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「愛媛の歴史特別編」・「日本歴史の夜明け・外史」 4

今日は、”日本歴史の夜明け・外史”の4回目です。


昨日”壬申の乱”(じんしんのらん)が、乱の当事者”大海人皇子”(おおあまのおうじ)側の圧勝に終わって、天智天皇を継ごうとした”大友皇子”側の”近江朝”を倒したところまでを書きました。


しかし、大海人皇子が即位して”天武天皇”となり、大海人皇子が兄”天智天皇”から受けた仕打ちの無念を晴らすべく「律令国家」に樹立を目指しますが、果たして”天武天皇”の思い描いていたであろう展開になったのでしょうか?


つまり”壬申の乱”の勝利が、そのまま”日本の夜明け”になったのかどうか?


それを一言で言うなら、”壬申の乱の圧勝と天武天皇の即位”は”日本の夜明け前の曙(あけぼの)”であった、太陽がが登る直前の”夜明け前”であったということです。


今日は”壬申の乱”の意外な結末を、ある女性を軸に書いていきます。”天皇”としてと言うより”人間”として生きた女性の物語です。


実は今日を含めた4回の記述は、彼女が”人間として生きた”人生を主軸に描きたかったのです。


彼女とは、後に持統天皇になる”うののさらら后”のことです。

蓮
さて、”壬申の乱”の圧勝によって、大海人皇子は673年に飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)で即位して”天武天皇”となります。


天武天皇”は兄であった”天智天皇”から受けた屈辱感と挫折感をバネに、用意周到に近江朝打倒を胸に秘めて吉野に落ちていきました。


この吉野落ちの時に、”天武天皇”の胸の内を知っていのは、天武天皇の后(天智天皇の娘でもあった)後の”持統天皇”だけではなかったでしょうか。


言わば”壬申の乱”は、天武天皇と后で後に持統天皇になる”うののさらら后”との共同作戦であったと思います。

大極殿跡7
天武天皇は、天皇に即位した後は、それまでとは人が変わったような専制君主になります。


壬申の乱”の、言わば同志であった”舎人”(とねり=親衛隊)たちとも親しく交わるといった振る舞いは消えてなくなりました。


それと同時に、次々と若い后(きさき=つま)を向け入れ、子供をどんどん産ませていきます。天武天皇は壬申の乱の後に、藤原鎌足の娘や蘇我赤兄(そがのあかえ)の娘を後宮に入れている他、兄であった天智天皇の娘(自分にとっては姪)を4人后にしています。


この時、天武天皇は45歳~46歳でしたが、孫のような年代の16歳~17歳の娘を后に迎え入れています。


後の持統天皇(うののさらら后)も、天智天皇の娘なので、天武天皇にとっては姪ですが、后としたのは天武天皇がもっと若かった頃です。持統天皇は、言わば天武天皇の”糟糠の妻”(そうこうのつま=貧しいときから一緒に苦労を重ねてきた妻という意味)です。


なお、自分の姪を含む多くの后を迎えるというのは、当時の倫理観では、不謹慎なことということではありませんでした。ですから皇后になっていた後の”持統天皇”(うののさらら后)は、正面切って夫の天武天皇に異を唱えることなど出来ませでした。


しかし、皇后とは言え一女性です。多数の若い妃たちを受け入れていった夫、天武天皇に対して好ましい感情を持つということが不自然でしょう。


この後の持統天皇の行動が、天武天皇への複雑な思いとなって歴史に表れます。しかし皮肉なことに、その持統天皇の複雑な思いが、「日本の夜明け」につながったのです。

持統天皇石柱7
天武天皇”が目指していたのは”天皇親政”でした。


豪族連合の上に乗った政権ではなく、天皇家に権力を集中させる「中央集権体制」でした。そして聖徳太子が掲げ、兄の天智天皇も目指したものの果たせなかった「律令国家」の樹立でした。


天皇を”現人神”(あらひとがみ=生きた神様)と見立てた初めての天皇が天武天皇でした。


なお、「律令制度」の中身とは、豪族たちの私有地を取り上げて公地公民とすることです。


律令制度の根幹は”班田収授法”(はんでんしゅうじゅのほう)で、調査した戸籍に基づいて、田を分け与え、税金を取る制度です。税金は稲と布と労役を指します。


それを実際に監督するのは、その土地の豪族である”国造”(くののみやつこ)であり、彼らを監視するのが国から派遣された”国司”(こくし)という制度です。


天智天皇はスローガンを掲げただけで終わりましたが、天武天皇は本気でやろうとしました。なお、この”天武天皇”が目指し、取り掛かった”律令制度”の確立がもたらした影響は、松山でも直ちに表れました。


