮮半島からの岐路、”神功皇后”は筑紫(今の福岡県)の宇美で”応神天皇”を出産したとされています。これは史実のようです。


また代々天皇家と関係が深い大分県の”宇佐八幡神社”は、その祭神の一人に”神功皇后”と”応神天皇”を掲げています。


その、”宇佐八幡神社”は、全国に約44,000社ある”八幡宮”の総本社で、”石清水八幡宮”や”筥崎宮”(はこさきぐう、または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つです。皇室からの崇敬(そんすう)を受けていていることでも有名です。


ここ”生石八幡神社”はその”宇佐八幡神社”の支社にあたり、神功皇后の”月延石”の故事から”生石”(しょうせき)を冠されたものではないでしょうか。


なお”生石八幡神社”の主祭神の一人は”神功皇后”です。

生石八幡神社賀茂神社8
更に社伝によりますと、貞観元年(西暦859年)奈良大安寺の行教和尚が八幡山に八幡宮を勧請し、”生石八幡宮”と称えたという記録があるそうです。


また、延長元年(西暦923年)”越智良利”が水田を寄進し、高山に鎮座の三女神を合祀した。その後”越智親経”は、国司”源頼義”の命で社殿を改築し、以来伊予守護職”河野氏”代々の尊崇を集めた寺としても有名です。


ですから「生石町」(いくしまち)の”石”は”阿弥陀如来像”を刻んだ””であり、「生石地区」(しょうせきちく)の石は、”神功皇后”の伝承が伝えられる””月延石”の””ではなかったか?というのが、ワタシの今回の一連の調査結果です。


次回「松山市の地名・町名由来」の35番目は、「三津界隈」にある色々な町名由来をまとめてご紹介しましょう。


<追記>

「松山の地名・町名由来」シリーズの34号「生石町と生石地区」の記事の内容の中で、「生石町」(いくしまち)の町名由来は間違っているというご指摘を「O氏」から頂きました。

更に、「生石町」の町名由来となったとされている<阿弥陀如来像>は、写真文章とも完全に間違っていて、伝承されてきた石仏は、建物の中に置かれている」というご指摘でした。

そういうご指摘を頂いたこと自体、ワタシの書きました記事を真剣に読んでいただいたということであり「O氏」に、深甚なる謝意を表するとともに、以下の文章を付け食わせさせていただきます。

①「町名由来」に関する説は諸説あって、ワタシが紹介したのはその中の一つに過ぎないことを、改めまして書いておきます。

②「阿弥陀如来像」の写真と画像とも違っているというご指摘があったことをご紹介しますとともに、では伝承されてきたという「阿弥陀如来像」はどこに保管されているのかは分からず仕舞でした。

以上2点を追記させていただきます。








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プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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