昨年「松山の地名・町名由来」シリーズを40回に分けて書きましたが、上に書いた影響はそのシリーズの第7回で採り上げた「余戸・保免・市坪」の町名由来となって現れています。(「松山市の地名・町名由来」・ 「余戸・保免・市坪」 7


なお”律令制度”を確立する為には豪族の田を没収しなければなりませんから、天皇に権力が集中する”中央集権化”が必須です。これらの政策を遂行する上での天武天皇の最大のブレーンが天皇の皇后(後の持統天皇)でした。

朝堂院跡石柱8
この画像は、”藤原京”の”朝堂院跡石柱”です。”朝堂院”(ちょうどういん)というのは、天皇の臣下である役人たちの仕事場、言わば今の”役所”に当たります。


なお、天武天皇は686年に亡くなりますが、その数年前から体力気力ともに急速に衰えていきます。


そうなると、天武天皇の後継者を誰にするかという問題が急浮上します。


天武天皇は679年に吉野に行幸(ぎょうこう=天皇がでかけること)します。その時、6人の皇子と皇后を伴って行きました。


そしてその6人の皇子に「お前たちの母親は全て違っているが、どの皇子も私(天武天皇)と皇后の子として同等に扱う。皆で力を併せて天皇家に忠誠を誓いなさい」と言います。


天武天皇の本心は長子であった”大津皇子”(おおつのみこ)を後継にしたかったのでしょうが、その当時は天皇自身が後継者を指名できる時代ではありませんでした。やはり豪族連合の推薦が必要な時代でしたから。


もちろん、皇子たちは口々に誓いました。そして皇后もこれに続き誓います。これで天武天皇は安心したのでしょう、その7年後に亡くなります。

藤原京跡発掘現場9
でもまさか、この誓いを真っ先に破ることになるのが皇后であったことなど、天武天皇は想像もしなかったことでしょう。


皇后は自分が生んだ”草壁皇子”(くさかべのみこ)を天武天皇の後継天皇にしたかったのです。しかし草壁皇子は病弱でした。


一方能力、人望ともに優れていたのは皇后の姉が生んだ”大津皇子”(おおつのみこ) でした。


この時点で”大津皇子”は、皇后の心を見破っていました。


ですから、自分が生きながらえる、或いは天武天皇の後継天皇になるためには、天武天皇が亡くなった時すかさず”皇后”と、皇后が生んだ”草壁皇子”を殺しておくべきでした。


でもそれを潔しとしないというロマンを持っていたのが”大津皇子の悲劇”でした。


天武天皇が亡くなると、皇后は真っ先に自分の息子である草壁皇子を天皇の就けることの最大の障害となる”大津皇子”に謀反の罪を押し付けて死を命じます。(これと似たような出来事が、世界の何処かで最近起こりましたね。その国は、1300年以上も前の時代と同じ感覚が今に生きているんですね)


大津皇子”はこのことを予め予測していました。死を命じられる前に、伊勢神宮の斎宮となっていた最愛の姉、”大伯皇女”(おおくにのひめみこ)に最後の別れを言いたい、ひと目だけでも見て死にたいと伊勢神宮に行っています。


686年10月”大津皇子”は絞首刑に処せられ亡くなります。歴史の影に隠れていた悲劇です。



天武天皇の後継として皇后が”持統天皇”として即位したのは690年10月。


自分の生んだ子”草壁皇子”をどうしても天皇に就けたいという気持ちと、”天武天皇”とともに手がけていた律令制度の定着を自分の手で果たしたいという思いもあったのでしょう。


また、次々と若い后を宮に入れて子供を産ませていった天武天皇への口には出せぬ怨念もあったのでしょう。


しかし、皮肉なことに期待の”草壁皇子”は689年に28歳の若さで亡くなりましたから、自分が天皇に即位して、草壁皇子の子であった後の”文武天皇”(もんむてんのう)、つまり自分の孫に夢を託すことにしたのです。

蓮池10
この”持統天皇”という人は、行動力があって知識吸収力にも優れた開明的な女性でした。その裏には気の強いところもあったのでしょう。


律令制度の整備は、むしろ持統天皇主導で行われたふしがあります。天武天皇は国家運営の基本になる”飛鳥浄御原令”(あすかきよみがはられい)の編纂を681年に開始宣言しています。


しかし、飛鳥浄御原令が施行されたのは689年、持統天皇の時代になってからでした。そして、持統天皇は天武天皇とともに構想を暖めていた飛鳥京から”藤原京への遷都”を実現させます。


藤原京は、唐の京をモデルとして作られた都です。この”藤原京”は、持統・文武・元明の三天皇の都となった、日本最初の本格的な都城です。


697年に、持統は皇位を皇太子になっていた”軽皇子”(かるのみこ=文武天皇)に譲り、自らは”太上天皇”(だじょうてんのう)となります。持統天皇は”太上天皇”を名乗った初めての天皇です。略して”上皇”(じょうこう)と言います。


しかし、持統上皇は702年の10月に57歳で亡くなります。


持統上皇”は、自分の意思で天武天皇の墓である”檜隈大内陵”(ひのくま おおうちの みささぎ)に合奏されます。

天武・持統天皇陵墓
画像は、”天武天皇”とともに眠る”持統天皇”の合葬陵です。


この時、持統は、天皇としては初めて火葬にふされました。ある作家は、持統はなぜ火葬を選んだのかという疑問に対して、最後は綺麗な白い骨になって夫の傍に横たわりたかったと想像されました。


真偽は分かりませんが、持統は若い頃は天武を愛し、天武が天皇になってからは,夫への嫉妬から我が子を溺愛し、自分が権力者になって以降は、孫に心を託しながらも、夫との思い出に生きた。最後は平凡な女性に帰ったというのです。


持統は、わが国で最大の権力と権威をもった女帝ですが、苦労を共にした夫への愛と嫉妬、子供や孫への期待など、”人間持統”の生涯ではなかったでしょうか。


さて、今日で「日本歴史の夜明け・外史」と名づけたミニ歴史シリーズを終え、明日からの2回は、奈良時代”聖武天皇”の最大の歴史的業績である”東大寺の造営”と”盧遮那仏”(るしゃなぶつ=奈良の大仏)に関する歴史をご紹介します。



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おめでとうございます

後ればせながら、明けましておめでとうございます。
 
正月、飲む過ぎと、ばたばたしてまして、ご挨拶がおそくなりました。

じゅんさんの歴史シリーズもまだ拝読できていません。
後でゆっくりと読ませていただきます。

吉野の意味

じゅんさんこんにちは
古代史の中で吉野、という場所は
なかなか重要な意味を持っていたようです。
御存知とは思うのですが、明日香村の石舞台古墳のところを
上流にのぼっていくと峠を越えたら談山神社があります。
その談山神社から南にちょっと行ったら吉野です。
持統天皇さんの吉野行幸の回数は、ちょっと驚くくらいの
回数です。1年の間に、7,8回行った年もあったと思います。
これは、おそらく吉野という場所が、呪術的に、
天皇としてこの国を治める力を高めてくれる、今風に言えば、
パワースポットのような場所と、持統さんは考えていたようです。
それでしょっちゅう行幸しては、その力をより確かなものにしよう
と思っていたわけです。大海人皇子が吉野に行ったのも、
決して都落ちとかではなくて、この国を統治する呪術的な力を
身体に付けるためであった、というのが今の史家の見解です。
今日のお話の、天武天皇が吉野に一族をひきつれて行き、
全員に誓いをたてさせたのも、そうした「吉野」が特別な
場所であったから、ということだと思います。
日本書紀を最終的に仕上げ、形にしたのも持統さんですもんね。
ただ、書紀の中では、読んだ限り、天武朝はあまり良いようには
書いてないんですよ。
その辺は、やはり天智天皇の娘だった、ということかもしれないなぁ
とは思います。天武の奥さんという立場と、天智の娘、という立場と
謙介の中では、持統さんという女帝は、本当に難しい人だと
ずーっと思っていまだに解が出ないのです。
申し遅れましたが、あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

あけまして

せい爺様

今日一日、所要でバタバタしていまして、今、やっとパソコンの前にたちました。

先ずは、あけまして、おめでとうございます。穏やかな天候のお正月でしたね。
実は、今日、よんどころない事情で郷里に帰っていました。濃霧に迎えられました。午前11時頃まで霧は晴れませんで、これが郷里の冬の常態です。

お正月は、やはり何かとあり、日常のペーストと違いますね。


今年もどうかよろしくお願い致します。

歴史空間に関わる空想

謙介様
あけまして、おめでとうございます。新年のコメント、ありがとうございました。

明日香から南下して、昔の島の庄から芋峠を越えると、吉野に入りますね。

大海人皇子が、吉野を目指した時に詠んだのが「時じくぞ 雪は降るとふ 間なきが如 雨は降るとふ」という詩です。

冬、吉野の山々に雪舞う中を吉野落ちします。

健介さんが書いていただいた「談山神社」は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(6455年)に大化の改新について談合した場所ですね。

皮肉な事に、その中大兄皇子(天智天皇)の出発点に、命を狙われた弟、大海人皇子(天武天皇)が落ちていきます。

私の認識では、ヤマト王朝は熊野から上陸し、険峻な奈良の南部山岳地帯の道無き道を進み、吉野まで辿り着いた。そして芋峠に立つと、奈良盆地が眼下に広がる。

吉野まで辿り着いて峠に立った時、初めてヤマト王朝を作った人々は「生き残れた!」っと思ったのではないか。


私は健介さんのように、専門的に古代なり古事記・日本書紀を学んだ経験はありません。

全くの、ズブの素人ですから、「記紀」の写本を読み解いたり、考察する能力と知識はありません。

ですから、幾多の図書を呼んだ中で、「コレダ!」っと、自分の感性の感じるままを書き綴ったに過ぎません。

今日書いていただいた「吉野」は、一種のパワースポットだということは知りませんでした。持統天皇が度々行幸していたことも知りませんでした。

ただ、「日本書紀」の中で、天武天皇を余りいい風には書いていないことの理由は想像できます。

天武天皇は686年に亡くなっていますが、死ぬ2年ほど前から、生に執着し僧を飛鳥に集め、読経をさせたり、全国各地の寺院や寺に常軌を逸した寄進を続けました。

それを冷ややかに見ていたのが「持統天皇」でしょう。その持統天皇が採り上げ頼ったのが、中臣鎌足(死に際して「藤原」氏をもらって「藤原鎌足」になります)の次男「藤原不比等」です。

3月に「出雲国の歴史」を書きますが、その時、「記紀」に「誰が?」、「何のために?」、「どういう作為を加えたか?」について書きたいと思っています。

ただし、正式に歴史を学んだ方には、????っと映るかも知れません。

兎にも角にも、ここ3ヶ月ばかりは、私は「歴史空想」を楽しみたいと思っています。

今年も、どうかよろしくお願い致します。

明けましておめでとうございます

じゅん様

遅くなりましたが明けましておめでとうございます。
年末年始はパソコンを開く暇もなく、今日やっと1週間分に目を通すことができました。

専門的な事は解りませんが、時代の流れも解りやすく、且つ読み応えのある内容で非常に興味深く拝読しました。楽しみにしていた甲斐がありました(*^-^*)

今年もお身体を大事にされて、引き続き「じゅんのつぶやき」を発信してください。よろしくお願いします(^^♪

あけまして

百蔵様

あけまして、おめでとうございます。新春早々、コメントをありがとうございました。

お正月から連続で「歴史物」を採り上げるのは初めてです。一度勉強を始めますと、次から次へと書いていくことが浮かんできて。

そして、勉強が進みますと、何度も記事の内容を書き直すことになります。

多くの方にとっては馴染みのない世界だとは思うのですが、これが「じゅんのつぶやき」ではないか!と開き直って書いています。

6回目までは連続、それ以降は毎週月曜日に書いて、3月31日まで書き続けるつもりです。長丁場になりますが、少しでも見て頂ければ嬉しいです。

今年も、多少毛色が変わったブログではありますが、よろしくお願いします。
百蔵さんにとって、今年が充実した年になることを祈念しております。
プロフィール

じゅん

Author:じゅん
愛媛の松山から、「愛媛グルメ紀行」や「愛媛の歴史」など、幅広いテーマで情報発信しています。日曜日を除く毎日更新。画像も豊富。
長いサラリーマン生活に終止符を打ち、還暦をとうに過ぎた2014.12.1に起業して社長になりました。

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